第02話「埃塗れの倉庫番」

 ルテリエは今日も倉庫の在庫調べを行っていた。

 酷く無意味で眠たくなるような仕事だ。


「あ、あふ」


 口元に手を当てて欠伸を噛み殺す。


 ここには彼の怠業を叱りつける上司もいなければ咎める同僚もいなかった。


 そもそも、月に一度の総入れ替え以外には倉庫からは塵ひとつだって動きはしない。


 軍の倉庫番などルミアスランサの王立士官学校を次席で卒業したルテリエには相応しくないものであった。


 けれども彼は文句ひとついい立てることなく、己に与えられた職務に没頭し、この仕事に就いてから三年余を無意味に空費させていた。


(さ。今日は屋敷に戻ったら、なんの本を読もうかなぁ……)


 堆く天井までみっしりと詰まった木箱を見ることなく見て、手元の台帳にチェックを順々に入れていく。


 阿呆でもできる仕事だ。いやむしろ阿呆じゃないとできないかもしれないと思う。


 なにせ、シラミの身体ひとつ分も変わらない決まりきった創造性のカケラもない作業ほど退屈かつ苦痛なことはない。


 正確さよりも忍耐が試される作業だった。

 同僚たちは、初手から業務を放棄して控室で朝から飲んだくれたり博打を打ったり、それこそ夜中は街を飲み歩いて、仕事場にたどり着くなり高いびきをかく者までいる始末だ。


 ルテリエは今年で二十三。家柄は王国の創業の功臣であり、古さからいえば五本の指に入る名家の生まれで、まあ貴公子であるといっていいだろう。


 背は高く、顔のパーツもまあまあ整っているが、どことなく眠たげな眼は若者らしい覇気を感じさせることがない。どこか陽だまりでうとうとしている猫を思わせる佇まいだった。


 直せばいいのに、激しく猫背だ。それがどこかなんともいえない茫洋さに拍車をかけた。


 時計が律儀に秒針を刻むよう仕事を終えると詰め所に戻る。人の気配はなかった。


「ふむ。いつもどおり来るのは遅く帰るのは早いとは……。軍人の鑑だね」


 同僚はもはやひとりも残ってないかった。作戦中ならば模範にしたいほどの神速的素早さだが、彼らは速攻で夜の帳に消えていっただけだ。


 ルテリエはのんびりと帰り支度を行うと、控室で長椅子に座りながらしかめツラで新聞を眺めていた従者のカミルに声をかけた。


「おまっとさん。今終わったよ」

「あ、若さま。軍務お疲れさまでございやす」


 カミルは読んでいた新聞紙を畳むとしゃっちょこばった口調でてきぱきとルテリエの荷物を引き寄せた。


 この当年とって三十八になる小男はルテリエ付きの従者で、ルテリエが幼少の頃から影のようにつき従っている忠臣だ。


 小男で出っ歯。焦げ茶色の髪が鳥の巣のように巻いており、風采は上がらぬがなかなかに頭の回転が速く計数に明るい。


 その上忠義はピカイチということでなにかとルテリエの屋敷でも重宝がられている男である。


「にしても若さま。お歴々はとっくに風を喰らって退散したていで。もちっと要領よくやってもバチは当たらないと思いますがね」


「カミル。私は国に俸給をもらって仕事をしてるんだから。手を抜くなんてできないよ」


「また、若さまはそれだからっ。なんで、あなたさまみたいに士官学校を次席で卒業した俊英をこんな場末に叩き込むなんて。お上はちっともわかっちゃいなさらねぇ。あっしは、腹が煮えくり返って煮えくり返ってたまらねぇんでさ」


「またカミルはそれだ」


 ルテリエは困ったように苦笑すると、頭から蒸気を出しそうなくらいヒートアップした無二の忠臣を見やって頬をぽりりと掻いた。


 どうにもこのカミルは、いわゆる軍の役立たずが放り込まれる〈倉庫番〉の仕事を誰よりも忌み嫌い、ルテリエに対してことあるごとに花形である騎馬隊や歩兵隊に転属願を出せと訴えてくる。


「私はこの仕事気に入ってるよ。身体は楽だし、前線に出ることはない。ってことは死ななくてもいいし安全てことだ。それにあり余った時間で本もたっぷり読める。万々歳だよ」


「ああっ。これだから若さまは欲のないことで。けど、今回ばかりはそればかりいってもいられねぇみてぇでさぁ」


「ん、なんだい?」


 ルテリエはカミルの突き出した新聞を受け取って開いてみた。


 どうやら号外で出た刷りたてほやほやのものらしい。


 かぐわしきインキの匂いに胸躍らせながら紙片を開くと、そこには王国軍がアルストラ平原の戦いで仇敵エトリア共和国軍を取り逃がしたことが、激しい筆致でなじられているのが目に飛び込んできた。


「あっしはただの従者ですが、これがですよ! この軍勢のどこかに若さまが指揮官といなされば、こーんななっさけない醜態を晒すことなく、にっくきエトリアの野郎どもをこてんぱんに叩きのめして残らず平らげてたに決まってやすって!」


「カミルは大げさだなぁ。私にそこまでの力はないよ」


 興奮しきってつばきを飛ばすカミルから非難しながら猫背をさらに丸めてページに目を走らせる。


 最新の情報によればルミアスランサ王国軍は兵糧物資の欠乏で追撃を諦めトドメを刺すことができなかったと書かれていた。


 もしこれが本当ならば、少なくとも大規模な会戦でみすみす大魚を逸したのは四度目になる。


(単なる兵糧不足で軍が行動不能に陥ったのであれば、不細工過ぎる)


 野戦で敵を敗退に追い込み、追撃ができないとあれば、罪は主計将校にある。


 そしてルテリエ軍法に則れば重罪に値する。


 さらに新聞のページに目を走らせると、輜重隊長の上部は一応は残らず更迭されたらしい。


 が、常々思うのだが、軍のあちこちに満ちている兵站軽視の風潮は、ここまで決定的な作戦硬度の破綻を招いていても会議の俎上にチラとも上がらない程度のことなのだ。


 現に、ルテリエが毎日管理している都の軍需物資はこれほど激烈な戦闘が行われているにもかかわらず、まるでこの場になきがごとく扱われているのだ。


 この場にある軍需物資が系統だった命令の元一律に兵たちへと届いていれば、最後の詰めを誤ることなく、とっくの昔にいくさにはカタがついていたのだろう思えばカミルでなくてもやはり腹立たしかった。


(が、それを私が上層部に上げてもまるで聞いてもらえないのは、身から出た錆というわけか)


 ルテリエは己自身を決して勤勉だとも誠実な人間だとも思ったことはない。


 過去の失敗で栄えある軍人の出世街道から放り出され、土匪や蛮族討伐に明け暮れた二年間。


 そして、この黴臭い倉庫に叩き込まれ、ようやく息だけをするのがやっとだった三年間。


 合わせて五年の歳月はルテリエを栄誉ある場から遠ざけるのに十分な年月だった。


 同期の子弟たちはたいした武功も上げずにグングン階級を上げており、みな、佐官将官はあたりまえというのに、ルテリエは五年たってもまるで戸棚の隅に置き忘れられたいらない旅行土産の張りぼて人形のように万年少尉のままだった。


 無理に献策をする必要はない。


 だいたい勝ち切らないまでも、負けていないのはこの国の兵たちが強いからだろう。そう思わなければ、ルテリエは自分が惨め過ぎた。


 もはや出世は諦めた。目下の心配ごとは国家の浮沈に比べればどうしようもないほどちっぽけだが、ルテリエにはそっちのほうが重要だった。


「えっと、若さま。今日もお食事はお屋敷でなさならないので?」


「ああ。ちょっと、ね」

「これ、ですかい?」


 カミルは少しばかり顔をにやけさせると、口元で杯を呷る手真似をした。


 彼はなかなかに酒好きで、ルテリエが真っ直ぐ屋敷に帰らず、帰りがけに酒場によるとご相伴に与かれることをよろこんでいるのだが、今日ばかりはいつもと違ってわずかに眉をひそめた。


「でもいんですかい? 朝方旦那さまに釘を刺されたばかりじゃないっすか。夕飯をご一緒するようにと」


「いーのいーの。オヤジは全員そろわないと気がすまないだけで、なんか私に用があるってわけじゃないんだからさ」


 ルテリエの実父で公爵のアンブロースはルミアスランサの名門シャンポリオン家の現当主であり、当年とって五十六になる痩せぎすのいかにもな口うるさい頑固おやじだった。


 なにせ、シャンポリオン家はルミアスランサ創業の功臣である家柄だ。


 古さからいえば五本の指に入るほどの家格を持っており、一部のセレブでしか住めない王宮近くに居を構えていた。


「だいたい、屋敷に帰ったらロクロクゆっくり食事もとれやしない。姉弟たちがうるさくってさ

 」

「まあ、そうでございやすがねぇ……」


 ルテリエは父アンブロースが早世した実母に代わってのち添えをもらうまでは、たったひとりの跡取りだった。


 けれども後妻のリーアと実父はよほど相性がよかったのか、嫁いで八年ほどで六人ほどぽこぽこ産んだ。


 別に半分しか血の繋がらない姉弟たちを疎んじているわけではないが、リーアには連れ子がいて、それらも含めて十一人も姉弟が一気に増えれば週一くらいで距離を取りたくなるときもある。


「若さま、若さま。今日も〈白の子山羊亭〉でございますか」


「もちのロンだよ」


 シャンポリオン家は歴史こそ古いが家政は行き詰っていた。


 領地の上りはすべて金貸したちに握られており、ハッキリいえば家計は火の車。


 しかし名門の家格から考えれば、いざというときのため交際費用として金は溜めておかなければならない。


 そうなればルテリエは御曹司と呼ばれる身分であっても、勢い小遣い銭にすら苦労する始末である。


 よって馴染の店というのは一流店に通えるわけでもなく、貴族であることを隠して小汚く妙に親しみ深い下町の平民たちが御用達にしている安酒場に通うのが精一杯だった。


「いらっしゃいませっ。あ、ルテリエさま!」

「や。フロランス。今日も来たよ」


 かんころりんと鈴の軽やかな音を鳴らして店内に入ると、酒場〈白の子山羊亭〉の看板娘であるフロランスが咲き誇る花のように満面の笑みを浮かべながらルテリエを出迎えてくれた。


(この笑顔。商売上だけのものじゃない……と思いたいね)


 ルテリエはちょっとだけよそ行きの顔を作ると猫背をわずかに伸ばしてフロランスの抱きしめたくなるような小さく可憐な身体をジッと見つめた。


「今日もお仕事お疲れさまでした」


「やはは。いつもいうようにそんな働いてないから」


 ――ああフロランス。


 つやつやした光沢のある赤毛に透き通るような白い肌。


 出ることろは出て、ウェストのあたりはきゅっとくびれスタイルは抜群だ。


 目はぱっちりとしていて微塵の影もなく鼻はすらっと通って形がよい。


 おまけに愛想がよくて声質の品がいいと来たら男ならばころりと参っても仕方なかった。


「そんなそんなー。あたしたちは軍人さんのおかげで常日頃健やかに暮らせておりますので、いつも感謝しているのですよっ」


「へ。そ、そうなんだぁ」


 フロランスがきりっとした顔を近づけてくるとルテリエは途端に相好を崩して腰に下げた剣を拳の先でカチカチ鳴らし出した。


 彼女はドイツの民族衣装ディアンドルに似た胸を強調するような衣服を身に着けているので、ついついこぼれそうなおっきな胸に目が行ってしまう。


 フロランスはもちろん男の目線がどこを見ているかなどと先刻承知の上で己の価値を最大限に発揮できる位置取りを巧みに保っていた。


「若さま。とりあえずご注文を」


「え! あー、はいはい注文っ。注文ね。っとどうしようかな。フロランス。いつものでいいかな?」


 幾分シラッとした目をしたカミルに促されてルテリエは慌ててオーダーを伝える。


「はいっ。いつもの煮込みシチューとハムとチーズの盛り合わせにお酒ですねっ」


「う、うん。そう、そうだよ。フロランス。ここのメニュー、煮込みは君が作ってくれたてるんだろ。私はそれがお気に入りになっちゃってね。あ、あははっ。それこそ、三日に一度は食わなきゃ寝られない身体になってしまったよ!」


「きゃっ、うれしいです。でも、ルテリエさま。お店に通っていただける理由ってあたしじゃなくてシチューなんですか? だとしたら……ちょっと……悲しいです」


 フロランスが長いまつ毛を伏せて下唇を噛み盆を胸に抱えて切なそうな声を出すと、ルテリエはたちまちうろたえて両手を振って否定した。


「でええっ! や、やややっ。ちがっ、それは違うぞっ。私は、この店のシチューとか雰囲気とかも好きだけど、そのっ。一番は……! やっぱ、ややっぱり君に会うことが目的でっ」


「えっ。ルテリエさまっ。やっぱあたし目当てだったんですかっ。ここはそういうお店じゃないんですよっ」


 フロランスはお盆を持ったままさささと距離を取ると、ルテリエは慌てて両手を振り回し狼狽した。


「ぎあっ。だ、だから私はそういう不埒な気持ちではなく、なんというかその、結構自分なりに感性に従って行動した結果、もちろん君のことを軽く見ているつもりじゃなくてっ!」


 ルテリエがあたふたしながら懸命に顔を伏せているフロランスに語りかけていると、彼女の抱えていた盆がさもおかしそうな笑い声とともに激しく震え出した。


「あははっ。冗談ですようっ。もうっ、ホントにルテリエさまはかわいいなあ。そもそもあたしがそんなことくらいで傷つくとも思ってるんですかねっ。ぜんっぜんこのとおり平気ですってば!」


「え、あ、え? 泣いてない、の?」

「やだー。まったく、ごめんなさいでしたっ」

「ふおっ」


 フロランスは突如として抱きつき顔を見上げてペロッと赤い舌を出す。


(ああっ。だから、許しちゃうんだよなぁっ)


 戯れとわかっていてもルテリエはフロランスの押しつけられた重たげな乳房のやわらかな感触の前には無力だった。


 ルテリエは小悪魔めいた所業に、いつもこの七つも年下の少女に振り回されている。


(でもそんな自分が好きだったりするんだよなぁ……)


 周りで見ている酔客や、同じくフロランス目当ての客の視線を全身にビシバシ浴びながら、このまま思うさま抱き返してどこかに連れ去ってしまいたい衝動に駆られる。


 が、できない。

 できるはずがないのだ。


「ね、ルテリエさま。シチューをサービスで大盛りにするから許してくださいよう」


「や。それはいいから、このままひっついていて――」


「え。なにかいいました?」


「あー、あーなんでもないっ。今日もお腹空いたなー。カミル、とっとと席に着く」


「へいへい。あっしは酒が飲めればなんでもいいっすよ」


 ルテリエはテーブル席に着くと、鼻歌をふんふん歌いながら遠ざかっていくフロランスの背中を見つつ、ついつい視線を彼女の短いスカートから伸びている白い脚に移動させていくのが止められなかった。


「若さま」


「なんだよその目は。いいたことがあるならいえよ」


「もう、まわりくでーことはしねぇで、あの娘囲っちまえばいいじゃないですか」


 ルテリエは口元に運んでいたコップの水を勢いよくカミルの顔面に吐き出した。


「うわっ。なになさるんですかっ。あっしは別段おかしなことはなにひとついっちゃ――」


「しーっ、しーっ。フロランスに聞こえるだろうがっ。声を落としてっ」


「……そんなにムキにならなくてもいいじゃないですか。ちっとばっかり器量がよくたってたかが酌婦風情どうとでもなるでしょーが。第一、大旦那さまは二十人からの妾をお持ちだったんで。若さまは独り身だし悪所で安淫売と戯れておかしな病気移されるよりはずっといいと思いますがねぇ」


「そうやってお祖父さまはあっちこっちに妾を作って子供をどんどんこさえたからオヤジさまはご苦労なされたんでしょうが……」


 ルテリエの言葉は実感がこもっていた。父のアンブロースは祖父の放蕩で作った多数の兄弟と跡目相続のため血を血で洗う私闘を幾度も繰り返し、ついには名門シャンポリオン家の今日に至る衰微を招いたといっても過言ではない。


 いくさというものはとかく金がかかるのだった。


「とにかく無駄に妾を作って子供を増産したせいで、今の私は小遣いにすら悩む始末。そう簡単に喜劇の性悪貴族のように目についた娘を召し上げるなんてことはできるはずがないだろう」


「なにをいっておられるんでっ。こう見えてもあっしはシャンポリオン家の従者と名乗っただけで拍がついて、酒場のあっちこっちで浮名を流したんでさ! それをなにが悲しゅうて惣領たる若さまが家名を隠してまでお忍びで、こんなご苦労を……」


「バッカだな。ご先祖さまは絵物語になるような伝説の英雄だぞ。私が侯爵だって知られたら、お店のみなが安心して飲めないだろうしそもそも恐れながらと出入り禁止だ」


「は。侯爵さまが来いといえば黙って身を投げ出すのが平民の役目じゃないんすかねぇ」


「んなこといっても誰も信じないよ。私が着てるのは汎用の軍服だし、貴族らしさはカケラもない」


「あっしは酔う前からなんか泣きたくなってきますよ……」


「頼むから酒量は適度にわきまえてくれよ。ここで暴れられてなんか壊されても私は弁償できそうにない。財布の都合で」


 ルテリエが気落ちしたカミルの肩をぽんぽんとやって慰めていると、まもなく注文した品を持ってフロランスが席までやってきた。


「さあ、カミル! 酒と料理が来たぞ。ささやかながらやってくれっ!」


「飲みますよ若さま。いわれなくってもね!」

「え、と。ルテリエさま、少しいいですかね」


 料理を運んできたフロランスが盆をテーブルに置くと、返事を聞く前にととっとカウンターに消えると湿したタオルを手に持ってきた。


 さて、なにをするのかと思って黙って見ていると、その場にかがんでルテリエの軍服を拭い出した。


 一日中埃だらけの倉庫で馬鹿正直に歩き回っていれば汚れもするだろう。


 フロランスは黙ったまま手際よくルテリエの汚れを取り去ってしまうと、なんともいえないいい笑顔でにこっと笑った。


「はいっ。だいたいとれましたから、残りは家に帰って奥さまにしてもらってくださいね」


「娘。若さまはお独りの身だ」


「えっ!」


 カミルの言葉にフロランスは電撃に打たれたようにその場に固まった。


 が、それもほんの束の間だ。ルテリエが声をかけようと手を伸ばしたとき、フロランスはあははと愛想笑いしながらぱたぱたと駆けて行った。


「なんなんだ、今の間は」


「……ま、若さまはもうちっと極道しねぇとわからねってもんですよ、色の道は」


「おまえもときどきわけわかんないこというね。ま、とりあえず乾杯するか」


 ルテリエは冷え切った酒精を半分ほど一気に飲み干すと目を白黒させた。


 別に酒場に通うからといってそれほど酒に強いわけではない。むしろ弱いほうだ。


 ではなぜ、こういった場所をうろちょろするかと聞かれれば、ルテリエはこうぃつた酒場の雑多なごちゃごちゃした雰囲気が好きだったし、酒のアテとなる濃い味も好みだった。


(家では義母上が身の毒だといって料理人に排除させてるもんなぁ)


 今年で三十八になる義母のリーアはほっそりとした儚げな美人であったが癇性が強く、特に食い物に関しては健康第一で薄味を家族に強いた。


 父のアンブロースはリーアには尻に敷かれっぱなしであるし、彼が口うるさくルテリエにあーだこーだ意見するのは妻に対するうっぷん晴らしの部分がなくもないと思えなくもない。


「ま、そんなことは忘れて濃い味に舌鼓を打つとしようかな」


 ルテリエは運ばれた深皿に並々と盛られたシチューを目にしてごくりと生唾を飲んだ。


 スプーンを使ってよく煮込まれた牛肉の塊をゆっくり噛みしめながら味わった。


 肉と脂身が濃厚に煮込まれ、舌を動かすとほろほろとほどけていく。


「で、追っかけて酒で洗う、と」


 酒精をぐびぐびっとやって喉越しを心から味わい、今度はホクホクしたにんじんをフォークで突き刺し口に頬り込んだ。


 ほのかな甘みを鼻に抜ける独特の風味を楽しみながら、つけ合わせのパンを千切りながらソースに浸し芳醇な風味を舌の上で踊らせた。


 食事を押し進めながらときどきカミルと愚にもつかない世間話をしているうちに、徐々にアルコールが回って来る。


 どこかほんわか楽しい気分になって目の前の風景が白っぽいような判然としない形になってはじめて自分が酔っているということを実感できたのだ。


 いい心持ちでいられたのはわずかな時間だった。


 入り口からどやどやと荒々しい多数の足音が響き渡った。


 鋲の打ったいかめしい革鎧に丈夫そうな長剣。


 使い込んで傷跡があちこちに散見できる大きな丸盾に年季の入った鉄兜。


 これらをこれ見よがしに身に着け、あたりの客たちを睥睨する若者たちは、ひと目でわかる無頼の徒でありまたの名を――冒険者といった。


「へ。相変わらずみみっちい店だぜ」


「文句をいうねぇ。このへんじゃほかに気の利いた料理を出す店はねぇんだよ」


「ま、俺たちゃ小粋なレストランでディナーって顔じゃねぇや。ここいらがお似合いよ」


「なにはともあれ酒だ! 俺たちゃ喉が渇いてたまらねぇ」


「今日もひと仕事終えてくたくたなんだからよう」


 冒険者たちはまだ若い。誰も彼も二十代前半。


 いや顔つきを見れば明らかに十代の少年も混じっているのだ。


 店内は別にそれほど込み合っているというわけでもないが、彼らはこういった場所で無暗にいきがりたい年頃なのだろう。


 多勢にものをいわせ、邪魔だといわんばかりにあちこちでそれなりに楽しんでいる客たちを威嚇し、わざと肩をぶつけたりして耳に障る歓声をどっと上げ、意味もなくはしゃいでいる。


「ガキどもが。若さま。ちょっくらあっしが注意してきやしょうか」


「余計なことはしなくていい。私たちもこれを食べ終わったら店を出よう。無駄にもめごとを起こしたくない。彼女も、困るだろうしね」


 ルテリエがふうっと長く息を吐き出して酒精の半分ほど残ったグラスを置くと、カミルの言葉が聞こえたのか、気の短そうな小僧が目を怒らせながら近寄って来た。


「おい、おっさんっ。なんか俺たちに文句でもあんのかよっ! ああっ!」


「なんだと――」

「よさないか、カミル」

「む、ぐうっ……わかりやしたっ」


 立ち上がりかけたカミルがルテリエの静止でどすんと椅子に座り直した。


 もめごとが起きそうな兆候を嗅ぎ取ったのか、あちこちにいた若い冒険者たちが待ってましたとばかりにルテリエたちがいるテーブル付近に集まって来る。


 その数六人。


 彼らは街から郊外に出て荒稼ぎをしてきたばかりなのだろうか。


 青臭さを残した顔立ちながらも、昼間に行った暴力の残滓を身体じゅうからぷんぷんと発散させ、なにかいおうものならすぐさま拳固のひとつでも放ってやろうと瞳を期待に満ちあふれさせギラギラ光らせていた。


(まったく面倒なことになったな。こんな子供たちと喧嘩してもなんの得にもならないってのにねぇ)


「おい兄さん。俺らのクラン〈燎原の紅〉に文句があるってんならいつでも喧嘩は買うぜ」


 冒険者のなかでも大将格なのだろうか、スキンヘッドに稲妻の入れ墨を顔半分に入れた大男が肩を怒らせるとこれ見よがしに腰に佩いた大剣を見せつけながら脅しにかかった。


 ルテリエはルミアスランサ軍の軍服を着用しているが、彼らはそんなことはおかまいなしに難癖をつけている。


 若者によっては志願制を取っている国軍を飼いならされた犬と侮蔑し、それを貶めることで自分を一段高く引き上げ暗い愉悦に浸ることが「是」とされる風潮があった。


 彼らは一様にして国土が隣国から蹂躙された経験のない都市部の住民に多く、実のところ無頼を気取っていても元々は中級以上の比較的豊かな階層の子弟を中心に構成されていた。


「喧嘩なんて売ったつもりはない。私たちはちょうど食事を終えることろだった。君たちはゆっくりしていけばいい。ちなみに、ここのお勧めメニューは煮込み料理だよ。すごく絶品だし、うんと精がつく。あ、もう知ってるかな?」


 ルテリエがなんの感情の揺らぎも見せず世間話をするように立ち上がった反応に、呆気にとられたのか、〈燎原の紅〉一同はキョトンとした顔で棒立ちになった。


 次いで、馬鹿にされているととったのか、全員がカッと顔を朱で染め凶暴なオーラをみなぎらせる。


「兄さんよ。それじゃあまるで俺らがあんたのメシを邪魔したみてぇじゃねえか? あ?」


「ちょっと! なにやってるのよ、あんたたちっ!」


 スキンヘッドがルテリエの胸倉を掴むと同時に、見守っていたフロランスがたたっと叫びながらダッシュして両者の前に立った。


「へえ。フロランス。久々に来たってのに相変わらずツレねぇじゃねえか。なんだ? もしかして、俺が見てねぇ間に、こんな青瓢箪を咥え込んだってのか? あん?」


「マックス。勘違いしないでよっ。あんたとあたしはただの客っ。それ以上でも以下でもない!」


「は。ま、それならそれで構わないけどよ。俺も仕事が終わった後までごちゃごちゃやりたくねぇ。酌くれぇはしてくれんだろな? もちろん、チップは弾むぜ。見ろ! こんな貧乏臭い軍人じゃおめえに大盤振る舞いってわけもいかねーだろ!」


 マックスは腰袋から銀貨を鷲掴みにするとフロランスに無理やり握らせた。


 フロランスは半ば茫然としていたが、銀貨とルテリエの顔を交互に見やると決まり悪げに笑みを浮かべた。ルテリエの愛が貨幣の力によって敗北した瞬間だった。


「ごめんねっ。ルテリエさまっ」


 フロランスは両手を顔の前でぱしっと合わせると拝むようにして片目を閉じた。


「ってことで、今夜は俺の貸し切りだ。兄さんはとっととしっぽを丸めて足元がしっかりしてるうちに帰んだなっ! フロランスの具合のよさは、今度会ったときに教えてやんぜっ」


「ちょっと! あたしそこまでするなんていってない!」


 ルテリエはさすがにしょぼんとした態度で食事も途中なまま席を立ちかけると、左右を固めていた冒険者たちに両脇をがっしりを固められた。


「おっと、軍人さん。勇ましい国軍兵士がお残しはいけませんよっと!」


 マックスは手にしたグラスを逆さにするとだぼだぼとルテリエの頭の上で逆さにした。


 残った酒精がどぼどぼと髪を伝ってたちまちずぶ濡れになる。


「ちょ、ちょっと! あんた、なにやってんのよ――きゃっ」


 さすがにフロランスが甲高い声で怒鳴るが、彼女はマックスに横抱きされるとそのまま奥のテーブルに連れていかれた。


 ルテリエは、今にも剣を抜いて斬りかかりそうなカミルの肩をむんずと掴んで、感情のまるで読み取れない声を出した。


「帰ろっか」


 酔いはもうほとんど醒めていた。

 

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