純文学というコンテンツは、果たしてオワコンなのか!?

婆雨まう(バウまう)

第1章 小説は文章の技巧を問うものではない。

第1-1話 文盲な君に贈る、小説というものは文章の技巧を問うものではない。

 松山千春さんが、やしきたかじんとの、セッショントークで、歌が上手な人はたくさんいる。でもオリジナルとはいえない、個性のない歌い手では魂を打つことはできないと言っていた。


 小説もそうかもしれない。「人称が…」とか「視点が…」「小説作法が…」とか、そういう技術的な細部を競うものではないのかもしれない。


 大事なのは技術的なことではなく、いかに読者の魂を打つことができるかどうかであり、…とてもシンプルなところに答えは行き着くのだと思う。 


 よくワナビは、技巧的な部分を追求する余り、話の論点がずれ、その部分だけに疑問が集中して、小説批判を繰り返しますが、そうじゃないのかもしれないって、松山千春さんの対談を聞いて思いました。


 自分の書いた文章で、いかに読者の魂を打てるかどうか。心の奥深いところまで届くかどうかが問題なのであり、多少の文章の不具合は、二の次だと改めて思いました。


 太宰治は、小説は、りんごを包丁で2つに割った、その切り口を競うものだということを言っていたような気がします。


 縦に割るか、横に割るか。それともスライスして、斜めに、りんごを割るか。切れる包丁で、すぱっと1度に鮮やかに切るか。それとも錆びた包丁の刃で、りんごをギザギザに割るか…。


 小説というのは文章の技巧を問うものではなく、小説作法を競うものでもない。オリジナルの切り口、表現方法を競うものではないかと、ふとそんなことを思いました。


  平沢沙里さんが、以前、こんなことを語っていました。

 小説というのは文章の技巧を問うものではなく、小説作法を競うものでもない。

 これを料理に例えると、料理とお皿、盛りつけの関係に似ている。


 いくら見栄えの良いお皿で料理を綺麗に盛りつけても、お味がマズければ意味はないし、逆にいくらお味が良くても、合わないお皿で汚い盛りつけというのも料理としては成り立たない。


 作法・技法も読み手の魂を打つため「伝える」ための1つの手段に過ぎず、それだけ単体で物事を語ることはできない。


 そこだけを問うのは、たしかに本末転倒ですね。

 たしかに、その通りだと思います。

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