第5話

 システム周りの用事で支店に出かける約束があって、予定表に直帰の書き込みをしていたら、宮須から呼び止められた。

「あーねえ遠野、ついでに臼井ちゃんも連れてったげてくれる?」

 一瞬返事が遅れたのは、先日の気まずさをひきずっていたからだった。

「いいけど……俺でもどうにかなる用事なら、ついでに済ませてこようか」

「臼井ちゃんの顔見せも兼ねてるから。ほんとはもっと早く、あたしが一緒に行くつもりだったんだけど、間が悪くて延び延びになってさあ」

「ああ」

 断るのも変だ、などと考えながらあいまいに頷くと、まさか心の声を読んだわけでもないだろうが、宮須がいきなり顔をしかめた。「臼井ちゃんになんかしたら殺すからね」

「いっぺん確認しときたいんだが、お前の中で俺はどんだけ手の早いエロオヤジなんだ?」

 ぶつくさ言いながらも、まったく気が咎めるところがないわけでもなく、頭を掻きながら臼井と連れだって出かけた。

 移動中、臼井はいま関わっているキャンペーンのことを、楽しそうにしゃべった。その関係で知り合ったらしいほかの部署の社員について話すのに、相槌を打ちながら、よく周りを見ているなと思った。

 用事自体はトラブルもなく片付き、定時を若干回りはしたが、臼井の顔見せも無事に済んだ。それじゃあ帰るか、と言いかけたところで、先日の約束を思い出した。

 忘れたふりをするべきかどうか、一瞬考え込みはしたが、それも結局は不自然かという気がして、振り返った。

「このあと帰るだけだろ。ケーキ食ってくか。夕飯前だけど」

「いいんですか?」

「臼井が迷惑じゃなければ」

 うれしいです、と笑顔になった臼井に、焦りだか罪悪感だかに背中をつつかれながら、通りがかりに見掛けたケーキ屋に入った。

 入り口のところで選んで、店の中で食べられるようになっている。ディスプレイの前で真剣に悩んでいる臼井に、いくつでも頼んだらいいと、よほど言おうかと思ったのだが。

 先日、甘いものならいくらでも食べるといったわりには、遠慮しているのか夕飯前だからか、臼井は結局、可愛らしいサイズのタルトをひとつだけ選んだ。

 つきあいで自分もチーズケーキを頼んで、意外に男性客をちらほら見掛けることになんとなくほっとしながら、隅の席を確保した。

「じゃあ遠慮無く。いただきます」

「どうぞ」

 臼井はやけに神妙な表情でケーキを切り分けて、一口食べるなり、口元をゆるませた。

 うまそうに食べるなあと、ぼんやり眺めていたら、自分の手が止まりがちになった。

「……もしかして、甘いもの、お好きじゃないんですか」

 中年男がケーキ屋というので、無理をしていると思ったのかもしれない。表情を曇らせた臼井に、妙に焦って、

「好きか嫌いかなんて、考えたこともなかったな」

 ぽろりと正直に答えてしまってから、失敗した、と思った。べつに嫌いではないとか、食べられないほどではないとか、まだましな言い方がいくらでもあったはずなのに。

 この間から、どうかしている。言わなくていい本音が考えなしに口からもれてしまう。

 何か言葉を足さなくてはならないと焦った。だが、言い訳も適当なごまかしも、とっさに出てこなかった。

「あまり、食べる物にこだわったことがなかったんだ。特に嫌いなものもないし」

 焦りだけが空回りして、よけいに致命的な言葉を上塗りした。

 臼井の表情が強ばったのを見て、自分で自分の頭を殴りつけたいような気がした。これでは臼井の弁当をうまかったと言った自分の言葉を、ぜんぶ社交辞令だったと言っているようなものだ。

 臼井はフォークを置いて、うつむいた。「……男の人って、そういうものなんでしょうか」

 それは、と言いかけて、迷った。自分が特別に無関心なほうなのだと思うが、そう正直に言うのも、無神経の上塗りになる気がした。

 弁解をしようとしたが、どの言葉も口に出す直前でストップがかかる。どう言い逃れるつもりだ。本当のところを言う? これまでは何を食ってもどうでもよかったのに、お前の弁当だけが違ったって?

 言ってしまえばよかったのだ。失言は考えなしに口から飛び出すくせに、中途半端な理性が邪魔をした。

 俺が何も言えずにいるうちに、臼井のほうが口を開いた。

「つまらない話、してもいいですか」

「……え。ああ」

 臼井は紅茶のカップを両手で包むようにしながら、話しはじめた。

「うちの母、美人なんです」

 どういう話のつながりだろうと思いはしたが、口を挟む気にはなれなかった。臼井は視線を伏せて、こちらの顔を見ないまま続けた。

「悪い人……っていうわけじゃないですが。自分がきれいだから、そうじゃない人の気持ちがわからないところがあって。……あんたブスだからって、平気でしょっちゅう言うんです」

 思わず眉を上げた。臼井はむしろ可愛い。いわゆる美人顔とは違うかもしれないが、コンプレックスを抱く必要があるようには思えなかった。

 だが、否定の言葉をさしはさむ暇もなく、臼井は早口に続けた。

「あんたブスなんだから、顔以外のところでちゃんとアピールしなさいよねって。愛想良くしろとか、料理上手になって男の胃袋つかみなさいとか、そういうことを……子どもの頃から何度も言われ続けてきたから、それがいやで、反発したりもしたんですけど」

 眼鏡の向こうで、睫毛が細かく震えたのがわかった。

 泣く、と思った。だが臼井は泣き出しはせずに、うつむいたまま、小声で続けた。

「でも、いざ好きな人ができたら、せっせとお弁当なんか作ってる自分がいて」

 話しながら、臼井はだんだん背中を丸めて、小さくなっていく。まるで、いなくなってしまいたいとでもいうように。

「あのとき公園で……捨てようとしてた、あのお弁当だって、そうです。ほら、わたし、こんなですから……恥ずかしながら、これまであんまりそういうことに、縁がなくて。だから、みっともなくのぼせ上がっちゃったんですね」

 わたし、何やってるんでしょうね、馬鹿みたいですよねと、震える声で、臼井は言った。それから顔を上げて、無理に笑った。「それで結局、重いって逃げられるし」

 本人はなるべく冗談めかして、軽い口調を作ったつもりだっただろう。だけど成功しているとはいいがたかった。

「臼井、」

「すみません」

 何か言葉をかけようとしたが、その前に、臼井は席を立って、顔をそむけた。「今日、ありがとうございました。へんな話につきあわせて、すみません」

 引き留める間もなく、臼井は小走りに店を出た。

 女の子を泣かせたというので、周囲の客から冷たい目で見られていることに気づいたのは、だいぶ経ってからだった。



 帰宅したあと、何も手をつけきれずに、ただ床に転がって、ひとりの部屋で無為に唸っていた。

 何か、かけるべき言葉があったはずだ。

 走って追いかけたってよかった。そうしなかったのは、結局のところ、追いかけてどうするという、自分の中の醒めた声に勝てなかったからだ。

 もうずいぶん長いこと、他人の事情に深入りすることを避けてきた。これからも、そうして生きていくつもりだった。

 だけど、いくらなんでもあんなふうに泣く女の子に、かける言葉のひとつくらいはあってもよかった。

 晩飯も食わずに、気がついたら夜中だった。

 気がついた瞬間、強い空腹感に襲われた。だが、立ち上がって何か食おうという気になれなかった。その気になれば、作り置きの料理でも、買い置きのレトルト食品でも、いくらでもあった。どれも別に食いたくはなかった。

 何か、食べたいものがあるとすれば。

 思い浮かんだのは、臼井の弁当だった。

 どうかしていると思った。あんな話を聞いたあとで。

 明日も仕事だ。何をやっているのかと自嘲して、どうにか立ち上がり、のろのろと着替えて布団に入ったが、寝付けなかった。

 もうこれ以上は考えるなと、自分に言い聞かせようとした。

 無理だった。臼井の泣き顔が脳裏をちらついては、自己嫌悪が押し寄せる。

 それでも明け方頃になって、ようやくうとうとした。

 そして昔の夢をみた。



 母が誰かと電話で話していた。

 いまはもう取り壊された二間のアパートで、窓から差し込む西日が、ぎらぎらと埃を光らせていた。彼女がそんな時間にすでに家に帰ってきているのは、めずらしいことだった。

 電話の相手は知らない。だれか親戚か、あるいは古い友人だったのか。最初は普通の口調で話していたのが、途中でだんだん、あいづちに苛立ちが混じりはじめるのがわかった。

 母は、まさか俺が聞いているとは思わなかったのだろう。というより、学校から帰ってきていないと思っていたのか。


 ――そりゃ、克己がいなけりゃ、あたしだってそうするけど。


 そこだけがくっきりと耳に飛び込んできて、あとの言葉はひとつも聞き取れなかった。



 目が覚めてから、自分がまだそんなことを覚えていたことに驚いた。

 寝汗が気持ち悪かった。いつも起きる時間よりだいぶ早かったが、寝直す気にもなれない。

 眼球の奥に、鈍い痛みがある。目頭を揉んで、布団から這い出しながら、普段は思い出すことのない、子ども時代の記憶を探った。

 あの電話は、何歳のときのことだっただろう。

 小学校に入ってからなのは間違いないだろうが、はっきりとは覚えていない。ただ、家事を積極的に手伝うようになったのは、たしか、あれがきっかけだった。

 俺が料理や洗濯を覚えると、母は喜んだ。彼女が帰宅したときに、家事がいくらか片付いていると、助かるわと言って笑顔になった。

 その笑顔を見るたびに、俺はほっとした。

 何も、彼女を喜ばせてやりたいと思って、そうしていたわけではなかった。俺はただ、怖かっただけだ。

 足手まといのままでいれば、捨てられるのではないかと。

 だからせっせと家のことを手伝って、できるだけ問題を起こさないようにした。学校でも教師に呼び出されないですむ程度には品行方正に過ごしたし、それなりに勉強もした。風邪でも引いたかと思えば、自発的に薬を飲んで寝た。

 邪魔にならないように。

 いまなら思う。素直に聞いてみればよかったのだ。母に向かって、自分はいらない子なのか、自分がいると邪魔になるのかと。そうすればきっと、母は否定しただろう。

 俺は多分、人より臆病な子どもだった。母の本心を知るのが怖くて、遠回しに探ることさえできなかった。

 当たり障りのないことばかりを話すくせがついた。彼女が疲れてしゃべる気力もなさそうにしていれば、おとなしく自分の部屋に引っ込んで静かにした。

 やがて同級生の多くが反抗期を迎えて、彼らが親の言葉に逆らったり、あしざまに罵ったりするところを見かけるようになると、はじめのうちは、不思議でならなかった。彼らは恐ろしくはないのだろうかと。

 あるとき気がついた。彼らの多くは、見放される心配など、はじめからしていないのだ。いくら逆らおうと、悪さをしようと、それくらいのことで捨てられることなどないと、信じていられるのだと。

 いまにしてみれば、全員がそうだったわけではないだろう。俺よりよほど親の愛情に飢えていたやつもいたと思う。けれどその頃は自分の不安だけで手一杯だったから、そういうことには思い至らなかった。

 だから、自分の抱えていた不安を、誰かに打ち明けもしなかった。話したところで誰もわかってくれるはずがないと、勝手に思い決めて。

 早く大人になって、自立したかった。いつか母の気が変わって捨てられても、ひとりで生きていけるように。

 いまの仕事のやり方も、結局はあの頃の臆病さの、延長上なのだろう。牧田はあんなふうに言ったが、出世したいなんて最初から思ったこともない。

 頼まれごとを断らないのも、与えられた仕事をこなすことに必死になるのも、そんな理由からじゃない。

 皆から、好かれなくてもいい、いると便利なやつだと思われていたい。役に立たないと思われて、居場所を失うのが怖い。ただそれだけだ。



 俺がいまの会社に内定をもらった直後、母は倒れ、そのままあっけなく逝った。脳溢血だった。

 念願のひとり暮らしになっても、思っていたような開放感はなかった。

 俺が、彼女の人生を食いつぶしたのだと思った。俺がいなければ、母はあんなに早くに死なずにすんだと。

 逃げるように、仕事に打ち込んだ。母がそうしていたように、毎日働きづめでいれば、余計なことを考えなくてすむことに気がついたからだ。

 空いた時間には仕事の勉強をした。それでも時間が余れば、本を読んだ。仕事に関係のありそうな本を買い込んで、部屋に積んでおく習慣が出来た。

 暇な時間が怖かった。時間をもてあませば、よけいなことを考える。

 誰かと深く関わることは、耐えがたかった。人付き合いをおろそかにして仕事をやっていけると思うほど青臭くはなかったが、表面的なつきあいだけで充分だと思った。本音で人と向きあうこと、誰かの本心を知るということを、避けてきた。

 無趣味で通してきたのも、食い物の味に無関心だったのも、つきつめれば同じ理由だ。それなしでは生きていけないと思うようなものなど、ひとつも持ちたくなかった。

 そういう自分の本音に気づいてしまえば、あまりの情けなさに、笑えもしない。

 俺は子どもの頃から、何も変わっていなかった。

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