鋼鉄のロジスティクス

三島千廣

第01話「大魚を逸す」

 いくさはいよいよ佳境に突入していた。


 見渡す限り一切の遮蔽物が存在しない平原にて、共和制軍事国家エトリア軍十万と、ルミアスランサ王国軍八万は血煙で大地が染め抜かれるほど互いに、全力を尽くし智嚢を振り絞って殺戮を行い続けていた。


 ――来る。

 そのときは、もうすぐやって来るはずだ。


 ルミアスランサ王国軍騎馬軍団の若きエースにして王族将軍のレオ・ルミアスランサは白金造りの甲冑の下で赤い瞳をぎらつかせながら戦機が整うを今か今かと待ち望んでいた。


 前方では〈白地に青蜂〉の王国旗と〈剣に鍬〉をかたどったエトリア共和国軍の旗が幾重にも揉み合い、懸命に押し合いへし合いしているのが目に映った。


 レオの後方からは轟雷のような突撃陣太鼓がどろどろと絶え間なく鳴っている。


 その規則正しいリズムを耳にしているうちに、頭がおかしくなって遮二無二飛び出したいような気持になってゆく。


 知らず鞍の前輪を拳で強くゴツゴツ叩いていたのか、手甲の間から滲んだ血がトロトロと染み出ていた。


「兄上。どこかお加減でも悪いのですか?」


 随伴していた妹の声でレオはハッと我を取り戻した。


 握り締めていた手綱の手をゆるめると、なんとか平静ないつもの自分を取り繕って応えた。


「なんでもないよ、シェリー。ちょっとした武者震いってやつさ」


「ならばよいのですが……」


 シェリーはレオの腹違いの妹であり、女だてらに軍人を志願した気の強い娘だ。


 なにせ剣は男顔負けの腕であるが、その容貌は妖精のようにかわいらしい不思議なアンバランスさがあって、兄ながらドキリとさせられることも多々あった。


(落ち着け。まだだ。まだ、今じゃない。機を読み間違えるな)


 敵であるエトリア軍と干戈をまじえること、十六回。


 今年に入ってから、それこそ季節を問わずのべつ幕なしといったところか。


 小競り合いを含めればそれこそキリがないほどやりあっている。


 懲りてエトリア側が矛を収めてくれればいいのだが当然ながらその兆候もなかった。


 レオがまだ幼少期の頃は隣国との仲はそれほど悪くはなかったのだが、所詮国が違えば互いに心から分かり合えることは不可能なのだろう。


 典型的な農業国であるエトリアは多数の鉱山を有するルミアスランサをあの手この手で揺さぶって少しづつ国境付近の小領主たちを寝返らせ、国土を蚕食した。


 これほど大規模な会戦はレオが中将に昇格してから、片手で数えるほどしか行っていない。


 こちらとしては芋や麦しか取れないエトリアの領地などどうだっていいのであるが、ここいらで一発ガツンと決めねば、それこそ無駄に国費を消費し意味のない苦しみを民衆にしいるはめになってしまう。


 初夏の照りつける強烈な日光が兜ごとレオの身体をジリジリと焼いていく。


 頭のてっぺんに紅の飾りをつけた兜はお世辞にも通気性がいいとはいえない。


 乾燥しきった気候であるとはいえ、さすがに長時間日向にいればこたえるのだ。


「兄上、見てくださいませっ。我が軍の歩兵が敵の前陣を突き崩しました!」


 戦場にはまるで似つかわしくないまだ少女であるシェリーの声が通り抜けていく。


 なるほど。


 ルミアスランサの歩兵部隊は槍の叩き合いに打ち勝って、どうにか敵前衛の厚い囲みの一部を崩す、ほどまではいかぬがせいぜい引っ掻き傷程度はつけられたようだ。


 が、その程度でいい。


 ちょっとした陣の崩れが拮抗した両軍の勝敗を分けることとなる。


「敵がほころびを見せた。伝令。騎馬隊をあの凹みに入れろ。首は討ち捨てにし捕虜は取るな。速度重視で徹底的に敵軍を引っ掻きまわしてやれ」


 レオは伝令に騎馬隊を出すよう命じると、愛馬である白鹿毛〈銀竜号〉に跨ったまま、指揮棒を上から下に振った。


 練度も装備も経験も指揮官の能力も同程度となると、決定的な差はまずないに等しい。


 刻一刻と戦況が変わっていく野戦では、部隊ごとの細かな駆け引きは将に委ねられることになる。


 レオは二十三という若さながら、それを確かに持っていた。


 微動だにしない巌を小さな鑿で根気よく削るような作業だ。


 そのうえ肩に伸しかかる幾千の兵たちの命はたとえ全軍の総指揮官でなくても、騎馬軍団の将のひとりであるレオには耐えようもない重圧だった。


 レオは燃え立ちそうな自分の魂を鎮めて、波紋ひとつない湖面のように静かな佇まいでジッと彫像のように凍りつき、兵士たちの命のやり取りを冷酷に眺めていた。


 気が遠くなるような長い時間か。


 それとも戦いの潮目が変わるのは一瞬だったのだろうか。


 ほどなくしてエトリア軍団の一角は目に見えて崩れ出した。


「俺が出る。シェリーはここであとの者たちを頼む……!」


「はあっ……? ちょっと待ってください、兄上ッ! そんな自ら――」


 こうなれば黙って後備えでジッとしていられないのはレオの性分だ。


 レオは引き留めようとする護衛の貴族たちを振り切ると敵の矢が届きそうな前線にまで突出して部下たちを督戦しはじめた。


「かかれ、かかれっ! みなの者、ここが先途と思えっ!」


 指揮刀を振るって自ら馬を乗り入れ配下の騎馬隊たちが敵陣を縦横無尽に駆け回り、ついにはエトリア軍の足並みが崩れ去って敗走に移るのを見るやレオは馬をその場に留め、獅子が咆哮するよう高らかに勝鬨を上げた。






「追撃はしないですって! なにをおっしゃられるのですか、閣下!」


 各軍団の指揮官がそろった天幕のなかでレオは声を嗄らして目を剥き、狂ったようにして叫んだ。


 ルミアスランサ軍総司令官レンブラント元帥は、落ち窪んだ眼と印象的な鷲鼻をぴくりと震わせ、レオを脚にまとわりつく仔犬を払うようにして手を振った。


 薄暗く、獣脂を燃やすほのかなランプの灯火のなか、一同の表情は暗い。


 レオはかぶっていた兜を地に叩きつけると憤懣やるかたない表情でギリギリと歯を噛みしめて、今にも目の前の総大将をなじる言葉をなんとか押し殺した。


 レオの美しいなめらかな銀髪が荒々しく波打って流れた。


 自分は激してしまえば前後の見境がつかずに噛みつく傾向がある。


 この性格で、今まで幾度も失敗を犯してきたが、今日という今日は黙っていられない。


 追撃戦はもっとも敵の兵を討ち取ることができるいわばボーナスステージのようなものだ。


 此度の会戦は、敵将の主だった者、三十六人の首を上げる大勝利であり、今や統率の取れなくなったエトリア兵たちは三々五々バラバラになって、ここからそう離れていない丘で一時的に集結を行っていると子飼いの斥候から聞き及んでいる。追わないという法はない。


「王太子。追撃したくともできない理由がある」


「その理由を是非ともお聞かせ願いたいっ。このままでは死んでいった兵たちにあの世で顔向けができませぬっ!」


「兵糧が足りない」

「な――!」


「ほぼ完全に尽きたといっていい。我が軍には、もはや都に戻る量すら怪しいほどにな。飯の二、三日は我慢させても兵や馬は動けるが、武具や弓矢の補充なしに戦い続けることはできぬ。無理に兵を押し進めても、その場合はエトリアの領内に入ってしまう。万が一敵地で囲まれればなす術はない。八万の兵は全滅するだろうな。一応は勝ちいくさだ。リスクをとる必要性はない」


 レンブラント元帥は苦渋に満ちた言葉で告げると、諸将に陣払いの指示を出し、各々気まずそうにレオの顔を見つつ天幕を出て行った。


 レオは失意に打ちひしがれて外に出ると、慌ただしく陣払いに励んでいる兵卒たちの動きを虚ろな瞳で眺めていた。


「兄上。軍議の結果はどうなりました? 追撃ならば、私が自ら露払いを相努めまする」


 シェリーは未だ勝利の余韻に浸っているのか、頬を紅潮させ瞳を輝かせていた。


「撤退だ。追撃はしないことに決定した」


「な! 先ほどの野戦はお味方の大勝利ではないですか! 今こそエトリアを徹底的に叩いておかねば我が国に平穏をもたらすことはできませんっ」


「軍需物資が欠乏したらしい。飯はともかく、武具の補充がなければ戦闘を継続できない」


「そんなっ!」


 シェリーが目をまん丸にして悔しそうに唇を噛むのが見えた。


 誇り高い彼女のことだ。後方の手抜かりで満足に戦えないことを心底激怒している。


 美麗な眉が釣り上がり、レオがいなければそばの兵に当たり散らしていただろう。


 人は、自分以外が度を失うと案外に冷静になりやすい。


 シェリーを見ているうちに冷静さは自然と戻っていた。


 レオはふう、と深く息を吐き出し空を仰いだ。


「まさかこんな結末とはな」


 天は皮肉なまでに青く眩しいほど爽快だった。

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