もちろん、それを想定してみることはできるわ、と彼女は言った
あなたは目を覚ますと、自分が見知らぬ赤い部屋に居ることを発見した。
部屋は赤く、扉は一か所だけで、窓はない。部屋はほぼ正方形の間取りで、扉の他にはどのような家具もそこには設置されていなかった。
ただ赤い。
そのあまりの徹底した赤さに、あなたは『彼女』を連想せずにはいられなかった。ここまであまりにも赤いのだから、この現状に『彼女』が絡んでいることのはまず間違いがなかった。赤は『彼女』の色だった。
あなたは身体を起こし、ひとまず扉へと歩み寄った。
ドアノブを回す。扉は開かない。鍵が掛けられているようだった。
あなたはひとまず部屋の中央に戻り、椅子もなにもないので仕方なく床にそのままあぐらをかいて、ここに至るまでの記憶を思い返してみることにした。
あなたは昨夜、『彼女』の話をフンフンと聞いたあとで、こんなような質問をしてみたことを思い出していた。
「なるほど。一人称小説と三人称小説というのは分かりました。小説というのは自由なものだと思っていましたが、存外、守らなければいけない決まりというのが多いものなのですね。たとえば、二人称小説、といったものはあり得ないのでしょうか?」
あなたは自分が『彼女』に対してそんな質問をしたことを思い出したが、しかし、なぜ自分が『彼女』に対してそんな質問をしたのか、その意図や目的というのは自分でも思い出すことができなかった。
あなたは昨夜の自分自身の行動を、その行動原理を、まるで他人事のように推測してみた。
それは、例えば『彼女』が興に乗って朗々と話している姿を見て、少し意地悪の虫が起きあがってきただけだったのかもしれないし、あるいは、ただ様々な「なるほど」のバリエーションを駆使して相槌を打つだけの自分に嫌気がさして、少し会話の流れにコミットしたかっただけだったのかもしれない。もしくは、あなたが実のところ『彼女』の話をこれっぽっちも理解できていないということを悟られないように、別のところに話を逸らせたかったのかもしれないし、ややもすれば、単に頭が良さそうに見られたくて、少し気取ったことを言ってみたかっただけだったのかもしれない。
いずれにしても、あなたは実際にそんなこと、つまり、二人称の小説というのが記述可能であるのかどうか、ということに興味があったわけでは、まったくなかった。
「……そうね」
きっかり五秒、『彼女』は睫毛を伏せて沈黙し、そして次に顔を起こした時には真っ直ぐにあなたの両の目を見据えて、こう言ったのだった。
「わたしは書いてみたことはないし、読んだこともないけれど、もちろん、それを想定してみることはできるわ」
なにしろ、小説というのは本来、自由なものですから、想定不可能であるなどということはないのよと、付け足すように『彼女』は言った。
あなたは『彼女』のその言葉から、自分の言った「小説というのは自由なものだと思っていましたが、存外、守らなければいけない決まりというのが多いものなのですね」という台詞が、思いのほか彼女の逆鱗に触れたようだった、ということに、この時すでに気が付いていたけれど、今さらそのことに気付いてみたところで、とうに後の祭りだった。
あなたは『彼女』に対して軽率にそういったことを聞いてみるべきではないことを思い出していたし、こういった場合、『彼女』は往々にして、説明するのではなく実際に体験させて、身体で理解させることのほうを好むことも思い出していた。
そして、実に困ったことに、多くの場合において、『彼女』には実際にそれを成し遂げられるだけの力が伴っているのだった。
やれやれ、と、あなたは赤い部屋の中央で、床にあぐらをかいたまま額に手を当てて、ゆっくりと頭を左右に振った。
どうやら、これは自分を主人公にした二人称の小説の中であるらしい、ということを、あなたは不承不承ながらも認めないわけにはいかなかった。
これはどうやら自分の小説の中であり、そして、その出口は閉ざされている。
「書き始められた小説は」と、事あるごとに彼女がよく口にしていたことを、あなたは思い出している。その言葉は「必ず終わらせられなければならない」と続くことを、あなたは知っている。
書き始められた小説は、必ず終わらせられなければならない。
やれやれ、と、あなたは再び頭を振った。
あなたは諦めて、あるいは、覚悟を決めて、改めて赤い部屋の内部を眺めわたしてみた。探索するまでもなく、部屋の中にはあなたと扉以外には、他になにも、一切のものが存在していなかった。鍵を隠しておけるような物陰も隙間も、ここには一切、なにもないことを、あなたは再確認した。
ここは自分の小説の中なのだ、とあなたは考える。
自分の小説の中である以上は、自分が記述しさえすれば、あらゆるものは存在するはずだ、とあなたは考えている。扉の鍵も、「ポケットの中に扉の鍵を発見した」と記述すればポケットの中から見つかるのだろうと、あなたは既に分かっている。
あなたは立ち上がり、自分のポケットを探った。
出てきたのは鍵ではなく、むき出しの剃刀の刃、一枚だけだった。
やれやれ、と、あなたは再び頭を振った。どうやら、自分の描写力と発想力と構成力ではこれが限界らしいと、あなたは諦めて溜め息をついた。
どのような結末であれ、終わらないよりはいくらかはマシなのだろう、とあなたは考えていた。
書き始められた小説は、必ず終わらせられなければならない。
あなたはなにかを決意するかのように唇を真横に引き結ぶと、手にした剃刀の刃を首筋の頸動脈に当て、一気に引き抜いた。
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