第04話「輜重部隊」

「やっぱやめときゃよかったかなぁ」


 ルテリエは軍総本部で正式な任命書を受け取った瞬間、ちょっとだけ親友の前でイキったことを後悔していた。


 ――本日付けでルテリエ・シャンポリオン少尉を四階級特進の上、輜重兵中佐に任命しルミアスランサ軍兵站総括任務に就任することを命ず。


 国軍元帥レンブラントの印を捺された妙に白すぎる上質紙を前にし、ぼうっとした顔で説明を受けていると、主計総監に引き合わされ細かな作戦任務を伝えられ、出陣までの三日間特別休暇を与えられた。


 いやはやめでたい、と愁眉を開いて悦に入っていたのは父のアンブロースとそれに追従する義母や意味をよく飲み込めていない年少の妹や弟たちくらいである。


 今や傾きかけているとはいっても、五年ぶりにシャンポリオン家の嫡男が輜重隊とはいえ一挙に中佐にまで特進し、飼い殺しではなく子飼い三千の兵を与えられ軍務に就くとあらばお祭り騒ぎにならなはいずがない。


 ルテリエは壮行会の熱狂のなか、ひとり部屋に引き篭った義姉のミモレットを思わなかったでもないが、やはり身辺整理やこれからのことを思えば残された時間は少なかった。


 出発を明日に控えた夜にようやく隙を見て〈白の子山羊亭〉に向かい、いとしのフロランスにひとことなりとも別れの言葉をかわすそうと単身やって来たのだが、彼女は払いのいい冒険者たちの席に着いたまま身体が空かないといった始末だった。


(無理もないか。ここで景気よくチップをはずんで啖呵のひとつも切れれば私も男らしいかもしれないが、悲しいかな先立つものがあまりない。くそ。貧乏人は酒の一杯も満足に楽しめないっていうのかよ)


 もちろんフロランスは目敏いのでルテリエが店に来ているのは気づいていた。


 時折、マックスとかいう巨漢の冒険者に膝抱きにされながらこちらにウインクを送ってくるが、生活がかかっているのでそう無下にもできないらしい。


「旦那。もう一杯どうですか」

「いや、もう、充分だよ」


 ひとり肩を丸めて寂しそうに酒精を啜るルテリエをあんまりだと思ったのか、カウンターにいるバーテンが気遣って声をかけてくれるが今となってはそのやさしさが余計に悲しい。


 かとん、と。わびしげな音を立てて、半ば残ったグラスを置き、情けなくも立ち去ろうとするルテリエを見つけたのは、前回無礼にも絡んだ挙句頭の上から酒精をかけた冒険者の男たちであった。


「おうおう。どっかで見たと思えば、この前泣いて帰った兄さんじゃねぇか」


「懲りずにへこへこやってくるとは、度胸があるんか阿呆かどっちかだな」


「それとも、おれっちたちを舐めてんのか? 喧嘩売ってんのか? ああ?」


 酒が入って興が乗っているのか男たちは店を立ち去ろうとするルテリエを囲むと口々に挑発して手を出させようと挑発する。


「てめぇのせいで酒がまずくなっちまったわ。どう責任とってくれるんだよ。おおっ!」


 男たちは自分の声の大きさでさらに猛り狂った。酔いも手伝っているのか、目が据わっている。


(まずいな。ここでおかしな騒動は起こしたくない)


 明日には出陣を控えているし、なによりもこんなくだらないことで万が一にも怪我を追えば、武門の恥さらしになるどころか軍の除籍すらありうるのだ。


 騒動の中心にいるのがルテリエと気づいたのか、フロランスが怯えた目でこちらを見ていた。


「どうにかいったらどうなんでぇ!」


 背後に回った小男が自分の言葉に激してルテリエの無防備な腰を蹴りつけた。


 さすがに倒れるなどという無様なことはなかったが、よろりと幾分身体が揺らいで左側にいた男の肩にぶつかってしまう。


 カッとなった男がルテリエに殴りかかろうとしたとき、一同のかしらであるマックスが男の腕を掴み取ると威圧感のある声でいった。


「からかうのはそのくらいにしておけ。仮にも軍人さんだ。下手に傷つけちゃロクなことがねぇぜ」


「もうやめてっ。ルテリエさまに酷いことしないでっ!」


 沈黙を守っていたフロランスが金切り声で叫んだ。


 マックスはぶ厚い唇を奇妙に歪めると、剃り上げた禿頭を大きな手のひらでつるりと撫で上げ、くつくつと笑いを喉の奥で噛み殺した。


「ま、フロランスにそういわれれば俺としてもやめるのはやぶさかではないがなぁ。兄さん。俺ら〈燎原の紅〉の空気をぶち壊しにした責任を取って、一杯空けてからじゃなきゃ店を出ることは許せんぜ」


 マックスはそういうと、手にした大ぶりのグラスに並々と酒精をそそぎ、指先につまんだ大蜘蛛をぽちゃりと落とした。


「なにやってるの……なにやってるのよおっ!」


 フロランスが甲高い声を上げて顔をくしゃくしゃにした。


 なるほど。


 この男は詫びの代わりに虫で味つけした酒精を飲み干せとからかっているのだ。


 ここでルテリエが当然のごとく詫びを入れると思っているのだろうが、そいつは甘い。


 野に伏し草に隠れ、蛮族を討伐して来たルテリエにとって毒すら持たない家蜘蛛の一匹二匹はどうということはない。


 軍人として兵糧が切れれば、口に入るものはなんでも喰らって戦い続けなければ意味がないのだ。


 ルテリエはなんともない所作で蜘蛛入りの酒をひょいと飲み干すと「ご馳走さま」と礼をいって酒場をあとにした。


 フロランスの泣き怒りのようななんともえいない表情を見て完全に失望されたなと思い、今夜この店に来たことを完全に後悔したが、ルテリエは心のどこかでこれでいいのだと思った。


 いざいくさとなれば、輜重隊といえど絶対に安全とはいえないし、いつなんどき命を落とすかわからない。


 そもそも彼女と自分は抜き差しならぬ関係でもないし、明日戦場に出るといわれても彼女も困惑するだけだろう。


(別に私が根性なしってわけじゃないからな、たぶん)






 翌朝、ルテリエは早起きして準備を整えると家人に見送られ、王宮近くの軍営に向かうこととなった。


「別におまえまでついて来る必要ないんだぞ」


 ルテリエは準備万端で馬をひいてきたカミルを昨晩の酒が残った頭を軽く押さえながら呆れたように見た。


「なにをおっしゃられる。若さまはあっしがついていなきゃなんもできねぇんですから」


 兵站勤務が主とはいえ危険は常につきまとう。


 が、そんなことではカミルの鉄のような忠誠心は揺るぎもしない。


 というものの、ルテリエは宴の際、この小男が廊下の隅で妻と口論しているのを目にしていたからである。


 しかしそのことを引き合いに出して置いて行っても間違いなく勝手について来るだろう。


 ルテリエは困っているような態度をとりつつも、そうまでしてくれるカミルに胸の奥がほんのり熱くなるのだった。


「で、首尾はどうだったんでござんすか」

「へ。なにが?」


「またまたぁ。昨晩、こっそりお抜けあそばしておいでで。若さま、例の小娘んとこにシケこんだんでやんしょ。ひひ。今宵が別れと、未練がないよう情けをおかけになったんでやんしょう? それでこそ男ってもんで。このカミル、若さまのこと見直しやたで」


「ば、ばかいうなっ! そんなことしてないよっ。だいたい、昨日は酒場になんて行ってない! 飲み過ぎたんで風に当たってただけだって」


「またまたぁ。ま、そういうことにしておきやんしょう。これで、功でも遂げて凱旋なすればあっしが旦那さまに頼んで上手くとりはからうのをお手伝いしやすってば」


「もう一生いってろよ……」


 真実は無頼の徒に囲まれた挙句、昆虫入り特性酒をご馳走されたとは口が裂けてもいえないルテリエだ。


「どうしたんでやすか。青い顔になってやすが」


「自分の不甲斐なさに悲観しているんだ。そろそろ黙ったほうがいい。お偉方がお見えになった」


 とまあ、カミルとくだらないやりとりをしている間に家人やメイドを引き連れ両親であるアンブロースとリーアが姿を現わした。


「シャンポリオン家の名に恥じぬ武勲を期待しておるぞ」


 アンブロースはことさらしかめつらをしながら団扇のような巨大な手で背を叩く。


 ルテリエは痛みに顔をしかめながらわかりましたとだけ呟いた。


「ルテリエ。水には気をつけて身体を壊さぬように」


「父上、義母上。行ってまいります」


 従者のカミルを連れて馬上の人となろうとしたとき、義母のリーアにちょいちょいと袖を引かれ立ち止まった。


「ルテリエ、ほら……」

「義姉上?」


 振り向けば門の柱のそばにこそこそと半身を隠してこちらを窺っているミモレットの姿があった。


(なんとなくだけど、気まずいなぁ。義姉上は私の出陣を嫌がってたみたいだし)


 ルテリエが長く息を吐き出しミモレットに近づいていくと、彼女はハッとした表情で意外に素早い動きで駆け出していった。


「あっ。ちょっと待ってください。義姉上! こらっ、待ってくださいってば!」


 とはいえ、地に着きそうなひらひらしたドレスではスピードもたかだか知れたもの。


 ミモレットを中庭の四阿あたりで追いつくと、背を向けておかんむりの娘をどうやって説得しようかルテリエは思い悩んだ。


「義姉上。子供じゃないんだから、追いかけっこでもないでしょうに……」


「ねえルテリエ。本当に、危険はないの?」


「そのことを思い悩んでいたのですか。私は前線に出るといっても主に担当するのは補給関連のお仕事で、騎馬を駆って敵を打ちあうわけじゃないのですから義姉上の思っているようなことにはなりませんよ」


「本当に、本当?」

「うっ……」


 くるりと振り向いた大きな瞳に覗き込まれると、心が落ち着かなくなる。


 彼女はルテリエの軍服にそっと自分の顔を埋めると、ほっそりとした腕を回しぎゅっと抱きついて来た。


 甘いような焚き込められた香の香りと女性独特のやわらかな肉の重みで、長らく女体と接していないルテリエの頭のなかは煮えそうになるが、抱き返そうとして思い直した。


 そっと彼女の手を握って今度はさけずに真っ直ぐ見つめ返した。


「義姉上、ひとつだけ約束します。私は必ずこの家に帰ってきます。それまで待っていてください」


「ルテリエ……!」


 感極まったように涙目になったミモレットの少々姉弟の規範を飛び越えた情熱的なキスの洗礼を受け、ルテリエは今度こそ思い起こすことなく屋敷を出て軍営に旅立つことができるのだった。


 戦争のプロは兵站を朴訥に語り、戦争の素人は戦術をきらびやかに公言する。


 いかなるすぐれた戦略も指揮も、充分な兵站なしでは効果を発揮することはできない。


 輜重兵中佐に任命されたルテリエは三千の輜重兵と三万の輜重輸卒を率いて、敵国エトリア軍と睨み合っている母国ルミアスランサ軍の駐屯地に向かった。


「いやはや、これは酷いもんだね。わかってはいたが」


「若さま。逆にあっしはこれを見るたび、ああ戦場だなって思うんでやすがね」


 八万の軍が陣を張る前線の駐屯地には雑多な人間がところ狭しとあふれ返っていた。


 軍隊にお決まりの従軍商人に、派手ではあるが汚れたドレスを引きずった娼婦の群れに、軍将校が引きつれた愛妾たちやそのお付き、それらを守る貴族や小者に大道芸人やおこぼれをもらおうとついてきた浮浪者など数限りない。


 視線をあちこちにやれば戦場には不似合いな子供まで多数いる。


 これらは軍隊の巨大な「しっぽ」であり、どこから現れたのかわからない彼らは軍が進発すれば絶えず着かずに追いすがり移動能力を損なわせる原因でもあった。


「とりあえず元帥閣下に目通りを願おうか。先発しているレオも本陣に戻っているだろうし」


 ルテリエはまるで祭りのようなどんちゃん騒ぎのなかを移動し、ようやく本営が設置されている区画にまでたどり着くとひと息ついた。


 さすがにこのあたりの天幕には物々しい番兵が抜かりなく目を光らせ、重たげな甲冑をつけ、移動するごとに誰何を受けた。


 軍の規律は思ったよりも保たれているが本質的な問題はそこにはない。


 ルテリエはこうして歩ているうちにも、頭のなかでこの軍隊をどうやって最強に作り変えるか試行錯誤を巡らしていた。


 従兵にルミアスランサ国軍元帥レンブラントに面会の申請を行い、薄暗い天幕のなかなすことなく突っ立っていると、かちゃかちゃと鎧のこすれ合う音を響かせながら王太子であるレオ将軍が姿を見せた。


「ルテリエ! 今到着したのかい? 教えてくれれば迎えを出したのにっ。水臭いな!」


「はは、君も元気そうだねレオ」


 人懐こい大型犬のように巨躯を震わせながら飛びついて来るこの友人を真正面から抱きしめて泡を食っていると、その背後で冷たい視線をぶつけてくる若い女性に目が留まった。


「えっと、レオ。そこの美しいご婦人は?」

「ああ、ルテリエ。こいつは俺の妹で――」


「私はシェリー・リンドバウム。階級は騎兵中尉だ。あなたが兄上と心安かろうとも初対面でそのように評される謂われはない!」


 陽気なレオとは対照的にシェリーは噛みつくように一声吠えると、小柄な身体から猛烈な怒りのオーラを発散させ、ずかずかとその場を立ち去って行った。


(いや、チラッと見ただけだったけど、すっごい美人だな。彼女は)


「レオ。私は彼女になにか失礼があったかな?」


「いや、もうしわけない。どうやら俺が、会うたびに君の話ばかりしているせいで、どうも妹は拗ねてしまったようなんだ。いつまでも子供でも困るんだよなぁ」


「そうなのか? まあ、女性の専門家の君がいうんであれば間違いないだろうなぁ。なんせ、私はこいつがいうには女心がまったくわからない朴念仁だそうだからね」


「若さまぁ、勘弁してくださいよぉ」


 控えていたカミルが困ったように顔をしかめるとレオは整った顔を子供のようにして快活に笑った。


「相変わらず、君は君だな。まったくここはもう戦場だっていうのに、不思議な気持ちにさせるよ」


「おいおい。私はあくまで兵站勤務なんだからレオにはしっかりやってもらわなきゃ困るよ」


 そうこうしているうちに新任のルテリエはレオに連れられて、軍の諸将及びルミアスランサ国軍総司令官レンブラント・オルデ元帥へ引き合わされた。


 幾度も述べたようだが、今は困窮しているとはいえルテリエの実家はルミアスランサでも有数の名家である。


 各軍団を率いる将校のほとんどはルテリエとは縁繋がりであり、たいした忌避感もなく将の末席に連なることを許可され、とりあえずホッとした。


 一般に輜重隊というものは一般的にいえば実戦で使い物にならなくなった老兵や廃兵、あるいはまともな用をなさないと判断された廃れ者が行うべきだという蔑視的な風潮が根強くある。


 軍が先進的であった隣国エトリアを真似て改革された際に、それらは撤廃されるよう通達があったが、このような感情的なものは命令ひとつで払拭できるものではなかった。


 諸将はルテリエを迎え入れたものの、なんとなくではあるが距離を置くような気配を漂わせており、さすがののんびりしたルテリエも居心地の悪さを感じ、固めの宴は戦時でもありそれほど盛り上がりらずに閉会した。


 輜重兵とは兵站を任務とする兵種であり、軍需物資の輸送をはじめとする軍の生命線ともえいる重要な役どころであるが、やはり一線で華々しく戦う兵たちとは違ってその重要性及び武功のわかりやすさは格段に劣っていた。


 この輜重兵の下に位置するのが輜重輸卒であり彼らは装備は身を護る短剣程度であり、いうなれば荷物運びの軍夫というのがわかりやすいだろう。もののたとえにも、


 輜重輸卒が兵隊ならばトンボチョウチョも鳥のうち


 といわれるほど侮蔑された存在であった。


「すまない。でもこの仕事の意味を分かって確実にこなせる人間は君しかいないんだ」


 宴の終わりのあと、天幕に送ってもらう際ルテリエはレオから苦渋と憤慨に満ちた言葉を聞きなんともえいない顔となった。


 自分としたらこの軍役に就いた時点でそう蔑まれることはわかりきっていたが、この「兵站」といいう作業は馬鹿ではできない。


 むしろ、軍そのものを大局的に見ることができなければ、継続は愚か改善すら不可能だろう。


「レオ。もうそんなことは二度といってくれるなよ。私が君たちをなんの不自由なく全力で戦えるようサポートするよ。私の功は君だけが知っていてくれればいいさ」


「ルテリエ……! 感謝する!」


「おいおい、こんな暗がりで抱きつくなよ。レオ将軍は男色だと明日には噂の的になってしまうぜ」


「あはは。そいつは俺も勘弁だな」


 顔を見合わせて闇のなかで笑った。ルテリエは幔幕の陰で、チラリと草ずりの音が聞こえた気がしたが、顔を向けたときにはもう誰もそこにはいなかった。


 翌朝を迎える前、ひとつだけ変事が起きた。


 深更、ルミアスランサ軍の駐屯地付近で敵の大物見(威力偵察隊)と撃退に出た騎馬隊とが小競り合いを行ったのだ。


 やや離れた場所であったのと、天幕のあちこちで兵が動く気配を感じ、寝具のなかでいつでも飛び出せるよう剣を抱きかかえていたルテリエにそれが知らされたのは、翌朝になってからだった。


「おはようルテリエ。昨晩はよく眠れたかな」


「おはよう、レオ。君こそ寝ずの軍務についていたのだろう。いくら私でもあの状況でぐーすか寝入るほど無神経じゃないよ。あはは」


「そうかな? 君は意外と図太いところがあるからなぁ。とにかく君は兵站と兵糧集め専念してもらいたい。それと、ひとつお願いがあるのだけど、いいか?」


「なんだい。借りを作りたくないとかいっておいて、はは。っと、確かその人は」


 レオの背に隠れるようにしていた女将校は左腕を吊ったまま、むくれた顔でそっぽを向いていた。昨日紹介されたレオの異母妹であるシェリーだ。


 兄と同一の銀色の髪を右腕で神経質そうに触りながら、バツの悪い顔をしている。


「昨日敵の大物見を撃退したのはシェリーの部隊だったんだが。運悪く落馬してこのありさまさ。俺は後方の病院で怪我が治るまでゆっくりしろっていったのだけど、どうにも聞かない子で」


「兄上! わたしは片腕が少々使えなくても立派にお役目を果たすことはできまするっ!」


 王族の血を受け継いだ洗練された美しい容貌を歪ませシェリーは「こんなものどうってことない」というふうに右手で吊った左腕を叩いて眉間にシワを寄せた。


「君、折れた腕はくっつくまであまり触らないほうがいい」


「そんなこと貴様にいわれんでもわかっているっ」


「シェリーっ。彼は俺の友人である前におまえより遥かに階級が上だ。よもやここが軍であることも忘れたとはいわせないぞ」


「うっ……くっ……はい」


「わかったなら今までの非礼を詫びよ。ルテリエは温厚にして篤実な男であるとはいえ、これ以上の暴言は彼が許しても俺が許さない。おまえが軍に入る際王族であることをひけらかさないと俺や国王にも誓ったはずだ。これ以上、俺に努力させないでくれ」


「ルテリエ中佐。今までの私の非礼お許しください」


 シェリーは地面に片膝を突くと顔を伏せて殊勝に詫びたが、彼女の頭からツンと立ったくせ毛からなにやら強烈な反抗のオーラを感じルテリエは冷汗を浮かべた。


「私ならそれほど気にしていないさ。さ、シェリー中尉。ここは人目もある。立って立って」


「ご寛恕のほどありがたき光栄でございます」


(目が、目が笑ってないな。はは)


 シェリーは瞳にゆらゆらと飢えた猛虎のような激烈な恨みを燃やしながら、こちらをジッと見据えている。


 ちょうど背後に立ったレオからはわからないので、ルテリエは彼女が相当に気の強い女だと知って、知らず後ずさりしていた。


「そういえば突然で話は変わるが、ルテリエ。君はまだ独り者だったよな! 特定のこれという恋人もいないのだろうっ。そうだなっ!」


「え? あ、うん。まあそうだけど。当然のようにいわれると結構ショックなんだが。一体急になんだい」


「このシェリーもいい年をして縁遠くてねっ。ちょうど独り者なんだっ」


 レオはなにがおかしいのかひとしきりわははっと豪快に笑って子供のような目でルテリエと仏頂面のシェリーを交互に見た。


「なあ、ふたりとも。ちょっと並んで立って見てくれないか。おおっ! なんとあつらえたようにピッタリじゃないかっ。うん? まあ、それほど気にしてくれるな。他意はない」


(わ、わかりやすすぎるやつだな……!)


 レオは豪放磊落。勇猛果敢でカリスマがありそこにいるだけで人を惹きつける王者の風格があったが、その思考は誰にでも読み取れる単純極まりないものだった。


(頼むからそのくらいにしておいてくれ。君の妹、なんだか怖すぎるぞっ)


「で、お願いっていうのは?」


「ああ、ああ! それだったそれだった! ルテリエ。君にシェリーを預けたいんだ」


「兄上っ!」


 シェリーがまるで猛獣の眼前に引き据えられたかのように、ざざっとルテリエから距離を取った。さすがに若く美しい婦女子にこういう態度をとられると心が傷つく。


「シェリーは利き腕をやられたのだが、後方の病院で治療するのを拒んでいるんだ。まあ、見立てでは静かにしていればそのうち治るというのだが、この子はどうしても後方に下がるのを嫌がってね。それでだ。シェリーを君の副官として使ってやってくれないか。こう見えても、こいつはなかなかに気が利くしなんといっても美人だ! いや、今のは失言。俺はね、君にだけ困難なものごとを振っておいていろいろ心苦しいんだ。それにシェリーならきっと君の役に立って我が軍の勝利に貢献してくれると確信している。どうだ、頼めるか?」


「君がそこまでいうのなら、こっちも人手は多いほうがいいし」


「なら話は決まりだっ。よかったなシェリー。ルテリエにかわいがって――もとい、お役に立つよう頑張るんだぞっ」


 レオはいいたいことだけいうと背後に控えていた将校たちを呼びよせ天幕の向こうに消えていった。


 その場にぽつねんと残されたのは涙目を浮かべる傷ついた女将校は遠ざかる兄の背をいつまでも眺めていたかと思うと、ルテリエを振り向きざま睨みつけてきた。


「な、なにかな」

「ルテリエ中佐。勘違いしないで欲しい」

「だ、だからなにを」


「兄上は私を……その、その……貴公のこここ、婚約者としてそばに置いておこうと変な気を回しているのだろうが、こちらはこれっぽっちもそんな気はないっ。戦場であるがゆえ、そういった高ぶりは当然あるだろうが、もし、おかしな真似をしてみろ。この剣が、貴公の首を伐つ!」


「シェリー中尉。私はそんなこと初耳なんだけれど」


「え、あ、え? だ、だって兄上は最近私の前であなたの話ばかりするから、てっきり今回はそういう含みを持たせているのかと」


「私とレオはもうずいぶんと会っていなかったんだし、さっき私に既婚者かどうかを確認していただろう」


 シェリーは「えっえっ」と呟きながらたちまち雪のように白い頬をポッと赤く火照らせ、目をうるうるさせ強い恥じらいを見せた。


 口元をへにゃへにゃさせ、なにかをいってやろうとルテリエの顔を見るのだが、どうやら有効打が思いつかないらしい


 彼女はさっと顔を後方に向けると、しばらくときを置いてから振り向きざまさっきと同じよう強い非難の目線を送って来た。


「ルテリエ中佐。勘違いしないで欲しい」

「そこまで戻るのかよ」


「私を貴公の思い通りにできる人形と思われては困る。そのあたりを充分心得ることだな!」


「ぜんぜんそんなこと思ってないから」


 ルテリエはううと小さく呻くと、右肩をぐるぐる回しながら歩き出した。


「あ、どこに行くんだ? 一応私は貴公のお目付け役に任命されたんだ。勝手に行動されては困る。これからは離れるときは、向かう場所とどれくらいかかるかを明確に書面で提出してもらわなければっ」


「いちいちそんなことできないよ。それに、ちょっとこのあたりを調べるだけだから」


「このあたりって?」

「この駐屯地さ」


 ルテリエはカミルとシェリーを引き連れ駐屯地のなかをぐるぐる徘徊した。


 将校たちが寝起きする天幕群を抜け、兵士たちが屯する通りをゆっくりと歩けば、自ずと陣地の構えが頭のなかに染み込んでゆく。


 娼婦たちは今起き出したのか、あふっと艶めかしい欠伸を噛み殺しながら、そぞろ歩きをするルテリエを見て秋波を送って来た。


 一度もいくさをしていない新品同様のまっさらな軍服と階級章を見て上等なカモだと判断したのだろう。


 背後を歩くシェリーが嫌悪も露わに威嚇すると困った顔で笑みを浮かべ投げキスまでして見せた。


「は。退廃の極みだな。中佐も男だから今夜の下見というわけかっ」


 女性軍人であるシェリーは穢れたものを見たかのように吐き捨てると、あからさまにイライラをぶつけてくる。


(そういわけじゃないよ。こいつは衛生管理。彼女たちも軍から見れば“物資”のひとつにしか過ぎないんだよ)


 ルテリエもシェリーにぶっちゃけて伝えることもできず無言の行を通した。


 兵士と娼婦は古来より切っても切れない仲である。


 今や隣国に攻め込まれ自国の領土で戦っているとはいえ、正常な男が女に対する欲望を捨てきれるはずもない。


 彼女たち娼婦を完全に排除してしまえば、兵たちは陣を抜け出して近隣の村々の女を襲うのは目に見えていた。いわば必要悪といったところか。


 昼間から兵士たちに芸を披露してささやかな銅貨を稼ぐ大道芸人や従軍商人たちが雑多なものを荷馬車の前で広げて商っている。


「ずいぶんと値が張るな」


 ルテリエがしなびた干し肉や乾燥野菜、ビスケットや酒に煙草といった嗜好品の値を商人から聞いてびっくりしていると、隣にいたシェリーが小さく鼻を鳴らした。


「そんなのはあたりまえだ。ここは戦地だぞ。危険を冒して輸送しているのだし都と同じ値で売れるはずないだろうに」


 あまりに無礼過ぎるものいいであるが王族の姫騎士といっていいシェリーに表立って文句もいえないのか従者のカミルは顔をへんてこりんに変形させながら我慢している。


 ルテリエが見るところ、一兵卒に至るまで暴利といっていいほどの値でも従軍商人の並べた品を争うようにして買っている。


「大繁盛だな」


「商人たちも命を賭けているのだから売れなければ困るだろう」


 ルテリエは商人たちの馬車から離れると自分に与えられた天幕へと戻った。


 簡易的な椅子に座ると、外套をはずして首を捻って音を鳴らす。


 カミルが茶を用意していると、不機嫌なまま押し黙っていたシェリーが空いている対面の椅子に腰かけた。


「で、ルテリエ中佐どの。私はなにをすればよろしいので? 栄誉ある騎兵隊所属の私にまさか荷車を押せとはいわないだろうな? ホラ、見てください。この腕じゃあか弱い私にはとてもとても」


 シェリーは厭味ったらしく包帯で吊っている左腕を右手でとんとんと指差して見せる。


 彼女の声は少女であるがゆえに貫禄に欠けルテリエは微苦笑するだけで特に腹も立たなかった。


 もっとも人によって受け取り方は様々だ。


 カップに茶をそそいでいたカミルの腕が小刻みに震えてカタカタと茶器を鳴らしていた。


 まず主であるルテリエよりこの従者がキレるのが先だろうなと、わずかに生えた顎鬚をぽりぽり爪で掻く。


「じゃあ、荷車でも押してもらおうかな――って冗談だって」


 やはり気が短いのかシェリーはすぐさま椅子を立つと眦を決して、まるで親の仇のような燃え立つ怒りを真っ直ぐぶつけてきた。


「認めないぞ……! どうやって兄上をたぶらかしたかは知らないが、男娼上がりの男などを認めるものかっ!」


「おいおい、そりゃいったいどういうことなんだ?」


「もう黙っておれやせんぜっ! いくら姫さまだって若さまにいっていいことと悪いことがあるぅ。とんだいいがかりも甚だしいぜっ。第一若さまにゃあ――」


 怒りが抑えきれなくなったカミルがティーポットを地面に叩きつけ、ずかずかと歩み寄るとシェリーは片手でカミルの腕を取ると、毬を放るように投げてみせた。


「ぐえっ!」


「カミルっ。だいじょうぶかっ? って、こんな少女にやられるなんて情けないぞ」


「うぐぐ、若さま。面目次第もござんせん」


 ルテリエがカミルに駆け寄って抱き起すとシェリーはぶるるっと身体を震わせておぞましいものを見る目つきをした。


「ほらまたっ! 貴公は昨晩もそうやって兄上に抱きついて色仕掛けで寵愛を得て任官したに違いないっ。そうでもなければ出世コースからはずれた男が、たとえ輜重隊といえどいきなり四階級も得心の上に抜擢されるわけがないっ。あまつさえ、わ、わわわ私を上手いこと手に入れて利を貪ろうなどとは――天が許してもこのシェリー・リンドバウムが許しはしないっ!」


「待った。シェリー中尉。ちょっと落ち着こう。一体全体、どっからそのような珍妙極まりない陰謀論が生まれたのやら」


「ふん。この期に及んでシラを切る気か。ならばここで少々待っているがよいっ」


 シェリーはいいたいだけいうと、天幕を出てバタバタと駆けて行った。


 しばし待つと、外から「お嬢さまー」や「お待ちになってくださいっ」などの若い女たちの多数の声が聞こえた。


「待たせたなっ。これが貴公の証拠そのものだっ! とくと目にするがいいっ」


 バッと入り口を押し開いてシェリーが持参するかと思うと、開いた行李が目の前に叩きつけられ、なかにあった書物らしきものが地面へ乱雑に広がった。


「なんだこれは……」 


 ルテリエが書物を広げてめくってみると、そこには都で発禁になったいわゆる男色を扱った耽美ものの艶本の数々だった。


「メイドたちが教養にと勧めてくれたのだが、貴公は、士官学校時代、む、むむむ無理やり兄上に、こ、こここ、この本にあるような関係を迫り、今またそれを蒸し返して己の栄達を目論んでいるのだろうっ。この本はすべて実際にあったことだとジェーンが教えてくれた! さあ、貴公も恥を知るならば今までの悪業を悔い改めなんとか私が元の騎兵軍団に戻れるよう兄上を説得するんだなっ」


「あのなぁ、中尉」


 シェリーの背後で真っ青な顔をしているメイドたちはそろって「あちゃあ」という後悔顔をしていた。


 おおかた彼女たちは長対陣が続く戦地に持ってきたこのような本を面白半分にシェリーに勧め、なぜか奇跡的にシェリーがそれらを信じてしまったのだろう。


「ひとつ聞いていいか。軍に入る前はどこでなにを?」


「私は、半年前任官するまでシェルフルー修道院に十年ほどいたっ!」


「ああ、そう。なーる……」


 貴族令嬢が悪い虫に狙われないため嫁ぐまで生活することで有名な尼僧院である。


 メイドたちを睨む。彼女たちはそっぽを向いて唇を尖らせると口笛を吹き出した。


 ルテリエは本来の仕事に取り組むまでに、まず、この思い込みの激しい姫騎士の誤解を解かなければならないことを知り、激しい疲労感が押し寄せてくるのを感じた。



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