第2章 文学について語りませんか?

第2-1話 純文学の時代は終わりを告げたのか?

 純文学は完全に、スポイルされた。

 何事においても、市場原理、原則、現象は、末端になればなるほど顕著に表れやすい。


 無駄なものは、はじかれ、不用な物から市場から消え去る運命にある。

 たとえば自分は、ヤフオクで、おもちゃを売っていますが、おもちゃというのは実生活に関係なく、生活必需品の衣食住とはかなり遠い位置にありますので、不況になれば真っ先に売れ行きが、がたっと落ち、売れなくなります。


 生活必需品、衣食住の3原則の主力商品ですら、この不景気で、売れ行きが悪いと嘆いているわけですから、衣食住に直接関係のない、おもちゃは、不況の波をもろに受けやすい傾向にあります。


 衣食住に直接関係がある、食において。

 コンビニの買い物や、レストランでの飲食でさえ、消費は顕著に控える傾向にあり、お金のない方は自炊を敢行する傾向が強くなっています。


 まあレストランで食事するのが、まったくのゼロでないにしろ、間違いなくレストランに行く回数は減る傾向にあるでしょうね。


 さて、純文学の時代は終わりを告げたのか?

 文学、創作について、思ったこと。

 あんなことや、こんなこと。


 感じたことを書き留めていきたいと思います。

 情報は随時、追加、更新されます。


 なぜ文頭に市場原理を書いたかというと、純文学の世界にも同じようなことが起きているからです。


 なにを言いたいかというと、純文学の世界も、無駄や需要のないものから縮小される傾向にあり、時代にそぐわないものも、当然、排除されるトレンドを伴っているからです。


 その具体的な現象については、後半、事象を伴って説明したいと思います。

 連載というわけではないですが、思い立った時、なにか気付きがあったとき、記事を追加したいと思います。更新時期は未定です。 


 さて、まず最初のお話は、【純文学は、本当にオワコンなのか?】という、けっこう文学を冒涜ぼうとくしたような内容になっています。


 私は、最近、若者は純文学を欲していないのではないか、純文学を認めていないのではないかという思いにとらわれています。


 文学というのは、大衆に受け入れられて、ナンボです。

 どんなに学者や出版社が、ごり押ししたところで、それに大衆が応じなければ、それは文学と呼べるモノとは程遠いのではないか、そう思うようになりました。


 カクヨムを初めて、ある気付きがありました。

 カクヨム利用者の利用年齢層が、ヤング・アダルトに集中しているせいもあるのでしょうが、登録してる作品、よく読まれる作品が純文学以外の、ラノベだったり、BL(ボーイズラブ)、GL(ガールズラブ)だったり、ファンタジーものだったり、エッセイだったり、創作論だったり。


 詰まるところ、純文学の需要は、あまりないんじゃないのかなっていう、極めてアングラな結論に辿り着いたわけです。


 さて、またしても話題は変わりますが、のっけから競馬の話で恐縮ですが、競馬には鉄板狙い、中穴狙い、大穴狙い。この3つの攻め方、手法がある。


 鉄板狙いは、がじがじに固い、1.5倍から2倍くらいの高倍率に、厚くふだを入れる、やり方で、ローリスク・ローリターンな配当です。


 なので、1度に大金を稼ぐためには、1.5倍のレースに200万とか、5000万とかを突っ込んで、それぞれ軍資金を300万、750万とかにして元手を確実に増やします。


 対して大穴狙いはというと、倍率45倍とか、100倍とかのレースに10000円とか、200000円入れて、1万円の元金を45万、900万とかにする方法です。


 こちらは、ハイリスク・ハイリターンで、当たる確率が少ない割に、1度でも当たれば、何十回分の負けを1度に取り戻せる、ギャンブラー好みの配当になっています。


 競馬ですので、所詮は馬畜生うまちくしょうの、かけっこなので、鉄板も、けっこうな頻度でこけるので正直、面食らいます。なので、どのレースも、ギャンブラーにとっては、かなり激しいレースになることは言うまでもありません。


 記憶に残るレースでは、大本命の馬が、レース途中に骨折して棄権したなんていうのもありました。もちろん、軍資金は戻ってきません。すべて競馬の主催者、JRAに飲まれてしまうわけです。この時点で、かなりの万券が、一瞬で溶けるわけですから、ギャンブラーにとっては穏やかな時間ではありません。


 ギャンブル、宝くじは、大きく勝った時点でやめるのがセオリーで、そうすれば、必勝とまではいきませんが、必ず勝って終わることができます。つまりギャンブルは確率の悪い貯金と同じなんですね。


 賭けた軍資金が、あるとき、少しだけまとまって戻ってくる時がある。要はそこでやめられるかどうか、未練を断ち切ることができるかどうかが、ギャンブラーの運命を左右する。


 戻ってきた賭金かけきんを貯金せず、また軍資金として次の賭金かけきんの原資にしてしまうから、結局は、すべての財産を没収されてしまうことになるのです。つまり、オケラになるわけです。


 文学も、これと似たようなところがあり、人気のある、需要の多いジャンルを狙い、そこをターゲットにして釣り針を落とすか、それとも人気のない、比較的、アングラなネタを掘り下げて小説に落とし込むか、この2つに大きく攻め方は分かれるように思います。


 さて、お話を本題に戻しましょう。

 今日は、純文学のお話をします。


 私は純文学のジャンルで幾つか小説を書いています。

 最近、あることに気付きましたので、カクヨムに問題提起することにしました。 


 それは、【純文学の時代が終わりを告げてしまったのではないか?】ということと、【これから純文学はどうなっていくのか?】。そして、【純文学というジャンルは、現代の若者に必要なのかという問い掛け】です。


 むかし、それもかなりの昔。

 バッハや、モーツァルト、ビバルディーが活躍していた時代は、そもそも、クラシック音楽がポピュラーな音楽の第一線で、クラシック以外を聴く大衆は皆無でした。


 右を向いても左を向いても、若者も年寄りも、老若男女問わず、当時は、クラシック音楽で酒を飲み、ロックしたそうです。


 当時、もし、ラップ・ミュージックや、メタル的な音楽が存在していたなら、間違いなく、大衆からキチガイ扱いされたでしょうし、音楽を冒涜ぼうとくしたサタンな音楽ということで、大衆の非難を受けたことでしょう。


 それから、だいぶ時を得て、ポップスやロックが台頭し、ブラコン、レゲー、ラップ。そしてジャズ、ヒーリング・ミュージック、フージョン、演歌、ニューミュージックなんていうジャンルも市民権を得ました。


 ミュージック・シーンが、時代とともに大きく変遷していくように、文学も純文学にマンガを融合させたようなものが現れ、そしてラノベへと大きく舵を切ります。


 実際、月刊誌である文芸誌も、ここにきて需要の数がかなり減っているようで、これはかねてからある大手の文芸マガジンが、若者に受け入れられていない証拠でもあり、若者に支持されていないことが売上減少の最大の理由だと思われます。


 時代は、いつの世も、ニューカマーを待っていて…。

 いつの時代も必ず終焉があり、幕を閉じるようにできています。


 音楽の世界でも、蓄音機が、エジソンの発明により世に出回り、そしてレコード、CD、ミニ・ディスク、レイザーディスク、ウオークマン、ラジオ、ステレオと、時代と共に歩みを変えてきたように、市場というのは何時の時代も動いています。


 色々な記録媒体、それを再生する電化製品も改良、改良に明け暮れ、日進月歩していくように、文学の世界も1つのところに、とどまることはあり得ないのかもしれません。


 私がなぜ、【純文学の時代は終わりを告げた】と言っているのかと言うと、純文学のジャンルは、カクヨムの読者数、PV数、市場が、エッセイやラノベと比べ、10分の1程度の市場しかないように思うから、だから言っているのです。

 《2話へ続く…》

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