水に潜る

 今日も「じゃ、お先です~」と新人くんがわたしの部屋の扉をちょっと開けて声を掛けて帰っていったので、ああ定時かと気付く。ぴったんこカンカンの午後5時ちょうど。新人くんの帰宅時間は天体の運行のように正確だから、わたしも安心して過集中していられる。たまに、というかわりと頻繁にかもしれないけれど、彼がお休みしている日にはついつい定時を忘れて仕事を続けてしまったりする。一度スイッチが入ると全てが遠のいてしまうタイプなので、あまり時間を気にできないのだ。電話が鳴ったり声を掛けられたりしたタイミングでようやく時間を確認するのである。そういう意味では、このイマイチ評判のよろしくないらしい新人くんの存在はありがたくもある。なにごとにも良い面と悪い面がある。

 今日仕上げたぶんの時計を時刻合わせしてワインディングマシーンにかけ、わたしも仕事を切り上げることにする。白衣を脱いでロッカーに仕舞い、かわりにちょっと丈が短くデザインされた23区のトレンチコートを出して羽織ればもう着替え完了だ。どうやら技術室にはもうわたししか残っていないらしい。昔ながらの職人気質のおじさんたちにとってはバチッと午後5時に退社してチョロッと宗右衛門町あたりを冷やかしてそう遅くならないうちに家に帰るのがデキる男のワークスタイルなのだ。営業のほうとはまったく人種が違うのである。わたしはどっちにも片足ずつ突っ込んでいるので、どっちつかずのワークスタイルではあるのだけれど、まあ結局のところ業務が完全にブラックボックス化していてわたし以外の誰もわたしが何をしているのか把握していないし、わりと自由にはやれている。仕事に不満はない。

 技術室の電気を消して回って、最後に鋼鉄製の扉の大きなハンドルをガッチャンと回して施錠しする。扱う製品が高額なので、防犯上の理由から技術室じたいが大きな金庫室のようなつくりになっている。窓もないし、壁も厚くて外の音も聞こえない。精密機械は埃を嫌うので空調は回りっぱなしで、埃の侵入を防ぐために差圧をとっているから他の部屋よりも数度低く設定されている。空気は常に室内から室外に向けて流れる。室温は夏でも冬でも少し肌寒いくらいで、季節感もない。

 廊下に出てみてはじめて窓の外の空が見える。朝見たっきりの空がすっかり夕方に変化していて、毎回なんだかワープでもしたような気分になる。カツカツと踵を鳴らして社長室に鍵を返しに行く。扉をノックして、返事も待たずにパカッと開けて「社長~、わたしも帰るよ~」と声を掛けながら中を覗くと、社長が椅子の上でこっくりこっくりと船を漕いでいる。もう80歳を過ぎているおじいちゃんなので、最近とみにうつらうつらしていることが多くなった。わたしが入社した当時からおじいちゃんではあったけど、なんだか去年ぐらいからさらにもう一段階加速した気がする。

「はい、社長。鍵」

 社長の背後に回って肩を両手でポンッとしたら、社長がビクンッとなって起きて、「ああ、鍵な。鍵。はい、ごくろうさん」と、わたしから技術室の鍵を受け取ってふわふわとした足取りでキーボックスに仕舞いに行く。未だに会社中の鍵の管理と、最後に現金を読んで金庫に仕舞うのだけは社長の仕事なのだ。基本的にはなんかプルプルしているおじいちゃんなんだけど、お金を読むときだけはピタッと震えが止まる(なお読み間違いはしょっちゅうあるので再度誰かが確認する必要はある)。

「社長、寝るなら寝るで家帰って寝なよ」

 社長のおうちは会社の建物のほぼ真向いである。エレベーターを降りて道路を渡って、またエレベーターを昇るだけだ。でも社長はふわふわした顔のまま「まあ、まだ足立くんが帰ってきてないしな」と言う。誰かが出張に出ている時はどれだけ遅くなっても帰社まで社長室で待っているのだ。実際問題として、金庫の鍵を社長が管理している以上は商材が戻ってきて金庫に納めるまでは社長が待ってないといけないという事情もあるのだろうけれど、それならそれでその役を専務(バカ息子)なりなんなりに引き継げばいいだけの話ではあるし、だからたぶん、たんに社長が出迎えてあげたいだけなのだろう。わたしも何度かくらいは経験があるけれども、遅くに帰社しても社長がひとりでうとうとと待っていて「おかえり、ごくろうさん」と声を掛けてくれるだけで、なんとなくこの会社の役に立ってやりたいな~みたいな気持ちが芽生えたりもする。きっとそういうところなのだ。なお、わざとやってもわざとらしいので、こういうのは元からそういうことが出来る人でないと意味がない。明日から実践できるライフハックとかそういうものではない。

 社長に挨拶をして、タイムカードを切って残っている営業の数人に通りすがりに声を掛ける。エレベーターを降りて、駐輪場の自転車(今ではもう存在しないLCトラムというビアンキのOEM。ビアンキのマークがついていないだけのビアンキだけど安かった。掘り出し物)を引っ張り出してチャリチャリと漕いで5分でアパートに帰りつく。

 自転車をホイッとウィリーさせてエレベーターに入れて、そのまま4階まで上がる。部屋の鍵を開けて玄関先まで自転車を入れる。通路が自転車で半分塞がれてしまうから、身体を横にして奥に入る。入ってすぐの部屋は今風に言うならダイニングキッチン? みたいなところで、ダイニングキッチンという語から連想されるソレとはだいぶ趣が異なるかもしれないけれど、まあ機能としてはそのような部屋だ。奥にもう一部屋あるから、間取りとしては1DK? っていうのかな。一人で住むぶんにはそこそこ広い。ポイポイと鞄とコートを投げ捨てて、冷蔵庫からヨーグルトを出してそれにグラノーラをブチ込んだやつで晩ごはんを済ませてしまう。ちょっと一息ついて、PCでプライベートのメールとか諸々をチェックしたら、よしやるか! って感じで水着に着替えて水中メガネをして隣の部屋の引き戸を開けて身を乗り出して照明のスイッチをつける。

 もとは畳敷きだった6畳間は今では完全に水没してしまっていて、引き戸のギリギリのところで水がちゃぷちゃぷしている。多少の満ち引きがあるらしくて、今日はかなり水位が高い。わたしは10秒ぐらいだけ準備運動をして、ピョンとひとっ跳びで部屋の真ん中らへんにドボンと潜る。

 入口は6畳分のスペースしかないけれど、一度潜ってしまえば中はかなり広い。ただ、天井の蛍光灯ぐらいしか明かりがないので、暗くて見通しがあまりよくない。わたしは息の続くかぎり潜水して、適当に手に触れたものを掴んで浮上してくる。

 ザバッと水面から顔を出して、手に持ったものを適当に床に上げて水中眼鏡を外し、ぎゅっと目を閉じたままブルブルと顔を振って水気を払って、そのうえさらに顔もゴシゴシする。潜るしかないから潜っているだけで、基本的には水に顔をつけるのもあまり好きではないのだ。水中眼鏡がないと水の中で目を開けていることもできない。

 わたしがそんなふうにブルブルごしごしやっていると、「またやってるの」と、水に潜っている間に部屋に上がりこんでいたらしい彼氏がダイニングと水没した六畳間のヘリにしゃがみ込んで、声を掛けてくる。声には呆れが滲んでいる。

「そんな水に潜ってばっかりでどうするわけ?」と言う彼氏に、わたしは「仕方ないじゃない。もう水の中に沈んじゃったんだから、嫌でも潜るしかないんだもの」と答える。実際、わたしだって好きで水に潜っているわけでは全然ない。ただ、潜らないことには水没したものを引っ張り出してくることはできないのだ。当たり前の話だけれど。

「そうやって水に潜ってばっかりだから、こんな風に部屋もまるまる水に沈んじゃったりするんでしょ? それで、今回はなにを拾ってきたの?」

「え、なんだろ? まだ見てないけど」

 彼氏に訊かれてみてようやく、わたしは自分が水の底から引っ掴んできたものをまじまじと見る。銀色の筒状のなにかで、密閉容器のように見える。これならひょっとしたら、中に入っているものは濡れていないかもしれない。

「タイムカプセル、とかかな? なんかそんな雰囲気。どこかにタイムカプセルを埋めたような覚えはないんだけど」

「覚えもないようなものを拾ってきてどうするの? なにに使うわけ?」

「なにに使うって、そんなの拾ってきてみないと分からないよ。なにに使えるか分からないから、潜って拾ってこなきゃいけないの」

「ふーん、そうなんだ。俺にはよく分かんないけど」

 彼氏は興味なさそうに首を振ると、立ち上がって「じゃ、俺もう行くけど頑張って」と言う。わたしが「え?」と訊き返しても、もう返事もせず、振り返りもせず、そのまま部屋を出ていってしまう。

 ああ、これであの人はもうたぶん戻ってこないんだろうなと、わたしはなんとなく理解しているのだけれど、なにしろ水着だし、まだ首まで水に浸かっているしで、すぐに後を追いかけることもできない。

 どうしようかと、わたしは10秒くらいだけ考えるけれども、他にできることもなさそうなので、大きく息を吸って、止めて、また水に潜る。深く深く潜っていく。

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