概念的な雪が降る
とあるパーティーの会場で初めてあったその男は、雪の研究をしているのですと、わたしに言った。
パーティーとかテーマパークとか、そういう人の多く集まる華やかな雰囲気の場所は悉く苦手なのだけれど、わたしの表層の5ミリくらいの電磁層はそういった場にもちゃんと適応していて、放っておいてもある程度は勝手に対応してくれる。
雪の研究。
初対面の人から投げかけられる大抵の話題に対して、自動的に当たり障りのない返答を返す多種多様な浅く小さい引き出しを持つわたしのストレージをザッと確認してみたけれど、雪に関する知見はそこにはない。
かろうじて「あなたがたとえ氷のように潔癖で雪のように潔白であろうとも、世の悪口はまぬがれまい」というシェイクスピアの警句がヒットしたけれど、おそらく今そのフレーズを引用するのは適切ではないだろう。
しかたがないので、わたしは「雪、ですか?」と、ただ訊き返す。
「ええ、雪です」と、彼は答える。
彼は企業に勤める会社員だけれど、そこから出向というかたちで今は大学院に在籍しているという。
「雪というのは微量の水蒸気を含む空気と複雑なかたちをした氷粒子とで構成された二相混合物でして。これまでの雪の研究は、その多くが雪の構成要素である空気と氷粒子が力学的に静止している場合のみを扱っていて、流動状態の雪に関する研究というのはあまり行われてこなかったのです」
「つまり」と、わたしは彼の発言を頭の中で自分の扱える語彙に変換する。「積もっている雪ではなく、舞い落ちてくる雪について研究しているということですか?」
「ええ、まさに」と、彼は頷く。
「へえ、でもそんなの、どうやって?」と、わたしは訊く。それほど興味があったわけでもないけれど、現在わたしが置かれている状況を鑑みるに、次々と初対面の人間とのコンタクトを迫られるよりは、この無害そうな男との会話を繋いだほうが面倒が少なそうだ思ったからだ。「雪が降るのを観察するのですか?」
この街では、雪は滅多に降らない。
「いえ。もちろん、空から降ってくる自然状態の雪を観察することも重要なのですが、それでは定量的に扱いづらいので、人工的にその状態を再現して諸々のデータを収拾しています」
彼はわたしの目を見ず、わたしのちょっと尖ったパンプスの先っちょあたりを見ながら話す。
「内径10センチ程度の小さなアクリルの円筒の中に雪を入れ、そこに10気圧のコンプレッサーで空気を送り込みます。コンプレッサーの空気は5気圧に減圧され、除湿器で水分を除いてから、アルコール恒温槽の導管を通ることで一定の温度にされています」
わたしは頭の中で、大きなスノードームのような装置を思い浮かべる。わたしのイメージのそれの内側には、大きな鹿の角のような黒々とした枯れ木が据え付けられていて、その上にしんしんと雪が降り注いでいる。
そのことを伝えると「ええ、まさに」と、彼はまったく同じフレーズを繰り返す。
「見た目は手間のかかったスノードームのような感じです。その装置をつかって、様々な条件下での雪の振る舞いを調べるのです。今はまだそこまではしていませんが、そうですね、大きな鹿の角のような黒々とした枯れ木を据え付けてみるのも、ひとつの条件として有意義かもしれません」
「それは素敵ですね」と、わたしは言う。心からそう思ったので。素直に、そう思ったので。
彼は毎朝、その手間のかかったスノードームの条件設定をすこし変更する。コンプレッサーのスイッチを入れ、アクリルの円筒の中に雪を降らせる。その様子を各種の計器で記録し、雪の動きを眺め、数値を検証する。翌朝にはまた別の条件で雪を降らせる。記録をする。
「小説みたい」と、わたしは言う。「村上春樹の小説に、図書館で毎日頭蓋骨から光を読み出す男が出てくるんです。そんな感じ。ちょっと、幻想小説のほうに半歩足を踏み入れてますね。ファンタジーですよ」
彼は二週間後にアメリカに渡る。アメリカの北のほうで雪に関する研究の学会があるのだという。世界中から雪の研究をしている人間がその街をおとずれ、それぞれの研究結果を発表する。世界のあちこちで、いろいろな人がいろいろな目的のために、いろいろな方法で、テーマで、アプローチで、雪について研究をしている。
会場のプロジェクターには、パワーポイントで編集された雪に関する数字と画像と要約された文字が映し出される。人々は雪に関する情報や知見を交換し、その成果を褒めたたえる。あるいは、批判的であったり懐疑的であったりする意見を述べる。
その日、その会場に集まったすべての人々が、雪について考えている。雪の性質、雪の効用、雪の脅威、その他、雪のあらゆる側面について。
人々の頭上に、概念的な雪がしんしんと降り積もる。
「僕にとってはそれが確固とした現実で、日常で、仕事なのですが」と、彼は言う。「けれど他の人から見れば、きっとそうなのでしょうね」
はにかむように笑う彼の顔を見て、わたしは自分がこの男に多少の好感を抱いていることに気がつく。
それはたぶん、この人が現実ではなく、半ばファンタジーの世界に属している人だから。ファンタジーに生きていて、なおかつ無害な人は、大抵の場合において、現実の人よりはすこし好ましい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます