第08話「慰問部隊」

 エトリアの手が回った後方攪乱部隊の役目を担っていた叛徒たちを残らず平らげたのち、ルテリエは駐屯地に帰還した。


 といっても、やることは山ほど残っているし息つく暇もないとはこのことだった。


 前線では本軍と敵勢の小競り合いが本格化し、国境線を奪い合って幾度かの前哨戦が行われた。


 ルテリエは補給路の確保に汲々とし、山のように積み上げられた書類と再び格闘することとなった。


「ルテリエ、いるのか? 道路計画のことで話が――うわっ」


「んん。ああ、シェリーか。悪いけど、時間があったら水を一杯汲んできてくれ」


 気がつけば机のなかで積み上げられた書類のなかに、しばし落ちていたらしい。


「なんだ、この膨大な量の書類は」


「前線から送られてきた補給物資の要望書だよ。今、精査中だ」


「尋常一様ではないな」


「かといっていわれたまんま、はいそうですかと片っ端から送るわけにもいかないしな」


「なぜだ? 向こうが必要としているのなら、望むまま送ってやればいいのではないか」


「それをやったら、ここはあっという間にカラになるよ」


「しかしな、ルテリエ。兄上も、前回は兵糧切れで追撃を断念している。大は小を兼ねるというし、そもそも物資は潤沢にあったほうが現場としては心強いぞ」


「……あのな、シェリー。軍隊は常に移動する生き物なんだ。現に睨み合っているとはいえ、ルミアスランサ軍も絶えず西に移動している。下手に不必要な物資を補給しても随伴する輜重の荷馬車の数は限定されているし、敵の手に渡る可能性を考慮すれば火をかけて始末しなければならなくなる。必要なときに必要な量を。こっちも、頭を使って、一応は幅を持たせて送っているんだけど……正直、軍用金も湯水のように有り余っているわけじゃないんだ」


 ルテリエが輸送に使用しているルートには限界があるし、各方面に分散し、常に動き続ける各隊へと補給を円滑に行い続けるのは異様なほど細密で地味な努力が必要とされた。


「うん。とりあえず、水が必要なら今持ってくる。待っていてくれ」


「報告書、置いて行って」


 ぱたぱたと天幕を駆けていくシェリーの背からすぐに視線を切って新たに増えた報告書に落とした。


 軍用道路の整備は思った以上に捗っている。


 これはついこの間、ルテリエに不満を持つ士官を子飼いの一族に切り替えたおかげで命令の伝達が上手くいっていると判断してよかった。


 ルテリエは特に門閥主義というわけではないが、急ごしらえの隊で信頼を構築するのは不可能に近い。


 そういった意味で今回は一族でも作事に手慣れている親族を現場監督としてあちこちに送ったのだが、効果は目に見える範囲でジワジワと効いているようだ。


(が、問題はやっぱ金なんだよなぁ……思った以上地場から軍夫が集まったおかげで工事の進捗は上々なんだが、経費に足が出まくりだぁ。また、財務大臣に直で掛けあって金を引き出すか……んー難しそうだが)


「ルテリエ……中佐。水をお持ちしました」

「ん、ご苦労」


 シェリーの言葉遣いが堅苦しいものに戻っていると思えば、隣には部下のウォーレン輜重兵軍曹である。


 四角い顔をした髭面の男はドングリのような眼をギョロつかせながら、しゃっちょこばって敬礼を行うと訥々と自らが担当としている河川における橋の工事について口頭で報告を行った。


「――以上が今朝までの状況であります」


「軍曹。了解した。直ちに見聞に向かう。なにかほかにつけ加えることはあるか?」


「夜半のにわか雨でやや河は増水していますが、なぁに軍夫どもをどやしつけて超特急で行いますゆえお任せください」


「ま、ほどほどにな。使い潰すのは得策ではない。中尉、ちょっと出かけてくる」


「あ、待ってください。私も参りますっ」


 ルテリエはぐいと水を飲み干すと青い顔のまま、天幕を出て騎乗の人となった。






(ルテリエの表情があまりよくない。休めていないのだろうか。いないんだろうな)


 シェリーは河畔に立って青白い顔で軍夫たちが橋をかけるのをジッと見守っているルテリエの姿を、少しばかり離れた場所で静かに見守っていた。


 特にやることがないので、馬の手入れをする振りをしながらも、視線はずっとルテリエから離さない。


 最近の自分はなんだかおかしい……と思う。


 気づけば用もないのにルテリエの天幕に行ってうろちょろし、なにか用事をいいつけられるのを心待ちにしている。


 この態度はルテリエ第一の従者を自負しているカミルにも奇異に映ったのだろう。彼は自分の姿が見えるとどこか困ったような顔で苦笑するばかりである。


 どうにも変だ。


 少しでもルテリエのそばから離れると、なにか寂しいような気持ちになる。


 そういえば、最近はあれほどまでいっしょにいた兄のことをあまり考えなくなっていることに気づき、シェリーは愕然とした。


 そればかりか、かつては輜重隊などは軍の持て余し物や負傷者が集まる掃き溜めにのように思い、怪我が治ったら早く原隊に復帰したいとそればかり夢想していたのに、今や、激しい戦闘が行われる前線にルテリエ自ら輸送を指揮すると聞くと居ても立ってもいられなくなり、ほとんど乞うようにして張りついていく自分があった。


(これはさすがに気持ち悪いのではないか、私。ああっ。ルテリエは、私のことをどう思っているんだろうか……)


 すでに軍務のことなど二の次になっている。かつてならそれが、不潔で腹立たしいと忌み嫌っていた行為なのに、今の自分はなんの不都合も覚えず、それを当然としている。


「ああっ。なにをやっているんだ、あいつは」


 ぼうっとした頭で見守っていると、突如としてルテリエが河畔に飛び込んだ。


 どうやら、増水した川の流れで橋の杭が弱っていないか自ら確かめているらしい。


 とてもではないが、侯爵家の嫡男とは思えない身の軽々しさだ。


 以前の自分ならそんな匹夫同然の行動を取る男がいれば、蔑みの目で見ただろうに、なにやらそんななりふり構わぬ彼の一生懸命さは泥臭くも誠実さにあふれているようにしか思えないのだ。


「へ、へ、へーくしょんっ!」


「ああ、だから河から上がったら身体を拭けといったのに」


 橋梁の工事を終えたのち、天幕に戻ったルテリエはベッドの上に腰かけ盛大なくしゃみをしていた。


「い、いや。このくらい馬に乗っている途中で乾くはずだったんだが」


「子供ではないんだから。確かに乾いたようだが、身体は冷えるに決まってる」


 ずびずびと鼻を啜る仕草すら悪童めいて、今のシェリーには好ましく映った。


「ふふふ」


「なんだよ。おかしなところで笑うなんて。気持ち悪いな」


「気持ち悪いとか婦女子に直接いうな」


 かつてなら速攻でキレまくったルテリエの軽口も笑顔で対応できる。


 眉を寄せて大仰に肩をすくめるルテリエを見ているだけで、シェリーの心はあたたかいもので満たされていく。


 気づけばもはや夕刻に近づいていた。天幕の外では未だ軍務に追われて忙しく動いている兵たちの足音が途切れることなく行ったり来たりしていた。


「いまのおまえが体調を崩せばみなが迷惑するんだ。ほら、ここ泥がついているぞ」


「お、おい。そのくらい自分で取れるって」

「だーめ」


 シェリーはハンカチを取り出すとルテリエの右眉の上に付着している汚れをぽんぽんと取り除いてやる。布切れがかかるとルテリエがくすぐったそうに顔をしかめるのが小さな子供のようで愛らしく母性本能が刺激され胸がきゅんきゅんと鳴った。


「知らなかったな。君はずいぶんと尽くすタイプだったんだな」


「知らなかったのか? 私は元尼さんなのだよ」


「……今のはからかったつもりなんだが。調子が狂うな」


 ふと会話が途切れる。別段ふたりは恋人同士でもないが、自然の流れでベッドに隣り合って座ることに抵抗がなかった自分が不思議になった。


「な、なあ。身体寒くはないか。ちょっとミルクをあたためてくるから」


「あ、ああ、うん。了解」


 気まずさを払拭するようにベッドを移動し衣糧廠の集積場で近くの農家から手に入れた搾りたてのミルクをもらうと軽くあたため戻った。


「今、戻った……あれ」


 ふと見ればルテリエはベッドに腰かけたまま腕を組んで寝入っていた。


 シェリーはどうしていいかわからず片手に持ったカップを机の上に置くと、おずおずと隣に座る。


「わっ、わわわ」


 ぐらりとルテリエの身体が自分のほうに崩れ落ち、ちょうど彼の頭が自分の膝にのっかる形となった。


 一瞬、驚いて声を出しそうになったが寸前で止めることに成功した。


(赤ちゃんみたい……かわいいな)


 ぐうぐうと寝息を立てて太ももに頭を乗せた男の髪を手ぐしで梳きながら、いつしか育ちつつあった自分の感情をようやく理解するに至った。


 ――ああ、私はルテリエがどうしようもなく好きになっていたなんて。


「頑張っている。あなたは誰よりも頑張っているわ」


 シェリーはそっと誰もいない天幕を見回すと、顔にかかった長い銀髪をかき上げ、よだれを垂らして眠り込む男の頬にそっと口づけた。






「んんん。なんだか妙な具合なんだよなぁ」


 この数日、背後から妙な視線を感じる。


 替えの衣糧が入った山のように積み上げられている軍用行李の数を手帳片手に数えているとうしろ頭に突き刺さるチクチクした視線を感じて振り返る。


 そこには天幕の影にさっと半身を隠すシェリーの姿を見つけ、ルテリエは怪訝な顔でそばにいるカミルに顔を向けた。


「おい。あれっていったいどういうことなんだ? 私がなにかしたのか?」


「ひひ。またまた若さまも、そういう仲になったのならあっしにひとことあってもいいじゃないですか。水臭い」


「私はおまえがなにをいっているのか、とんと見当がつかないよ」


「ま、ま! 秘してこそ華、という気持ちもわかりやすよ。このことはあっしの胸のなかに仕舞っておくんで。あとは、無事に仕事をやり遂げてしまうだけでやすよ」


「いや、本当に意味がわからないんだが……まあいいか。仕事をとっとと片づけないと。シェリー。暇ならば、ここに来て手伝ってくれないか! あ、逃げられた」


 意を決して声をかけるとシェリーは草むらに潜んでいるところを猟師に発見されたウサギのような素早さでたたっと軽やかな足音を残し逃げて行った。


「ストーキングとか、ホントに神経を摩耗させるんでやめて欲しいんだけどなぁ」


 この時点でルテリエは本気でシェリーの行動の意味が分からなかった。


 なにせ、彼女は親友で王太子であるレオから預かった大事な妹である。


 それに加えて初見での性格のキツさや彼女が好ましく思う男性像と自分がかけ離れていると結論付けているので、よもや好意を持たれているとは微塵も考えつかなかったのだ。


「ま。いいか。仕事しよ」


 シェリーのほのかな恋心とは裏腹に前線の戦闘は過酷さを徐々に増しはじめていた。


 日に日に送られてくる負傷兵の数は増え、元からあった救護所はドンドンと増築しても追いつかないほどである。


 それらを見越して、平地に余裕がある場所へと駐屯地を移転させたのであるが、このまま激戦が続けば医者と看護兵、それに衛生材料はすぐに足りなくなってしまうだろう。


 ルテリエは鬱屈した思いで救護所に向かう途中、広場で所在なげにキセルを吹かす娼婦の一団と出くわした。


「おや、隊長さんずいぶんとお見限りで」


 けだるげに金色の髪をかき上げたのは、かなり以前に本部まで仲間を引き連れ意見をしにやってきたスカーレットという娼婦だった。


 口元にべったりと派手派手しい紅を差して眠たげな瞳は娼婦の常だが、血色は酷くいい。


「元気そうじゃないか」


 つかつかと親し気に寄って目を細める。ほとんど上乳が丸見えの胸元は目の毒だった。


「元気は元気だけどねぇ。あっちのあがりがさっぱりで、このままじゃうちら干上がっちまいますよう。ねえ、隊長さん。お暇なら、ちょっと寄って行ってくだしゃんせ。今ならお茶を引いてる子たちが、幾人もまとめて極楽のような気持ちにさせたげるよう」


 白く長い手で頬をそっと撫でられルテリエは飛び退いた。忙しさにかまけていたが、こちらも健康な成人男子だ。うかうかと誘いに乗ったらますます仕事が遅延しかねない。


「っと。今は、忙しいんだ。軍務中でね」


 太ももをさすってくる手を丁重に払いのける。


 スカーレットはにんまりと厚ぼったい唇を歪ませた。


「あら。あたしたちのような淫売には興味がないと?」


「本当に忙しいんだって。また、この次の機会にね。で、問題とか特にないかな」


「お客さまがないのが問題さね」


「暇しているのなら、ちょうどいい働き口があるんだけど、どうかな」


「え、隊長さんの専属ならぜひお願いしたいんだけど。そうじゃないわよね」


「暇も潰せて人のよろこぶ顔が見れる素敵なお仕事です」


 ルテリエは口八丁でスカーレットたち娼婦を口説くと現在の状況をわかりやすく説いた。


 要するに臨時雇いの看護婦だ。


 国境線の砦を前線で取り合いしている両軍は、未だ大規模な決戦に至っていないが負傷兵は続々と後陣に輸送されてくる。


 それら傷ついた兵の面倒を見る軍医や衛生兵の数は常に不足しており、女手はひとりでも多く有れば助かった。


 はじめは面白半分でやりはじめた彼女たちであったが、日を追うごとに単純な性欲のはけ口ではなく、兵たちが芯から感謝する清々しさに自分の生きる道を見出すものも増えた。


 彼女たちは仕事にやりがいを見出し、微々たるものであったが傷つき倒れ伏した将兵の心を慰める方法はひとつではないことに気づいた彼女たちは見違えたように身なりや所作に気品というものが生まれていった。


 半月後、護所を訪れたルテリエの目に映る彼女たちは、最初から看護婦として従軍していたとしかと思えないほどの身的な美しい姿があった。


 今のスカーレットたちは派手派手しい夜着をまとっていたときよりも、遥かに魅力的で気品のある趣すらあった。


「よくやってくれてるようだね」


「え、あは。隊長さん。まー、それなりに頑張ってるよ。自分でもよく続くもんだと感心してるんだけどねっ」


 天幕のなかに鮨詰めにされた簡易ベッドでこまめに身体を拭いてやったり包帯をかえている娼婦たちは忙しいなりにもどこか充実した雰囲気がみなぎっていた。


「ま、ここならついでにひと仕事ってのもできるから、ね」


 白衣に身を包んだスカーレットは自分のナースキャップをとんとんと指先でつつきながら、片目を閉じて赤い舌をペロッと出す。


「あのな……ほどほどにしておけよ。あまり興奮させると兵たちの傷に障るからな」


「じょーだんだって。ほーんとお堅いんだよね、隊長さんは。そういうとこもあたしは好きだけどさ。どう? このスカート。あえて短くしてみましたー。ウケいいんだよね。白衣の天使を無理無体に……ってシチュが男はそそるンでしょ?」


「アホか。まあ、無理に商売替えしろって強制もできないからな」


「うん。うちの子たちも、男と寝るしか上手くできないってのもいるし。けど、結構な数の子がさ。看護婦も悪くないっていって。あたしも、上手くいえないんだけど。そりゃ、男を寝間でよろこばせるのが商売だけど、さ。誰かに感謝されるってのも、悪くないかなって」


 そういって耳にかかったおくれ毛をかき上げるスカーレットは、最初に会ったときよりもはるかにチャーミングに見えた。






「車が足りない。兵糧も足りない。衛生材料も、人手も、そもそも金がぜっんぜん足りない」


 ルテリエは、夜半、力尽きたようにベッドに横になってわずかにまどろむと、ひたすら書類と格闘し、工事の進捗状況を確認し、届いた納品物を検査・梱包し、適正な配分で鬼のようにせっつく各部隊へと大車輪のように送り続けた。


 目が回るなんてものじゃない。これでは前線に出て馬に乗り頭をカラッポにして城壁に取りついていたほうがなんぼかマシというものである。


 ルテリエは発狂しそうな精神状態で、その日も積み上げられた物資の山を機械のような正確さで数えていると、陣門からやけに景気のいい音曲とともに多数の荷馬車が到着する気配を感じ取った。


「そういえば若さま。都から街衆が有志を募って慰問部隊を送って来る予定になっておりやしたね」


「きちっと検問はしてるんだろうな。本当ならこれ以上ここに部外者を入れたくないんだけど、兵たちは楽しみに飢えきってるし、少しでも気を紛らわせればいいんだけどね」


「若さまもちっとは息抜きしたほうがいいんじゃないですかね?」


 カミルの「ここはあっしに任せて……」という言葉に半ば無理やり押し出されるようにしてルテリエは物資の山から引き剥がされた。


(そんなに余裕ないみたいに見えるかなぁ)


 小刻みに痙攣する目蓋をこすりながら、慰安部隊が到着した広場に移動する。


 事前に受けた通告書には、都の著名な楽団や遊芸人、商工ギルドで募った炊き出しのための人員が多数の荷車を引き連れてくるとあった。


 兵や軍夫たちは、一時仕事の手を休め、戦塵のにおいのない人々を興味深げに眺めている。


 見れば、若い娘も数多くいる。駐屯地には基本娼婦や貴族たちが連れて来た愛妾くらいしかいないので、兵たちが堅気の娘を目にするのは久しぶりなのだろう。


 そこには性愛として見る目ではなく、平和な日常を思い出させるなんとも懐かし気な色合いが濃かった。


「気分転換にはちょうどいいかな」


 早速有志たちは炊き出しを行いはじめたのか、大きな鍋があちこちに据えられ、料られた粥だの肉だのが香ばしい匂いを漂わせている。あたかも祭りがごとく様子だった。


 ふと両隣を見ると護衛のため張りついていた下士官たちがうらやましそうな目で食いつかんばかりにしている。


「ちょっと様子が気になるな。ふたりとも、見聞を命ずる」


「え、いいのですか?」


「ああー。適当なところで切り上げてきなさい。私は先に戻ってるからさ」


 ヨシをいわれた飼い犬のように、下士官たちは騒ぎのなかへと駆けて行った。凝り固まった肩をぐーるぐる回していると、焼きものの匂いに刺激されたのか腹がぐうと鳴る。


「なんかもらってこよっかな。おやつがわりに」


 そうひとりごとをいっていると、大鍋の前で甲斐甲斐しく並んだ兵隊の椀に粥をよそっている娘に視線が留まり、ルテリエはその場に硬直した。


 輝くような赤毛をうしろでひとつに縛り花のように笑顔を振りまいている少女も、こちらに気がついたのか、持っていたおたまを取り落とすと驚愕したように目を見開いた。


「フロランス、かい?」


 自分で今こうしている情景が夢のなかのように不確かだった。あの日、とうとう出陣を告げられず唯一の心残りだった少女が目の前にいる。いや、すでに胸のなかに飛び込んでいた。


 しっかりと抱きしめると、豊かでやわらかな肉の重みとふわりとした甘いような香りが鼻のあたりに立ち込めていた。


「ルテリエ……さまっ」


「なんで、なんで……! 君が、ここにっ?」


 まったく意味が理解できない。彼女は家に身体のよくない父母と多数の姉弟たちを抱え、一日だって店を休むことはできない。


 そもそもが、ここは前線より遠い補給基地とはいえ、到着する道々で匪賊や蛮族の襲撃の恐れは充分あったはずだ。


「なんでって、そんなの……わかんないっ! わかんないよっ……お店に来ないな来ないなって思って、知り合いの兵隊さんに調べてもらったら……とっくに応召されて最前線にって……戦争だって……あたし、そんなの知らなくって……もう嫌われちゃったかなって……あのときだって止めればよかったのにって……気づいたら……街に慰安募集の張り紙があって、ここに来れば会えるかもって……!」


「ここは最前線なんだぞ。街にいれば、少なくとも危険なくおだやかに暮らせたのに」


「やだ。あたしは……ルテリエさまといっしょに、いる」


 ああ、なんて馬鹿なことを。同時にルテリエは今まで腹のなかにつかえていた重しが取れて、ぐっと楽になった気がした。


 自分で無理に押し殺していたフロランスに対するほのかな恋慕が一気に燃え広がった。


 どちらかといえば、情熱的ではないルテリエであったが、思いをかけていて、もう完全にダメだと決めつけていた相手が危険を承知ではるばるやってきてくれたのである。


 ほとんど一方的だと思っていた。成就するはずのないそれがカタチになった。


 遠かったフロランスの存在がこうしてい抱きしめている間にもみるみる膨れ上がっていく。彼女は家族もなにもかも置き捨てて自分を選び取ったのだ。


 ルテリエはフロランスの想いに全力で応えなければならないという、焦りに似た強固な思いに、いっときあらゆるしがらみを完全に忘れ去った。


「フロランス。だいじょうぶだ。私はもう昔とは違う。君の家族はきちんと面倒を見る。これからはなんの不自由もさせないよ」


「ああ、ルテリエさま……フロランスは一生ついていきますわ」


 軽挙妄動といってよかった。ルテリエは衆目をまったく気にせず、若き血潮が命ずるままにフロランスを抱き寄せると、情熱的に唇を奪った。


 衆人環視のできごとである。恐らく有志の街衆にフロランスは予めことと次第を伝えてあったのか、示し合わせたかのようにドッと歓声が起き、兵たちもそれに続いた。


 お固くロクに娼婦も買わなかった男が衆人環視のなかで、まるで物語のようなラブロマンスを白昼繰り広げているのだ。


 興奮しないわけがなかった。楽師や芸人たちが陽気に鳴り物を響かせ、踊り出すと無礼講とばかりにその場の人間が熱に当てられたように追従する。


 だが、これがフロランスの計算づくの行動であればたいしたものだった。


 名門シャンポリオン家の嫡男で、一隊の将であるルテリエはフロランスとのっぴきならない仲であったと後悔したに等しい。


 どうであれ、貴族として始末をつけずにはいられず、またこの騒ぎを遠くで眺めていた人物は蒼白な表情でその場にただ凍りつくだけだった。


「みと、めない」


 シェリーはトレイに乗せた軽食一式を地面に叩きつけると憎悪に満ちた表情で抱き合うしあわせそうなカップルを睨んでいた。






 激しさを増すいくさとは関係なしに、ルテリエの恋はなし崩し的に成就しつつあった。


 だが、さすがに自ら軍の「しっぽ切り」作戦で、上級将校たちが連れていた愛妾たちを都に帰させた手前、ルテリエだけが堂々と正式な妻ではないフロランスを特別扱いできるわけもない。


 フロランスは建前上、有志慰問部隊の天幕で寝起きすることになった。軍務時間の隙間を縫ってふたりは顔を合わせようと誓たのだが、それを許すことのできない女がひとりいた。


「若さま。よかったじゃないですか。あの小娘、どうしようもないかと思いやしたけど、今回に限ってはシャッポを脱ぎますぜ。どうしてなかなか、ただの娘が戦地まで追って来るなんてないですからね。いやぁ、あっしの目が狂ってたてことになりやすか……。とにかく実のある娘で。大事にしてやってくださいよ」


 従者のカミルが天幕のなかで小躍りしながらちんちんに沸いたやかんを持って入ってくるなりそういった。


「おいおい。まだ、私たちはいっしょになるって決まったわけじゃないんだよ」


「ここまできてそれをいうのはハッキリいって卑怯ってもんですぜ。身分からすれば、正妻というわけにはいかないでしょうが、それでも身の立つようにしてやらないと。憚りながら、あっしも旦那さまを説得するのに助成いたしやす」


 カミルはカップに香気漂う茶をそそぎながら今にも口笛を吹き出しそうな勢いである。


「なんだいなんだい。今度は一転してやけにフロランスの肩を持つじゃないか。はは」


 ルテリエが脂下がって椅子に深く腰かけ、手にした羽ペンをくるくる回していると、いつの間にか天幕のなかにずかずかと入り込んできたシェリーが、手に持った書類をずだんと机において仁王立ちになった。


「……あ、ま、まあ。そんなこって。そうだ! あっしは馬にかいばをやらなきゃならねぇんだ! あー忙しい、忙しいっ」


「お、ちょっ。カミル、カミルぅ! どこ行くんだよっ。待て、待ててって!」


「随分と楽しそうな話をしていたな」


「え、あ、いや。別にそんなことはないんですけど」


 シェリーの表情は昏い。眼差しは極寒に吹きすさぶ峻烈な雪嵐を思わせるほど、冷たく、すべて拒絶するような刺々しさがあった。


(なんだ……? なぜ、いきなりブチ切れモードに突入しているんだよ、こいつは)


 近頃は出会ったばかりの素っ気なさやそこはかとない人を小馬鹿にした様子はなくなっていて、ようやく自分もこの娘に認められたのかと一安心していたのに、この親の仇を見るような蔑みとなんともえいない恨みの籠った視線はどういうことなのだろうか。


 思い当ることはひとつしかない。フロランスの存在だった。


 そういえば、シェリーは修道院出身のお堅い箱入り娘だった。


 彼女は、ルテリエがフロランスという愛人をわざわざ都から戦地にまで呼び寄せ、そういった欲望のはけ口にしていると考えていることに思い当り、気まずくなって目を逸らしてしまう。


(まずい。今の私にはなにひとつとして反論することはできない)


 自分はほかの将校たちに愛妾たちを遠ざけさせておいて、ひとりだけ淫欲を貪る性獣に見えるのだろう。反駁しようと口を開きかけるが、シェリーの背に燃え立つ業火の幻を見た気がして、知らず、膝ががくがくと震え出した。


「な、なにか用……ごめん、フロランスのことだよな」


「あの娘、フロランスというのか。そうか……」


 シェリーは口元でフロランスと呟くと、眉間にシワを寄せて、無事な右腕で剣の柄頭をしきりにチャカチャカ叩き出した。


 ときどき「殺す……許さない……切り刻んで」などと不穏極まりないワードが漏れ聞こえてくる。


 一方、シェリーの気持ちにほぼ微塵も気づいていないルテリエは、そんなに風紀を乱したことが気に入らなかったのかと、罪悪感と気まずさがぐんぐん右肩上がりになり、どうしていいかわからず視線をあちこちにさまよわせるだけだ。


「おまえとは、もう、深い仲、なのか……? なぜ、そうならそうと、はじめからいわない」


「いや、深い仲、というか。突き詰めて考えると、酒場でちょくちょく会うだけで――って冷静に考えると、どういうことなんだろう」


 ルテリエはシェリーに問い詰められたせいで、妙に考え込んでしまい、うんうん唸りながら目を閉じてしまう。


 それが、のちのちの災厄を引き起こすとはまるで思わなかった。


「そうかっ、そうなんだな! ただ、酒場で何度か会っただけという関係なんだな!」


「え? ちょ、ちょっと待った。シェリー、君はなにを」


「数回会っただけか! うんっ、そうだなっ。そういうこともあるだろう! 学のない、見るからに知性と品格が欠如した安い娘だった。そうならそうとなぜ先にいわないんだっ。うんうん。おまえも困っていたのだろう。ならば――話は副官である私がしかたなしにつけてこよう……んっ、んんっ。まったくおまえの火遊びの始末まで任されるとは、情けない。こういう甘えを許すのは私だからということも忘れないでもらおう。まったく、手間をかけさせてくれる男だな」


 ルテリエは慈愛あふれるシェリーの瞳を真正面から受け止めながら「これはなにかが違う……」と思った。


「おーい、シェリーさん? 帰ってこーいって、ちょっとどこ行くんですかね。へぶっ」


 ルテリエはすっきりした顔で笑いながら天幕を出ていくシェリーを追いかけようとして、机に躓く。


 すってんころりん転がって書類の山に埋もれ、後頭部を地面に強打し輝く星を目蓋の裏に見るのだった。

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