宇宙を視界の奥に据えて物事を見れば、どんな壮絶な出来事も、些細で、取るに足らない、心が動かないものになるでしょう。つまりは'宇宙のサイズで見れば、こんな出来事は取るに足らないものだ"と言い聞かせることです。
そのような視点を持つことは辛い出来事に立ち向かう際には一種の手段になり、私自身もよく使うのですが、時々それによって衝撃が緩和されすぎて、寂しさに襲われることがあります。
この作品の主人公である「ぼく」は星空の見える秘密基地を居場所として手に入れますが、彼は視界の奥に宇宙を持ちません。目の前の出来事がもたらす衝撃の奥に宇宙を見るのではなく、苦しみながらも、人間が真剣に戦う姿勢、というものを体現しています。
ぼく、佐伯さん、隆聖、じいちゃん、母さん、父さん、それぞれの人生にそれぞれの喜びと悲しみがあり、点と点で瞬く星たちが、時に叫び、時に諦め、時に抗い、時に連なり、線を結ぶ。心を打たれました。
親や社会から守られる立場である、"子ども"という小さき者ゆえの純粋さは、時として何よりも鋭く、人の心を動かします。その精神は幼い部分もあるけれど、決して未熟なわけではない。必死の戦いに年齢は関係無い。
物語の最初に語られる「花瓶を割る人」という本質論は刻まれて忘れられないものになりました。物の見方が一つ広がった感覚があります。読む人の心を豊かにするという、私自身が人生をかけて生み出したいと思っているものが高次元でここに在って……。ここにこの作品が公開されているという全ての事実に感謝します。ありがとうございます。
余談ですが、隆聖くんと似た境遇の人物が身近にいるので、より物語に引き込まれました。浅原さんが描く人物は、"命を生きている"ので、とても魅力的です。浅原さんの作品を読むと毎回思います。創作って凄いなあ、と。
読み進めているうちに悲鳴と歓声がこみ上げてきて、ラストに近づくにつれて交互に叫んでいる状態でした。脳内では「あああああ」と文字が浮かび、口からは「うっ」と嗚咽が漏れました。
素敵なものをたくさんもらいました。ありがとうございます。
少年時代の『ぼく』を、大人になった『僕』が振り返る形で綴られていて、その距離感が優しいのです。『僕』の目線がなくダイレクトに『ぼく』の姿が描かれていたなら、私はきっと、辛くて直視できなかったと思います。
また、『ぼく』を回想する『僕』を見守る読者の私、という関係性を独自に築くことができる読み心地がとても好きでした。今の『僕』にしか分からない深い部分を、読み手だけが『僕』と共有できるのです。涙が出るほど感情移入している相手と秘密のやりとりが成立したみたいで、読んでいて何度もハッとしました。こんなに嬉しいことはありません!(うまく伝わっていなかったらごめんなさい)
そんな『ぼく』とその周りの人々との複雑で深刻な心の交流が、真っ向から描かれています。
そして「ハム」です。ハムなんです。
何気なくポロっと出てくるハムの話に、涙が止められなくなりました。あれだけの想いが詰まったハムという言葉を、私は他に知りません。ありふれたハム、だからこそかけがえのないハムなんです!
物語で描かれていない部分でも、誰もが確かに生きていたという歴史が随所に根付いていて、何人分もの人生を追体験させてもらったような重みと厚みを感じました。
面白かった、感動した、という気持ちを超越して、素晴らしいものを読ませていただいたことへの感謝ばかりが溢れてくる読後感でした。
どうもありがとうございました!!
拝啓 花瓶を割ったきみと、君へ。
不躾ながら手紙を書いてしまうことを許してほしい。
勢いのまま書き殴るから、きっとおかしな文章になる。
ぐだぐだと長ったらしく書いてしまうでしょう。
笑って読み流してください。
君が物語るきみの秘密基地の思い出は、
とても長いように感じられたけど、
実際には1年にも満たない間の出来事で、
私は君の話に2時間半、付き合っただけだ。
とはいえ、9歳から10歳にかけてのその時間は
大人の私がいま体感するよりもずっと長いから、
きみの物語にぴったりと付き添った私は、
2時間半よりもっと長く君と語らった気分になっている。
1997年に小学4年生だったきみは、私の弟と同い年だ。
ポケモンは私がグリーン、弟がレッドを買ったよ。
ゲームボーイとミニ四駆に、電池はすぐ使い切っていた。
テレビもパソコンも、すっごいゴツい箱型だったな。
環境問題のテーマの中には、今では聞かないものもある。
ダイオキシン、フロンガス、酸性雨、環境ホルモン。
私は温室効果ガスの話が怖くて、エアコンが苦手になった。
各学校にあったごみ焼却炉は、だんだん消えていった。
あのナイフによる凶悪な少年犯罪のショックは、
被害者と加害者の同世代である私たちの記憶に
本当に強烈に刷り込まれているみたいだね。
猫、私も少年犯罪の象徴として書いたことがあるもの。
10歳というのは、気付き始めるころなんだと思う。
自然に気付くわけじゃなく、順調に大人になるわけでもない。
花瓶を割って初めて、自分が壊したものの正体に気付く。
自分が壊したという事実に気付いて、現実を知り始める。
きみがうっかり割ってしまったものは、悲しくて大きい。
きみが自分から割ってしまう事実は、大人の胸に刺さる。
花瓶を割って、割った破片を集めて、きみの手は傷付いて、
きみは偽る術も知らないまま、痛々しい真実に向き合った。
言葉を換えれば、不条理という言葉を知ってしまうのが
10歳前後なのかなと、きみを見ていて思った。
不条理なんて言葉は当時は知っているはずもなくて、
大人になって振り返るから出てくる表現なんだけど。
ボロボロの花瓶を持たない人は、きっといない。
花瓶のサイズや花瓶との関わり方は人それぞれだろう。
割れないように、割らないように、必死に守る人もいる。
一思いに割らなければ、にっちもさっちも行かない人もいる。
じいちゃんは、いい先生でしたか?
「はい」と答えられるなら、手応えのある人生でしょう。
正しいだけの人生じゃなくていいんだと、私も思う。
四角四面の薄っぺらい人生なら、最後に一体何が残る?
何事にも必ず終わりが来ることを、きみは学んだ。
勝手に来てしまう終わりも、自ら告げる終わりも、
いずれにしても形あるものは終わってしまうのだと、
終わりを認め切れずに人は苦しむのだと、きみは知った。
時間は最強でしょうか?
うなずきたくない私がいます。
忘れることに怯えて、まだうまく前に進めないことがある。
忘れないために、記憶という記憶を文字に起こそうとする。
大人になるにつれて、見栄の張り方を覚えて、
知恵を付けて、ごまかし方を学んで、狡くなって、
そうでなければ世の中を渡っていけないとわかっていても、
たまに、心の柔らかいところに刺さってくる何かに出くわす。
泣きたい衝動のままに泣けばいい。
暑苦しいスーツを選んだ大人の見栄をかなぐり捨てて。
子どものころには感じ取れた形のない教訓が、
時の流れの中で風化しないように、君は泣けばいい。
きみが見たそのままの景色を私は見たことがないし、
きみが抱えた複雑な家庭事情は想像も付かない。
比較できないほど苦しかった彼と母ちゃんの関係も、
じいちゃんが抱え続けた闇も、私の知らない人生だ。
きみを「かわいそう」だと思ったよ。
彼もじいちゃんも「かわいそう」だと思ったよ。
私のことも「かわいそう」だと思ってほしいと思ったよ。
最近の道徳の授業は評価式らしいから、バツをもらうね。
えっと、とりとめのない文章になるのがわかっていたけど、
何か、予想していたのよりずっとしょうもないな、これは。
ほぼ同世代の小4なのに近所にコンビニあったんだ、
という衝撃を受けた私は、超が付くほどの田舎育ちで。
だから、星空はものすごく綺麗だったよ。
視力の低い私の目にも、天の川が見えた。
星座は覚えられなかったけど、宇宙は今でも好きだな。
あのころ大切な場所で見た星空は、私も忘れたくない。
君の今が幸せそうで何より。
君の花瓶が、ヒビの入りにくい素材であることを願う。
いくつか入ってしまったヒビさえ大切な模様なんだと、
やがて訪れる終わりのときに言ってくれることを願う。
ああ、本当にとりとめがなくなってきた。
ノスタルジーをどうしようもない。
無駄にLv.99まで育て上げたマダツボミを弟の誕生日に贈ったのは、
もう何年前の出来事になるんだっけ?
秘密基地の思い出は私も持っているよ、と教えたくなる。
君が実在の人物ではないことは、もちろん私もわかっている。
でも、良質の読書というのは、こんな手紙を書きたくなるような、
仮想の人間関係や思い出語りを体験することじゃないかな。
君ときみの秘密基地に招いてくれてありがとう 敬具。
率直に言います。泣きました。何回も胸が締め付けられました。このクオリティのものがネットで読めるのかと感動しました。
この小説は、家庭環境に問題のある子供たちが出てくるお話ですが、それだけではない親子関係や友情や恋、大人と子供、様々に訴えかけてくる作品です。
子供たちも大人たちも様々な思いを抱えて生きている。そんな一人ひとりの謎や物語が解きほどかれるにつれ、深い人間ドラマに打ちのめされます。
大人になるというのは、そういういろんな視点で物事を見て、それについて考えることから始まるんじゃないかと少し考えたりして。
きっと私たちは誰もが「秘密基地」を必要としている。それは心を開き安らげる場所で、大人になった私たちは秘密基地で休むだけじゃなく、次の世代に秘密基地を与えてあげなくてはいけないのでしょう。
うまくまとまっていない点はご容赦ください。
感想:
小学生にしてはちょっとませている主人公の少年期にあった初恋と人生の恩師との出会いを描いた作品。置かれている家庭的な環境が僕ととても似ていて、僕もそんな両親の「かすがい」として中学生くらいまでいた。そんな家庭だからこそ抱く不満や葛藤は非常に共感できたし、何よりも小説で重要なキャラクターへの感情移入が今まで読んできた本の中でもかなりできた(置かれている立場が自分と近かったということもあるだろう)。
「ヒビの入った花瓶」は作中における重要なキーフレーズであるが、人はこの今にも割れそうな心の花瓶をいろんな人がつついてヒビを入れている。だけど、責任は最終的に壊してしまった人にあるって思いがち。そう思っている当人だって大きなヒビを入れていたのかもしれないのに。人はその花瓶が家族、恋人といった大事なものほど、割ることが怖いと感じる。でも、どんなに大事なものでも普遍的に続くものではない。だから、限界に到達していても、正気を失ってでもその花瓶を割らないようにする。自分も助言をしたつもりが、それがその人を崩壊させたような経験がある。助言をした僕は当然のように責められた。なぜそんなことを言ったのかと。でも、この作品を通すことでその人も割れそうだった花瓶をただ必死に守っていたんだと思った。だって、その人も今はあの時の言動を理解してくれているし、あの時の僕の行動、言動に感謝をしてくれているわけだから。
親友だからこそ、他の人には働かないくらいの想像力が働いて、勇気ある行動に移せたのだと思う。そういう思いを再認識できた。
どうなることだろうかと追い続けた物語が終結した今、知らずのうちに大きな溜息が出ました。
それはもう大きな、感嘆の溜息です。
この物語には、厳しさや正しさ、そして優しさの渦巻く社会の中での人と人が丁寧に描かれています。人は否応にも、他人と関わらずには生きていけない。それは辛く、美しく、哀しく、嬉しいことなのだと、本作品を読んで痛感しました。読んでいて込み上げてくる感情は、一種類ではありません。
また、現在の「僕」が過去の「ぼく」の時代を振り返るという形の文章は妙技です。これがまた、作品の完成度合いを二倍三倍にも格上げしているように感じました。
過去は美しいばかりじゃないけど、それが無ければ現在は無い。
すべては今につながっているのだと胸に沁みいる作品でした。