漣
七町藍路
第1話
波の音を聞くと、今でもあの部屋のことを思い出します。
海沿いの崖の上に建てられた、白いマンション。近くの砂浜から眺めると、青い海と空を結ぶ白い杭のようにも見えました。
今夜はその話を聞くために来たのでしょう?
ええ、僕もそのつもりです。
どうぞ、自由にお座りください。飲み物もありますよ。寒くはありませんか? この季節はどうも足元から冷えて、底冷えと言いましたっけ、朝方は特に冷え込みますね。
ああ、そうだ。
扉は閉めましたか?
閉めましたか、そうですか。いえ、少し開いているように見えたので。
あなたの後ろの扉。
気のせいですね。
おや、もうこんな時間でしたか。
それでは始めましょう。
まずは僕があの部屋に住むようになった経緯から、思い出せる限り詳しくお話ししましょう。
あれは、僕が社会人二年目になる春のことでした。
当時の僕は大学を卒業後、海辺の街にある新聞社で記者として働いていました。新聞社といっても、地元の情報誌を発行している小さな会社ですよ。ほら、駅なんかによく置いてある、フリーペーパー。ああいったものを作っています。
僕が生まれた街には海がなくて、大学時代を過ごしたのも海から離れた街でした。僕にとって海はとても遠い存在でしたから、子供の頃からずっと海辺の街に憧れていました。だから、大学の新卒求人の中にあの会社を見つけた時、ここしかないと思ったのですよ。地元情報誌という響きも良い。
まあ、それで、滑り込むように入社して、一年目は会社が借り上げているアパートに住んでいました。会社からも駅からも近く、街の中心部にある、築浅のアパートでした。オートロックでしたし、地方だから家賃は都会ほど高くはありませんしね。好条件の部屋でした。
ところが、二年目になる前に、そこから移ってほしいと会社から言われましてね。新しく入社してくるのが女の子だから、その子のためにセキュリティー面で安心なそのアパートを譲ってもらいたい、と。デザイン系の専門学校を卒業して入ってくる、二十歳の女の子ですよ。それはまあ、僕も男ですし、先輩になるのだから、少しは良いところを見せないといけない、なんて格好つけたりして快諾しました。いえ、少しは心残りもありましたよ。けれど、家賃の半分は会社が出しているのだから、あまり偉そうなことは言えませんね。
そういうわけで、僕は新しい部屋を探さなければならなくなりました。僕は事務の人に紹介してもらった不動産屋を訪ねました。この不動産屋はチェーン店ではなくて個人の店でしたが、物件数が多く、老舗で、どこよりも信頼できるところだと聞いていましたから、僕はこの不動産屋で自分の好みの部屋を探してもらおうと決めていました。
僕を担当してくれたのは狐に似ている男性で、年齢は、そうですね、当時の僕よりも少し年上だったので、おそらくは二十代後半でしょう。彼の名前は国木田さん。若いけれど、宅建取引の資格を持っている立派な不動産屋でした。
国木田さんは僕の希望を聞いて、いくつか物件の資料を見せてくれました。しかし、正直に言うと、こう、ビビッとくるものはありませんでした。どれも似たり寄ったり。それが顔に出ていたのでしょうね。国木田さんは少し考えてから、もうひとつ、物件の資料を取り出しました。
個人的には勧めたくないが、取り扱っている以上、紹介しなくてはいけない。
確か、国木田さんはそんなことを言ったと思います。
事故物件というものを知っていますか? 簡単に言えば、死亡事故があった部屋ですよ。最近は時々、心霊番組なんかで見かけますよね、曰くつきの部屋。そういう物件には、ある程度の説明義務があるそうです。それかな、と僕は思いました。
手渡された資料を見た瞬間、ここだと思いました。電流が走るというのは、ああいうことを言うのでしょう。体中を一瞬にして興奮が駆け巡りました。
外観、内装、そして何よりも、窓から見える景色。海を一望できる崖の上という立地に僕は強く心惹かれました。
ああ、あの白いマンションだ。僕はすぐに分かりました。仕事で海沿いの道を走っていると見える、海を臨む白いマンションだ、と。
この物件を見たい。僕は国木田さんが尋ねるよりも先にそう伝えました。その時の国木田さんの表情は、やっぱりという表情でしたね。どこか呆れたような。接客業としてそれはどうかと思いますが。けれどあれは、国木田さんなりの警告だったのかもしれない。今ではそう思っています。
とにかく、それがすべての始まりでした。
紅茶でも、いかがですか?
ええ、どうぞ。すみません、丁度レモンを切らしていて、あ、ストレートでしたか。僕は砂糖もミルクも割と多めに入れてしまいます。子供みたいだとよく言われますよ。ああ、でも、コーヒーはブラックを飲むことが多いですね。変でしょう?
そういえば、国木田さん、コーヒーにはミルクも砂糖も入れていましたね。それも、飽和するくらい。あれでよく病気にならないものですよ。
ええ、国木田さんとは今でも時々、連絡を取り合っていますよ。相変わらず、狐のような顔をして、今でも不動産屋をしています。
では、話を続けましょうか。
クロイゼルング。
それがあのマンションの名前です。聞いたことはないかもしれませんね。これ、ドイツ語ですよ。漣という意味のドイツ語です。海辺にピッタリの名前です。少し厳ついですけれどね。ああ、でも、メゾンとかコーポとか、そういったありきたりな名前ではないところにも僕は惹かれました。
僕は国木田さんの運転する車でクロイゼルングに向かいました。
クロイゼルングは海沿いの道を森の中へ少し逸れたところにあり、周りは雑木林に囲まれていました。けれど、薄暗いわけではありません。海風に吹かれて、さやさやと揺れる木々はとても穏やかでした。街灯もちゃんとありましたよ。建物自体はバブルの時にリゾートマンションとして建てられたもので、当時は一つの階に一戸という、豪華な間取りだったようです。しかし、時代とともに需要や住宅事情も変化し、大幅に改装したのだそうです。
会社の先輩がそこに住んでいたので、話は少し聞いていました。とにかく見晴らしが良いのだと。まさか、自分がそこに住むことを考えるなんて、思ってもみませんでしたからね。話を聞いていた頃は、羨ましいくらいの思いしかありませんでした。
建物の前には駐車場がありました。クロイゼルングは六階建てで、上から下まで白一色でした。一階は共用玄関と駐輪場、それから部屋が一つ。三階から上は三部屋ずつ。横並びになっていました。廊下の片方の端にはエレベーター、反対側には階段がありましたね。
国木田さんは鍵の束をジャラジャラと鳴らしながら、三階の中央の扉の前に立ちました。三階のB号室。玄関扉を開けた国木田さんに促されて、僕は部屋に入りました。何とも言えない、あの空き部屋の匂いに混ざって、微かに潮の香りがしました。
間取りは2DK、部屋に入るとまずダイニングキッチンがあり、洗面所や浴室に続く扉もありました。ダイニングキッチンの奥には八畳の洋室、さらにその奥が六畳の和室という、奥行きのある造りになっていました。和室の大きな窓は少し広めのベランダに続き、資料のとおり、やはり海がよく見えていました。この三部屋は襖や引き戸で仕切られていて、それらを開けておけば玄関からも奥の和室の窓が見えます。遠くの水平線に船が消えていきました。部屋はすでにリフォームが終わっており、いつでも入居できる状態のようでした。食器棚やテーブル、本棚など、備え付けの家具がいくつかありました。それから、淡い黄緑色の爽やかなカーテンも。
僕は窓を開けてベランダに出ました。少し緑を帯びた青い海が広がっていました。よく晴れた日でしたから、空も綺麗でしたね。
海と空、同じ青色でも違いがある。それが、面白い。色の奥深さと言いますか、青色という一つの色で表しても、その微妙な違いを区別することの出来る、人間というものはとても豊かな色彩感覚を持っていますね。ここで始まる新しい生活を想像して、僕の胸は高鳴りました。
けれども、国木田さんは玄関のところで立ち止まり、部屋には入ってこずに、ずっと僕を見ていました。不機嫌というよりは、少し具合が悪いようにも見えました。そのことに気が付いた僕は早く不動産屋に帰ったほうが良いだろうと思い、ベランダから部屋の中に戻り、この部屋に決めたいという旨を伝えました。すると、国木田さんは資料を取り出しました。説明しておかなければならないことがある、と。
そこの扉。
国木田さんはそう言って、窓際に立つ僕のほうを指差しました。僕は和室と洋室を仕切っている襖を見ました。
その瞬間、ゾワッと全身の毛が逆立つような感覚が足先から上がってきました。
鍵が、ね。たくさんあるのですよ。鍵を差し込むシリンダータイプのものもあれば、掛け金に通す南京錠もある。そんな鍵が、びっしりと取り付けられていたのです。十数個はありましたね。錠前という見慣れたものでも、それほどの数が並んでいると不気味に思えるものですよ。
と、そこの扉。
寒気を覚えている僕を気に留める様子もなく、国木田さんは洋室とダイニングキッチンの間の引き戸を指差しました。そこにも、鍵。異常な数の鍵です。
それから、ここ。
最後に国木田さんは玄関扉を指差しました。ええ、もちろん、玄関にも鍵ですよ。一般的な玄関扉なら、シリンダーが二つに、チェーン。それくらいがせいぜいのところですよね。しかし、その玄関扉には、やはり十数個の鍵がありました。いいえ、外から開ける時には鍵穴はありませんでした。普通の扉でしたよ。どうやら、すべて後付けの、内側からしか施錠も開錠も出来ないようでした。
国木田さんは静かに言いました。
入居者の入れ替わりは激しいほうだが、契約の途中で解約をして出ていった人はいないということ。事故物件ではないということ。けれども、入居者の大半が、同じような怪奇現象を体験しているということ。
そして、退去する際には誰もが口を揃えて、鍵を外してはいけないと言うのだそうです。
僕は、心霊番組なんかは、信じないほうでした。胡散臭いものもあるでしょう? ホラー映画は嫌いではありませんが、あれはあくまでもフィクションですから。だから、怪奇現象が起こると言われても、本来ならば信じないはずでした。
しかし、国木田さんの表情は冗談を言って僕をからかっているようには見えませんでした。
具体的にどんなことが起こるのか、僕は国木田さんに尋ねました。国木田さんはパラパラと資料を捲って答えました。
夜にすべての鍵を施錠しても、朝になるといくつかが開錠されていることが頻繁にある。何者かの気配を感じることがある。国木田さんはそんなことを言いました。それから、こう続けました。
すべての鍵を施錠してさえいれば、奥の部屋には実害がない。
国木田さんは資料から顔を上げて僕を見ました。どうしますか、と言いたげな目をしていましたね。引き返すなら今しかない、と。開けたままの窓から海風が僕の横を吹き抜けていきました。
海。輝く水面、寄せては返す波、海鳥の声。あの、海。
漣が。
住みます。僕はそう答えました。一瞬の迷いは、もうどこにもありませんでした。ここに住みます。僕は繰り返しました。国木田さんは驚くわけでもなく、そうですか、分かりましたと事務的に答えただけでした。それから、部屋の説明をするために、ようやく玄関から中に入ってきました。
後になって国木田さんから聞いたのですが、ね。国木田さんにとってあそこは相性の悪い場所だそうです。僕も経験ありますよ。別に嫌な思い出があるわけではないのに、何故か胸の内がざわついて不安になる場所。あなたにはありませんか? あれは一体、何なのでしょうね。
とにかく、こうして僕はあの部屋に住むことを決めました。
いやぁ、今夜は冷えますね。天気予報によれば今夜は遅くから雨になるそうですよ。
雨の夜の海は、何とも言えない、独特の雰囲気がありますよね。静かで、飲み込まれそうなほどに暗く、砂浜に打ち寄せる波も、まるで足を攫っていくような。でも、あの冷たさや不気味さを何故か嫌いにはなれない。僕だけでしょうか?
いえいえ、僕だって夜の海は怖いですよ。髪の長い女の人の幽霊が波打ち際に出てきそうでしょう? ただ、どう表現しましょうか。
いっそのこと、このまま海に溶けてしまえたら。そんなことを思ってしまうのです。深みへ落ちていくほどに、心に渦巻くあらゆる感情が泡のように消えて、楽になれるのではないか、なんて。夜の海へ一歩ずつ近づいていくたびに、砂と水に少しずつ足が沈んでいくほどに、夜の闇に紛れて輪郭が曖昧になって、やがては形を失って、感覚もなくなって。それは苦しみからの解放というよりは、むしろ、浄化と呼ぶべきでしょうか。
消えてしまいたいなんて考えているわけではありませんよ。海の奥底に沈めてしまいたいような苦い経験も、人には言えないような罪も、僕にはありません。
ですが、良いところも悪いところも、分け隔てなく受け入れてくれそうな、あの海の寛容さが、夜には際立つように感じるのです。
すべての生命の始まりが海ならば、僕たちも海に帰りたいという本能を持っているのかもしれません。
ああ、話が逸れましたね。
それでは、僕がクロイゼルングに引っ越してから、最初の怪奇現象を体験するまで、順を追ってお話ししましょう。
契約をしてから引っ越すまで、まるで飛ぶように早く毎日が過ぎていきました。
会社の先輩の、丹波さん。丹波さんはクロイゼルングの五階に住んでいたのですが、丹波さんにクロイゼルングへ引っ越すことを伝えました。丹波さんは大きなお腹をさすりながら笑って言いました。
鍵。はじめのうちは厄介かもしれないけれど、そのうち慣れて、毎晩の習慣になるさ。
丹波さんはグルメ情報の担当なので、ええ、お腹周りが少し、ね。まあ、それも含めて丹波さんは愛嬌のある人でしたよ。海を眺めていると、インスピレーションが溢れてくるのだと丹波さんはよく言っていました。だから、クロイゼルングは最高の立地なのだと、僕の肩をポンポンと叩きながら笑いました。
僕は丹波さんに、クロイゼルングで何か不思議な体験をしたことがあるのかどうか、尋ねてみました。月に一度、あるかどうかだよ、と丹波さんは答えました。やはり、それも慣れてしまえばどうということはないのだ、そう言うと、丹波さんは不敵な笑みを浮かべました。
ネタにしてしまえるくらいにならなきゃ、な?
丹波さんは僕にそう言いました。地域情報誌たるもの、地域の小ネタには敏感でなければならない。社長がよく言っていました。だから、僕たちはネタを探すアンテナを常に意識する必要があるのです。まあ、僕はようやく仕事にも慣れてきた半人前でしたから、イベント情報の担当で、自分からネタを探しに行くというよりは、向こうから掲載してくれと頼まれた記事のほうが遥かに多かったのですが。
引っ越し作業が終わり、挨拶回りも済ませました。とりあえずは両隣と上下の住人に。クロイゼルングは全部で十六部屋ありますが、あの時、住んでいたのは僕を含めて十三部屋でしたね。もちろん、生活リズムがそれぞれ少しずつ違いますから、ほとんど会ったことのない人もいましたよ。僕の上の部屋は釣りをするために借りている部屋だったそうで、休みの日だけ使われていましたし、他にも事務所として使われている部屋もあったみたいです。
ですから、実際に近所付き合いがあったのは、両隣と真下、それから丹波さんくらいでしたよ。あとの住人とは、会えば挨拶する程度でした。
僕の部屋の真下にあたる二階のB号室に住んでいたのが、黒川さん親子でした。母子家庭で、息子の大和君はとても人懐っこい子でしたよ。大和君はよく駐車場で遊んでいたので、僕も一緒にキャッチボールをしたり、虫を捕まえたりして遊びました。母親の帰りを待つ子供が一人で遊んでいるなんて、最近は物騒ですからね。それに、見ていて、こう、切なくなりますから。
僕の話の中心は、大和君だと言っても過言ではありませんよ。大和君が渦の中心にいました。僕たちはその周りをぐるぐると、もがきながら、溺れないように泳いでいたのです。
僕の隣の部屋、C号室に住んでいたのは、結城さん。いかにも真面目そうな雰囲気の、眼鏡を掛けた青年で、そうですね、国木田さんと同年代でしょうか。結城さんの職業、当ててみますか? 公務員、いいえ、医者、外れです。教師、ああ、惜しいですね。正解は塾の講師でした。難しかったですか? けれど、僕が伝えた情報に少なからず影響されましたね。ステレオタイプ、固定観念ですか。眼鏡を掛けて、真面目そう。実に結構ですね。
そりゃ、怪奇現象は一種の警告だという一般論は、とても大切ですよ。だから、その感覚が麻痺してしまうと、危ない。足場の悪い崖を歩きながら、景色が綺麗だなんて、そんな悠長なことを言っている場合ではありませんからね。
反対側の隣には、長谷川君という青年が住んでいましたが、彼は駅前のレストランで働いていたので、僕とは生活リズムが全く違っていましたから、顔を合わせる機会はほとんどありませんでした。けれども、長谷川君は気さくな人でしたから、休日や出勤前に出会ったりすると、よく話しかけてくれましたよ。ですから、ほとんど交流がなくても、隣の人が何をしている人なのか僕は知ることが出来たのです。
結城さんも、僕とは生活リズムが大きく違っていましたね。塾は学校が終わった夕方から夜までですから、結城さんが出掛けるのはいつも昼過ぎでした。取材で移動していると、時々、近くのバス停でバスを待っている結城さんを見かけましたよ。行く方向が一緒の時はよく車に乗せて塾まで送ったりしました。結城さんは僕たちが作っている情報誌をとても熱心に読んでくれていて、いつもアイディアやアドバイスをくれました。結城さんは就職して街にやって来たので、生徒の話題に合わせるために、情報源として読み始めたそうです。それでこそ、地域情報誌ですよね。
部屋に荷物を運び入れて、収納して、いざ部屋でひとり海を眺めていると、不安や安堵が入り混じった溜息が出ました。海を臨む部屋に住めることはもちろん嬉しいことです。ですが、あの大量の鍵が気掛かりでした。
初めてクロイゼルングを訪れた時に国木田さんが持っていた鍵の束、あれはすべて僕の部屋の分でした。大変でしたよ。どの鍵がどの錠のものか、分かりませんから。全部同じに見えましたよ。仕方がないので、ひとつずつ調べて、番号を書いたシールを貼りました。そうやって数えてみると、鍵は全部合わせて四十三本もありました。玄関扉のチェーンを合わせると、四十四のセキュリティーです。高価な美術品でも守っているかのようなロックです。
けれども、自分の命よりも高価なものなどあるのでしょうか?
丹波さんや国木田さんに教えられたとおり、僕は毎晩必ずすべての鍵を掛けてから眠りました。そして朝、目が覚めたら鍵を開けていくのです。本当にね、面倒でしたよ。たとえば、そう、スニーカーの靴紐を、脱ぐたびに全部解いて、履くたびにまた穴に靴紐を通して結び直さなければならないとしたら、たった一足でも面倒に感じますよね。
四十四のセキュリティー。全部施錠しなくても、いくつかは開いたままで構わないのではないか、そんなことを考えたことは、もちろん何度もありましたよ。けれども、僕にはそんなことをする勇気はありませんでした。
朝になると、玄関の鍵が、いくつか開いているのですよ。どれほど施錠を確かめて眠っても。
僕には鍵をせずに眠ることなど、出来なかったのです。
大量の鍵以外は、クロイゼルングの生活はとても快適でした。窓から見える穏やかな海も、柔らかな日差しや、海鳥の声を運ぶ潮風も、海風に揺れる木々のざわめきも。ずっと憧れていた海辺での暮らしは、とても満ち足りていました。寝るためだけだった家が、くつろげる場所になったのです。何もかもが輝いて見え、毎日が充実しているように感じました。やはり、住む環境は人の心に大きな影響を与えるのでしょう。インスピレーションが溢れてくると言った丹波さんの言葉を実感していました。
しかし、引っ越してから一ヶ月ほどが過ぎた、あれはゴールデンウイークの頃でした。
その日は、取材していたイベントが夜遅くまであったので、帰宅する頃にはすっかり夜も更けていました。闇の中でぼんやりと白く光るクロイゼルングは、灯台のようにも見えましたね。あんな建物は周りにはありませんし、幻想的なようで、不気味でもある。そんな奇妙な建物でした。
駐車場に車を停めて、エレベーターで三階に上がりました。両隣は静かでした。とても静かでした。建物全体が静まり返り、波の音が、時折小さく聞こえていました。
僕は玄関扉の、外側に付けられた二つの鍵を開けました。この二本の鍵以外は、部屋の中に置いていました。さすがに、四十三本も鍵を持ち歩くのは億劫ですからね。
ドアノブに手を掛けた、その時です。
ポトッ。
背後で水音が聞こえたような気がしました。雨漏りでもしているのかと思いましたが、ここ数日はずっと快晴でしたから、そんなはずはない、気のせいだろう。僕はそう思い直して、再び玄関のドアノブに手を掛けました。
ピチャ。
ええ、今度は、はっきりと。先ほどよりも大きく。一瞬、廊下にその水音が反響するくらいに。振り返ることは出来ませんでした。出来ませんよ。もう、感覚がありましたから。誰かが、いや、何かが、得体の知れない存在が僕の背後にいるのだという感覚が。
耳元、首筋。誰かの息遣いを感じました。
僕は急いで玄関扉を開けて中に入り、呼吸することも忘れて鍵を掛けていきました。玄関をすべてしっかりと施錠してから、僕はようやく息を吐きました。
気のせいだという一言で済ませるには、あまりにも確かな存在感と緊張感がありました。自分の真後ろに立っている誰かの気配が、背中に貼りついて離れませんでした。
僕の思い過ごしだった、そう思いますか?
でもね。
鍵が開いたのですよ。僕の目の前で、ゆっくりと。
その夜は風呂にも入らず、奥の和室で眠りました。うつらうつらと、現実と夢の狭間を彷徨っていると、鍵が開く音で目を覚ますのです。
朝になってから確かめてみると、玄関の鍵が十個ほど開いていました。
どうぞ、飲み物は自由に飲んでください。クッキーもありますよ、貰い物ですが。美味しいですよ。
ああ、トイレなら部屋を出て右の突き当りです。暗いですから、足元には気を付けてくださいね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます