第2話

 おかえりなさい。

 風が出てきたのですか、なるほど、より一層冷えてきたと思っていたところです。暖房をつけても、足元はなかなか温まりませんね。この季節は落ち葉の掃除が大変ですよ。特に雨が降ると、地面に引っ付いてしまって、もう。ええ、分かります? そうですね、滑りやすくなりますよね。どこから飛んできたのか、大きな葉っぱも紛れ込んでいたりして。

 子供の頃はよく落ち葉を集めて山を作り、そこに飛び込んで遊んだものです。枯葉の山に飛び込む、ただそれだけのことが、とても楽しかった。あの頃は良かったですよ。たいした道具がなくても、想像力さえあれば、警察官にもヒーローにも宇宙飛行士にも、何者にでもなることが出来ましたから。横断歩道を底なし沼に見立てたり、新聞紙を丸めた刀で戦ったり、本当に柔軟で自由な発想がありましたね。

 懐かしいですか?

 それでは、子供の話をしましょう。

 そう、大和君の話を。


 大和君は小学二年生でした。

 活発な子で、いつも走り回っている元気な子でしたよ。余所の家庭事情を詮索するのは野暮なことですが、父親が暴力的な人だったようです。黒川さんは大和君が小学生になる年に離婚して、大和君を連れて、逃げるように引っ越してきたそうです。知り合いのいない場所で、はじめからやり直そうと思ったのでしょうね。

 黒川さんは駅前の花屋で働いていました。街では一番大きい花屋で、郊外にカフェを併設した広い店を持っているくらいの、しっかりとした店でした。自立して生活するために、フラワーアレンジメントを勉強したそうです。農業系の高校出身だと言っていたので、それも花屋を選んだ理由かもしれませんね。僕は花には縁がない生活を送っていたので、あまり詳しくはありませんが、花屋の朝は案外早いそうです。市場で花を仕入れたり、配達をしたり。上品で華やかなイメージとは違い、かなりハードな仕事のようですね。

 大和君は小学校で人気者だったらしいのですが、クロイゼルングは海沿いですから、小学校区の端にあるわけですよ。だから、放課後に遊びに来た友達も、夕方早くには帰ってしまう。クロイゼルングには大和君と同年代の男の子は住んでいませんでしたから、友達が帰ると一人になってしまうのです。住宅街の子供ならば、夕方になっても近所の子供たちと遊べるのですが、ね。友達が帰ってからは、大和君はいつも駐車場で遊んでいました。そこなら出入りする住人達と触れ合うことが出来ますからね。帰宅した住人達が声を掛けていましたが、一番の遊び相手は、夕方、仕事に行く前の長谷川君だったようです。

 あれは七月初旬のことでした。

 梅雨で雨が続いていました。海の色も濁り、さすがに気分も塞がります。

 四時過ぎに僕が一度帰宅すると、大和君が一階の共同玄関にポツンと立っていました。

 僕はいつものように大和君に声を掛けました。待ち合わせをしているのだと大和君は言いました。僕は部屋に荷物を取りに戻って、大和君に飴をあげて、また出掛けました。小学生に人気のキャラクターの飴です。大和君のために買ってありました。大和君はすぐに包みから飴を取り出し、口の中に放り込んでいました。僕は車に乗り込んでルームミラーを見ると、大和君が手を振ってくれていました。

 それから八時過ぎに帰宅すると、駐車場でうろうろしている黒川さんの姿がありました。探し物をしているようでした。黒川さんは僕に気が付くと走り寄って言いました。

 大和がいなくなった、と。

 僕は四時過ぎにここで大和君に会ったことを伝えました。他の住人達も集まってきて、目撃情報を整理しました。すると、僕より後に大和君を見た人はいませんでした。みんなで協力してクロイゼルングの周りを探しましたが、大和君は見つかりませんでした。

 そうだ、と僕はあることを思い出して、長谷川君の店に電話を掛けました。長谷川君ならば出勤前に大和君を見たかもしれないと思ったのです。

 僕の予想通り、長谷川君は大和君を見ていました。クロイゼルングが建つ崖の麓に広がる浜辺のほうへ走っている後姿を。誰かを追いかけているようだったので、友達と遊んでいるのだと思い、特に気にも留めていなかったそうです。僕たちは、その証言を頼りに、浜辺へと向かいました。

 浜辺へは雑木林から道が続いています。遊歩道でしょうね。雑草はほとんどありませんが、落ち葉が地面を覆っているので、ほとんどの人は少し離れたところにある整備された道を使っていました。僕たちは懐中電灯で足元を照らしながら遊歩道を歩きました。

 大和君は、波打ち際にポツンと座っていました。雨の中、傘も差さず。暗くなった海を眺めて、笑っていました。ええ、一人で笑っていたのです。僕たちの存在にまるで気が付いていないようでした。駆け寄った黒川さんの声にようやく我に返った大和君は、とても不思議そうな顔をしていました。こんなに遅い時間になっていることには気が付いていなかったそうです。友達とここに来て、気が付いたら一人で座っていたのだと大和君は言いました。けれど、遊んでいたという友達の名前を尋ねても、知らないと首を振っていました。大和君のスニーカーがベトベトになっていました。ヘドロのような、粘液のような、何か分からないものでベトベトだったのです。

 不思議なことに、大和君は僕が夕方あげた飴を夜になってもまだ舐めていました。

 その日を境に、大和君の様子がおかしくなりました。いえ、普段はいつもと何も変わらないのです。しかし、一人で遊んでいる時、誰もいないところをじっと見つめたり、誰かと話をしたり、あるいは誰かと遊んでいたり。少なくとも僕には、そこに誰かがいるようには見えませんでした。

 黒川さんは大和君に家の中で遊ぶよう言い聞かせていましたが、大和君は相変わらず外で遊んでいました。

 大人には見ることの出来ないものが子供には見ていると、よく耳にしますが、本当でしょうか?

 信じますか?

 僕ですか、僕は、そうですね。

 信じていると言うよりは、むしろ、信じたいと言うべきでしょうか。そこにいる何かは時に恐ろしいものかもしれませんが、優しいものもいるかもしれません。そう考えると、案外、悪くはありませんよ。

 まあ、怖いものは怖いのですけれど。

 僕たちクロイゼルングの住人は、大和君の変化を感じ取ってはいるものの、どうすることも出来ませんでした。大和君を出来るだけ一人にはしない、それくらいしかありません。けれど、毎日欠かさずに気に掛けることなど出来ませんからね。みんなそれぞれ自分の生活があります。僕も取材の時間によって帰宅時間は様々でしたし。もちろん、大和君のことを気味悪がる人だっていたでしょうね。

 たとえば、こんなことがありました。

 仕事から帰ってくると、夕暮れの中、大和君が駐車場をふらふらと歩いていました。他に誰かがいるわけでもなく、ひとり。虚ろな表情で、まだ熱の残るアスファルトの上を裸足で歩いていました。声を掛けると、ヘラヘラ笑うのです。僕は部屋からスポーツドリンクを取ってきて、大和君に渡しました。飲み物を口にして、ようやく大和君は我に返ったようでした。それから足が汚れていることに気が付いて、部屋に帰っていきました。

 あの時の虚ろな表情は、子供とは思えないような、色を失い、冷めた目をしていましたね。

 おかしいとは思いますし、良くないものを感じていました。けれど、見えないのですから、それが何なのか、どこにいるのか、そもそも本当にそこにいるのかさえ僕たちには分からないのです。確かめる術もなかったのです。

 こんな時、どうしますか?

 神社や寺に相談しますか、あるいは、霊能者にでも。けれど、誰一人として大和君が見ているのであろう何かを認識することも出来ないのですから、説明しようがありません。お祓いと称して多額の金を要求されることだって、場合によっては考えられますよね。実際、自称霊能者という人たちはたくさんいるみたいですし。大金を積んだところで、大和君が元に戻るという確信などありませんから。それに、黒川さんは母子家庭ですから、大金を用意するのは困難でしょう。

 もちろん、どれだけ金を支払ってでも助けたいという思いはあったでしょうね。縋り付きたい、と。でも、悩むと思いますよ。お祓いを受けたなんて、他人には知られたくないことでしょうから。それが、裏付けのある治療ならまだしも、不確かすぎます。次第にやつれていく黒川さんを見ているのは、心苦しいことでしたよ。

 ぼんやりと突っ立っていたり、何かを追いかけたり、突然笑いだしたり、そうかと思えば泣き出したり。大和君の症状は日に日に悪化しているようでした。誰の目から見ても、たとえ初対面の人であっても、大和君は不安定になっていました。

 少しずつ、見えない世界から戻って来るのに時間がかかるようになっていきました。おかしくなっている間の記憶がない。それだけが救いだったかもしれませんね。僕たちは、少なくとも僕は、出来る限り平静を装って大和君に接していました。たとえ大和君の真後ろに何かが立っていたとしても。恐れや不安の混じる眼差しで大和君を傷付けたくありませんでした。

 他人なのに、と思いますか? 自分の家族ではない人のために、そこまでするのは、あるいは偽善だと思いますか?

 偽善でも構わないのです。見て見ぬふりをして何事もなかったかのように生きていくくらいならば。あとでずっと後悔して引き摺るくらいなら、偽善者でもいい、ほんのわずかでもいい、力になりたかったのです。

 自分勝手でしょう?

 でも、そういうものでしょう?

 会社で丹波さんと大和君の話をしました。こんなことは初めてだと丹波さんは言いました。怪奇現象は今まで幾度となく繰り返されてきたものの、大和君のような現象は一度もなかったそうです。丹波さんの部屋も、その隣の部屋も、上も下も、どの部屋も例外なく大量の鍵と暮らしている、けれど、人に危害を加えるような干渉はありませんでした。

 事故物件じゃないみたいだからな、と丹波さんは大きなお腹をさすりながら言いました。クロイゼルングは確かに崖の上に建てられていますが、自殺の名所ではありませんでしたよ。波は穏やかなので、飛び込む人もいないでしょうね。本気で自殺したい人ならば、クロイゼルングの崖は選びませんよ。まあ、憶測にすぎませんが。

 怪奇現象のことが気になっていた丹波さんは以前、クロイゼルングのことを少し調べてみたことがあるそうです。おそらくは、好奇心でしょうね。僕たち記者の判断基準には、記事に出来る、出来ないというものがありますから。自分が住んでいる場所がどんなところか知りたいと思うのは当然のことでしょうし、それ以外にも、いつかネタになるかもしれないと考えるものです。職業病、ですかね。

 丹波さんによると、クロイゼルングの立地には何の問題もありませんでした。ほら、怖い話でよくあるでしょう? 昔の処刑場だったとか、かつて大きな事故があったとか。そういう類のことは見つからなかったそうです。

 今のところ、何の手掛かりもないな。残念だけど、と丹波さんは肩をすくめました。

 そんなふうに歯痒い日々を送っていた、ある朝のことです。

 出社しようと僕が一階に降りると、大和君がね、立っていたのですよ。建物に背を向けるようにして、駐車場の真ん中に。顔は雑木林のほうを見ていました。

 ああ、またか。僕はそう思いました。小学校は夏休みに入っていました。大和君は首からラジオ体操のカードをぶら下げていました。近所の公園で毎朝早くにラジオ体操がある。夏休みの恒例ですよね。僕はしばらくの間、共同玄関から大和君を見ていました。大和君は身じろぎひとつせずに、ピンと背筋を伸ばしたまま、突っ立っていました。なぜすぐに声を掛けなかったのかは分かりません。僕はそのまま十分近く大和君を眺めていました。さすがに、そろそろ出掛けなければ、そう思い始めた頃に、僕の背後でエレベーターが開く音がしました。続けて、近付いてくる足音が聞こえました。住人の誰かが新聞を取りに来たのかな、僕は大和君を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えていました。

 足音は一瞬止まってから、すぐに駆け出し、あっという間に僕の横をすり抜けて外へ飛び出していきました。

 大和に触るな!

 それは爽やかな夏の朝の空気を張りつめさせるほどの怒声でした。

 足音の主は、結城さんでした。大和君に駆け寄った結城さんは、何かを追い払うような仕草をしてから、大和君を抱えるようにして戻ってきました。鬼気迫るとは、あんな表情のことなのでしょう。僕は一連の行動をただ呆気にとられて見ているだけでした。

 大和君を抱えた結城さんの足音が聞こえなくなってから、ようやく、僕の思考は動きました。

 ああ。僕は結城さんが去って行った方向を振り返って、思わず声が漏れました。

 結城さんには、見えているのだ。

 そのことに気が付かなかったのは、結城さんと大和君の生活リズムがあまりにもずれていたからでしょう。小学生の大和君が帰宅する前に出掛け、大和君が眠ってから帰宅するという生活だった結城さんは、大和君の異変を見たことがなかったのです。塾の講師ですからね。それが、夏休みに入ったことで大和君の行動パターンも、結城さんの塾の時間も変わり、二人が出会うことになったのです。やっと、でしょうか。それとも、もう、でしょうか。まあ、それはどちらでも良いことです。

 ともかく、僕は確信しました。結城さんには何かが見えているのだということを。

 安心しましたか? これで大和君が元に戻る、と。

 これは、大きな前進だと思いますか?

 本当に?

 まさか。

 この程度で終わるのならば、僕だってこんな話はしませんよ。

 むしろ、結城さんの登場は状況を悪化させました。だって、そうでしょう? 大和君に纏わりつく何かの正体が分かってしまうことになるのですから。

 この世には、知らないほうが幸せだったということがたくさんあります。知ってしまえばもう、知らなかったあの頃には戻れませんからね。

 ええ、そうですよ。

 僕の、この話だって、そうかもしれません。

 もしかしたら。


 おや。

 雨が降りはじめましたか。

 猫が顔を洗うと雨が降ると言いますが、あれは湿気の変化によるものなのでしょうか。あるいは、猫には未来が見えているのかもしれません。

 動物は好きです。犬も猫も、鳥も。爬虫類は、まあ、見ている分には大丈夫ですが、触るのは遠慮したいですね。

 クロイゼルングの周りには鳥が多かったですね。雑木林があったので、そこに生息していたのでしょうか。トンビの鳴き声がよく聞こえていました。時々、名前の分からない大きな鳥がギョエギョエと鳴きながら飛んでいました。奇妙な鳴き声でしたよ。あれは一体、何という名前の鳥だったのでしょうね。

 動物の瞳は、人間のものとはかなり違っていますよね。犬は普通にしていれば白目はほとんど見えませんし、猫の目は光の加減で細くなったり大きくなったり、鳥なんかは瞬膜という薄い膜を持っているそうです。見たことはありますか? 僕はテレビでしか見たことがありませんね。

 人間とは大きく違う瞳に、何か神秘的なものを感じることはありませんか?

 ほら、動物は何もない空間をじっと見つめることがあると言いますよね。あれもやはり、僕たちには分からない何かを捉えているのかもしれません。

 人間と動物が会話できるような未来が訪れたら、その時、動物たちは何を語るのでしょうね。まだまだ遠い先のことでしょうけれど、考えてみましょう。僕たちには見えない世界の話を教えてくれるのでしょうか。それとも、実際には何も見えていないのかもしれません。動物の種類によっても、話の内容が変わってくるかもしれませんね。犬は嘘を吐くのが苦手かもしれません。猫は気まぐれで、人間を振り回すかもしれませんよ。

 猫。では、猫の話をしましょう。

 彼女の名前はドロシー。丹波さんが飼っていた、メスの三毛猫です。


 心霊特集でも組もうか?

 丹波さんはそう言いました。七月末の、ある昼休みのことです。僕は丹波さんと一緒に会社の近くにある中華料理屋でラーメンをすすっていました。丹波さんはグルメ情報の担当でしたから、昼休みに僕を連れて近所の店を巡ることがありました。安くて早くてうまい、それが丹波さんのモットーでした。

 残暑を乗り切るホラー特集なんて、どうだ?

 大盛りのラーメンがみるみるうちに丹波さん胃の中に消えていきました。まるで、麺を飲んでいるようでした。

 やめてくださいよ、と僕は反対しました。クロイゼルングに住めなくなるじゃないですか、と。

 想像してください。自分の家が心霊スポットと呼ばれるようになったのなら。空き家ならともかく、人が住んでいる家ですよ。幽霊屋敷なんて、あまり気分の良いものではありません。郊外の廃墟を思い出してください。落書きばかりの、あの朽ちた建物を。あそこまで酷くはならないでしょうが、もし心霊スポットになってしまえば、肝試しに忍び込む人だっているかもしれません。

 それは、困るな。丹波さんは箸でチャーシューを掴み、一口で食べました。これは個人的な意見ですが、体の大きな人は、とてもおいしそうに食事をするように思います。大盛りを平らげる人、見ていてすがすがしいですよね。僕は平均的ですよ。体型も、この通り平均的ですからね。特別スポーツをしているわけでもないですし。

 丹波さんは、仕事なら堂々と調べられるのにと言って、僕を見ました。

 確かに、個人で調べるのは趣味の範囲で、あまり深入りは出来ません。しかし、仕事ならば、関係者にアポイントを取ることも容易になりますし、取材費も出ます。そりゃ、大事ですよ、取材費。移動には結構かかるものです。自腹は避けたいです。

 アテでもあるんですか、と僕は丹波さんに尋ねました。餅は餅屋、物件のことなら不動産屋だろう、と丹波さんは答えました。そういうわけで、僕は丹波さんと不動産屋を訪ねることになりました。

 いえ、心霊特集を決めたわけではありませんよ。ただ、何もしないままだと、後悔するような気がしたのです。打開策を考えなければ、今以上に悪化することはあっても、状況が良くなることは有り得ないと思いました。

 僕は丹波さんよりも食べるのが遅かったので、まあ、丹波さんが早すぎると言うべきですけれど、先に食べ終わった丹波さんは爪楊枝を口に挟んでスポーツ新聞を読んでいました。テレビでは高校野球が流れていたのを覚えています。

 不動産屋に行くと、ちょうど国木田さんが店先のプランターに水をやっているところでした。緑のカーテンはヘチマでした。ヘチマなんてどうするのだろうと思ったので記憶に残っています。キュウリなら、せめてゴーヤでも。頭上でトンビが弧を描いていました。ピンヨロヨーと鳴きながら。

 国木田さんは僕と丹波さんを見比べ、袖をまくった腕で額の汗を拭き、諦めたような溜息を吐きました。クロイゼルングのことですか。国木田さんは伸びをしながらそう言いました。腰がポキポキと音を立てていました。本当に、接客業には向いていないのではないかと、国木田さんへのクレームが心配になるほどでしたね。

 黒川さんから聞いていますよ、大和君のこと。そんなことを言いながら国木田さんは僕たちを店の応接室に案内しました。すぐに冷たい麦茶が出てきました。

 今までの契約者から何度も尋ねられましたが、クロイゼルングには、本当に曰くなんて見当たらないのです。そう言いながら国木田さんはファイルから資料を取り出しました。建築前や建築中の事故もない、入居者の事故もない、不審な死を遂げた関係者もいない。あまりにも怪奇現象の相談が絶えないので、クロイゼルングの周辺を調べたことがあるのだと国木田さんは言いました。

 こっちも迷惑していますよ。

 狐のような目をさらに細めた国木田さんが大きな溜息を吐きました。取り扱っている物件の評判を下げたくないのは当たり前でしょう。理由も分からない怪奇現象に不動産屋も辟易していたようです。お祓いをしたこともあるのだと国木田さんは教えてくれました。けれども、効果なし。気休めにもならず、鍵の束が増えていくだけでした。唯一の救いは、事故物件ではないことくらいで、今のところは心霊スポットと噂されていないのも、それが理由でしょう。

 これ以上はどうすることも出来ないな、と丹波さんは困ったように言いました。不動産屋でも分からないのだから、僕たち素人が解決できることではないのでしょう。国木田さんも肩をすくめていました。

 ああ、結城さんですか。夏期講習で忙しいうえに、僕たちのほうも夏はイベントが多いので、あれ以来、まともに話をする機会がなかったのです。ほら、夏祭り。海辺は特に花火を打ち上げたりして盛り上がりますからね。忙しさの中で結城さんのことを失念していたと言うべきでしょうか。とにかく、大和君のことは気掛かりでしたが、僕にだって自分自身の生活のことがあります。四六時中、怪奇現象ばかり考えているわけにはいかないのですよ。

 だって、そうでしょう?

 夕方のニュースでどれほど悲惨な事件が報道されていても、夕飯を食べ終わる頃には忘れて会議の資料のことで頭がいっぱいになりませんか? 世界のどこかで戦争が始まっても、明日の英語のテストには敵いませんし、毎日の献立のほうが憂慮しませんか?

 それが悪いとは言いませんし、正常なのだと僕は思います。けれども日常を侵食し始めたらそれは異常、ですね。

 僕と丹波さんは国木田さんにお礼を言って不動産屋を後にしました。丹波さんは不完全燃焼といった感じでしたね。会社に戻ってからも、腑に落ちない表情のまま取材ノートとにらめっこをしていました。僕は夏休みのイベント特集の誌面レイアウトを考えていました。

 仕事を終えて帰宅する頃には、真夜中になっていました。追加の取材が必要になり、その準備をしていたら夜遅くになっていたのです。クロイゼルングは相変わらずぼんやりと白く光っているように見えましたね。全身に疲労感が広がっていて、エレベーターを待ちながら僕は大きな欠伸を何度も繰り返していました。

 エレベーターに乗り込むと、結城さんが駐車場を歩いてくるのが見えました。僕はボタンを押してエレベーターのドアを開けたまま待ちました。僕が待っていることに気が付いた結城さんは駆け足で、けれども、建物に入る直前で立ち止まりました。僕は不思議に思いましたが、疲れていたこともあり、乗らないのなら先に行こう、三階なら階段でも大丈夫だ、とボタンから手を離しました。

 閉まるドアの隙間から、上を向いたまま動かない結城さんの姿が見えていました。

 今になって思い返してみれば、あの時、結城さんは動かなかったのではありません。動けなかった、あれは驚きと焦りの表情でしたから。

 エレベーターは二階で止まりました。ドアが開き、夏の夜風が入ってきました。けれども、誰も乗ってきません。静まり返った廊下を照らす蛍光灯が寒々とした色をしていました。僕はドアから左右を覗いて誰もいないことを確認してからドアを閉じました。

 その時、背後から、ヒューという音が聞こえました。喉で息をしたような音です。僕は背筋が凍るのを感じました。誰かが僕の後ろに立っている。エレベーターの密室の中が、急にジメジメと湿気を帯びました。ヒュー……。微かなその音は繰り返されていました。大きくもならず、小さくもならず。近寄りもせず、遠ざかりもせず。一定の距離と大きさを保ったまま、背後の何かが息をしていました。二階から三階へ、たった一階分がとても長い時間に感じられました。僕は息を止めて、手探りで鞄の中から部屋の鍵を取り出しました。気付いていないふりをして、余計な動きはせず、やり過ごそうと思ったのです。

 三階に着いてドアが開くと、僕は足をもつれさせながら慌てて飛び出し、廊下に倒れ込みました。手から抜け落ちた鍵が廊下を滑りました。

 ひた。

 びちゃ。

 背後から近付いてくる足音を僕は確かに聞きました。水たまりを歩くような、あるいは素足が床に貼りつくような、何者かが近寄ってきていると見なくても分かるくらい。ああ、もう駄目だ。僕は廊下に手を付いたまま、身動きできずにいました。忙しさの中で忘れていたのでしょうか。実害がないから侮っていたのでしょうか。けれども確かにクロイゼルングは何かが出る物件で、僕はそれを承知でここに住んでいて、怪奇現象も初めてではないはずなのに、今更になって後悔していました。慣れてしまえばどうということはない、なんて。根拠など何一つないはずなのに。僕は目を閉じました。

 おい。

 誰かの声と、ジャリッという音に、僕は目を開けました。すると、目の前に足がありました。どうやら結城さんが階段で上がってきたようでした。

 そのままで待て、行けと言ったらすぐに部屋に入れ。結城さんは僕にそう言いました。僕はしゃがんだ姿勢で結城さんの足元を見詰めたまま頷きました。

 ひた、ひた。

 足音がすぐそこまで迫ってきていました。僕はすぐにでも走って逃げたい気持ちを抑え、結城さんを信じることにしました。廊下に響く湿った足音、歪な呼吸音。耳の中で自分の鼓動が響いていました。鼓動は、確かに生きているという音であると同時に、これが現実だと思い知らされる音でしたね。

 僕の後ろで足音は止まりました。僕は息を殺しました。全身が緊張という鎖で縛られているようでした。滲んだ汗が首筋を伝いました。

 結城さんの足が一歩後退したかと思うと、まさか、僕を飛び越えて、背中のほうへと走り出しました。パシャンと水が弾けるような音に続いて、結城さんが叫ぶように言いました。

 行け!

 僕はもつれそうになる足を必死で動かし、鍵を拾い上げ、震える手で玄関扉を開けました。結城さんのほうは見ないようにしました。そちらを見れば、逃げることを諦めてしまうような気がしたのです。僕は部屋に入るとすぐに急いで鍵を閉めました。しばらくの間、扉にもたれて息を整えていました。カツカツと、何事もなかったかのようにゆったりとした足音が聞こえました。結城さんの部屋の玄関扉が開く音も聞こえました。

 ああ、無事だったのだ。僕はようやく体が自由になった気分でした。明日、結城さんに合ったらお礼を言おう。そして、色々と尋ねなければなりませんでした。忙しさの中で後回しにしている場合ではありません。

 異常だ。この生活は、異常なのだ。

 そんなことさえも分からなくなるなんて、僕はどれほど愚かだったことでしょう。

 翌朝、僕は結城さんの部屋を訪ねました。出勤前に会っておかなければならないと思ったからです。僕がインターホンを鳴らすと、ポロシャツ姿の結城さんが出てきました。襟の一部が中に入っていたので、慌ててシャツを着たのかもしれません。そういえば、寝癖もまだ残っていましたね。昨夜はありがとうございました。僕が頭を下げると、一瞬の間があってから、ああ、と結城さんは頷きました。

 元気そうで何より。

 そう言うと結城さんは何故か僕の部屋の鍵の数を尋ねました。不思議に思いながらも、僕は四十三本だと答えました。

 あと二つ、足しておいたほうがいい。

 結城さんはそう言うと、自分の部屋に戻り、すぐに出てきました。

 大和なら、しばらく大丈夫だと思う。

 何とも表現出来ない複雑な表情で結城さんは言いました。大丈夫だという言葉とは裏腹に、その口調も表情も晴れやかではありませんでした。しばらく先のことは不安なのでしょうが、僕は尋ねることも出来ませんでした。僕のことを意気地なしだと思っても構いませんが、ね。だけど、たとえ最悪の結末が待っていたとしても、それを口に出せば本当のことになるような気がしたのです。言葉にはしないということが、僕にとって、僅かな希望でした。

 結城さんの言葉通り、それからというもの、大和君の調子は良くなりました。プールの用意を入れた透明なバッグを揺らして駆けていく後姿からは、不穏な気配を感じなくなりました。ラジオ体操も夏祭りも、いつもと変わらない元気な姿でした。

 お母さんが元気になった。ある日の夕方、大和君がそんなことを言いました。右手には虫捕り網を、左手には虫籠を。虫籠の中でカブトムシがのっそりと歩いていました。僕は昆虫採集から帰って来た大和君に駐車場で会いました。

 自分の異変には自覚がない大和君からすれば、おかしくなっていたのは母親である黒川さんのほうだったようです。子供は大人が思っているよりも、親のことをよく見ていると聞きます。大和君もまた、黒川さんの変化を敏感に感じ取っていたのでしょう。何かがおかしいのだと。

 僕が、良かったねと言うと、大和君は大きく頷きました。お母さん最近、疲れているみたいだったから、心配していたのだと。大丈夫だよと僕は言いました。暑いからとか、仕事が忙しいとか、何かしらの理由は付けられたはずです。けれど、僕は言いませんでした。子供は勘が鋭い時がありますから、繕っただけの言葉は見抜いてしまうでしょう。結城さんが大丈夫だと言ったのだから、きっと大丈夫なのだ。そんな思いで、僕は大和君に言ったのです。

 黒川さんからすれば、大和君に心配を掛けていたなんて知れば、心を痛めたかもしれません。親は子供の前で気丈に振る舞おうとするもののようですからね。でも、それ以上に子供は嘘を見抜いているのかもしれません。

 大和君が元気なことが、お母さんにとって一番の元気の素なのかもしれないね。僕はそう言いました。大和君はカブトムシを覗きこみながら、お母さんはカブトムシを持って帰ったら喜んでくれると思うんだと言いました。

 カブトムシ、強いから。

 うん、格好良いよね。

 僕たちはそんなやり取りをしました。一般的には、子供が持って帰ってくる虫を母親は少し怖がるのでしょうね。けれど、黒川さんは花屋ですから、それなりに耐性はあるのだと思います。そう信じましょう。大和君は機嫌よく帰っていきました。僕は大和君を見送りながら、なんとも複雑な気持ちになりましたね。

 僕にはまだ親心というものが分かりませんが、少しくらいなら理解しているつもりです。だから、黒川さんの気持ちを考えると胸が締め付けられるような気持になりました。子供にまで心配を掛けていたということ、子供にそんな思いをさせていたということ。そのことはきっと黒川さんの心に深く刻まれるのでしょう。

 けれど、その痛む心は、大和君が元気に遊びに行って、元気に帰って来る、ただそれだけで、どれほど救われることでしょうか。僕でさえ、そう思うのですから、黒川さんの心はいかほどでしょう。

 子供が屈託ない笑顔で毎日を過ごしていること、そのことには何にも代えがたい価値があるはずです。きっと、僕もそんな思いをしっかりと抱きしめる日が来るのでしょうね。そうであればいいのですが。

 なんだか知らんが、よかったな。

 夏祭りの取材をしていた丹波さんが僕に言いました。夜店が出て賑わう会場で、僕たちはカメラを構えて、行き交う人たちを目で追っていました。浴衣、甚兵衛。金魚、ヨーヨー。祭の景色が夏の夜を彩っていました。子供は元気が何より、なんて言いながら、丹波さんはフランクフルトを食べていました。

 丹波さん、と僕が呼ぶと、口元にマスタードを付けたまま、丹波さんが僕を見ました。僕はずっと気になっていたことを尋ねました。

 たとえば深夜に帰宅した時、クロイゼルングで何かに会ったりしませんか?

 丹波さんは僕の問いかけにとても不思議そうな、それでいて呆れたような顔をしました。こいつは突然何を言い出したのか、そんな表情でしたね。僕にはその表情が不思議でなりませんでした。丹波さんだって、僕と同じ職場なのですから、取材が長引いた時や、締め切りが近い時には、夜遅くに帰ることがあるはずです。僕はすぐに、丹波さんは体験していないのだと思いましたね。廊下に響き渡る水音も、背後に迫る足音も。

 ああ、心霊特集のこと、気にしていたのか。丹波さんはフランクフルトを齧りました。霊感なんてないからなぁ、と丹波さんは呑気な声で言いました。

 その時、僕はなぜか、言いようのない悲しさに襲われていました。やるせなさと言いましょうか。僕が体験したものが丹波さんには分からないのだなぁ、と。そう考えると、あの体験が共有できないものになってしまいます。僕は、丹波さんと同じ世界にはいないのだということが、どうしようもなく悲しかったのです。

 頼りにしていましたからね、とても。仕事のことも、クロイゼルングのことも。丹波さんは会社の先輩の中でも一番、頼りにしていました。屈託のない笑顔も、恰幅の良さも、僕に安心感を与えていました。だからこそ、丹波さんなら分かってくれるだろうと無意識のうちに思っていたのでしょう。

 でも、ね。本来ならばきっと、分からないほうが良いことだったのでしょうね。

 丹波さんが亡くなったのは、夏休みが終わる頃でした。

 これと言って変わった様子はありませんでした。会社の外で一緒に昼食をとっていても、相変わらずよく食べる人でしたし、別段、疲れているような印象はありませんでした。大和君が元気になったことでクロイゼルングの調査は自然消滅のような形になっていましたし。心霊特集は、結局、またいつかという話になっていました。問題など、何もないように思えました。

 言いましたっけ、僕の趣味?

 あ、まだでしたね。

 僕はパズルが趣味で、ジグソーパズル。休みの日に窓を開けて海を感じながらジグソーパズルに取り組むのが至福の時間でした。最初は、小学生の頃にプレゼントで貰った、戦隊モノのパズルでしたかね。ピースが多いパズルを完成させたときの達成感は、癖になります。大学生になってからは、自分で撮った写真を印刷したオリジナルのパズルを作ったりしていました。

 そこの廊下に飾っているのも、自作のパズルなのですよ。あれは、大学の卒業旅行で訪れたヨーロッパの古城の写真です。世界にたったひとつしかないパズル。これを完成させるのも崩すのも、世界でたったひとり、僕だけ。そんな優越感に浸る時もありますね。

 ミルクパズルというパズルがあるのですが、あ、そうです。白一色のパズルです。あのパズルは確かに難しいのですが、一度だけ遊ぶのなら良いのですが、僕のように何度も繰り返していると次第に汚れてしまって。ほら、白は汚れが目立つでしょう? その汚れでピースの見分けがつくようになってしまうのですよ。だから、あえて他の色で塗りつぶしてしまうのです。黒ならイカ墨パズル、赤ならトマトパズルといった具合に。

 あの夜は、夏祭りで撮った花火の写真を印刷したオリジナルのパズルをしていました。奥の和室で、窓を開けて。もちろん、扉の鍵はすべてしっかりと施錠をして。夏の夜風が波の音を連れてカーテンを揺らしていました。夏のイベントが終わり、仕事がひと段落して、次の日は休みでしたから、夜更かしをするつもりでした。

 我ながら、よく撮れた写真だと思いましたよ。自画自賛していました。花火の色合いも、構図も、屋台の様子も。いかにも祭といった雰囲気の、気に入ったパズルでした。

 住み始めてから四ヶ月以上が経っていましたから、もう随分と慣れていましたね。鍵の扱いも手際よくなっていましたよ。戸締りをして部屋にいれば怪奇現象に遭遇しないというのは、やはり正しいことで、僕が何かの気配を感じるのは夜更けの廊下だけでした。朝になると鍵がいくつか開いているということは時々ありましたよ。けれど、開いているのはいつも玄関扉だけでしたから。鍵を掛けた自室は安全地帯でした。

 ニャー。

 猫の鳴き声に、僕はパズルから顔を上げました。とても近くで鳴いたような気がしたのです。僕は手を止めてベランダに出ました。夜の海が月明かりに照らされてキラキラと輝いていました。水平線に見える灯りは漁船のものだったでしょうか。晴れた夜空には月と一緒に星が瞬いていました。足元で再びニャーと鳴き声が聞こえたので、僕はベランダから下を覗きました。一匹の猫が雨樋にしがみ付くようにして鳴いていました。どうやら、ここまで雨樋をよじ登ってきたものの、どうすることも出来なくなっていたようです。僕はベランダの柵の隙間から手を伸ばして猫を掴み上げました。丹波さんが飼っているドロシーでした。水色の首輪に付けられた鈴がチリチリと高い音を鳴らしました。

 丹波さんは独身で、一緒に住むドロシーが娘のような存在だとよく笑っていました。俺にはドロシーがいるから結婚しないんだ、なんて。丹波さんのパソコンや携帯電話の待ち受け画面の写真がドロシーでしたし、クロイゼルングの駐車場でもよく見かけていたので、僕も知っていました。

 ドロシーが手の中でくねくねと体をねじらせたので、僕はドロシーをベランダの床に下ろし、和室に座ってベランダに足を投げ出しました。ドロシーは僕の足元で毛繕いを始めました。クロイゼルングは中型犬くらいの大きさまでなら、ペット可能という物件だったので、ドロシーのほかにも柴犬やコーギーなど、何匹かペットが住んでいました。大和君はカブトムシや夏祭りですくった金魚を飼っていましたね。

 僕はしばらくの間、変な体勢で背中を舐めているドロシーを眺めていました。猫は本当に体が柔らかいなぁと感心したり、丹波さんの部屋まで連れて行かなきゃなぁと考えたり。ドロシーは満足したのか、毛繕いを終えるとそのまま僕の足元にちょこんと行儀よく座りました。

 体の大きい猫でしたよ。元からなのか、それとも飼い主に似ているのか。街中で見掛ける三毛猫よりもかなりポテッとした猫でしたね。ふてぶてしい顔をしていましたが、ニャーゴニャーゴと鳴きながら足に擦り寄ってきたりするので、憎い奴でしたよ。

 時刻は夜の一時を過ぎた頃でした。廊下のほうから結城さんが帰宅した音が聞こえていました。ドロシーはピンと耳を立てて、その音を聞いているようでしたね。

 ドロシー、確か、オズの魔法使いの主人公でしたよね。主題歌が有名ですから、名前くらいは聞いたことありますよね。読んだことはありますか? 僕は子供の頃に読んだきりなので、かなり曖昧になっていますが、ブリキとライオン、それから何でしたっけ? ああ、そうです、カカシ。竜巻で不思議な国に飛ばされてしまって、そこから帰るために旅をする話でしたよね。

 結局、あのドロシーは家に帰ることが出来たのでしょうか? 物語の結末が思い出せません。

 少しはダイエットをしなよ、と僕はドロシーに言いました。聞いているのかいないのか、ドロシーは大きな欠伸をしました。

 ふと、何かが視界の隅を移動しました。上から下に。部屋の明かりを反射してキラリと光ったのです。何でしょう? 虫でしょうか、夏は多いですからね。それは落ちていき、ガシャンと音をたてました。一階は部屋がひとつだけあって、そこには四人家族が住んでいました。庭付きの間取りになっていて、そこでよくバーベキューをしていたのです。

 僕は何が落ちていったのかと、ベランダから身を乗り出して確認しようとしましたが、暗くてよく見えませんでした。気にせずに戻ろうと顔を上げました。

 しかし、その瞬間。

 落ちてきたのですよ、上から。

 目が合いました。

 丹波さんと。

 ドンッと大きな音がしました。僕は恐る恐る下を見ました。足がガクガクと震えていました。丹波さんが一階の庭に倒れているのが見えました。バーベキューコンロが丹波さんの肩あたりに刺さるようにして。

 声が、出ませんでした。足元のドロシーがシャーと怒った声を出して、僕はようやく事態を理解しました。何が起こったのか、目の前で何が起こったのか、僕の頭の中に現実が勢いよく押し寄せてきました。

 丹波さん。僕は呼びかけました。俯せになった丹波さんは動きませんでした。僕は何度も大きな声で名前を呼びました。僕は慌てて部屋の中に携帯電話を取りに戻り、救急車を呼びました。隣のベランダが開く音がして、結城さんの声が聞こえていました。

 五階から転落した丹波さんは、ほぼ即死だったそうです。

 今でも、あの時のことが頭から離れないのです。

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