第11話「鋼鉄のロジスティクス」

 また命を永らえたようだ。


 ルテリエは崩壊寸前の輜重兵部隊を救うため〈白地に青蜂〉の王国旗を掲げてシュヴァロフ軍を追い散らす援軍の勇ましい姿を目に焼きつけながら、力なくその場に座り込んだ。


 なんと本軍は補給基地の危機を知るや精鋭の一軍を裂いて、馬を乗り潰す勢いで駆けつけたのだ。


 すでにルテリエ軍と激戦を繰り返して、息も絶え絶えなシュヴァロフ軍はさすがにこの新手の一軍を支えきれず、幾度かの激突ののちシュヴァロフ侯爵自身逃げ切れぬと悟ったか乱軍に怒涛の勢いで斬り入って壮絶な最期を遂げたのだった。


「が、それはさておき。金がない」


 九死に一生を得たというのだがルテリエの仕事は一向に終わる気配はない。


 そもそも軍というものはいくさが終わらない限りは怪物のように常時物資を消耗し、国そのものにダメージを与え続ける。


「おまえはあのような激戦のあとだというのに変わらんのだな」


「でもそれがルテリエのさまのいいところなんですよう」


 天幕のなかで執務していると、シェリーとフロランスが互いに牽制しあいながら、どちらがルテリエに茶を献じるかチャンスを窺っている。


(ったく。カミルがいればこんな問題は起きないはずなのにな)


 ルテリエの忠実無比な下僕は意外に強い生命力を見せたが、これ以上戦地に置いていくわけにもいかず、都へと強制送還された。その隙を見逃さず二匹の雌豹が獲物を取り合っているという仕儀だった。


「と、それよりもだルテリエ。そんなに軍事費は足りていないのか? この間、兄上の口利きで追加分をもらったと聞いていたが」


「うーん。まったくもって足りてない。それどころか、下手をすれば……破産だな、こりゃ」


「そんなになんですかーはぁ」


 フロランスはいまいちピンとこないのか唸りながら眉間にシワを寄せていた。


 ルテリエはガチョウのペンを指先で弄んでいたかと思うと、のろのろと腰を上げた。


「どこに行くのだ?」


 シェリーが問うた。


「ちょっと金策に。ウェルツブルグまでね」


 ウェルツブルグ。


 駐屯地からもっとも近く巨大な街で、ここにはルミアスランサでも有数な大商人であるザシャ・セーデルホルムという男が居を構えていた。


 国家最大の商工ギルドのマスターを兼ねるこの男は、金融をはじめとするありとあらゆる金儲けの道をすべて掴んでおりその財産は国家財政の数十倍といわれた。


 彼は本国であるルミアスランサ以外にも財産を各国の銀行に分散させて預金しており万が一のときにはどこでも好きな場所に移動できる、まさに〈金貨の王〉と呼ばれる男だ。


「ここがそのセーデルホルムとかいう男の商工会議所か? 大商人にしては随分と粗末な場所だな」


「実質本位なんじゃないでしょうか? 建物なんて使えればいいと思っているんですよ」


 ルテリエはシェリーと護衛数人を連れてウェルツブルグの街を訪れていた。


 セーデルホルムは常時都で業務を行っており、この街に来るのはひと月に数えるほどであるという情報を得ている。


 仕事に忙しい彼が頻繁にこの街を訪れているのは生家があって、そこに今だ住んでいる老母を見舞っているという理由があった。


「金気臭いくせに感心ではないか」


 シェリーなどはセーデルホルムの孝心に深く感じ入っていたが、今のルテリエにあるのはなんとしても金を引き出したいという切羽詰まった思いだけだった。


「おいおいルテリエ、なんて顔しているんだ」


「なんて顔っていわれても、この顔は生まれつきなんですけどね」


「そうじゃない。そんな追い込まれたような顔をしていたら足元を見られるぞ」


「んん。そんなに凄い顔してましたかねぇ」


「してるしてる。もっとドーンと構えてゆけばいい。うんうん。そうそう」


「……はぁ。とにかくやってみますよ」


 執務室に入るとそこには猫背のまま書類にかじりついているセーデルホルムの姿があった。


 その追い込まれて脇目もふらず決裁書と格闘している姿にルテリエは強い共感を覚え、ついふらふらと肩を叩きそうになったが、なんとか自重して交渉に入った。


 齢五十二と聞いているが黒々とした総髪も肥満しきった二重顎も精力に満ちあふれていて老いを微塵も感じさせぬ力強さがあった。


「で、シャンポリオン中佐は結局のところ、大事な大事なお宝を黙って差し出せと?」


「そうはいっていません。ただ、このまま物資を調達できなければ、軍はまたしてもエトリアに決定的な勝ちを突きつけられず、だらだらといくさが長引き、ひいては商人のみなさまがたにかけられる税金も大きくなる一方です。そこを理解してほしい」


「理解理解といわれましても。このままでは、どっちみち我々も破産ですよ」


 延々と続く戦争のため商人たちから戦費をことあるごとに徴収している。ルテリエも無理無体を繰り返している手前、正論を吐かれれば口籠らざるを得なかった。


「……どうにも資金が調達できなければ、エトリアは枯渇した我が軍を追いに追うでしょう。その結果、我々はソーデン、フタバ、テクノ、アイシンといった主要鉱山を敵に奪われ、下手をすれば四方から攻め込まれて国家が解体される可能性も――」


「待った。待ってください。軍事的な話をされても、ねぇ。ようするに、わたしが申し上げたいのは、軍のほうは我々にどのような担保を用意していただけるかと。すべてはそれに尽きますんで」


「担保……」


 隣に立っていたシェリーが青い顔をしているルテリエに耳打ちして来た。


「ルテリエ、タンポポのことじゃないからな」


(なにをいっているんだ、こいつは)


 ルテリエはちょっとキレそうになった。しかしこらえる。


「どうしましたかな、閣下」


「いや、こちらの話で。ええと、それに関しましては従軍商人や調達した物資をやや高めに買い取るということで、どうでしょうか」


「失礼ですが到底足りませんね。いーえ、わたしは国家のためならば、この程度の……いいや違ったこれほどの大金いかようにしても都合して見せますが、担保なしではどうにも仲間を説き伏せることができませんのですよ。ギルドは合議制ですからして」


「よくいうよ。完全な独裁のくせに」

「は? 今、なにかおっしゃいましたかな」

「いいえ。ええと、担保があればいいのですね?」


「ちなみに領地をもらっても意味がありませんから」


 セーデルホルムは巨体を椅子に仰け反らせながらぎしりと音を立てた。大きな男である。


 根っからの商人なので武芸で筋骨を鍛えたというわけではない。


 むしろ美食で肥え太っており、手首や五指は赤ん坊のようにぷくぷくしている。


 ――異様な圧力がある。


(この男は口先だけで金を引き出せるほどやわなシロモノではないな)


「わかりましたセーデルホルムどの。あなたが納得できる担保を必ず用意して見せましょう」


「どうするつもりだルテリエ。軽くあしらわれただけじゃないか」


「なんというか、勢いでいけるかなと思ってんだけど、やっぱ無理目みたいだね」


「のんきなことをいっている場合か。戦費を調達できなければ、兵站は破綻するんだろう」


「主計総監はメンツにかけて王宮に白旗を上げることはないだろう。なんせ、大丈夫ですって太鼓判を押した報告書を送っているんだから。是が非でも、金を手に入れないと。こうなったら仕方ない。最後のカタをセーデルホルムに叩きつけるしかない」


「まるであてがあるような口ぶりだな。だったら、なんでさっきいわなかったんだ」


「こればっかりは私の一存では決めかねるんでねぇ。ということで、ちょっと行ってきます」


「どこへだ?」

「無論、都へ」






 ルテリエは単騎、都に戻った。


 すべては戦費調達のためである。本来であるならば、頼りにならない主計総監を飛び越し、財務大臣に直談判をすればいいのだろうが、それはすでに前回行ってしまっているのでさすがに、もう一度繰り返すことは不可能だ。


 さらには王宮の金貨も底をつきかけているのを知っていたので乾いた雑巾を無理やり絞るような愚かな真似をしている暇もなかった。


 調査によればセーデルホルムは確実に巨万の富を持っているし、現実的に物資調達に役立つ現ナマを手元に保管しているのだ。


 なにがあっても吐き出させねばならないが、兵を動かして身柄を拘束するということもできようがない。


 そんなことをすれば、あの男は国内の資金や物を残らず凍結させて軍が城下を焼き払うような真似をしなくても、いながらにしてこの国を破滅に追い込むことができるのだ。


 ルテリエは王宮を訪れると身分を告げてある人物に面会を乞うた。


 この国の宰相アイアコッカという男に。


 アイアコッカは齢七十九という老賢人でルミアスランサの要であるが、近年体調を崩し政務が滞りがちになるという事態が続いていた。


 何分にも老齢であるが、現国王が宰相を慕うことは子が父を思うほどと同等である。


 理由を述べるならば、国王が三十年前王位継承において兄弟間で争いが起きそうになったとき、ただひとり国王を支持し戴冠させた恩人中の恩人であるという理由からきていた。


 アイアコッカは絶大的な権力を持った人間に現れがちな傲慢さや欲に眩んだ愚かさは微塵もなかった。


 むしろ歳を経るごとに柔軟な思考で物事に当たるようになり、凡愚といわれる現王が曲がりなりにも戦争国家であるエトリアに併呑されないのはすべてこの老賢人の力によるものが大きかった。


 ルテリエは階級は低くとも、その家柄のよさはルミアスランサでは五指に入る。そういった意味ではむしろ新入りに近いアイアコッカに親族の力で根回しをして会見をねじ込むことはそう難事ではなかった。


 王宮のなかに部屋を持つ宰相に単独で会見を行うなど、かつて倉庫番を行っていたルテリエからしてみれば考えもしなかったことであるが、追い込まれればどんなことであってもやってのけるのが、この男の真骨頂である。


「はじめてお目にかかる。儂がアイアコッカだ」


「国軍輜重兵中佐ルテリエ・シャンポリオンにございます。以後お見知りおきを」


 長らく体調を崩して床に伏していたと聞くが、思った以上に矍鑠としていた。声は錆びている。決して声量があるというわけではないが、聞き入らずにはいられないなんともえない味のある声だ。


 椅子に腰かけているのでわかりにくいが、かなり長身である。背筋はピンと伸びており、とても来年八十を聞く年には見えなかった。


「あいさつはいい。用件だけを承りたい。なにせこの老骨近頃とんと調子がよくなくてかなわないからな。と、軍人であるならば用件はまさか昇級の口利きでもなかろうて」


「失礼ですが、閣下は若き頃軍を率いて国内各地の反乱分子を掃討するため自ら指揮を執ったことがあるとお聞きいたしました」


「いまさらそんな大昔のことを……あんなものは戯れに過ぎぬ。もし、兵法の道で迷いがあるならば力にはなれそうにない。第一儂は、自分が軍人に向いていないと思っていたのでまつりごとの道に鞍替えした骨なしさ」


「いえ、策を授けてもらいにきたわけではありません」


「それではどういった理由だ。このしおれた耳にも我が軍がエトリアの兵とは有利に戦っていると聞いてはいたが。なにか、儂の力になれそうなことがまだあろうかの」


「ただ、諾、とおっしゃっていただきたい」


「ほう」


「それでこの国は危難を脱することができます」


 真っ白な眉の下で蠢いていたアイアコッカの目蓋がカッと開いた。


 ルテリエは奇妙な鬼気のほとばしりに、一瞬目を逸らしそうな気分になったが、己を鼓舞して真正面からこの賢人に立ち向かった。


「申してみよ」


 アイアコッカは黙ってルテリエの話を聞くと、わずかに眉を動かすと口角を上げて


 諾


 といった。


 翌日、ルテリエは都を出るとウェルツブルグの商工ギルドでセーデルホルムに会うと、わずかな時間で巨額の戦費を借り受けることに成功し、馬車に満載した金貨を護衛までつけてもらって駐屯地に戻った。まさに魔術的な技であった。


 これにより物資の補給及びあらゆる経費を後顧の憂いなく投資することができるようになり、軍旗はにわかに生気を取り戻した。


 そして秋風が吹く晴れた日の午後、ルミアスランサ軍レンブラント元帥の軍がオルコット平原でエトリア軍をおおいに打ち破り二万七千もの首級を上げたとの報告が入った。


 これにより、ルミアスランサは潤沢な兵站によって充分な追撃を行いエトリア軍は目に余る甚大な被害を被り、今まで奪ったすべての城を放棄し寸余に至るまでの国土を取り戻した結果となった。事実上、いくさの終結だった。


「とりあえずは終わった……なんにせよ国が破産するのは免れたのでよかったというべきか」


 伝説的なオルコットの戦いから半月近くが流れ、停戦協定はほぼルミアスランサ優位に進み、戦いは終わった。


「が、私の仕事はまだ終わらないんだよな」


 国境線の城を守る一部の兵を残して国軍はとうに都へと戻っていった。


 現在、駐屯地に残るのはルテリエが率いてた千ほどの輜重兵である。


 なんにせよ十万を超える軍が撤兵となれば後始末は甚大である。


 勝負は勝つには勝ったが国庫は空竭寸前でありエトリアから受け取ったわずかな賠償金ではどうにもならない。


「うー、頭いたぁ」


「いたいた。報告書を……なにをやっているんだ」


 書類の山に崩れ落ちながらこめかみを揉んでいると、天幕の入り口がざっと開いてシェリーが入って来た。


「なにって。ちょっと休憩しているのさ」


「なら、きちんとベッドで休んだほうがいい。そこでは疲れがとれないだろう」


「いやさ、寝ちゃうと起きれなくなってしまうし。今はそのことを危惧している」


「少々報告が遅れてしまっても構わないだろう」


「なあシェリー。以前の君なら絶対そんなことをいわなかったと思うんだが」


「おまえは働き過ぎだ。私のような人間から見てもな」


「そんなにかなぁ。これでも休み休みやっているんだけど」


「まったくそう思えないのがおまえの凄いところだな」


「そんなに褒められてもなにも出ないからね」


「期待していないよ。それよりもルテリエ。おまえにひとつ聞きたいことがあった」


「なんだい?」


「どうやって、あの渋いセーデルホルムを説き伏せたんだ。それだけが、未だにどうしてもわからないんだ」


「ああ、あれは別に簡単なことだよ。やつが望んでいた担保を用意してやっただけさ」


「そのために都に戻って宰相さまとお会いしたのか。わざわざそこまでしたのは、やつに大領をくれてやる許可を談判しにいったのか」


「領地はいらないってあいつはいってただろ。セーデルホルムは莫大な財を持つ大陸きっての大富豪だ。だから普通のものじゃ満足しないだろうと思って極めつけのものをあてがってやったのさ」


「それは……なに?」

「城だよ」

「し、ろ」


 シェリーの表情が童女のように幼げなものとなった。


 一拍置いてから、大声が上がる。


「城って、もしかしてルミアスランサ城を担保にしたというのかっ!」


「正解」


 ルテリエはふふんと自慢げに人差し指をくるりと回転させる。


 城を戦費の質草にする。


 無礼極まりない考えを思いつくルテリエもそうであるが、それを許可した宰相アイアコッカも尋常一様な人間ではない。


 シェリーは銀色の髪を左右にふるふると動かすと、なにか人間以外のものを見るような視線を送って来た。


「おまえ……こんなことをよくも、まぁ……考えついたものだな」


「だって質札で埋め尽くされている王家がカタにできるものなんてほかにないだろ。セーデルホルムのやつ領地じゃ嫌だっていうし。万が一にでもルミアスランサ軍が負けたらそっこく城を召し上げてしまえば、天地開闢以来商人としてはじめて王城を手に入れた男として死ぬまで誰にでも吹聴できますよっていったら、あいつ馬鹿笑いしてさ。ま、洒落のわかる男でよかったよ」


「おまえは、洒落で城を賭けたというのか……案外に恐ろしいやつだな」


「そうそう。私はけっこう怖いやつなんだから、肝に銘じておいてくれな」


 ルテリエは椅子に座ったまま肩をぐるぐる回すと再び書類の束と格闘していく。


 傍らに立っていたシェリーがどこか苦しそうな声で話を続けた。


「あの、だな。話は変わるんだが。おまえは、都に帰ってから、どうするつもりだ」


 あからさまに声の質が変わった。先ほどまでの軽い世間話のような口調から、どこか色を帯びた艶のあるようなものに変化している。


 さすがのルテリエも平静を保てず書類から顔を上げてシェリーに視線を向けた。彼女は自分の胸に手を当てながら、白い頬を桜色に染めつつ顔を近づけてくる。


「どうするって……まあ、私は軍人だから、元の倉庫番にでも戻されるんじゃないかな」


「倉庫番って、そんな」


「私が中佐に上がったのだって、レオが提案した窮余の策みたいなものだし。別にそれはそれで構わないんだ。はは。けど、そうなると結構退屈かもな。この仕事この仕事でやりがいがあったよ」


 しばらくそうして見つめ合っていると、外から呼びかけの声があった。


「中佐どの。見回りの時間であります」


 視線をやると、顔見知りの下士官と四人の兵が整列して待っていた。


「だ、そうだ。中尉。この話の続きは見回りのあとにでも聞くよ」


 ルテリエは机に置いてあった軍帽をかぶるとアステア軍曹の脇を通り抜けようと低く身をかがめた。


 きらりとかすかな輝きを目にしたときはもう遅かった。


 右脇腹に冷たい刃物のひんやりとした感触を覚えながらルテリエは目の前に日輪が顕現したかのような錯覚を覚え、目をしばたかせた。


 アステア軍曹が憤怒の形相でルテリエを刺した男に躍りかかるが、ツバ元まで深く埋没した刃がグングンと伸びていくのに耐えきれず、ルテリエは両膝を突きながら懸命に男を押しのけようともがいた。


 シェリーの絶叫が響き渡り、残りの兵が刺客を取り押さえるのを見ながら、無我夢中で殺すなというのが精一杯だった。


「軍医を」

「下手に動かすな」

「出血が酷い」


 ぼうっとした頭のなかで自分の名を呼びかけるシェリーをどうにか見やった。


 刺客が喚きながら連れ出されていく。

 しくじった。


 まさか停戦交渉の成立した後でこんなどんでん返しが待っているなんて。


 ルテリエ、ルテリエ、と必死で自分の名を呼ぶ女の顔を見た。


 ああ、どうやら彼女に膝枕をされているらしい。


 こうしていると意地を張ってベッドで休まなかった自分が馬鹿みたいに思える。


「シェリー」

「なにっ、なにっ。ルテリエ!」


「このことは隠してくれ……こんなことくらいで……もういくさはこりごりだ」


「うんっ、うんっ」


 どこか自分は過信をしていたのだろう。

 どんなことがあっても私は死なないと。

 本来、私は臆病な人間なんだ。


 閑職といえど、ゲリラ討伐部隊からも放り出され倉庫番に追いやられたことすら。


 どこかホッとしていた部分があったのが真実だ。


「なんで、なんであなたばかりが、こんな酷い目に……もう戦争は終わったというのに」


 シェリーが大粒の涙をこぼしながら頬に指を這わせて来る。


 あたたかい雨を受けながら、だんだんと意識がおぼろになっていく。


「兄上たちは、都で今頃凱旋しているわ……あなたは、あなただって頑張っているのに……なんで、こんなにも報われず、あなたばかりがこんな目に……」


 違う。

 それは違うぞ、シェリー。


 私がやっていたことは軍を滞りなく動かすためには絶対に必要だった要素なんだ。


 そもそも、その誰にも顧みないものに真実の価値を見出し、私を引き上げてくれたのは、君の兄ではないのか。


 酷く、背中が冷たい。

 抜け出た血が冷えていったのだろう。

 ああ、命が漏れ出していっている。


 でも、ここで終わってしまっても、それほど悔いはない。


 ただひとつ伝えらなかったことがあった。


 軍には鋼のように固く完全な兵站が絶対に必要なんだ。


 兵を飢えさせず万全に整えてこそはじめて軍は軍たる意味を持つ。


 その価値、その意味を。


 今、ようやく私はわかりかけていたというのに――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る