第03話「大命降下」

 気分はすっかる盛り下がった。おまけに従僕もキレている。ルテリエはついてない自分を呪いながら、激しく悪態をつくカミルをなだめながら屋敷への道を歩きはじめた。


「待ってくださいっ、ルテリエさまっ」

「……フロランス?」


 声に振り向くとそこには息を切らしながらタオルを抱えたフロランスが立っていた。


「あの、かがんでくださいますか」

「あ、うん」


 いわれるがままに頭を下げるとふわっとしたタオルで包み込まれた。


 んしょんしょとフロランスが一生懸命に手を動かすたび鼻先に彼女のむっちりした胸が触れ、自然顔がにやけてしまう。


 酒臭くなったのは最悪だったがフロランスのふきふきで帳尻はあったかな、と思っているとある程度のところで区切りがついたのか、視界を覆っていたタオルがどけられた。


「ルテリエさま。災難でしたね。えっと……ごめんなさいっ」


 それ以上なんといっていいのかわからないのか、フロランスはぺこりと頭を下げ、ルテリエが呼び止める間もなく店に戻っていった。


 ルテリエ自身はなんとも思っていないのだが、従者のカミルは顔を真っ赤にさせながら地団太を踏んで無法な冒険者たちやそれに追従したフロランスを口汚く罵った。


「なんなんですかあの小娘はっ。結局はあの若造どもの金貨に目が眩んだくせに、これ見よがしに若さまの機嫌取りに走ってみせてっ! あんな安っぽい小娘は若さまが相手にする価値はないっすよ!」


「そういうなカミル。彼女は家に身体を悪くした父母やたくさんの兄弟を抱えている。あの店でもらえる何十倍の給金に値するチップを突きつけられた嫌とはいえないさ」


「けど、若さまは名門シャンポリオン家の嫡男で――!」


「私は彼女に対して自分の身分を明かしていない。市場にものがなくなれば人が集まらなくなるのと同じで、彼女は店の給金よりも客からもらうチップで生計を立てている。払いの悪い素寒貧軍人よりも金回りのいい冒険者を厚遇するのは当然のことなんだ。フロランスを責めちゃいけない」


「でも若さまがその気になればあの小汚い店の一軒や二軒買い取るなんてどってことないじゃないすか!」


「カミル、あのなぁ。我が家はホントに食ってくだけでカツカツなんだ。ただの遊び金を潤沢に蕩尽できるほど余裕があるわけじゃない。私は弟たちに学問をさせてやりたいし、まだ幼い妹たちだってそのうち嫁に行くとき恥ずかしくない支度をさせてやりたいんだ。遊びにも分相応ってもんがあるよ。それに……まだ彼女を諦めたわけじゃないしね」


「……若さま。あっしにいいつけてくだされば銭なんざ幾らでも用意しやすのに」


「カミル。おまえの下の子は身体があまり強くない。病気がちだし、私にそんな気を使うくらいならその金でいい薬を買ってやってくれ。はは、すまないな。私が手柄を立てて褒美でもやれれば家臣のおまえたちを楽にさせてやれるのに」


「若さまぁ」


「なんか湿っぽくなってしまったな。さ、帰ろう。オヤジの雷が待ってるから意気揚々とはいかないまでもな」


 金に縁がなく真っ当な人たちからは野良犬扱いされる冒険者風情にまで馬鹿にされるルテリエであったが、この主従には金貨の冷たさを吹き飛ばすほど熱い絆が通っており、酔いもできぬ放蕩であったが屋敷に戻る足取りは話しながら歩くうち軽くなっていった。






「ルテリエっ。一体こんな時間までどこをほっつき歩いておったんじゃ!」


「ただいま戻りました父上」


 ルテリエは屋敷の玄関口まで出張っていた実父のアンブロースに叱責を受けながら、苦笑を浮かべ傍らで縮こまっているカミルを見てウインクをした。


「カミルっ。おまえがついておりながら、なんじゃ! このていたらくはっ。だいたい、どんな飲み方をすればここまで酒臭くなるんじゃっ!」


「すいやせん、旦那さまっ」


「あらあらこんなにびしょびしょになって。ミモレット、タオルを持ってきてちょうだいな」


 怒り心頭のアンブロースからルテリエをかばうように義母のリーアが義理の姉にあたるミモレットを呼んでタオルを用意させる。


 そうしている間にもルテリエはアンブロースの説教を聞き流しながら、足元に「兄上―」「にいさまー」とまとわりついてくるまだ妹や弟たちを代わる代わる抱き上げて頬にただいまのキスをしていった。


「だいたいなんじゃ、頭のてっぺんから酒の匂いをぷんぷんさせおって! 喧嘩かっ! そうなんじゃなっ!」


「え、ええ。まあ、そんな感じで……」


 まさか街のゴロツキに絡まれたうえ一方的に頭の上から酒をぶっかけられ、後難を恐れてすごすご逃げ帰ったとは口が裂けてもいえないルテリエだった。


 一方、実父のアンブロースは軍を一線を退いたものの、いまだに王宮で騎士たちに剣術指南を行っている血の気の多い中年だ。


 五十になったとは思えぬほど黒々とした髪と、精力あふれた瞳はもはや息子の荒事の結果のみに興味が集中して、鼻息は長きを疾駆した奔馬のように荒々しくふごふご鳴っていた。


「勝ったか?」

「ええ、まあ、なんとか」


 勝つもなにも勝負にすらなっていない。


 ルテリエはへんなもの食べたような顔で口をもごもごさせた。


「なんじゃっ。そのへんをはっきりせいっ。恐れ多くも我らがご先祖さまシャンポリオン家初代ウラジミールさまはルミアスランサ建国戦争のみぎり――」


 ああ。またはじまった。アンブロースは血統を第一とする貴族の悪習として、自らの祖先を神のように敬いことあるがごとく引き合いに出していた。


 童の時分からゲップが出るほど聞かされてきたルテリエにとっては父の祖先にまつわる武功譚は「耳にタコができる」ほどうんざりしたものだった。


 ここで、「父上その話もう聞き飽きました」とでもいえればルテリエ自身生きやすいと思うのだがとてもそんな度胸はなく、石像のように固まって父の話をありがたく聞き入らなければならない。


(耐えろ、ルテリエ。人生は耐えることの連続なんだ)


 自分とそれほど変わらない体格のアンブロースがつばきを飛ばしながらずいと顔を近づけるのを冷汗をかきつつ呻いていると、タオルをとりにいっていた義姉のミモレットがちょうど戻り、無言のままアンブロースを無視する格好で間に割って入って来た。


「な、なんじゃっ。ミモレットっ。儂は今、こいつにご先祖さまの尊い武勲をだな――」


「お父さま。ルテリエは髪が汚れたままでこのままでは風邪を引いてしまいますわ」


「う。しかしだな――」


 ミモレットは母譲りの黒目がちな瞳でジッとアンブロースを見据えたまま静止した。


 彼女は物静かでおとなしく、若い娘にしては恐ろしく無口であるが、こうと決めたらやたらに頑固で屋敷内でも絶対権力を振るっている父ですら押し黙らせるほどの異様な迫力があった。


「お父さま」


「ん、んんっ。そうだなっ。あまり小言ばかりでもいかんわなっ。リーア戻るぞっ」


「はいはい」


 そんなアンブロースもかわいがっている義理の娘にはどうにも逆らえず、くすくす笑いを漏らす妻や年若の子供たちを引き連れ私室に戻っていった。


「はあ、やれやれ助かった――と。ん?」


 お小言の暴風雨から逃れられ一息ついているルテリエが視線に気づいて傍らを見ると、義姉のミモレットがなにかいいたげな表情でふたりのメイドを従え黙りこくっている。


「え、ええと……あはは」


 助け舟を出してもらっておいてなんだが、ルテリエはひとつ年上の義理の姉になんとなく苦手意識を持っていた。


 彼女は、三年前嫁した夫の家から身体を悪くしたせいで離縁され、いわゆる日陰者的な生活を送っていた。


 アンブロースが再婚して義母の連れ子としてミモレットと顔を合わせた時期は、ルテリエ自身士官学校の寮にいたのであまり姉弟という実感はない。


 年少の姉弟たちはひと回り年上のルテリエにはなついているが、正直この姉とはどのように接していけばいいのか、未だ掴みかねていたのだった。


「ルテリエ。ご酒の匂いを撒き散らしたまま眠るわけにもいかないでしょう。私の部屋に来なさい。さ――」


「あ、うん、はい」


 ミモレットは返事も聞かないままくるりと踵を返すとたったかか先を歩ていく。


 カミルはおつきのメイドたちと並んで困ったような顔をして顎鬚を触っていた。


 無視するわけにもいかないのでミモレットのあとについて姉の部屋に入った。


「し、失礼しまーす。って、あ、あれ?」


 姉弟とはいえ義理である。当然ミモレットの部屋には自分以外おつきのメイドがスタンバっていると思っていたルテリエだが、予想に反し猫の子一匹おらず、妙に落ち着かない気分になった。


(そういや、彼女の部屋ってはじめて入ったかも)


 自分の殺風景な部屋とは違って、ところどころ品のいい小物や女性らしい品のよい家具などをそろえてあり、とても同じ屋敷に住んでいるとは思えないほど文化が隔絶していた。


「なにをキョロキョロしているのかしら」


「あ、いや。いくら姉弟とはいえ、こんな時間にふたりきりというのは問題があるかなぁと」


「あら。ルテリエは問題があるようなことを私にしでかすつもりかしら?」


 ミモレットは長くて手入れのよい指先を口元に添えると、なんとも妖艶な目をしてくすくす笑った。


 彼女は細身でいかにもか弱い雰囲気だが、この瞬間の仕草だけは見ているだけで総毛立ちそうなほど妙な色気があって、ルテリエは思わず目を逸らしてしまった。


「冗談よ。そこの椅子に座って。私が髪を綺麗にしてあげる」


「妙なことをいうのはほんっとやめてくださいね、ったく」


 ルテリエはどっかと椅子に腰を下ろすと常になく、わざと両腕を組んで横柄に振る舞った。


(まったく、今日って日は本当に女難の日かもな)


「そういう、男らしい態度も取るのね」

「は? なにかおっしゃいましたか義姉上」

「なんでもありません」


 フロランスが道端でわしゃわしゃやったくらいで頭からかぶった酒精の匂いは取れないのか、ミモレットは桶に張ったお湯をメイドに用意させると自らタオルを浸して、ルテリエの髪一本一本を梳くようにして清掃していく。


「あ、あのおっ。姉上。そこまで丁寧にやらなくてもいいですよ? 私は、ざっとで終わらせてもらおうかなくらいに考えてたんで、返って悪いですよ」


「いいのよ。ルテリエは毎日お国のために頑張っているのだもの。私は、どうせ毎日暇を持て増しているのだし、ね」


「でも」

「お願い、やらせてちょうだい」


 フロランスの娘娘した高い音程ではなく、大人の女性が持つ落ち着いた声音でささやかれると心の臓をぎゅっと絞られたような気分になって反抗する気が失せてしまう。


 ルテリエはなんとも形容し難い表情で唇を尖らせると、姉のなすがままにさせた。


「ねえ、ルテリエ。戦況は、あまり芳しくないのかしら?」


 沈黙を打ち破るかのようにミモレットが呟いた。ここでいう戦況は、もちろんのこと祖国ルミアスランサと隣国エトリアとの戦争のことだろう。


「新聞読んだんですか? 別に危惧するほどのことはないと思いますよ。現に野戦では勝ったって書いてあったでしょう。姉上が心配することはなにもありませんよ」


「でも、他紙では散々に国軍のことが叩かれていたわ。今回みたいに取り逃がしてばかりいたら、北方の狼に隙を突かれるんじゃないかって」


「う――どこの地方紙ですか。また、余計なことを」


 ミモレットがいった北方の狼とは、昨年エトリアが軍事同盟を結んだルミアスランサの頭の上に覆いかぶさるようにして存在しているリーグヒルデ王国のことである。


 王国政府の見解では、リーグヒルデはルミアスランサとエトリアが争って弱ったときを狙っているとのことであったが、西部戦線の膠着状態が続けば漁夫の利を狙って侵攻してこないとは限らない。


 各国の動員能力を単純に数字で表すと、

 ルミアスランサ十万

 エトリア二十万

 リーグヒルデ十五万

 となっている。


 リーグヒルデ自体も北と西をそれぞれワンガシークやユーロティアという敵国に囲まれているため、もしものとき全兵数を差し向けられると単純にはいえないが、楽観もできないのが現状だった。


「ルテリエは後方勤務だから、戦場には、もう出ないわよね」


 怯えるような声を姉から聞いてルテリエは思わず顔を引き攣らせかけるが、驚異的な自制心で耐えると、あえて笑い飛ばした。


「義姉上。大丈夫ですよ。私は上からとこっとん嫌われてるんで、まず、倉庫番から動かされることはないですよ。手柄を立てられないのは、ちょっとばかり軍人の本分に欠けるので忸怩たる思いはありますけどね」


 虚勢を張って声を上げたことを気づていたのか、ルテリエは背後からそっと身体に回された細い腕の感触で目をまん丸くさせた。


「ねえルテリエ。約束してちょうだい。もし、前線に出るようなことがあったら、家名なんてどうでもいいから、自分の命だけを守って……! もし、三年前みたいなことになったら、私、私っ」


 ミモレットがいう三年前のこととは、かつてルテリエが所属していた蛮賊平定部隊で勤務していたゲリラ狩りに明け暮れていた二年間の話だった。


 上官の意に背いたということで、士官学校を次席で卒業したルテリエは家格から考えてもありえないほど危険な任務をこれでもかというほどに押しつけられ、それをこなしていた。


 大敵エトリアに戦力のほとんどを裂かれ、国内の不満分子を討伐するのにルテリエは常に少数の兵力で敵に当たらなければならなかった。


 ときには数百の兵で、援軍が到着するまで万余の叛徒を相手に砦に籠り、心血をそそいで防衛に当たり、少なからず回数王都の病院に運び込まれることは、幾度もあった。


 軍人である父は名誉の負傷と割り切ることができたが、あるとき実家である屋敷に出戻ったばかりのミモレットがはじめて見舞いに来たときは、本当に散々だった。


 彼女は自分の生活が義弟の血肉で贖われギリギリのところで支えられていることをはじめて知り、それこそ怪我人だったルテリエが心配するほどの取り乱しようだった。


 そして身体の弱さから子が産めず、婚家を追い出されたミモレットは当然のことながら入院したルテリエに付き添い、惚れ合った夫婦としか思えないほど献身的な看護を自ら買って出るようになった。


 ルテリエは朴念仁だが、この義姉が自分に向ける感情が一般的な姉弟愛の範疇を飛び越えているものだとさすがに理解はできていた。


(オヤジはわからんだろうが、義母上はさすがに気づているだろうな)


 ふたりに血の繋がりはなく、そもそもこの世界の貴種は未だに血縁の姉弟で婚姻させる例も少なくはない。


 もう、嫁に行くことはないミモレットの気持ちを慮ってか敢えて好きにさせているのかと思うと複雑な心境になるのだが、健気なこの義姉の好意自体はそれほど悪く思えないルテリエだった。


(というか、この状況からどうすればいいんだろうか……)


 ぶっちゃければふたりとも子供ではない。そして、ミモレットは義理の姉であるということを除けば水準以上の美人であった。


 ルテリエが内心めちゃくちゃ心臓をどきどきいわせながら硬直していると、ミモレットのほうから自然に腕を解いて窓際に移動していく。


「雨、降ってるわね」


「あ、ああ。そうですね。降られる前に帰って来てよかった」


 ぎこちなく返事をして窓際に移動する。


 いつの間にか降り出した雨は、徐々に激しさを増して窓ガラスを強く叩いていた。


 なんとなく距離を詰めるのはよくないかなと勝手に考え、人間ひとりぶんの間を取って立つとミモレットがすっと隣に寄り添って腕を絡ませてきた。


 ほのかな女の匂いとしなやかなやわらかさと温度が伝わって来てルテリエはついつい身体を再び硬直させた。


 自分よりずっと小さな姉をなんとはなしに見下ろすと、視線が交錯した。


「ねえ、ルテリエ。あなたは、私のこと――」


 フロランスのような幼さは微塵もなくなんともいえない大人の色気を感じ、ルテリエは油が切れたからくり人形のようなぎこちない動きで首を動かした。


 このまま禁断の関係がはじまってしまうのかと、どこか恐れに似たものに胸を躍らせていると、こんこんと軽やかに部屋の扉をノックする音が聞こえた。


「夜分すみませんお嬢さま。今、よろしいでしょうか」


 ミモレット付きのメイドの声だ。ルテリエは心のどこかでホッとすると胸を撫で下ろし、顔を伏せたミモレットのつむじを見た。


 ――いいところなのにっ。


 激しい舌打ちとともになにか聞いてはいけない単語を耳にした気がする。その言葉は酷く下賤で淑やかな義姉にそぐわないたぐいのものなので、ルテリエは幻聴であると思い込むことにした。


「お嬢さま。若さまをお訪ねしてお客さまが参られております」


 今度はルテリエにもしっかり聞こえるよう義姉が確かに舌を打ち鳴らしたのを確認し足早に扉へと向かおうとしたのだが腕を掴まれ、どうしていいのかわからなくなった。


「久しぶりだな、ルテリエ。士官学校を卒業してからだから、もう五年になるか」


「レオ……! 急にどうしたんだい? 久々っていうのもそうだが、こんな夜更けに」


 夜間の急な訪問客はルテリエの士官学校時代の親友で同窓生のレオ・ルミアスランサ王太子その人だった。


 折からの風雨によってレオの豊かな銀髪はびっしょり濡れそぼっておまけに身に纏う粗マント程度では彼の身体から自然に発散される高貴さを損なうことはできていなかった。


 ルテリエが聞き知っている情報では、レオは王族軍人にふさわしい戦場の華といわれる騎兵の一軍を預かる将帥のひとりとして今や飛ぶ鳥を落とす勢いのはずだが、今、こうして乏しい薄明りの前に立つ彼の表情はどことなく覇気に乏しいものだった。


「とりあえず、なかに入ったほうがいい。人間が完全防水だといってもそのままじゃいくらなんでも風邪を引く」


 会合の場所は居間に変わった。


 当然ながらのこの深夜の訪問客を家人たちが気づかぬはずもない。


 父母はそろって相好を崩し次代の王であるレオを殊更歓待しようと騒ぎ出したが、このときばかりはルテリエも瞳を三角にして断固として追い払った。


 レオはずぶ濡れになった身体をタオルで拭いながらやや疲れた顔に笑みを浮かべていた。


「ああ、ちょっといろいろ君に話があってさ。数年ぶりだというのに、こんな急な来訪でもうしわけなく思って……いるのだ……が? すまない。彼女は君の細君かな? 結婚していたとは知らなかったよ」


 レオは居間の片隅でつんと澄ましてメイドたちに茶の用意をさせているミモレットを見ながら決まり悪げに苦笑していた。


「彼女は私の義理の姉でミモレットだ。義姉上。もう、ここはいいから、さ」


 ミモレットは元々人見知りの上、無口に近い。彼女は不意の来訪に嫌な予感でもあるのか、ルテリエを心配そうに見つめてこの場から立ち去ろうとしなかった。


「でも……」


「レオが訪ねてきたっていうならよくせきのことなんだ。ね。私は聞き分けのいい女性が好きなんだ。いい子だから」


「私はあなたの姉ですからね」


 なんだかんだいいながらも、ミモレットはルテリエの要望を聞き入れようやくのこと席をはずしてくれた。


「相変わらず、君は変わらないな」


「私としては、こうして酒でも酌みかわしながらレオとたわいない昔話に興じたいんだけど、残念ながら君の用件はそうじゃないんだろう?」


「ルテリエ。君は、いつも俺の心のなかをお見通しだな。実は、今日はどうしても頼みたいことがあって、不作法にもおしかけたんだ。聞いてくれるか」


「いいよ。聞こう。さ、話してくれ」


 レオはソファに深く腰を落とすとうつむいたまま、さも苦しそうな呻き声を上げた。


「……五年もの間、君を黙殺していた俺をなじらないのか?」


「互いに軍務が忙しかったんだ。と、今はそういうことにしておいてくれよ」


「やっぱり君は昔のままだ。借りばかり作って、心苦しいよ」


 ルテリエは顔を伏せたまま、かつて一度たりとも見たことのない威風堂々とした親友の追いつめられた獣のような姿から目を一瞬も離さず、ただ見つめ続けた。レオがいう借りとは、ルテリエ自身がよく知っている。


(それこそ誤解なのにな)


 ことの発端は五年前。


 王立士官学校における卒業試験において、ルテリエとレオは主席の座を争って競い合う無二の友にしてライバルだった。


 最終選考の剣術試合において、ある妙な噂が学内に流れた。


 ルテリエとレオの間で談合を行われており、最後の試合は八百長だというものだった。


 レオは王太子という地位もありなにかと周りからやっかまれることもあったのだが、その実力は本物であり、また剣技も衆に抜きんでてすぐれていた。


 だがそれをいうならルテリエも名門シャンポリオン家の嫡男として十二分な稽古を積んでおり、十八歳だった当時は周囲からの輿望も厚く王太子との対抗馬としては充分な存在だった。


 結論からいえば、ルテリエはレオとの剣術試合に負けた。理由は純粋に体調不良であったのだが、周囲にはそう映らなかったのが大きかった。


 当時、ルテリエを推していた士官学校の幹部連は確たる理由もなくルテリエが王太子であるレオと密約を行ってわざと負けたと決めつけ、可愛さ余って憎さ百倍とでもいうのだろうか、任官後のルテリエに対し巧妙な手口で新品と呼ばれるひよっこ士官には不可能と思われる難易度の高い蛮族討伐を次々に押しつけたのだ。


 ここで、ルテリエが少しは知恵を見せて泣きつくようにして詫びを上に入れていれば問題はなかった。


 が、当時はまだ血の気が多く、また、血筋と才能による天才的な指揮能力の冴えを見せてしまい、次から次へと無理難題を押しつけられるようになったのだった。


 ほかの卒業生は決められたエリートのルートを歩んでいる間にも、ルテリエは小人数の泥臭い野戦術を身体に叩き込まれ、ほとんど休む間もなく賊徒を討伐し続けた。


 この執拗極まりない嫌がらせのような作戦命令はやがて明るみに出て、ルテリエも泥沼から解放されたのであったが、そのときにルテリエ本人自体に元々あったかどうだかわからない上昇志向というものもまったく消えうせ、ほとんど流されるままに倉庫番として生を送るようになっていたのだった。


「俺は、君が泥沼に落ち込んでいたとき手を貸すのを恐れていたんだ。世間から、やっぱりあのふたりはグルだったっていわれのない非難を受けるのが恐ろしくて! おまけに、今、再びこうして虫のいい願いごとを君に頼もうとしている……!」


「レオ、いいかい、レオ。よく聞いておくれ。私たちは三年間同室だった。それは五年経った今でも、私のなかではなにひとつだって変わらない。君が助けを乞うのなら、私がそれを拒む理由はまるでないんだよ」


「……ルテリエ」


 五年の歳月が過ぎて。少年だった頃の面差しを残しているものの、お互いにもはやあの頃の無邪気な少年には戻れないのはわかっている。


 だが、ニキビのあとが残っていた青春時代をともに過ごした戦友との記憶は身体のなかに刻み込まれている。


 上官に骨身に染みるほど制裁を喰らって泣くのを我慢したあの夏の日。


 凍てつく寒風が吹きすさぶ真夜中に叩き起こされ、校庭で無意味に穴を掘っては埋めさせられた体力作りとは名ばかりのいじめ。


 重たい剣を吊ったまま寝ころび満点の夜空にちりばめられた星々を数えたあの日。


 氷のような雨降る野天で逃げ出したい気持ちを押しこらえて草むらに潜んだ野戦訓練。


「さ、相棒。私はなにをしたらいい。なにをすれば君の力になれる?」


「もう新聞は読んだかい」


「ああ。おおよそのところは。ただ後方勤務なので、詳しいところはよくわかっていない」


「あれはほぼ事実だ。俺がつけ加えることはそれほどない。一応は我が国軍はエトリアを野戦で撃破した。それは事実なんだが、問題は周辺諸国の情勢なんだ」


「リーグヒルデのことか?」


 ルテリエは先ほど義姉のミモレットが危惧していたことをチラリと思い出した。


「それだけじゃない、これは軍機密だが場合によっては我が国と国境の一部を境としているユーロティアもエトリアの外交戦略に乗り気らしいんだ」


「!」


 ルテリエは思わず息を呑んだ。


 エトリア二十万、リーグヒルデ十五万、そして大国ユーロティア五十万の消極的同盟軍に狙われれば、たかだが動員能力十万そこそこのルミアスランサは三カ国に国土を分割される恐れも充分ある。


「だからこそ先日の野戦では決定的な勝利が必要だったんだ。エトリアは我が国の西方を徐々に蝕んで、有数な鉱山地帯を飢狼のように貪ろうとしている。少なくとも、今年じゅうに西へと追い返して国境線を回復しないとジリ貧になるのは目に見えている」


「レオ。君は騎馬軍団所属だったね。こんなことをいうのはあれだが、私は左足を大怪我して長時間の騎乗に耐えらえないんだ。君の期待に添うのは難しそうだ」


「そうだったのか。無意味な蛮族討伐戦で……! けど、安心して欲しい。君に頼みたいのは、なんというかこういうのもおかしな話なんだが、危険ではなくそれでいて重要な事柄なんだ」


「そいつは、どんな?」


「俺が君に頼みたいのは、騎馬隊を操って敵兵を蹴散らすのでもなく、弓隊を自在に作用させて敵の意気を阻喪させることでも、歩兵を使って敵陣を落とすのでもない。兵站。君には輜重隊を総括して、軍の胃袋を飢えさせないよう取り計らって欲しいんだよ!」




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