わたまでを読んだので
たとえば突然に恋人から別れを告げられるとき。なにしろ突然に恋人から別れを告げられるときの話をしているわけだから、それはもちろん突然ではあるんだけれども、言葉にされてしまうよりも一瞬はやく、あるいはもうすこしは手前の段階で、恋人の口から別れの言葉が出てくるのだろうなということが予想できてしまっていたりする。
これまで何気なく聞き流していたちょっとした言葉や、些細な違和感、無理に目をつぶれば無視することもできなくないような不自然な態度なんかの積み上げられてきた伏線が、いっぺんにひとつの結末に向けて収束する、そういう瞬間がある。
予測してから実際に言葉を耳にするまでのほんの数瞬、ながくても数秒程度のその時間のうちに、わたしの心は素早く耐ショック体勢をとる。完全に不意をうたれてしまわないように、ある程度の心構えをする。
でもそれと同時に、次の瞬間に恋人の口から出てくるのは実は別れの言葉なんかではなくて、なにかの嬉しいサプライズの前フリで深刻そうな気配を滲ませているだけなのかもしれないなんていう風に期待してしまったりもする。普通に考えればそんなことはあるはずがないのに、完全に完膚なきまでに否定されてしまうまではつい希望を抱いてしまう。
そして、そんなわたしの希望や願望とはまったく無関係に、順当に恋人の口からは別れの言葉が語られ、物語の筋道は確定され、わたしは直前のほんの数瞬に抱いた馬鹿らしい願望をすっかり忘れてしまって、したり顔で「ああ、やっぱりな」と思ったりする。
思った通りだ。予測した通りだ。こうなることは分かっていたと、まるでそれ以外の可能性なんてすこしも考えてはいなかったみたいに、なにも期待したりはしなかったみたいに、事後に合理化してしまう。そうすることで、自分が受けた衝撃をどこかに受け流したり分散したりできるのだと信じているのかもしれない。
あるいはひょっとすると、そういった惨めな足掻きも多少は効果があったりするものなのかもしれない。自分はそれを予測していたと思うことが、驚いてなんかいないと自分自身さえも騙してしまうことが、すくなくとも表面的には冷静に振る舞うことの、その一助くらいにはなっているのかもしれない。こういった瞬間的な感情の動きは、自分でも意図してやっていることではないのだから、対照して比較してみることもできないので本当のところは永遠に謎なんだけれども。
ともあれ、わたしは自分に言い聞かせる。これは別になにも予想外なんかではない。この結末に至る伏線はもっと手前の段階からたくさんあったし、わたしはそれに気が付いていたし、ちゃんと予測ができていた。だから、わたしは驚いてなんかいないと。卑しいを期待してなんかいないと。
予想できていることが、予測できていることが、衝突の衝撃を緩和してくれることなんてあるわけないのにね。だって、くることが分かってたって殴られれば痛いに決まっているし、ナイフを振り下ろされればちゃんと刃は刺さるんだから。
すべては事後の合理化に過ぎなくて、実のところ、わたしは恋人の口から出てきたグーグルで検索して一番最初に出てきたマイクロソフトオフィス用の例文みたいな、どこかで聞いたようなステロタイプな別れ話にびっくりしているし、傷付いてもいるのだ。
でもまあ、なにしろ生きていかなければいけないのだし、生きていくためにはなにはなくとも自分自身を、その自尊感情みたいなものを守らなければならないので、傷付いてなんかいないってことにしたほうが都合がいいこともある。
で、これがなんの話かっていうと斜線堂有紀先生の「私が大好きな小説家を殺すまで」を読んだ感想文なんですよ。分かりませんよね。わたしもよく分からないんですけど、なんかそういうことを思い出したんです。ただのわたしの個人的な情動であって「私が大好きな小説家を殺すまで」じたいはこういった話では全然ないです。
まあでも、なんかこんな風に自分の中の痛くて辛くて大きな感情をぐわんぐわんに揺すられたので、みんなも読もうね。すごい小説です。
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