第4話(終)

 さて、ようやくここまで話すことが出来ましたね。僕の話もあと少しです。

 お茶でもどうぞ。

 結末は分かっているでしょう、僕が生きているのですから。バッドエンドではありませんね。怪談話でよくある、体験者が死亡するというパターンではありませんよ。僕は生きています。

 そもそも、あの手の話によくある、体験者がみんな死んでしまうという結末、あれはどうなのでしょうね。いえ、どうなのでしょうと言うのも、どうなのでしょう。やはり、生き残った人がいなければ、話が伝わることもないと思いませんか? そうでなければ、ただの不運な事故で片付けられてしまいます。

 怖い話は嫌いじゃありませんよ。ただそれはやはり、万人のための怖い話であって、怖がらせようとして語られるものほど興ざめするものはありません。

 あなたには分からないかもしれないけれど、私にとっては本当に怖かった。そういう出来事こそ、恐怖なのかもしれません。

 僕の話は、どうでしょう?

 あなたを怖がらせようとして話しているわけではありませんし、あなたも、ただの怖い話を聞きたくてわざわざ僕のところまで来たというわけではないのでしょう?

 話し終える頃には、嵐も収まっていると良いですね。

 それでは、いよいよ、です。

 お話ししましょう。

 僕がクロイゼルングで体験した、忘れられないあの夜のことを。


 調査も行き詰まり、くすぶるようなもどかしさを抱える日々でした。季節は夏から秋へと移り行くのに、手掛かりは何もないまま、丹波さんの記憶が次第に色褪せていくような寂しさが心の中に漂っていました。

 僕は疲れていました。このまま時だけが過ぎて、丹波さんの死が風化してしまい、いつかクロイゼルングを退去して、何もなかったかのように過ごす日々のことを想像すると、とても心苦しかったですね。そんな薄情に生きることが嫌だと思う一方で、けれども何も出来ずにいたのです。

 そんなぐちゃぐちゃとした気持ちを抱えていたある夜のことでした。

 いつものように鍵をすべて掛けたことを確認してから、僕は奥の和室で眠っていました。眠りが浅かったのでしょう、何度も目を覚ましました。

 僕は暗闇の中で波音を聞きながら、心を落ち着かせていました。

 その時、恐れていた音が聞こえました。

 カチッ。

 鍵が開く音でした。

 カタン。

 カチッ。

 僕は布団の中で身構えました。鍵が次々と開錠されていきます。こんなことは今までありませんでした。僕は布団から這い出して、耳をそばだてました。足元で眠っていたドロシーも起きて警戒しているようでした。携帯電話で時間を確認しようとしましたが、なぜか画面が真っ暗なまま反応がありませんでした。こういう時、電気系統は弱いと言いますからね。

 自分の鼓動が聞こえるほどの緊張を味わったことはありますか?

 耳の音で、僕の心臓が確かに動いている、命の音が響いていました。

 僕は枕元の鍵束を握りしめ、扉に手を当てました。その間も、鍵が開く音が聞こえていました。僕は決心して、いえ、なぜそんなことをしようと思ったのか分かりませんが、とにかく僕は決心して自ら鍵を開け始めました。アイツよりも先にと思ったのかもしれませんし、とにかくそこから逃げ出したいと思ったのかもしれません。僕は震える手に力を込めて、鍵を開けていきました。

 和室の鍵をすべて開け、洋室とダイニングキッチンの間の扉の鍵を開け始めた時でした。

 僕はとんでもないことに気が付いてしまったのです。

 それは最初から分かっていたことでした。けれど、僕は気が付かないでいたのです。どうして今更。僕は自分を殴りたくなりましたよ。今じゃなくてもいいのに、と。叫びたくなる気持ちを抑えて、僕は身を翻しました。

 携帯電話が鳴りました。しかし、画面に表示されているのは表示がおかしくなった番号です。電源を切ることも出来なくなっていました。僕はその電話に出ました。酷いノイズでした。それはただのノイズのように聞こえましたし、波の音にも似ていました。そんなノイズの奥で、聞き取りにくいのですが、声が聞こえました。

 もうどこにもいないの。

 僕にはそう言っているように聞こえました。僕は恐ろしくなって電話を無視しました。

 分かりましたか、僕が気付いてしまったことが、何か。あなたにも分かりましたか?

 鍵が開いたのですよ。

 ええ、シリンダーも南京錠も。

 鍵はどこにありました?

 もう分かったでしょう?

 部屋の中。

 いるのですよ。

 鍵を開けているものが、部屋の中に。

 僕はドロシーを抱きかかえてベランダに出ました。そして、再び鳴り始めた携帯電話を投げました。気味が悪いという言葉では表せないほどの寒気がしました。その電話に出てはいけないと僕の本能が警告していました。携帯電話は闇の中を、大きく弧を描きながら飛び、一瞬だけ明かりを反射して、すぐに見えなくなりました。

 内側にしか鍵穴がないのならば、それを開けているのは内側にいるものだ、なぜ今までそんなことにさえ気が付かなかったのでしょう。僕は下を見ました。三階とはいえども、飛び降りて無事だとは到底思えませんでした。丹波さんの姿がフラッシュバックしました。背後から聞こえてくる鍵の音が近付いていましたが、僕は足がすくみ、それ以上動けなくなりました。

 青い月の夜でした。星はあまり見えなくて、夜の海風に乗った漣の音が、とても遠くから聞こえていました。

 海が。

 その静かな輝きが、とても愛しく感じられました。

 ああ、でも、死にたくはない、死にたくはありませんでした。

 僕はベランダの、結城さんの部屋との間の仕切り板を蹴りました。あれはなかなか破れるものではないのです。簡単に壊れてしまってはいけないもですからね。同じところを何度か蹴り続けて、ようやく破ることが出来ました。寝起きの結城さんが窓を開けて、何事かと驚いた顔をして僕を見ていました。

 来た。

 僕はそう言いました。それでだけで、結城さんには伝わったようです。

 逃げるぞ。

 結城さんは僕の腕を引っ張りました。僕の背後でベチャッと粘り気のある水音が響きました。息遣いが、すぐ傍で聞こえました。僕は窓を閉めました。結城さんがガチャガチャと部屋の鍵を開けていました。とても手馴れていましたね。こんなこと、もしかすると、本当は、初めてではなかったのかもしれません。

 僕たちは結城さんの部屋を通り抜けて、廊下に出ました。僕の部屋の前は水浸しになっていました。開け放たれた扉の奥を見ることが出来ず、僕は目を背けるようにして走り、階段を駆け下りました。ドロシーは腕の中でずっと僕にしがみ付いていました。腕に立てられた爪が食い込んでいましたが、痛みは感じていませんでした。逃げることに必死でしたからね。

 共同玄関まで転がるように逃げました。結城さんは僕より少し遅れて走ってきました。僕はドロシーを地面に放しました。ドロシーは後ろ足で耳の後ろを掻いて、それから尻尾を舐めていました。

 僕が何をした、僕が何をしたと言うのでしょうか。僕は入り口の階段に座り込んで、大きく息を吐きました。結城さんはクロイゼルングを見上げていました。

 何かしたのか?

 結城さんは僕に尋ねましたが、僕は首を振るだけでした。僕は何も知らないし、どこにも辿り着いてなどいません。自分の行動を振り返ってみても、アイツが現れた理由が分かりませんでした。もしかすると、丹波さんの死も唐突だったのかもしれませんね。けれど、そんなことはもう分かりませんから。

 僕が息を整えていると、あれ、と結城さんが気の抜けた声を上げました。その声に僕は結城さんが見ている方向を見上げました。ええ、もちろん、僕にはアイツを見ることなんて出来ませんが、反射的に、ね。

 二階に行ったぞ。

 結城さんはそう言いました。僕はそのまま夜空を見上げて、寒くなったなぁとぼんやり考えていました。夏の頃とは星座が変わっていました。僕は星には詳しくありませんが、空にも季節が巡るのだと妙に感動したことを覚えています。

 これが夢ならば。全部夢だったならば。目が覚めたらまだ、僕は会社が借り上げた築浅の部屋に居る。そうであれば、どれほどよかったでしょうか。僕は根拠のない淡い期待を抱くほど夢想家ではありませんからね。これが現実だということは、嫌と言うほどよく分かっていました。

 突然、弾かれたように結城さんが駆け出しました。マンションの階段を駆け上がって行きます。僕は結城さんを追いかけました。見えている結城さんだけが頼りでしたから。

 二階のB号室の前に結城さんはいました。僕の部屋の真下。黒川さん親子の部屋です。

 玄関扉が開いていました。

 黒川さん、大和君。

 僕たちは叫ぶように名前を呼びながら、黒川さんの部屋に入りました。丹波さんの部屋で嗅いだ、あの強烈な腐臭が漂っていました。フローリングには濡れたものを引き摺ったような跡がありました。そして、洋室の床に、黒川さんが倒れていました。

 僕は黒川さんに駆け寄りました。返事はありません。しかし、息はあります。おそらくは気を失っているだけでしょう。僕は床に落ちていた黒川さんの携帯電話を拾い上げました。

 携帯電話は通話中でした。電話の先は、国木田さんでした。多分、クロイゼルングの住人は皆、国木田さんの連絡先を登録していましたよ。もしもの時に頼りになるのは、管理を任されている国木田さんでしたから。黒川さんに呼びかけていた国木田さんの声を遮って、僕はとにかく大変なことになっていると伝えました。それ以外に説明のしようがなかったのです。僕の後ろでは結城さんが和室の扉を開けようとしていましたが、鍵が掛かっているのか、何かが引っ掛かっているのか、その扉はなかなか開かないようでした。国木田さんは、すぐに行くと答えて電話を切りました。

 気を失っている黒川さんを抱えるようにして玄関のほうまで移動させてから、僕は結城さんに加わりました。扉の向こうには大和君がいるはずでした。これだけ大騒ぎになっていても、大和君の反応はありませんでした。

 もう壊しましょう、僕の合図に従って、僕たちは勢いよく体当たりしました。僕は勢い余って扉とともに倒れ込み、結城さんはなんとか踏ん張ったようでした。

 大和君はベランダにいました。僕たちに背を向けて、ベランダから外を見ていました。飛び降りるのではないか、僕は心臓が一気に冷たくなるような感覚を覚えました。

 僕は大和君に駆け寄ろうとしましたが、後ろから首根っこを引っ張られました。首だけで振り向くと、結城さんでした。細身な体のどこにそんな力があったのでしょうね。僕は尻餅をついていました。

 結城さんは首を振るだけで、呆然とする僕を置き去りにして、ゆっくりと大和君に近付いていきました。

 その子じゃない。

 確かに結城さんはそう言いました。

 それがどのような意味なのか、その時の僕には分かりませんでした。結城さんは諭すように続けました。

 アンタがどれだけ無念だったとしても、その子を奪ってはいけない。

 結城さんはアイツと話をしていたのでしょう。僕には見えませんでしたが、結城さんが見ている方向から、そのあたりにアイツがいるのだろうということは分かっていました。

 大和君がベランダに足を掛けているのが見えました。もう結城さんを待ってはいられない、僕はそう思いました。

 突然でした。

 結城さんが壁のほうに飛ばされたのです。何が起こったのか、僕には一瞬理解が出来ませんでした。見えない力で結城さんが壁に叩き付けられたのです。

 逃げろ、結城さんは叫びました、結城さんの左腕がおかしな方向に曲がっていました。僕は腰が抜けてしまって立ち上がることさえ出来ませんでした。逃げたいのに、動けないのです。

 見えないのだから、避けようがありません。アイツの攻撃は僕に向けられたのだと理解した時には、僕は床に倒れていて、視界が歪んでいました。頭が割れるように痛みました。痛みが思考を押し潰していきます。僕はまともに考えることも出来ませんでした。

 しかし、やるべきことは分かっていました。

 僕はありったけの力を振り絞って駆け出し、ベランダから手を離した大和君を捕まえ、そして。

 青白い月を眺めながら、僕は意識を手放しました。

 波の音がとても心地良い夜のことでした。


 さすがに、痛いですよ。

 二階からでも、怪我をする高さですからね。打撲と捻挫、ああ、骨は折れませんでしたね。案外、骨は丈夫なほうなのかもしれません。検査入院もしました。保険は一応出ましたけれど、それで怪我が治るわけでも、痛みがなくなるわけでもありませんからね。

 僕より結城さんのほうが酷い怪我でしたよ。

 まあ、それはあとで話しましょうか。

 とりあえず、クロイゼルングで起こった奇妙な出来事は、それですべてです。

 期間で言えば、たった半年程度の間に起こった出来事です。住んでいる時にはもっと長く感じていましたよ。何年も悩まされ続けていたような疲労感がありました。ですが、たった半年。その間に僕の人生は大きく変わりました。ターニングポイントでしたね、本当に。

 僕は、運命というものは信じない類の人間なので、こうなることは必然だったと言われても、はいそうですかと返します。クロイゼルングに入居した時から、こんな結末が決定付けられていたなんて、覆ることはなかったなんて、そんなふうには考えられませんよ。

 怪奇現象に耐え切れずすぐに引っ越していたかもしれない、丹波さんの死後、会社を辞めて地元に引き揚げていたかもしれない、大和君を助けず、何の疑問も抱かず、漫然と日々を暮していたかもしれない。そんな道を選んでいたとしても、不思議ではないでしょう?

 けれど、僕は、この道を選びました。自分で選んでここまで来たのです。この選択に、意味はあったと思いますよ。他の人からすればとても愚かな行動に思えても、僕にとっては、少なくとも僕の人生にとっては、意義がある日々だった。僕はそう信じます。

 では、それからのことを、少しだけ。


 僕が目を覚ますと、病院の個室でした。カーテンの隙間から朝日が差し込んでいました。終わったのだろうなぁ、とその光をしみじみと眺めていました。

 しばらくすると看護師が入ってきて、怪我の具合など少し話をしました。そのあと、病室を出ていった看護師と入れ替わりに、国木田さんが入ってきました。

 災難だったな。

 災難でしたよ。

 僕たちはそんな言葉を交わしました。僕はすっきりとした達成感のようなものを感じていました。確かに怪我はしましたけれど、少なくとも生きているということが、心を穏やかにしていたのだと思います。

 黒川さんも大和君も無事だと国木田さんが教えてくれました。救急車を呼んでくれたのは国木田さんだったようです。呼び出されてクロイゼルングに来たら僕たちが倒れていたなんて、まあ、そう何度も経験したくはないですよね。

 結城さんがどうなったのか、僕は国木田さんに尋ねました。

 まあ、会ってみろよ。

 国木田さんはそう言いました。その表情から、結城さんが生きているということは分かりましたが、何か得体の知れない不気味なものを感じました。それから国木田さんは咳払いをしてから僕に言いました。

 クロイゼルングの壁をすべて調べることになったので、退去していただきたいのですが。

 僕は頷きました。こうなることは分かっていました。詳しくはまた、と言って国木田さんは病室を出ていきました。国木田さんはこれから忙しくなるのだろうなぁと、僕は背中を見送りました。

 点滴が終わってから、僕は散歩に出掛けました。結城さんに会うためです。歩くと体の節々が悼みましたね。けれども痛みは、自分が生きている証拠ですから。僕は苦々しい喜びを感じていました。

 散歩とは言ったものの、結城さんの病室はすぐ隣でした。ここでも僕たちは隣室だったようです。僕は結城さんの病室の扉をノックしました。どうぞ、と結城さんの返事がして、僕は病室に入りました。結城さんはベッドでぐったりと横になっていましたが、僕を見ると、よぉ、と疲れた笑顔を浮かべました。

 元気そうで何より。

 結城さんはそう言いました、いつかのように。包帯をグルグルと巻かれた左腕が痛々しかったですね。他にも数ヶ所、包帯を巻かれていましたが、見た目にはそれくらいで、国木田さんが仄めかしたような奇妙な気配はありませんでした。ああ、あと、結城さんは眼鏡を掛けていませんでした。あの時、壊れてしまったのでしょうね。眼鏡を掛けていない結城さんは新鮮でしたね、とても。僕が怪我の具合を尋ねるよりも先に、結城さんが口を開きました。

 肋骨、二本、持っていかれた。

 どこか拗ねた口調でしたね、結城さん。雨が降って外で遊べない子供のように。僕は、どれくらいで治るのか尋ねました。すると、結城さんは肩をすくめて、厳密には安静にしているので、肩をすくめるような素振りをしただけですが、それから答えました。

 もう治らない。

 それが、折れたのではなくて、無くなったという意味だと、僕はやっと気が付きました。あんな経験をしていれば、科学では説明できないことが起こっても、もはやそこに完璧な説明を求めようなどとは思いません。お気の毒に、ただそれだけしか言えないのです。

 あばら程度で済んでよかったと思うことにした、と結城さんは胃のあたりに手を当ててそう言いました。肋骨くらいならば、少しくらい減ってしまっても生きてはいけるでしょう、けれど、たとえば頭蓋骨なんて、突然消えてしまったら大変ですからね。

 僕は結城さんに真相を尋ねました。見えている結城さんだけが知っている事実が必ずあるはずでしたから。結城さんには感謝していますし、巻き込んで申し訳ないとも思っています。けれど、ね。僕にも知る権利があると思いませんか? 何より、このまま知らずに終わることは出来ませんでしたからね。

 壁の中に埋められたのは、誰だと思った?

 結城さんは僕に尋ねました。アイツではないのですか、と僕は尋ね返しました。

 アイツじゃないよ、見えないから分からないと思うけど、あれはそんな死に方じゃない。

 その答えに、僕はいよいよ、見えている結城さんを不憫に思いましたね。アイツの死に方や見た目を尋ねる勇気は、けれども僕にはありませんでした。

 ええ、一応、考えてはみましたよ。溺死かな、と思いましたね。水音がする、濡れているということから、そう予測していましたが、答えは分かりませんし、知りたいとも思いませんね。

 知りたいですか?

 でも、ねぇ。

 想像がより一層リアルになったところで、何も得などありませんよ。

 真相は、残念ながら、今でも闇の中です。それとなく何度か尋ねてみましたが、結城さんは寂しそうに笑って誤魔化すだけでした。おそらく、結城さんなりの幕引きだったのでしょう。闇の中に葬ることで、自分の中だけに秘めておくことで、守ろうとしたのかもしれません。興味本位でクロイゼルングの闇に飲まれる人たちを、そして、彷徨い続けるアイツを。

 自殺じゃないよ、絶対に。

 結城さんは目を細めて言いました。それが、眼鏡がなかったからなのか、それとも思うところがあったのかは分かりません。けれど、結城さんがそう言ってくれたことで、僕は救われていました。絶対に、と言った結城さんの言葉が、どれほど心強いものだったでしょう。

 本当は、分かっていたのです。なぜ、丹波さんは死んだのか。僕の転居先を探していたと国木田さんから聞いた時に、そして、結城さんの表情に。

 けれども、それを僕が口にしてしまうと、きっと色褪せてしまうでしょう。だから、僕は気が付かないふりを続けることに決めたのです。

 結城さんは長い溜息を吐いて言いました。

 もう絶対にあんな人助けなんてしない。

 僕は苦笑しました。僕だってこりごりですよ。あんな体験は二度と御免ですね。ええ、出来ることならば、一度もないほうが良いに決まっています。人助けをしない、ではなく、あんな人助けはしない、そう言ったところに、結城さんのお人好し具合が垣間見えますよね。僕だって、そう。体の痛みが、それこそ、僕のお人好し具合だったのでしょう。

 それから、今後のことを話したりして、僕は結城さんと別れました。昼前になると会社の人たちが見舞いに来てくれました。

 僕まで死んでしまったら呪いの新聞社になるところだった、なんて冗談を言う人もいましたし、皆、僕に気を遣って場を盛り上げようとしてくれたのでしょう。クロイゼルングにまつわる不気味な現象を、恐らくは誰も知らなかったのだと思います。それは住人と管理人だけの秘密でした。僕が以前住んでいたアパートを譲った後輩の女の子が、何も知らずにいるとすれば、それはそれで、とても良いことですよ。まあ、ベランダから落ちて入院するという格好悪いところを見せることになってしまいましたがね。

 黒川さんと大和君も来てくれました。あの騒動を大和君は全く覚えていないようでした。きっと、そのほうが大和君のためになったと思います。かすり傷も、すぐに他の傷に紛れていくでしょう。黒川さんは僕の手を取り、涙を流しながら、ただただお礼を言っていました。照れ臭かったですよ。それに、僕は一体何を出来たのか、自分でもよく分かっていませんでしたから。結城さんがいなければ、僕たちはこの程度の怪我で済んでいなかったかもしれません。

 僕が退院したのは三日後でした。結城さんはまだ入院が必要だと言われたようで、つまらなさそうに僕に手を振っていましたよ。せめて眼鏡を新調したい、そんなことを言いながら。

 なぜか、国木田さんが僕を迎えに来てくれていました。タクシーで帰るつもりだったのですがね。車の中ではラジオから昔流行ったバラードが流れていました。

 秋風に吹かれたクロイゼルングは、いつもと変わらず、白い杭のようにそびえ立っていました。けれど、どこか色褪せて見えましたね。

 僕の部屋を開けると、微かにあの独特の腐臭がしました。数日しか経っていないのに、随分と久しぶりに訪れたような気がしました。なんとなく、自分の部屋ではないような違和感と言いますか。

 窓を開けてベランダに立つと、海が見えました。

 白波が寄せ、海鳥が舞い、漣の音の中に遠くの船の汽笛がこだましました。夏の海は緑を含んだ青に強い日差しを反射させて輝き、濃い青空とは違う青い色で水平線の彼方に希望を秘めています。冬の海は暗く、波のうねりは力強く、寒さを堪えて飛び交う海鳥たちが、自然の力を見せてくれます。春の波は穏やかに、秋の波音は寂しげに。

 この景色に僕はずっと憧れていました。子供の頃からずっと。いえ、確かに憧れていた、そのはずでした。

 強く心惹かれたあの時の高揚感は、もうどこにもありませんでした。それでもなお海が美しいことには変わりないのですが、ただ、それだけでした。夢から覚めたように、僅かな喪失感を抱きながら、僕はこれからのことを考えていました。

 僕は恵まれていたのかもしれないな、そんなふうに思いました。僕には恐怖を共有できる人がいたのですから。そう思えば思うほどに、丹波さんの死が悼まれました。

 今度は山にしておきます。

 僕は、相変わらず玄関に立ったまま部屋には入ってこない国木田さんにそう伝えました。国木田さんはどこか呆れたような表情で笑っていました。

 そこの扉。

 国木田さんが突然そう言ったので、僕は内心ビクリとしました。国木田さんはダイニングキッチンと洋室の間の扉を指差していました。

 その扉の上に飾っている写真、それ、夏祭りの写真だろ?

 僕はベランダから戻り、国木田さんが言った写真を見ました。それは、あの夜、僕が作っていたパズルでした。あれから何日もかけて少しずつ完成させたパズルを額に入れて飾っていたのです。僕は提案しました。今日の車代として持って帰ってください。

 要らねぇけど、くれるって言うなら貰っておく。

 国木田さんがそう答えたので、僕は椅子に乗ってパズルを外し、国木田さんに渡しました。ああ、パズルだったのか、と国木田さんは感心したように言っていましたね。店に飾っておくと言っていたので、今頃は国木田さんの不動産屋のどこかにでも飾ってくれていることでしょう。

 それからしばらくして、クロイゼルングの住人は全員、新しい住居へと引っ越していきました。皆それぞれ、思い思いの場所へ。ドロシーは、黒川さん親子が引き取ってくれました。きっと大事に育ててくれるでしょう。

 壁の調査が始まったのは年が明けてからのことでした。仕事で近くを通りがかった時に覗いてみると、足場と灰色の防音シートに囲まれたクロイゼルングは、見る影もありませんでした。落日、そんな言葉が僕の頭の中に浮かんで消えました。

 あちこちの壁から人骨が見つかったと教えてくれたのは国木田さんでした。損傷が激しく、身元の確認はおそらく無理だろうということです。大きさから判断して子供の骨だろうと国木田さんはやるせない声で言っていました。

 これで、よかったんだよ。

 退院した結城さんと会った時、結城さんはそう呟いていました。何もかもを白々しく並べ立てるよりも、こうやって曖昧なまま、いつか忘れ去られてしまうほうが、良いことだってあるはずです。口を噤み、忘却することで、救われる何かがきっとあるはずです。正しくはなくても、これでよかったのだと。

 結城さんは、結局、勤めていた塾を辞めて、個人塾を開くことにしたようです。地元に戻って塾を始めることにしたのだと葉書が届いていました。確か、暑中見舞い。住所に書かれた結城さんの故郷は、僕の知らない街でした。結城さんのことだからきっと、新しい生活にもすぐ慣れて、今頃は地域で人気の進学塾にでもなっているのではないですかね。

 その後、クロイゼルングは取り壊されました。今では海を見下ろせる公園に整備され、恋人の聖地としてちょっとした人気スポットになっているそうです。皮肉な話ですけれどね。まあ、あそこ、見晴らしだけはとても良かったですから。

 僕は記者から編集者になったので、街中を取材することもなくなりました。あの道ももう通りません。

 これで、クロイゼルングの話は終わりです。


 いかがでしたか?

 あなたが望むような結末だったでしょうか?

 僕がもっとうまく話せたらよかったのですが、どうにも最近、あの頃の記憶が曖昧になってきていて。

 本当に、僕はあんな体験をしたのでしょうか。すべては夢だったのではないか、時々、疑わしくなってくるのです。だって、ほら。何事もなかったかのように生活を送っていると、次第に薄れていきますよね、あれもこれも。

 クロイゼルングで体験した出来事が、たとえばすべて単なる想像だったとしても、あるいは僕の人生そのものが妄想にすぎなくても、僕は確かに恐怖を感じました。心に刻まれたこの感情は本物です。

 僕には何も見ることが出来なかった、逃げたり殴られたり飛び降りたり、自分でも驚くほどに積極的でしたが、それでも僕は何も見ていません。

 今でも僕には分かりませんよ。自分が一体、何を恐れていたのか。

 結局のところは、慣れてしまったのですかね、僕も。鍵を掛け続けたあの生活にも、鍵を掛けなくてもいいこの生活にも。ねぇ、本当に、慣れてしまえばどうということはないのでしょうか?

 やはり、僕も結城さんのように見えていたほうが良かったのかもしれません。そうは思いませんか? だって、すべてが終わったのかどうか、確認する術を僕は持っていませんからね。結城さんならば、僕には分からなかった結末を知ることが出来たはずです。いえ、別に憧れているわけではありませんよ。たとえ肋骨であっても失うのは嫌ですから。僕は波風立てずに、穏便に長生きします。

 そういえば、クロイゼルング、漣という言葉の意味を知っていますか?

 ええ、細かく立つ、小さな波のことです。そして、もうひとつ。心の中の小さな動揺、それもまた、漣と呼ぶのです。

 確かに僕は、見えないと言いました。けれど、一度も言っていませんよね。

 聞こえない、なんて。

 いいえ、すみません、冗談ですよ。ちょっとした悪戯心ですから、お気になさらず。

 雨、止みませんでしたねぇ。

 ああ、そうだ。

 扉は閉めましたか?

 閉めましたか、そうですか。

 本当に閉めました?

 いえ、ね。

 来たようですから。

 ほら、あなたにも聞こえるでしょう?

 嵐に紛れて。


 漣の音が。

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七町藍路 @nanamachi

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