第3話

 雨、止みませんねぇ。

 隣に住む人が、どのような人か把握していますか? その隣は?

 知らない、分からない。それはとても恐ろしいことだとは思いませんか?

 いえ、今時、隣近所と交流がないことくらい、珍しくもありませんが、ね。それでも、住宅街や高層マンションを見るたびに思うのです。他人ばかりなのだろうな、と。どこかで何かが起こっても、日常に変化はないのだろう、と。少しざわついて、それで終わり。

 逆に、近所付き合いに嫌気がさすような地域もあるでしょう。朝の出来事が昼にはみんなが知っている、なんて。個人情報が筒抜けで、行き過ぎたお節介や、時代に合わない風習などが残っているような場所。

 僕の故郷は、言ってみれば中途半端な田舎だったので、ほどほどの近所付き合いでしたよ。少なくとも、噂が光のようにすぐに広がってしまうような土地柄ではありませんでした。けれどもやはり、派閥は形成されていましたよ。グループと呼ぶよりは、やはり派閥ですね。村八分というほどではないにせよ、集団の輪の中に入れる人と、入れない人。内側と外側の人には明らかに差がありました。それは態度だったり、噂だったり。

 本当に恐ろしいのは、幽霊でしょうか、それとも人の心でしょうか。

 どうでしょうね?

 まあ、悪い部分ばかり考えても仕方がありません。人の心が恐ろしいものだとしても、同時に素晴らしいものだということも事実でしょう。交流のない人の中にも、いざという時に頼りになる人がいるかもしれません。

 そろそろ、結城さんの話をしましょうか。夜も更けてきましたし、ね。

 人には見えない何かを見る、それが良い方向に出るのか、悪い方向に進むのか。転がりはじめた石を止めることは出来ません。

 結城さん、彼の話をしましょう。


 あの夜、警察も来て、丹波さんは自殺ではなく事故死ということになりました。僕が見ていた落下物、あれは丹波さんの携帯電話でした。落ちた携帯電話を取ろうとして誤って転落、それが一応の結論でした。

 どう思いますか?

 僕は、ね。そうは思いませんでした。どうにも疑わしい。その根拠は確かなものではありませんでしたが、何か引っ掛かるものがあったのです。ただ単純に、丹波さんは自殺するような人ではないという、個人的な願いはありました。けれども、それを差し引いても、丹波さんの死には、モヤモヤとした疑念がありました。

 携帯電話、それから、丹波さん。僕はそれらが落ちてくる一連の流れをずっと見ていたわけです。もちろん、携帯電話は視界の端の出来事でしたけれどね。携帯電話が落ちてから丹波さんが落ちてくるまで、一呼吸ありました。

 想像してみてください。ベランダで手に持っている携帯電話を落としそうになった時のことを。

 落ちましたか? ベランダから、あなたも一緒に落ちましたか? それほど大切なものでしたか、その携帯電話?

 僕は、落ちませんでした。何度イメージしても、僕はベランダで踏み止まりました。ベランダから乗り出して落ちることなどありませんでした。だから僕はこう考えました。携帯電話を、丹波さんはわざと落としたのだ、と。

 二日後、丹波さんの葬儀が営まれました。会社の人やクロイゼルングの住人、行きつけの飲食店の従業員、それから、国木田さんの姿もありました。僕は自分の車に黒川さん親子と結城さんを乗せて通夜に出席しました。ドロシーはしばらく僕が預かることになりました。やはり、住み慣れた環境のほうがドロシーのためになるだろうということで。ペットを飼うのは小学生の時に飼っていたハムスター以来でしたよ。

 帰ってきてから部屋の前で、結城さんが僕を呼び止めました。結城さんは、丹波さんの死について話があると言いました。僕は結城さんを部屋に招き入れました。これは聞いておかなければならない話だと思いましたね。丹波さんの死に、事故死以外の真相があるとして、結城さんに見えているものが、それを知る重要な手掛かりになると、僕は確信していました。

 窓を開けると夜風が入ってきて、なんとなく、虚しい気持ちが溢れてきました。丹波さんはもういない、その現実が。寂しげに寄せては返す波の向こう側、黒い夜の海の果てを眺めて、少し感傷的になりました。遠くに見える漁船の明かりが、灯籠流しのように、去りゆく丹波さんの魂のような気さえしたのです。ダイニングキッチンのテーブルで、僕たちは向かい合って座りました。グラスに麦茶を入れて。

 結城さんは麦茶をしばらく眺めてから、ポツリと言いました。

 そろそろ危ないと思っていただろう?

 その言葉に、僕は結城さんを見ました。結城さんは麦茶を一口飲んでから、こう続けました。

 ここ二週間くらい、アイツ、ずっと五階にいたから。

 僕は一瞬、結城さんが言うアイツというのが誰のことなのか分かりませんでした。だから、相槌に間があったのです。そのほんの一瞬の間を、結城さんは不審に思ったのでしょう。紺色の縁の眼鏡の奥で、眉間に皺が寄っていました。

 見えているのだと思っていた。

 結城さんはそう言うと、ふぅと溜息を吐きました。どうやら結城さんは、大和君に纏わりついていた何か、廊下で迫りくる何かが、僕にも見えていたのだと思っていたようです。もちろん、僕には何も見えていませんでしたし、それが五階にいたことにも気が付いてなどいませんでした。知っていたならば、丹波さんに危険を伝えていましたよ。知っていたならば……。いえ、もう過ぎたこと、今更どうすることも出来ませんね。

 アイツは、と結城さんは話し始めました。その話をまとめると、ぼんやりとしていた輪郭が、随分とくっきり見えるようになりました。結城さんの言葉を借りて僕も、アイツと呼ぶことにしましょう。見えない何か、では長いですからね。

 アイツは結城さんが入居した五年前にはすでにクロイゼルングにいたこと。日中はクロイゼルングや周辺をフラフラしているか、あるいは見当たらないこともあるけれど、夜になると建物の中にいるということ。毎夜のように、どこかの部屋に侵入しようとすること。けれど、規則性はなくて、予測が出来ないということ、アイツが通ると濡れた跡が残ったり、水音がしたりすることがあるということ。

 結城さんは何故かその外見には言及しませんでした。不思議に思った僕は尋ねました。開けた窓から夜の潮風が入ってきました。ふと、線香の匂いがしました。僕たちは二人とも、喪服のままでしたからね。

 見えないのなら、そのまま、知らないほうがいい。

 そう言った結城さんの声は、どこか疲れたようなその声は、風に揺れて消えました。僕はここで食い下がらずに聞き出すことも出来たはずです。そうでしょう? 結城さんだって、僕に嘘を教えておけばよかったはずです。どんな表現をしても、僕には見えないのですから。

 けれど、僕も結城さんもそうしなかったのは、それが本当に、知らないほうが幸せなことだったからでしょう。優しさや迷いなどではなく、生命としての本能のようなものですよ。生存に必要な情報の取捨選択です。

 結城さんは一度視線を手元に落としてから、すぐに上げて、僕を見ました。

 信じなくてもいいが、と前置きをしてから結城さんは続けました。丹波さんはアイツに殺されたのだろう、と。

 驚きはしませんでしたね、僕は。むしろ、そうかもしれない、そうであってほしいと心のどこかで思っていたかのような、ほっとした気持ちがありました。自殺でもなければ、事故死でもなく、他殺。丹波さんは殺されたのだ、と。アイツが殺したのだという仮説は、ある意味で丹波さんの名誉にも影響しますから、ね。自ら死を選んだわけではない、ただそれだけの事実が、どれほど価値のあるものでしょうか。

 少なくとも丹波さんは、知ってはいけない領域に踏み込むことが出来たということでしょう。それで死んでしまうのは不運で、あまりにも報われないことですが、記者としては十分に、そう、冥利に尽きるというものです。もちろん、真相を世に送り出すことが出来れば、もっと良かったのですがね。

 僕と結城さんはきっと、その時、同じことを考えていたはずです。丹波さんの死の真相を確かめたい、どちらからと言うまでもなく、僕たちの間に共通の目的が出来ました。

 そして、もうひとつ、同じことを考えていたことでしょう。

 次は自分かもしれない、と。

 丹波さんの遺品の一部、たとえば取材ノートのような仕事道具は会社が引き取り、他の私物は遺族の判断に任せるということになっていました。その取材ノート、僕が一度預かることになっていました。同じマンションだからという理由です。二日後に丹波さんの部屋まで取りに行く予定でした。僕はそのことを結城さんに伝えました。結城さんはしばらく考えて、恐らくは自分の考えをまとめていたのでしょう、次の話し合いは三日後の夜になりました。

 帰り際、結城さんは玄関に掛けていた僕の部屋の鍵束を見て、鍵の数を尋ねました。以前も尋ねられましたね、お礼を言いに行った時に。あの時、あと二つ足しておいたほうがいいと言われながらも、仕事が忙しくて、まだ買い物に行けていませんでした。僕が正直に話すと、結城さんは怒るわけでもなく、そうか、と言っただけでした。

 なぜあと二つと言ったのか、今でもその理由は分かりません。


 そういえば、今夜は嵐になるかもしれないそうですね。

 今夜ここに来ることを、誰かに言いましたか?

 そう、誰にも言っていないのですね……。

 いえ、なぁに、別に何かしようというわけではありませんよ。ただ、停電になったら、いかにも雰囲気が出て、こんな話をするにはぴったりだなぁと思っただけですよ。あとは、道路が通行止めになって、電線も切れてしまって、電話もつながらず、陸の孤島になってしまえば、ああ、これではサスペンスですね。

 ええ、もちろん。そんなことにはならないことを祈ります。

 けれども、どうしてでしょうね、雨の夜に胸騒ぎがするのは。

 何かが起こることに対する期待とでも言いますか、人間はいつもどこかで、非日常的な出来事を望んでいるのかもしれません。ありきたりな時間を覆すような刺激、何もかもが些細に思えるほどの奇跡、そのように、普通ではないこと、つまり異常性を求めているのでしょうか。単調な映画は面白くない、起伏のない物語は飽きてしまう。そのようにいつも好奇心が働いているのかもしれません。まったくもって、欲望ばかりが果てしないですね。

 世界には奇跡が溢れていますよ。テレビや映画で毎日のように流れていますね。奇跡の、奇跡的な、奇跡が。そう、奇跡なんてもはや、珍しいことではないのです。

 怪奇現象も。

 心霊写真や、ホラー映画。小説、動画、何もかもが、飽和状態なのです。どこまでが真実で、何が偽りなのか、僕たちは注意しなければ真偽さえ分からないほどに。恐怖もまた、平凡になりつつあるのでしょうか。

 それとも、本当の恐怖というものは、実際に経験しなければ価値がないのでしょうか?

 万人のための奇跡は、奇跡と呼べますか?

 誰にとっても怖いものは、本当の恐怖でしょうか?

 非相互、分かち合えない、共有することの出来ないもの。それこそが、人の心を蝕んでいく、僕はそう思うのですが、いかがでしょう?

 分かりませんよね、そんなこと。怖いものは怖いのですから。

 さて、もう少し、丹波さんの死の真相に迫ってみましょう。


 結城さんと話をした翌日は、丹波さんの告別式でした。僕は焼香だけで、あとは会社の代表者が数人、遺族と一緒に火葬場へ向かいました。小さな会社でしたから、みんな顔見知りでした。特別親しくはなくても、名前と担当くらいは知っているくらいの規模でした。寂しくなるとか、もう一度チャーハンを食べに行きたかったとか、丹波さんへの思いをそれぞれが口にしながら、僕たちは会社で丹波さんのデスクを片付けました。

 慕われていましたよ、丹波さん。ちょっといい加減に見える時もあるけれど、でも、仕事は真面目で、一生懸命で、顔も広くて、意外に行動派で。丹波さんが美味しいと言うのだから間違いないとみんなが知っていました。すっかり片付いてしまった丹波さんのデスクを囲んで、麦茶を片手に、僕たちは少し泣きました。

 その翌日、取材ノートの受け取りは午後からでしたので、僕は先にホームセンターに行きました。南京錠と掛金を買うために。掛金というのは、南京錠なんかを取り付ける輪のついた蝶番のような、あの部品ですよ。二つずつ買って帰り、玄関扉と、それから洋室と和室の間の扉に付けました。これで、鍵は四十五本、チェーンと合わせて、セキュリティーは四十六になりました。

 予定の時間になって、丹波さんが住んでいた五階のB号室に行くと、扉の間で国木田さんが部屋の鍵を持って待っていました。管理を任されているので、国木田さんも丹波さんの部屋でやるべきことが色々とあったのでしょう。突然で驚きましたね、とか、まだ実感がありませんね、とか、そんな話をしながら僕たちは丹波さんの部屋に入りました。

 何かが腐ったような臭いが鼻を突きました。国木田さんは慌てて奥の窓を開け、僕はキッチンの換気扇を回しました。それはもう、酷い臭いでしたよ。生ゴミの臭いとは違う、何なのか嗅いだことのない異臭でしたね。しばらくの間は生ものを食べたくないと思うほどに。

 人がいなくなった部屋というものが、あれほど不気味だとは思ってもいませんでした。住んでいた気配だけを残して、命だけが足りないのです。時間が止まり、空気が止まり、部屋という大きな箱だけが世界から取り残されたような違和感。今にも扉を開けて、丹波さんが帰ってくるような、そんな気がしました。でももう、二度と。

 窓を開けた国木田さんはそのままベランダから下を見ていました。僕も国木田さんの隣に並びました。

 眩暈がしましたよ。足がすくみました。僕の部屋は三階ですからね。上の上というだけで、僕が普段見ている景色とは全く違う景色がそこには広がっていました。

 ああ、丹波さんはこんなところから。

 どれほど無念だったでしょうか。

 国木田さんと並んで、自分の部屋からもよく見渡せる海を眺めながら、僕はしばらくの間、丹波さんのことを考えていました。あの大きなお腹、何でも美味しそうに食べる幸せそうな横顔、ドロシーを抱き上げえる優しい腕、冗談を言って周りを和ませてくれたことも。会社のムードメーカーだった、丹波さん。

 事故だと思うか?

 ふと、国木田さんがそんなことを僕に尋ねました。国木田さんはいつのまにか部屋の中を見ていました。僕は国木田さんに、丹波さんの死について、結城さんと一緒に疑問を抱いていることを話しました。国木田さんはしばらく黙ったままでしたが、消え入りそうなほどの小さな声で言いました。

 丹波さん、うちに来たよ。

 国木田さんはそう言うと、部屋の中に入り、話を続けました。夏祭りの数日後、国木田さんの不動産屋に丹波さんが現れたそうです。クロイゼルングのことを聞きに来たのだな、と国木田さんは思ったそうですが、実際は、そうではなかったのです。

 あの人、アンタの引っ越し先を探しに来たんだよ。クロイゼルングから退去させてやってくれないかって。

 その言葉に、心臓を掴まれたような苦しさが、何本もの針で刺されたような痛みが。僕は何も言えませんでした。どれほど探しても、言葉が見つからないのです。つらい、悲しいという言葉よりも、もっと、ずっと鈍器で殴られたような、ずっしりとした重みのある感情が僕の心にのしかかっていました。動けない、うまく息が出来ない。そうですか、と返すのが精一杯でした。

 僕はフラフラと部屋の中に戻り、取材ノートを探しました。取材ノートは部屋中に散らばっていて、本棚に並べられていたり、机の上に広げられていたり、鞄の中から顔を覗かせていたり。整然とはせず、ここで確かに丹波さんが生きていたという名残が、余計に僕を悲しくさせました。僕は鼻をすすりながら、ノートを一冊ずつ丁寧に集めました。国木田さんは書類に何か書き込みながら、部屋のあちこちをゆっくりと見て回っていました。僕たちはしばらくの間、黙々と作業を続けました。

 きっと、ね。口を開けば悲しみが溢れてしまいそうで。どうして、と駄々をこねる子供のように泣きわめいてしまいそうで。まだまだ一緒に行きたい店も、教えてもらいたい仕事も、話したいことも、たくさんあったのに。別れの言葉も交わさずに、遠くへ行ってしまうなんて。

 そういえば、と国木田さんが不意に声を上げました。本棚のノートを段ボール箱に詰め込んでいた僕は顔を上げましたが、国木田さんの姿は見えませんでした。ぐるりと首を捻ると、国木田さんは洗面所から顔を覗かせていました。

 やっぱり何か、出た?

 狐のような顔が悪戯っぽく笑い、この人は本当に狐なのではないかと思いましたね。吊り上がった目も、弓のような口も。

 よく分かりませんけど、多分。僕は曖昧に頷きました。ああそう、やっぱり。国木田さんはそう答えて壁にもたれかかりました。こうなることはある程度予想出来ていたのでしょう。それはクロイゼルングを勧めなかったあの態度にも表れていたのです。

 怪奇現象が起こるようになったのは、クロイゼルングが今の間取りになってからだと国木田さんは言いました。リゾートマンションだった時代には、そんな噂さえなかったのだそうです。リフォームをしてから異変が報告されるようになったので、当然、調査は行いましたが、何も見つからなかったのでそうです。お手上げだと言わんばかりに、国木田さんは両手を上げて首を振りました。

 丹波さんの取材ノートは古いものから新しいものまで、段ボール箱二つ分になりました。切り抜きを貼ったスクラップブックが案外、分厚いものでしたね。それに、アルバム。初めて食べるものはすべて写真に収めていたようで、食べ物の写真ばかりのアルバムが何冊もありました。美味しそうだなぁと空腹を感じました。丹波さんが撮った食べ物の写真はどれも美味しそうで、本当に目の前にあるんじゃないかと錯覚しそうになるくらいで、この人はどれだけ食べることが好きだったのだろうかと、思わず笑ってしまいました。

 これが、丹波さんが記者として生きてきた証だと思うと、段ボール箱二つ分というのは重いのか軽いのか、僕には何とも言えませんでした。

 和室に置かれたベッドの下からもノートが出てきました。ふとした拍子に滑り込んでしまったのでしょう。よくあることです。僕も大掃除をするたびに、あちこちの隙間から色々見つかりますからね。失くしたことさえ気が付いていなかったものもありますよ。

 漣について。

 そのノートの表紙にはそう書かれていました。パラパラと捲ってみると、丹波さんの字で埋め尽くされていました。漣という言葉に、僕は一度窓の外に広がる青を見て、それから、ああ、クロイゼルングのことだと思い当りました。

 僕はベッドに端に腰掛けてノートを読むことにしました。クロイゼルングが建てられた経緯や、丹波さんの考察と思われるページがありました。それに、クロイゼルングの住人についても書かれていました。丹波さんが引っ越してきてからなので、もちろん僕の知らない人たちの名前がありました。大和君に関する考察が一番長かったでしょうか。結城さんのページには、見えている、と書かれていました。丹波さんも気付いていたのですね。ああ、僕ですか? 僕のページには大きく、猫舌と書かれていましたよ。

 丹波さんがこんなノートを作っていたなんて、僕は全く知りませんでした。これっぽっちも。てっきり、どっしりと構えて、なるようになるさと笑っているものだとさえ思っていました。けれど、僕が相談する前から、大和君がおかしくなる前から、丹波さんはクロイゼルングのことを調べていたのです。

 そんなことにも気が付かなかったなんて、僕は一体、何を見ていたのでしょうね。こんな自分が嫌になりますよ。

 他にも色々なことが書かれているようでしたが、僕は自分の部屋に帰ってから読むことにしました。キリがありませんからね。僕は段ボール箱を一箱ずつ運び、それからドロシーのおもちゃやキャットフードなども運びました。猫用トイレの砂や、キャットタワー。僕は三階と五階を何度も往復しました。丹波さんの部屋に戻ると、国木田さんはダイニングテーブルで書類を書いていました。

 しばらく借り手は見つからないでしょうね。僕がそう言うと、事故死と判断されただけまだマシなほうさ、と国木田さんはボールペンを指先でクルクルと器用に回しながら、困ったように笑いました。笑うしかない、そんな顔でしたね。

 僕は国木田さんに少し同情していました。理由の分からない怪奇現象に悩まされているのは、住人だけではありませんから。不動産屋も大変ですよ。本来ならば優良な物件だけを扱いたいでしょうし、ね、取り扱っている以上は紹介して借り手を見つけなければならない、けれども、簡単に勧められるような物件ではない。国木田さん、狐に似ていますが、良心的な人ですよ。

 僕たちは皆、この怪奇現象をどうにかしたいと思っていたのです。けれども、その方法が分からないし、何よりも原因がハッキリしない。果たして、丹波さんが本当に、何かしらの真相を見つけたのでしょうか。それさえ分からないのです。

 けれども、引き返すことは出来ないと思っていました。

 怖かったですよ、もちろん。次は自分かもしれないし、明日かもしれない。ただひたすら我慢して穏便に過ごすべきだったかもしれませんし、引っ越してしまえばよかったのかもしれません。丹波さんが僕の転居先を探そうとしてくれたように。

 しかし、僕は、危険だと分かっていながらも、逃げることは出来ませんでした。丹波さんの死の真相を置き去りにして自分だけが助かるわけにはいかない、と。正義感ではありませんよ、これは。単なる我儘です。自分だけ逃げるような卑怯者にはなりたくないという、保身です。どうかそう思ってください。

 慣れてしまえばどうということはない。丹波さんはそう言いました。

 でも、ね。

 そんなの嘘ですよ。

 絶対に、嘘ですよ。


 おや、雷ですね。

 いよいよ本格的な嵐になってきましたか。嫌ですね、雷。怖いでしょう、アレ。自然現象だといっても、まるで神様が怒っているような気がしませんか? 

 神様なんて、ファンタジーすぎましたか。いや、そうでもありませんね。クロイゼルングのことだって言ってみればファンタジーなのですから。体験しなければ、分かりませんよね。自分に降りかかったもの以外はすべて、自分には体験することの出来ないもの、理解することの出来ないもの。すなわち、幻と同じですよ。

 僕はそう思いますけれど、それではとても、夢がありませんね。まあ、極論ですし。自分が確かめていないからといって、この世には存在していないということにはなりませんよね。

 仏でも神でも、この際誰でも構いませんが、信仰というものはある種の自己暗示だと僕は思います。出来ると思えば、その根拠が自分の努力であっても神の加護であっても、出来ると思えば出来るし、出来ないと思えば出来ないのです。

 けれども、その自己暗示が案外、大切なものだったりするのですよね。生きていくうえで、あるいは、生き残っていくために。

 あなたと僕が見ている世界は、実は異なっているかもしれない。有り得ない、とは、もちろん言い切ることなど出来ませんよね。哲学的な話かもしれませんが。

 でも僕たちは普段、そんなことを気にせずに生きています。少なくとも、自分の足元には他人にしか見ることの出来ない落とし穴があるなんて、警戒して暮らしているわけではないでしょう? それが一般的かどうかはさておき、警戒しない人のほうが多いということは言えると思いますね。

 だけど。

 気が付いていましたか?

 あなたの後ろ。

 この部屋の隅に、僕たちに背中を向けて立っている人がいます。

 あ、振り向かないでください。

 あの人は、最初からずっと、部屋の隅にいましたよ。

 と、言ってはみたものの、僕には霊感などありませんし、これはただの冗談です。安心してください。どうぞ、振り返っても大丈夫ですよ。何もいませんね?

 ですが、そこには確かに人の後姿があると言い切る人がいるかもしれません。自分以外には見えなくても、自分にはハッキリと見えている。そういう人がいるかもしれません。

 他人とは違う景色を見て、他人とは違う世界に生きている。

 そんな人が、決して多くはなくても、どこかにいるかもしれません。学年に一人くらい、通勤電車の同じ車両に一人くらい、同じ会社に一人くらいは。

 僕の隣にも、そんな人が住んでいたのですよ。


 国木田さんと別れて自分の部屋に戻った僕は、例のノートをじっくりと読みました。ノートにはクロイゼルングで起こる怪奇現象のことが細かく記されていました。以前の住人にも聞いていたのでしょうね。僕が体験した、あの水音と気配は、一番よくある現象だったようです。

 他には、たとえば、そうですね。鍵を掛け忘れた時には、玄関から洋室のほうへ、何か濡れたものが這いずり回ったような跡が付いている、とか。家を留守にしている時には、何も起こらない、といったことですね。どんなタイプの鍵であっても、開かれる可能性は同じだということも書かれていました。

 ドロシーが何もない空間に向かって背中を丸めて威嚇するということも、幾度となくあったようですよ。やはり動物は人間には感じられないものが分かるのかもしれません。

 大和君が遊んでいた相手のことについても書かれていました。あんなふうに、夜になる前に出てきて住人に影響を与えることは、はじめてなのではないか、そう書かれていました。

 夕方いつものように一人で遊んでいると、いつのまにか傍に立っていた、と大和君は証言したようです。不思議に思ったけれど怖くはなかったと続いていました。さらに、ノートの隅にはこんな走り書きがありました。

 見た目は同い年くらいの男の子。

 ここで僕の頭の中に、ひとつの疑問が浮かびました。

 結城さんの表情です。

 たとえば、大和君と遊んでいたのが幽霊であったとしても、見た目が恐れるようなものでなければ、結城さんの表情があれほどの気迫になるでしょうか? 大和君が雑木林のほうをじっと見ていたのは、男の子の様子がいつもとは違っていたからなのかもしれません。

 あるいは、別の何かが。

 このことは結城さんに確かめなければならない、僕はそう思って付箋を貼っておきました。他にも、気になる部分には付箋を貼ったり、情報を書きだしておいたり、結城さんとの話し合いに向けて準備をしました。

 蝉の声が聞こえていました。トンビの声ものんびりと。窓を開けて扇風機を回しても、ぬるい風が入って来るだけ、そんな夏の終わりの午後のことでした。

 作業を終える頃には日が沈んでいました。

 身を守る方法は、丹波さんのノートには書いてありませんでした。だから、丹波さんは身を守れずに死んでしまったのでしょう。やはり、扉を固く閉ざすことだけが、唯一の予防策なのでしょうか。

 その時、僕はふと気が付きました。

 丹波さんはなぜ死んだのでしょう?

 ええ、そのことをずっと考えていたわけですけれどね。ですが、ずっと、何かがおかしい、何かが引っ掛かっていたのです。その理由に、僕はようやく気が付きました。

 鍵が開いていたのです。

 丹波さんの家の扉、警察が来ても、こじ開けたりはしなかったのですから、何十個もある鍵が掛かっていなかったということでしょう?

 夜中だったにもかかわらず、おかしいですよね。

 毎晩の習慣になると言っていた丹波さんが、戸締りをせずに寝るなんてことがあるのでしょうか。もちろん、すべて開錠されてしまったという考え方もありますね。その仮説が一番恐ろしくて、絶望的ではありますが、鍵を掛けえてさえいれば安全だということが、クロイゼルングでの基本的な生き残り策です。もし、鍵をすべて開けられてしまったのだとすれば、他の住人の命も危ぶまれますよ。それは嫌ですからね、最後の仮説にしておきましょう。

 では、なぜ鍵が掛かっていなかったのでしょうか?

 丹波さんはわざと鍵を掛けなかった、やはりそう考えるのが正しいように思いますよね。けれども、それを裏付ける証拠はありません。確認する術がありませんから。

 しかし、故意に施錠しなかったのだとすれば、丹波さんは一体何のためにそんな危険を冒したのでしょうか。次の疑問はそこですよね。何かを試そうとしたのでしょうか、ノートに手掛かりはありませんでした。迎え入れて撃退しようとしたのでしょうか、それとも他に動機があったのでしょうか。いずれにせよ、理由があったことは確かですし、何か意図があったのだと僕は信じたいですね。

 疑問はまだあります。

 携帯電話ですよ。丹波さんはどうして携帯電話を先に投げ捨てたのでしょうか? 助けを呼ぶのに必要なものを、なぜ。壊れてしまったのでデータの復元は出来なかったそうですが、そりゃそうですよね、五階から放り投げたのですから。

 なるほど、壊すために投げた、それも一理ありますね。知られたくないデータや、世に出してはいけないデータ、それは何だったのでしょう?

 どの疑問もすべては結局、丹波さんはどこまで真相に近付いたのかということです。あるいは辿り着いていたのかもしれませんが。つまり、丹波さんの行動の意図が分かれば、僕もクロイゼルングの謎に近付けるということです。

 ワクワクしますか?

 それとも、恐ろしいですか?

 まあ、どちらでも構いませんよ。様々な感情が入り混じっているのでしょうから。怖いもの見たさという気持ちがありますからね。やってはいけないと言われれば、やりたくなるものです。秘密にされたならば、探りたくなるものです。不思議ですよね。その先がどうなっているのか見えなくても、見たいと思うのですから。

 ですが、知っていますか?

 好奇心は猫をも殺すと言うことを。

 いえ、イギリスのことわざですよ。猫には命が九つあるそうです。猫はそう簡単には死なないということですね。しかし、そんな猫ですら、好奇心が原因で死に至ることがある、つまり、行き過ぎた好奇心は身を滅ぼしかねないということですよ。

 丹波さんは、好奇心に殺されたのでしょうか?

 どうなのでしょうね。

 それならば、僕もそのうち。

 もちろん。

 あなたも、きっと。


 冗談ですよ。

 出来れば穏便に、無理はせず。長生きしたいものですね。たくさんの人から慕われて。僕はまだ独り身なので、はやいところ、人生を共に歩く人を見つけなければなりません。

 生き急ぎたくはありませんね。

 まあ、未来のことなんて、明日のことさえ分からないのですけれど、ね。

 未来のことが見えるようになりたいですか?

 ほら、よくある質問ですよ。タイムマシンが発明されたら、過去と未来のどちらに行きたいかという質問。僕は時間の概念や、タイムパラドックスのような難しい話は苦手ですね。過去を変えれば未来も変わるのか、過去を変えても何も変わらないから現在があるのか。未来がそもそも存在しているのかどうかなんて。

 僕は、どちらも選びませんね。未来を知ってしまう覚悟もありませんし、過去を思い通りにしてしまわないという決意もありません。けれど、どちらか必ず選ばなければならないとすればその時はきっと、過去を選ぶと思いますよ。

 人は、思い出を抱えて生きています。最高の瞬間も、悪い記憶も。その思い出を抱きしめていられるのならば、たとえどんな未来が待っていても、大丈夫だと思います。過去がしっかりとしていれば、行く手を阻む壁を乗り越えられるかどうかは分かりませんが、立ち向かって行ける強さを持っているはずです。

 どう生きてきたかということは、どう生きていくかということと、等しく大切なことだと僕は考えます。

 逃げるか進むか、信じるか信じないか、祈るか諦めないか。様々な選択肢において、今までの経験は判断にかなり影響してくるのではないでしょうか。

 話を続けましょう、ええと、どこまで話しましたっけ。

 ああ、そうです。結城さんとの話し合いのことを。


 結城さんとは予定通り、また僕の部屋で話をしました。仕事帰りの結城さんのスーツからは微かにチョークの匂いがして、学生時代が懐かしくなりましたね。

 夏休みが終わってから、塾の授業も普段通りの時間になり、忙しそうだった結城さんも少し余裕が出てきていたように思います。気難しい顔はいつも通りでしたけれどね。

 僕は結城さんに、丹波さんのノートと、自分なりにまとめたメモを見せました。結城さんがそれを読んでいる間に、僕は冷たい麦茶の準備をしていました。

 なるほど、とか、ふぅむ、とか。結城さんは何度か呟いていました。その様子がいかにも先生といった風貌だったので、僕は思わず微笑んでいました。

 アイツは男の子ではないぞ。

 読み終えた結城さんの第一声が、それでした。やっぱり、と僕は思いました。大和君が遊んでいた男の子とは別に、少なくとももうひとり、いるのです。あまり良いことではありませんけれどね。

 誰でしょうね? 僕は尋ねましたが、結城さんは分からないと首を振りました。自信はないがアイツは多分女だぞ、と結城さんは言いました。性別の自信がないなんて、アイツは一体どんな姿をしているのでしょうか。僕は、その姿が見えなくてよかったと思うと同時に、見えてしまう結城さんを気の毒に思っていました。きっと、どれだけここに住んでいても、慣れることはないのでしょう。

 それが夜中に目の前にでも現れたなら。

 いえ、やめておきましょう。

 結城さんは、丹波さんがわざと鍵を掛けなかったという僕の仮説に賛成してくれました。しかし、見えない相手と対峙するのは無謀だと言いました。見えていても嫌だ、と付け加えましたね。

 それではなぜ、丹波さんはあんなことをしたのでしょうか。ああでもない、こうでもないと議論しましたが、結局、僕も結城さんも、その謎を解くことは出来ませんでした。

 ひとつ分かったことがある。結城さんはノートのあるページを僕に見せてそう言いました。僕は開かれたページを見ました。それは丹波さん手書きの、クロイゼルングの間取り図でした。

 そのあと続けられた結城さんの言葉に、僕は悪寒が全身を駆け巡るあの感覚を味わいました。ええ、もう本当に、身の毛もよだつ、あんなことはもう経験したくありませんよ。

 壁にいる。

 結城さんは間取り図の壁を、正確に言えば、B号室と両隣の間の壁を指でコツコツと叩きました。ドッと冷汗が溢れましたよ。その言葉の意味を、嫌でも理解してしまいました。

 壁の中にね、埋められているのだと、何かが、いや、誰かが。

 改装して一部屋を三部屋にした時に作られた、新しい二枚の壁。そこに、誰かが埋められたのだ、結城さんはそう言いたかったのです。そう言われてみれば、均等なはずの壁の厚さが、部屋によって異なっているように見えましたが、手書きだからと言われれば、それまでです。けれども、それが、意図的なものだと、僕は直感していました。

 海外のニュースでありましたよね、昔。テレビ番組で見たことがあります。家中の壁に、バラバラにされた死体が埋め込まれていたという話。知っていますか?

 そりゃあ、自分には縁のない、気味の悪い話だと思っていましたよ。それだけですよ。まさか自分の家がそんな状態かもしれないなんて、考えてみたこともありませんよ、そうでしょう? 誰だって、うちもそうかもしれないとは思いませんよ。

 けれど、それ以外に理由が見つかりませんでしたからね。なぜリフォームをしてから怪奇現象が始まったのか、説明が出来ません。改装中に何かあったのだと、そう考えるのが妥当と言いますか。調査をしても、天井裏は見ても、壁を壊してみるなんてことは、まずないでしょう。

 僕は吐き気が込み上げてきました。想像してしまったのです。結城さんが見ているアイツの姿を。

 結城さんは冷めた目をしていました。

 迫り上げる吐き気を堪えながら、僕はその根拠を尋ねました。

 直感、と答えてすぐに、見た、と結城さんは訂正しました。嘘を吐いて誤魔化そうとしたのは、僕に遠慮したのかもしれません。結城さんは自分自身の体験をゆっくりと話し始めました。

 結城さんが入居前にクロイゼルングの見学に来たのは、夜のことだったそうです。その時に初めて、アイツに出会ってしまいました。一目見た瞬間に、これは駄目だと感じたのだそうです。けれども、案内をしてくれた不動産屋は気が付いていない、ああ、国木田さんではなかったそうですよ。アイツは廊下にいたのに、部屋まで一緒に入ってきてしまったそうです。嫌ですよね。アイツは這いずるように動きながら、結城さんや不動産屋には目もくれず、奥の部屋へと進んでいったそうです。いえ、そもそも目があったのかは分かりませんけれど。アイツは奥の和室の壁の前で止まり、じっと壁を見ていたそうです。

 ただ、じっと。

 ですが、その時は壁を見詰めていることを気にも留めていなかったのだと結城さんは言いました。

 そんな体験をしながらも、クロイゼルングに入居を決めたなんて、結城さんも肝が据わっていると言うか、相当な変わり者ですよね。僕なら絶対に遠慮していますよ。

 丹波さんのノートを読んでいるうちに、これはもしかして、と思い出したのだと結城さんは言いました。

 けれど、それが分かったところで、壁をぶち抜くことなんて出来ません。アイツはすべての階に現れるので、埋められている壁がどこなのか、見当が付きません。クロイゼルングは六階建てですから、すべてを調べるのは大変ですよ。設計図が必要でした。きちんと計測された間取り図が。国木田さんに頼もう、僕と結城さんは頷き合いました。

 壁に埋められたのは、一体誰なのでしょうね?

 大和君が遊んでいた男の子は何者なのでしょうか。

 なぜ、丹波さんは死ななければならなかったのでしょう。

 僕たちは答えに近付いているようで、それでいて先の見えない道を進んでいるようでした。クロイゼルングの関係者に不審な点がないということは、国木田さんが言っていましたから、本当に、アイツの正体は謎だったのです。

 前途多難でしたよ。どこに着地するのか分からないことは、とても不安でした。もういっそのこと荷物をまとめて引っ越したほうが良いという気さえしましたが、僕の自尊心がそれを許しませんでした。

 自分でやると決めたのだから、最後までやりきってみせる。僕は折れそうな心にそう言い聞かせました。とんでもないことになってしまったなぁ、とどこか遠い話のようにも思えましたが、すべては僕の周り、僕の部屋、その壁で起こっていることなのです。

 嫌になりますね。

 もう、本当に。

 僕は麦茶を一気に流し込みました。結城さんは笑っていましたよ、自棄を起こしたのかと。けれども僕は、無謀にはなりたくありませんでした。死にたくはありませんでしたから。

 それからは、丹波さんのノートを読み返して、少しでもいいから手掛かりを探そうとしていました。どんな些細なことでもいい、この謎を解き、終わらせるための手掛かりが欲しい、そんな一心でした。

 国木田さんに壁の話をすると、細い目がさらに細くなり、口を真一文字に結んでいました。不動産屋の応接室でクロイゼルングの図面を睨みながら、国木田さんはコーヒーに三本ほどスティックシュガーを混ぜていました。

 せめて、どの壁なのか分かれば手っ取り早いのに。難儀だなぁ。国木田さんはそんなことを呟きながら、何枚もの間取り図を見比べていました。

 リフォームを行った業者に、もう一度問い合わせてみると国木田さんは言いました。それから、壁の中を調査する方法も考えてみる、と。しかし、もう随分と昔の話なので、あまり期待しないでほしいと国木田さんは溜息を吐きました。僕は、それでも何も調べないよりはマシだと言いました。

 何も出来ず、何も知らないままに終わりたくはないでしょう?

 僕の元にアイツがやって来たのは、十月に入った頃でした。ついに、と言うべきでしょうか。

 とにかく、僕の元にもアイツが来たのです。

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