第10話「陣地防衛戦」

「まあ、いつかはばれると思ったが。口止めはあまり意味がないようだったな」


「いいや。あなたの顔見知りの兵は、いささかも口を割りませんでしたよ。で、この続きはどうするつもりですか? まさか、私たちを全員闇に葬るなどとは考えておりませんよね」


「ふむ」


 ヒューズ大佐はルテリエの言葉に首を傾げ黙った。


 あたりにしばし張り詰めた空気が流れる。


「いやいやいや、やめましょうよ。こういう状態で冗談は」


「確かに。今、貴殿を討ち滅ぼすということは、国家に弓引くことと同じだな」


「少しでも私を認めてくれているのなら、こういうことはやめて欲しかったんですけどねぇ」


「致し方ない。戦車隊には馬が必要なのだ。そもそも、送ってこないそちらが悪い」


「計算上は、充分なほど馬匹を回しておりますが」

「騎兵部隊より少ない。あきらかに」

「あのですねぇ」


 いうなれば、これはほとんどメンツ争いのようなものだ。戦車隊と騎兵隊はルミアスランサ軍において攻撃の要であり花形だが、仲が悪いのは聞いていたが馬匹を強行的に奪い合うほどになっていたとは、余程のことだ。


(所詮、前線に出ない私たちには理解しえない溝が両者にあるのだろうな)


 とはいえ、そんなことを許していたら軍の秩序は保てないし、このまま放置しておけば必敗の要因になりかねない。


 放置しておくこともできなければ、向こうも自分たちをどうしていいか扱いかねているのは、騎兵から向けられていた殺気が弱まっていくことで察せられた。


「同じ戦友ではないですか。融通し合って、というわけにはいかないのですか?」


「部下が承知しない。隊の秩序をあれしきでは保てない。ならば、こっそり順番を変えるのも戦場の習いであろう」


「そりゃ強盗っていうんですよ。ひと昔前ならともかく、共喰いは軍法会議もんですってば」


「儂の若い頃はなんら問題はなかったのだがな」

「もう時代は変わったんですよ」


 この老大佐はすでに齢五十の半ばと聞く。数十年前は押し借りなど無法のうちに入らなかったのだろうが、近年軍規が厳しく定められ、かつて当然のように行っていたことは許されなくなっていた。


「シャンポリオン中佐。貴殿の手腕はこの身にひしひしと感じている。現に、欠乏があたりまえだった物資の潤沢な輸送は今の若造には理解できないだろうが、髪に霜が降りるような儂の年ではどれほど大変なことか骨身に染みる。それをわかっていて、我が戦車隊へと優先的に馬を回して欲しい。それさえあれば、我が隊はなおも武功を上げて国家に報いることができるのだ」


 ルミアスランサの戦車とは、文字通り軍馬二匹が箱型の車両を引き、四名の兵士を中央に据えられた弩を連射しながら敵軍に突入し、手綱を持たない後方のふたりが矛を使って陣を破壊するという強力な役目を担っている。


 スピードにおいては騎兵には劣るが、攻撃力においては凌駕しているであろう。そのためか、消耗も激しければ自尊心も相当なものだった。


「議論は平行線だな」


「いやいや、大佐は折り合うつもりないでしょうが」


「ならば、騎士として方法はひとつ。あとは、いうまでもなかろう」


 馬上のヒューズ大佐は腰の長剣を引き抜くと、素早く左斜めにだらりと下げ、いつでもこちらに向かって来られるよう右手で手綱を握り直している。


「中佐どのっ」

「ああ、もうわかってるよ。来るな来るな」


 後方からシェリーがダッシュで駆けつけてくる足音が聞こえた。


「たぶん、あなたのことだからそういうと思っていましたけど。ほかに、なんかこう、平和的な解決方法はないんですかな」


「両者で剣をまじえ勝ったほうが負けたものにいうことを聞かせる。これほど騎士としてわかりやすく公平なものはないだろう。無論、儂が負けた場合は貴殿のいうとおり煮るなり焼くなりしてもらって構わないっ。みなのものっ。儂にすべての運命を託してくれ!」


 ヒューズ大佐の決意とともに、オーオーと襲撃兵たちから蛮声が波のように轟き渡った。


「中佐ぁ……」

「そう泣きそうな声を出すな、中尉」

「若さま。ここはおれが行きましょうか」


 今しがたやりあっていたばかりのオールウッド兵長が荒い息を弾ませながら馬を寄せて来た。


「そうして欲しいのは山々だが、それじゃあ勝っても向こうがいうことを聞かんでしょ。第一、おまえがやったら殺しちゃうし。いいよ、ふたりとも下がってて」


 ルテリエはシェリーと兵長を下げると、観念したかのように馬を前に進ませた。


 兵たちは、ふたりを放射状に包むと、たちまち幾つものかがり火を作ってどこからも見やすいようにした。


 相対するヒューズ大佐は数々の武勲を打ち立てた古豪であり、年さえ食っているが経験や武技は伝説的なレベルに達しているだろう。


(腹を決めろ。やるしかないんだっ)


「一剣、馳走仕ります。大佐」

「いざ、まいられよっ」


 勝負の潮合。ここに極まった。


 ルテリエはカッと両目を見開くと、喉の奥から火玉のような呼気を吐き出しながら馬を駆けさせた。


 対するヒューズ大佐も応じるように突っ込んでくる。


 風。

 頬に鋭い風の痛みを感じた。


 馬上の剣による戦闘は槍とは違い、相当に距離を詰めて戦わなければ刃が届かない。


 声。


 腹の底から絞り上げるようにして、怒声をぶつけるように吐き出した。


 ルテリエは間近に迫った鬼気迫る大佐の血走った眼光を睨み返しながら上段に構えた剣を水平に振るった。


 きーん、と。


 澄み切った金属の軽やかな音が天高くまで鳴り響いた。


 ほんの一瞬の勝負であったがルテリエには永劫のときのように思えた。


 両者の騎馬がすれ違って駆け抜けたとき、黒鹿毛に乗っていた大佐の身体が

 ぐらり、と。

 崩れ落ちた。


 それがコマ送りのように兵たちには見えたのだろうか。


 同時にワッと割れんばかりの興奮しきった声が津波のように湧き起った。


 胸の甲冑部分をしたたかかに叩いたはず。未だ振るった腕が痺れるほどの手ごたえだった。


「まあ、なんとかこれで面目は保てたかな?」


 向こうは躊躇なく頭部に振り下ろしてきたことに、関して「ズルいな」と見当違いな不満を持てる程度に余裕があったのは、それだけルテリエの剣技が卓越していた証拠でもあった。


 ほとんど飛びつかんばかりに絶叫しているシェリーや仲間たちを振り返りながら、ルテリエは亀裂の入った剣身を眺め、ふうと籠っていた呼気を長く吐いた。






 かようにして、敵だけではなく飢狼のように物資を狙う味方の軍までに配慮しなくてはならず、ルテリエの気の使いようは、刻一刻と摩耗していった。


 このままではいくさが終わる前にこちらが終わる。


 幾度軍列に加わって敵兵に突っ込んで砕けたら楽になれるだろうかと、書類の山と格闘しながら、頭から火が出そうなほどの日々を過ごす。


 そして、秋の気配が訪れかけたとき、ついに決定的な勝報が駐屯地にもたらされた。


「聞いたか、ルテリエ! 本軍がついにエトリアの芋食いどもを国境線の向こう側まで弾きだしたぞ!」


 伝令の首根っこを引っ掴んで天幕に駆け込んできたシェリーに浮かぶ満面の笑みを見て、そばにいたフロランスの手を引き踊り出して、強烈な怒りを買ったのも笑い話である。


「あはは、飲んだ飲んだ。たまにはハメをはずしたって、いいよね」


「そうだな」

「そうですね」


 りーりーと鳴く秋の虫の雅な音色に目を細めながら、ルテリエは自分のベッドでシェリーとフロランスに両脇を固められるという奇妙な状況に陥っていた。


(なんぞ、これ?)


「ちょっと待って欲しい。これはいったいどういう状態なんだ」


「わたしがおまえの部屋に様子を見に来たら、この小娘がベッドの毛布に潜んでいたのだ」


「あたしはただ、ルテリエさまのベッドメイクをしていただけです」


「あ、あの」


「しゃあしゃあとよく嘘がつけるものだ。さすが街育ちは違うな」


「お褒めに与かり恐悦至極ですぅ。じゃ、空気の読めない方はとっとと消えていただけます」


「それはできない相談だな。わたしはこ、こここ、婚約者であるルテリエを守る義務が」


「あ、それは嘘だってバレてますから」


「ううう、嘘じゃないっ。嘘じゃないからな。な? な、ルテリエ?」


「や、嘘は嘘だから」

「ルテリエーっ」

「だからな、おまえたち」


「くすくす。じゃあ、道化はすぐにも消えるそうですので、ルテリエさま。のんびり朝まで夜語りなどいたしましょうか」


「なにを風情のあることをっ。つがうことしか考えていない下賤な女めっ」


「そ、そんなこと考えていないもんっ。流れでお情けを頂こうなんて、これっぽっちも!」


「怪しいのだっ。というか自白してるじゃないかっ! 帰れ!」


「いーやーでーす」


 のんびりした空気が朝まで延々と続くと思われたとき、天幕に血だらけで転がり込んできた男の叫びで、状況は一変した。


 すなわち、突如として近くに現れた多数の敵勢である。





 

 主要な将がひとりもいない駐屯地においてルテリエの権力は絶対である。


 この場合、ルミアスランサ軍十万の生命線でもある全物資はこの場所に集められており、ここを占拠、あるいは焼き払われれば、先ほど耳にしたばかりの大勝も不意になるばかりではなく、続けざま周囲を囲んでいる各国が雪崩を打って攻め込んでいる可能性が非常に高い。


「敵影の数はおおよそ五千。旗印から察するにエトリアのシュヴァロフ将軍かと」


「シュヴァロフ侯爵か……猛将だな」


 伝令は傷ついた身体をタンカの上で横たえながら途切れ途切れに喋った。


 ルテリエは素早く頭のなかから酒を追い出すと、夜半まっしぐらに駐屯地目がけて向かってくる敵を思い唸った。


「すまない、苦しいのはわかるがもう少しだけ頑張ってもらえないか。主な兵種は?」


「それが、ほとんど歩兵ばかりなのです。私が逃げ切れたのは……そういった意味もあって」


 瞬時にルテリエは察した。


 敵は、大いなる痛手を受け退いたのち、一発逆転の目を狙って虎の子の精鋭を引き抜き、兵糧物資が留めてある根拠地に乾坤一擲の勝負を挑んできたのだ。


 この場所は、前面を扇のように無数の砦とルミアスランサの兵一万が守っているが、唯一北のザクス山系だけが天然の壁となっていて手薄だった。


(だから敵兵は残らず歩兵なのか……! が、なんであれ、ここが危機なのは変わりないな)


 敵のシュヴァロフ将軍が率いる兵は騎兵がなくとも剽悍で粘り強い。


 夜通しの山越えを終えたのちに、休息も取らずに突っ込んでくることで、その強い意思と信念が見て取れた。


 おまけに、駐屯地には物資輸送のため兵のうち二千を随伴させており、間の悪いことに千余騎ほどしか残っていない。


「みんな、贔屓目に見て残った兵で敵将シュヴァロフの精鋭に打ち勝てると思う――ああごめん無茶なこと聞いたね」


 天幕のなか、居並ぶ士官たちが一斉に唇を噛んだり目を逸らしたりしている。


 ――本来、輜重兵に回されるものは正面切って敵本軍と戦えない落伍兵や傷病人及び老兵で構成されている。


 今まで戦ってきた敵はロクに武装もない野盗や蛮族なので危なげもなく勝てたが、一級線の兵士たちと比べれば、個々の能力はてんで話にならない。


 ルテリエが計算するに、シュヴァロフの精兵ひとりは輜重兵五人に値するだろう。


 そうすると、目に見えない数字ではルテリエ隊千人は敵二万五千から命ともいえる兵糧を守り抜かなくてはならない。


「みんな。ここで死んでもらうことになる。いいな」


 その声はあくまでも平静だった。


「応ッ!」


 士官たちは示し合わせてもいないのに、ほぼ同時に気合の籠った声で応えた。


 ここを捨てて逃げるという手は軍人として男としてありえない。


 援軍の伝令は西方に飛ばしてあるが、この拠点を焼かれてから到着しても、すべては終わっている。


 駐屯地は、物資運搬を第一としているため、籠って戦うことはできず、また広大な線をわずかの兵で守り抜くことはできない。


「どちらにしろ打って出るしか手はない。総員、出陣準備!」


 戦勝を祝う宴とはいえ、出された酒はたかが知れている。


 命を受けて散り散りに飛んでいった兵たちは「先ほどの酒が末期の水か……」などとやけに陽気な態度で笑い合っていた。


「ルテリエさま……」


 天幕の外に出るとフロランスが青白い顔で棒立ちになっていた。ルテリエはわざとにこやかな顔を作ると、まるで食事にでも誘うような素振りで語りかけた。


「やあ、フロランス。君たち民間人は早く荷馬車で脱出するんだ。敵兵たちの狙いあくまで私たちの糧秣だ。離れていれば追ってくることはないだろう」


「嫌ですっ」


「フロランス、わがままをいわないで。私を困らせないでくれ」


「あたし、ルテリエさまを置いて逃げるくらいならば、兵隊さんが出て行ったあとここで死にますっ!」


「フロ、ランス……」


 冗談ではない。彼女は細い自分の喉元に懐剣を突きつけながら、焦点の定まらない目でこちらを見つめている。切っ先が薄い皮膚を破って赤い雫がつつと刃先を伝って流れた。


「ここで命を捧げて勝利を願いますっ。そうです。あたしは冗談や口先だけのことで命を賭けて来たわけじゃありません……それに」


「それに、なんだい?」


「あたしって楽天的なんですよ。きっとルテリエさまは勝ちます。勝って帰って、あたしをお嫁さんにしてくださいね? そじゃなきゃ……ほかの男にとられちゃいますよ?」


 その言葉でルテリエの腹は決まった。


「ああ、任せてくれ。君に必ず、立派な花嫁衣裳を着せて、うんとかわいがってやるからな」


「はい。かわいがられちゃいますね」


 ルテリエは力強くフロランスを抱きしめると、迷わず唇を奪った。


 はじめて触れた唇の味はあたたかな涙の味がして無性に胸が痛んだ。


「行くぞカミル。出陣だッ!」


 祈るように両手を合わせ跪くフロランスが遠ざかっていく。今はその距離が悲しい。


 しばらく馬を進めていると隣にシェリーが並んだ。


「ついていくぞ」

「あのな」


「なにもいうな。わたしはおまえの副官だからな。そして――」


 にっこりと微笑み、おまえの婚約者だと唇に人差し指を当てていった。





 ルテリエは兵を半分に分け、五百余騎を率いてこちらに向かってくるであろうシュヴァロフ軍に備えた。


 こちらが唯一勝っているのは武具の豊富さだ。全員のうち四百を騎乗させると馬を駆けさせるによい平原を選んで隊列を組んだ。


 墨を流したような夜である。


 さいわいにも空はぶ厚い雲が隙間なく覆っているので四方を見渡すことはできない。


 また、このあたりは百日近く寝起きしていた基地の近くであり地形は熟知している。


「全軍突撃――! 駆けに駆けよっ」


 馬蹄を揺るがして四百騎のスレイプニルたちが地響きを鳴らして攻撃を開始した。


 ルテリエは先陣切って弓矢を乱射しながら駆け入った。


 雄叫びをほとばしらせながら動く敵を片っ端から踏み殺し蹂躙した。


「突っ込めっ。ただひたすら駆け抜けろ」


 いくらシュヴァロフ軍が剽悍であるとはいえ純然たる歩兵と騎馬では突進力で勝負にならない。


 兵数こそ十分の一以下だが、緒戦はルテリエ率いる騎兵が圧倒した。


 ――小人数による勝負ならば一日の長がある。


 ルテリエは万余の軍を指揮したことはないが、士官学校を卒業してから各地に蟠踞する亜人種とゲリラ戦を嫌というほどやったため、こういった戦いには慣れていた。


 声の届く範囲で兵たちを鼓舞し、矢をつがえると、闇夜のなかでも的確に射って仕留めた。


 馬蹄にかかった敵兵の肉が泥をモロに踏んだかのような感触を馬上にまで覚えさせる。


 このときばかりは恐怖も憐れみも後悔もない。


 無人の野を往くように駆け抜けると、今度はそのまま歩兵の海を突っ切ってすぐ近くにあった山林に移動した。


 無論、敵たちは数に任せて追ってくるがルテリエたちは鬱蒼と茂る木々に身を隠しつつ、近づく歩兵たちを面白いように射ち殺してゆく。


 たちまち数百の兵を失ったシュヴァロフ軍の士気がわずかに陰った。


 陰りを見るや、巧みに打って出、敵が勢いを増せば引いて隠れ、それを交互に繰り返し時間を稼いでいく。


 ついにはこのような戦い方が我慢ならなくなったのか。


 敵方の将校が圧をぐっと強めた途端、後方から鐘と戦鼓の音が勇ましく掻き鳴らされた。


 これは残しておいた百の兵が偽兵を現実より大きく見せかけるための行動だった。


 闇夜にあふれんばかりの轟音はシュヴァロフ軍の士気を阻喪させるに充分だった。


「敵は動揺したぞ。今だ、打ってかかれ」


 十二分に敵が浮足立ったところを確認すると、山野から騎兵を出して挟み撃ちを行った。


 たかだか四百足らずの騎兵と百余の歩兵であったが、不意を打ったおかげか面白いように敵は倒れていく。


 が、元々が数に違いがあり過ぎた。


 雲間から月が出れば陣形を立て直したシュヴァロフ軍に抗すべきもない。


 ルテリエは素早く軍をひとつにまとめると即座に戦線を離脱し駐屯地に帰陣した。


 結果としては九百近い敵兵を倒したのであったが、さすがは奇襲のために選ばれた精鋭中の精鋭である。


 五百のうち戻れたのは百に満たず、その誰もが無傷なものはいないありさまだった。


 まさに冥府へと続く死者の列である。


「カミル」


「へへ、若さま。こんなときに限って……ドジ踏んじまいやした……すいやせん」


 ルテリエの忠僕カミルもその列に並んでいた。


 彼は、撤退時、ルテリエを狙って雨あられと斉射された矢をかばって十数カ所の矢傷を受けていた。


 顔色が蒼黒い。


 ルテリエは血の気を失ったカミルのそばに跪き、力のない手を握った。


 こういう顔はいやというほどよく見た。そして、人生というものは願ったことは思いどおりにならないし、その逆は目をつむってもさけることはできなかった。


(五分五分だ。カミルが助かるのは)


 動揺はあっても悲しみは湧いてこなかった。


 いや、そんな通念的な感傷に浸っている暇はないのだ。


 敵に一撃を加えたといっても、予想外の大勝といえど兵力の半ばをほぼ失ってしまった。


 駐屯地の周囲は空堀が掘ってあり、防備は一応に固めてあるが貧弱にして頼りないものだった。

 ここを守り抜かなくてはならない。それも、援軍が来るまでの間を。


「姫さま……若さまを、お頼みしやすぜ」

「馬鹿をいうなっ。必ず、おまえは元気になる」


 シェリーは顔をくしゃくしゃにすると、もはや目を閉じてしまったカミルから視線をはずさず拳を強く握り締めていた。


 考えてみればこの娘もついていない。


 負傷のため後方に下げれば安全だろうという兄の思惑で冷や飯食いをさせられた挙句、今やオーブンにかけられた七面鳥のように焼き上げられるのを待つだけだ。


「シェリー。まだ時間はある。負傷兵やフロランスたちを逃がす。君も逃げろ」


「まだ、そんなことをいっているのか」


 シェリーは吊っていた左腕の布きれを乱暴にほどくと当てていた木切れを弾き落とし、目の前で風が鳴るほどに振って見せた。


「腕、もう治っていたのか」

「とっくだ」


 挑むような彼女の瞳にはすでにきらりとした涙がほとばしっていた。


「とうの昔に怪我は治っていたんだよ、ルテリエ」


 飛び込むようにすがりついてくるシェリーを抱き止め、肩を射られた矢傷がぎしりと痛んだ。


「最後まであなたと戦う。わたしを、捨てないで」


 そこまでいってルテリエがまだ逡巡の様子を見せると、シェリーはだっと走って距離を取った。


 彼女は短剣を薄い唇の先に咥えて両手両足を大の字に開き、倒れ込む姿勢をとった。


 微笑んでいる。

 どこまでも凄絶な笑みだった。


「やめろっ!」


 カミルが射られたときでさえ出なかった悲鳴が喉からほとばしるのを感じた。


 素早く抱きついて短剣を引き抜く。かがり火に照らされ真っ白な歯がわずかに覗いた。


「……ばか」


「そうだ。わたしは馬鹿なんだ。だからひとりにするな」






 物資を守っての最後の攻防が始まった。ルテリエは残った将兵六百名に美酒と肉を与え、ひと息つかせると、嵩にかかって攻めかけてくるであろうシュヴァロフ軍を待った。


 はじめの野戦でも左肩と右腿、それと身体の数カ所に傷を負っている。手当はしてあったがジクジクと血は染み出し軍衣を染めつつあった。


 やるしかない。


 ここを守り切らねば、今まで心血をそそいできた労苦が水の泡となるのだ。


 ガチガチと歯が鳴っている。凄まじいまでの武者震いだった。


 鈍い鈍痛が頭の奥から消えない。


 そうこうしているうちに、眼前へと無数の炎が立ち昇っていた。

「来るぞ」



 誰ともなく、口々に呟く。柵のこちら側に伏せている兵たちは弓をつがえると、向かって来た津波のような黒い軍勢を前に凍りついていた。


「まだだ。私がいいというまで、たっぷり引きつけるんだ。ようし……いい子だ」


 南行して来たエトリア奇襲部隊が駐屯地の北門へと取りついていく。まず最初の彼らを阻んだのは巨大な板塀だった。


「斬れ!」


 ルテリエの指示と同時に板を繋いでいた縄が切って落とされた。


 とりついていた歩兵たちがゆるい傾斜を転がり落ちて空堀に落下していく。


 続けて兵たちに油壷を残らず投擲させた。


 陶器が割れる音とともに「放て」の号令がかかる。


 強い風が轟々と唸って声を掻き消していく。雲間から見えた月光の明かりが弓を構えた兵たちの長い腕をそっくり闇のなかに映し出した。


「射てッ」


 掠れた怒号が大気に吸い込まれる前、矢が残らず放たれた。


 びょうびょうと矢が放物線を描いて、油に塗れた敵兵を火達磨に変えてゆく。


 幾重もの火箭が絶え間なく降りそそぐ。


 そうしているうちに、伝令から、東西南北の門が一斉に攻め込まれたことを聞いて激しく舌打ちをした。


 敵は四千を超えているのだ。長い防御線のどこを衝かれてもこちらは不利になる。


 だが、目の前の圧は異様に強いことが肌で感じ取れた。


 間違いなく敵将シュヴァロフ将軍はこのすぐ前にいる。


「門を開けろ。イチかバチか打って出るぞ」

「了解です!」


 賭けだった。まさか敵も籠城していたルテリエが早々に門を開け打って出ると思わなかった。


 奇襲を見破られ弱兵の返り討ちに会い、今また亀の子のように砦に潜ってしまった。


 そう思い込んでいる相手だからこそ、この奇策は通用した。


 先陣を切るのは輜重隊切っての豪傑オールウッド兵長。


 彼は三メートル余はある鋼鉄製の大薙刀を振り回しながら、群がる無数の敵兵へと飛び込んでいく。


「薄汚いアリどもを俺たちの飯櫃に一歩も入れるんじゃねェ!」


 大薙刀が唸りを上げるたびに敵の首が虚空へと舞い上がっていく。


 それに続いてルミアスランサの歩兵たちが槍をそろえて突っ込んだ。


 弱兵である。


 一線では通用しないと烙印を押された男たちが、今こそ死にどきだと魂を燃やして斬り込んでいく。

 もちろんルテリエも自ら騎馬を駆って長剣を抜き、右に左に斬って斬って斬りまくった。


 息が苦しい。


 まだそれほど長い時間を戦っているわけではない。


 散らばった兵たちを呼び集め、固まって団子になって前後左右に暴れ回った。


 退きどきはまだここではない。

 弱気の風に吹かれるな。


 まだだ。

 まだいける。


 男ならば逃げてはいけないときがある。

 剣を振るった。


 目の前に迫った騎馬兵の兜に切っ先が直撃し吹っ飛んでいった。


 使い物にならなくなったそれを放り捨てると、弓を取り出し射た。


 近寄るものは残らず射殺する。

 射た。射た。何度だって射た。


 櫛の歯が欠けるようにまわりの厚みがすり減ってゆく。


 ここだ。これ以上この場に留まる必要はない。

 陣に戻って戦いを続けるのだ。


 穂先が右腿を深く抉った。


 憎悪に濡れて掴みかかって来る歩兵の頭をシェリーの長剣が叩き割った。


「後退だ。陣に戻るぞ!」


 ルテリエはしんがりを受け持って、追いすがる敵兵たちを奪った槍で片っ端から突きまくった。


 血飛沫が飛び散って軍靴と腰のあたりをぐっしょりと濡らした。


 逆撃によってシュヴァロフ軍は出鼻を叩かれた感があったが、あとがないのは彼らとて同じだった。


 時間がない。


 ここでルミアスランサの兵糧を焼いてしまわなければ敗北は決定的なものになる。


 兵力は攻城側が十倍にも達する。圧倒的であり兵の損耗を気にせず我攻めにすればあっという間に落ちるであろう。


 だが、このただの兵糧補給地は異様にしぶとかった。


 ルテリエのもと一段となって頑強に抵抗を行っているのである。近づけば煮えたぎった湯を浴びせられ、みるみるうちに損害を広げていくだけである。


「あと少しだ。もう少しで援軍が来る。それまで頑張るんだ!」


 怒鳴って壁の上に立って槍を握り、這い上って来る敵兵をめったやたらに突き殺した。


 なんで頑張っているんだ。

 それは?


 レオに頼まれたから――いいや違うな。


 戦いながら自問自答した。

 ここにいること。


 ここにいて物資を国中から集め味方に送り続ける。


 それこそ自分が身体の一部の管になったような気持ちでひたすら送り続ける。


 それが仕事なんだ。


 だからどれほど剽悍でしぶとい敵が来ようとも守り続けなくてはならない。


 味方を飢えさせてはいけない。

 それが自分に託された仕事だからだ。

 世界が水色の染まっていく。


 ふわりとしたと思ったら、陣の内側に転がり落ちていた。


 胸に刺さった矢を引き抜く。

 涙を流してシェリーが髪を振り乱している。


 ああ、大丈夫だ。

 こんなことくらいじゃ死なない。

 死んでなんかやるものか。


 やれる限りやる。

 自ら諦めたり命を手放したりはしない。

 膝に力を込めて立ち上がろう。


 立ち上がったら剣をとるんだ。

 そうだいいぞ、まだやれる。


 家名に恥じるような真似はするな。


 おまえは由緒正しきシャンポリオン家の騎士なんだ。


 戦うぞ。

 戦うんだ……。
























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