第6話

「お、まだやってるのか。お疲れさん」

 牧田がそんな声をかけて退社したのが、午後九時をいくらか回ったあたりだった。

 いつもだったらこのぐらいの時間には、まだ誰か残っていることが多いのだが、めずらしく、明かりがついているフロアは総務部だけだった。

 臼井と俺だけがまだ残っているのを交互に見た牧田は、何か言いたげににやりと笑って、何も言わずに帰って行った。

 あいついつか本気でシメると、顔を顰めながら牧田の背中を見送ってしまうと、静かになったオフィスに、OA機器の立てる音がやたら響いた。

 自分の仕事にしても、そろそろ切り上げてもいい頃合いだったのだが。

 臼井のほうをちらりと見る。週明けに控えた会議の準備のようだった。今日のうちに仕上げて、明日の朝から宮須にチェックを頼むつもりなのだろう。

「それ、あとどれくらいで終わる?」

 声を掛けると、臼井は顔を上げて、困ったように微笑んだ。

「もうすぐです。あとスケジュール表と、去年の数字入れたグラフひとつ作ったら、終わりですから」

 お気になさらず、お先にどうぞ。そう言いかけるのをさえぎって、手をのばした。

「手伝う。どっちか貸して」

「でも……、悪いですから」

 いいから、と促すと、臼井は申し訳なさそうに資料を差し出してきた。

「お前ひとり残らせて、宮須は何やってんだ」

「わたしが、すぐ終わるからあとはひとりでも大丈夫ですって、言っちゃったんです……お子さんのお誕生日だって仰ってたから」

「あー、」

 まあ、気を遣ったのも、わからないでもないが。

 それこそセクハラになるかもしれないけど、と前置きをしてから、真面目に言った。「若い女が遅くまでひとりで残るなよ。物騒だろ」

 臼井は一瞬、返事に詰まって、

「……ありがとうございます」

 けれど結局それだけを言って、頭を下げた。

 手分けすれば、実際、あとはたいして時間もかからなかった。臼井が帰り支度を済ませるのを待つ間に、施錠を点検して回ると、すでに十時近かった。

「お待たせしました。……すみません、遅くなってしまって」

 恐縮しながら小走りに戻ってくる臼井に、いいさと手を振る。

「どうせ同じバスだろ、この時間だったら本数もう少ないし……」一息分だけためらって、付け足した。「だけど、迷惑なら、ちょっと離れて歩くよ。知り合いにでも見られたら嫌だろうし」

「迷惑だなんて」

 慌てて首を振る臼井が、視線を合わせようとしないことに気がついて、先日の話を蒸し返すきっかけを見失った。

 それで結局、バス停まで歩くあいだ、当たりさわりのない仕事上の話を、ぽつぽつと交わした。

 この時間だというのに、昼間の熱気がまだ残っていて、少しばかり蒸し暑かった。残業している間に雨が降ったのだろう。地面が濡れて、アスファルトが光っている。

 バスはなかなか来なかった。これくらい遅い時間だったら、だいたい定刻通りに来るのだが、雨のせいか、交通事故でもあったのか。

 なんとなく、会話が途切れた。少しの沈黙のあとで、臼井がぱっと顔を上げて、思いきったように切り出した。「あの。このあいだは」

「ん?」

「すみませんでした。変な話聞かせて」

 あと、ケーキごちそうさまでした。おいしかったです。

 ろくに味わえもしなかっただろうに、律儀にそんなことを言う臼井の顔を見下ろして。ここで謝れなければ、いくらなんでも情けないと思った。

「こっちこそ、悪かった」

「え」

「いや。弁当のこと。あんなふうにうまいうまいって言われたって、複雑だっただろ」

「え。いえ……、それは。あの……嬉しかったですし」

 臼井は慌てたように首を振って、そんなふうに言ってくれたが。

 ほめられて嬉しかったというのも、嘘ではないとしても。素直に喜べはしなかっただろう。

「母親の言葉って、子どもにとったら、重いよな」

 言ったほうにしてみれば何の気なしの言葉でも。言われたほうは、正面から受け取ってしまう。

「……そうですね」

 臼井がうつむいてしまったのを見て、また言葉を間違えただろうかと悔やんだ。

 言葉を探して。迷い、迷いしてから、ようやく切り出した。

「あのさ。……俺もひとつ、つまらない話、してもいいかな」



 あまり人に聞かせたことのない話だったから、どうしても途切れ途切れになった。

 父親が早くに死んで、いまでいうひとり親家庭で育ったこと。自分を育て上げるなり、母が過労であっけなく逝ったこと。

「母親がいつも忙しくしてたから、その背中を見て育ったのもあって……なんていうのかな。人生を楽しむ、みたいなことに、俺は多分、少しだけ罪悪感があって」

 臼井がはっと顔を上げて、何か言いたそうな顔をして。だけど話に続きがあることを察したように、飲み込んだ。

「食い物の味がうまいかまずいかなんて、どうでもいいと思ってた」

 ずっと、そういうことに、興味がないふりをして生きてきた。何に対しても、過度な思い入れを持たないように。

 それなしには生きていけないと思うようなものを、持ちたくなかったから。

「だけど、だんだん年取ってきたからかな。この頃そういうのが……少し、しんどくなってきたのかもしれない」

 口に出してから、いつかの日曜日の、わけもない衝動を思い出した。ちゃんとしたものを食いたいという、あの脈絡のない欲求を。

「あの日。臼井の弁当が、本当にうまくてさ」

 前に、臼井は料理が嫌いなのかもしれないという言い方をしたが。

「臼井、食うこと好きだろ?」

「えっ。は……、はい」

 恥ずかしそうに、臼井はうなずいた。ケーキを選ぶときの真剣な表情を思い出して、悪いと思いながら、ちょっと笑ってしまう。

「人にさ。うまいもの食わせてやりたいって、そういう気持ちがなかったら、ああいう味にならないんだろうなって、思ったんだよ」

 料理についてえらそうなことを言える立場ではなかったが。

 少なくともそれは、本心からの言葉だった。

 臼井は顔を上げて、何かを言いかけて。けれど結局は、口をつぐんで下を向いてしまった。

 ようやくバスが来て、小さくクラクションを鳴らしながら停車した。



 雨のにおいの入り込んだバスにいっとき揺られて、降りたところで別れようとした。

 まだ足りていない言葉が、いくらでもあるような気がしたが、もう時間も遅く、引き留めるわけにはいかなかった。

 じゃあまた明日と、背を向けて。たいして歩かないうちに、小さな悲鳴が聞こえた。

 振り返ると、臼井が男に腕をつかまれているところだった。

 見覚えのある、明るい色の髪。あの日公園で、臼井と口論していた男だった。

 とっさに駆け戻ってしまってから、出しゃばりになるんじゃないかという可能性が頭の隅をよぎった。

 男女のことは他人にはわからない。この間は、臼井はああいうふうに言ったが、もし強がりだったのなら。

 だが、近づいて、臼井の怯えた顔が目に入ったとたん、そんな考えはどこかに飛んだ。

「臼井」

 声をかけると、臼井は振り返って、ほっとした表情になった。「遠野さん」

「何だよ、お前」

 見た目のとおりのがらの悪さで、男がにらみつけてくる。前回は遠目にちらっと見かけただけだったが、間近で見れば、漠然と思っていたよりも、もっと若い。

「彼女の同僚だ」

「ああ? 関係ない奴はひっこんでろよ」

「嫌がってるだろう」

 臼井の肩を引き寄せて、間に割り込んだ。

 腕っ節に自信があるわけでは、もちろんなかった。みっともないことになるのを、かなり本気で覚悟したのだが。

 いっときこちらを睨み付けた後で、男は視線を逸らせた。俺の背中に隠れる、臼井のほうに。

 男の表情が一瞬、傷ついたように歪んだ。臼井からは見えなかっただろうが。

 舌打ちをして、男は背を向けた。

 そのまま諦めてどこかに行くかと思ったが、立ち去りぎわ、振り返って、吐き捨てて行った。「調子のんな、お前みたいなブス誰が相手にするか」

 年甲斐もなく。

 反射的に追いかけて殴りかかろうと、足を踏み出したところで、袖を引く臼井の手に気がついた。

 それでいっぺんに頭が冷えた。

 男はもう、こっちを見てもいなかった。見るからに腹立たしげな足取りで、遠ざかっていく。

 臼井がうつむいたままだったので、どんな表情をしているのかわからなかった。それで、どう声をかけていいか迷った。

 もし割り込まなかったら、どうなっていただろう。

 初めて間近に見た名前も知らない相手の、若いというよりも、いっそ幼い顔を、思い出す。まだ二十歳そこそこに見えた。

 臼井のマンションの前で会ったのは、偶然ではないだろう。何時からいたのか知らないが、臼井が帰ってくるのを待っていたのか。

 俺が割って入らなかったら、どうするつもりだったのだろう。臼井とよりを戻そうとしたのか。別れ際の暴言を謝りにでも来たのか。

「……悪かった、」

 謝ろうとしたのは、少しばかり引け目があったからだったが、言い終わらないうちに、臼井は何度も首を振った。まだ俺の袖をつかんだまま、

「ありがとうございました……」

 か細い声で言って、ようやく顔を上げた。「すみません。またご迷惑を」

「いや……、」

 とっさに首を振ってから、ふ、と笑いが漏れた。

 臼井が不思議そうに見上げてくるのに、空いているほうの手で鼻の頭を掻いて、

「いや。かっこつけてはみたものの、いま総務でよかったなとか、そんなこと考えてた。殴られて青タンでもつくったら、営業マンにはつらいから」

 いいかげん怪我の治りも遅い年だしと、軽口を叩くと、臼井がようやくちょっと笑った。

「前、営業部にいらしたんでしたっけ」

「ぜんぜん向いてなかったけどな」

 首を竦めたところで、臼井はようやく、俺の袖を握りしめたままだったことに気がついたようだった。慌てて手を放して、すみませんとまた言った。その耳が赤くなっているのが、街灯の頼りない明かりでもわかる。

 そのままマンションに入るまで見届けようかとも思ったが、臼井がまだ少し不安げな顔をしていることに気がついて、思い直した。

「腹、減ったな。そのへんで何か食って帰らないか?」

 それとも、残り物があるかと聞いたら、臼井はちょっとぽかんとしてから、大慌てでぶんぶん首を振った。



 気の利いた店を探そうかという時間でもなかったから、すぐ近くのファミレスに入った。

 店内は空いていた。おかげで冷房がききすぎている。飲み会の後しゃべり足りなかったふうのグループと、あとはいま仕事終わりなのだろう疲れ顔のひとり客が、ちらほらいるくらいだった。

 他の客から少し距離をとって、隅の禁煙席に座った。臼井はリゾットを、俺は定食を頼んで、飯を食う間、どうでもいいような話ばかりをした。

 腹に食べ物を入れたのがよかったのか、くだらない軽口を叩くうちに、臼井の顔色がだんだん戻ってきて、ほっとする。

 食べ終わったところで、臼井はあらたまって神妙な顔をした。

「あの。今日は本当にすみませんでした。わたしなんかのことで、怪我でもしたら……」

「それ、やめろ」

 遮ると、臼井は何を窘められたのかわからないような顔をした。

「自分なんか、って言うの。口癖になってるだろ」

「あ、……」

 やっぱりさっきの男は、ぶん殴っておけばよかった。そんなふうにできもしないことを考える自分を、自嘲しないでいられるわけでもなかったが。

 あんなのはただの悔し紛れの、つまらない負け惜しみだ。悪ガキが喧嘩に負けて逃げ帰るときに、覚えてろと言い捨てるのと変わらない。

 だけど臼井はああいう悪態を、いちいち真に受けてしまうのだろう。母親の言葉が頭に残っているから。

「あのな。……見る目のないやつのことは気にするな。臼井は可愛いし、料理の腕以外にも、いいところいっぱいあるだろ」

「か――」

 反論しかけて、臼井は口をぱくぱくさせた。見る間に顔が真っ赤になる。動揺したようすで、意味も無くお冷やのグラスを掴んだり放したりして、それからようやく、蚊の鳴くような声を出した。

「……いいところなんて、」

「あるよ」

 言い終わるのを待たずに、断言する。

「ないです……、そんなの」

 臼井は頑なに首を振って、目を逸らした。

「たくさんある。仕事だって一生懸命だし、誰の話でも真剣に聞くだろ。いつも周りに気配りしてる。人のいいところを探して、口に出して言える」

「そんなの……全部、ただの保身です。猫かぶってるだけです。だって、そうでもしなきゃわたしなんて、可愛くもないし、ぺーぺーで役に立たないから、だから」

 自分なんて禁止、と釘を刺すと、臼井は情けない顔をした。

「どれも、保身だけでできることじゃないだろ」

 言葉に出してしまってから、臼井を諭しているというより、自分に向かって言い聞かせているような気がして、複雑な気分ではあったが。

 臼井は口を開いて、まだ何か反論しかけたが、泣きそうになるのをこらえて、言葉を飲み込んだ。

 すぐ泣く女の子なんて、関わり合いになりたくない最たるものだったのになと、思い当たって、ふと苦笑する。

 誰にも必要とされないことを恐れながら、そのくせして、誰のことも必要とせずに生きていきたかった。

 はなから無理なことだと、自覚もしないで。

「……あの」

「うん」

「ありがとうございます」

「うん」

「……また、お弁当作ってきたら、食べてもらえますか」

「うん」

 自分で言いだしておきながら、臼井は赤くなって、うつむいてしまった。

「楽しみに待ってる」

「……はい」

 恥ずかしそうにうなずいて。

 それからようやく臼井は顔を上げて、笑顔を見せた。

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手放せないもの、ひとつ 朝陽遥 @harukaasahi

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