最後の手紙 空蝉の館

 その大きな屋敷の二階の窓辺には、いつも若い女のひとがいた。

 彼女はうつろな表情で、ただじっと空に目を当てている。

 固く閉じられた門の向こう、昔はさぞ華麗な館だったろうと思わせる屋敷は、今はあちこちに寂しげな古びを見せている。

 塗装の剥げた窓枠越しの、いつまでも若さと艶やかさを失わない美女の姿は、寂れていく一方の村の中で異様なほど輝いていた。





「お前、漬物クサいんじゃね?」

「ジジィとババァの臭いじゃねぇの?」

 口が悪いうえに頭も悪いのかお前らは。

 よくもまぁ、飽きもせずに毎日同じことばかり言いやがる。

「ほらほら急がないと。オバーチャンたちが待ってますよぉ、

 ゲラゲラ笑う声とざわざわと続く聞えよがしのバカ発言を背中に聞きながら、黙ってロッカーに向いたまま制服の袖に手を通す。

 小学生の悪口かよ。

 はめ込まれた小さな鏡では、かすかに唇の端を歪ませた若い男が冷めた目をして息を吸い込む。

 おいやめとけよと頭の中で声がしたけれど、バタンとロッカーを閉じると同時にこみ上げてくるものをそのまま口に出した。

「そういうとこが、イケてねぇんだよ。お前らは」

 しゅっと笑い声がおさまって、あぁ? と低い声がしたけれど、かまわず出口に向かって歩き出す。

 黙って廊下に出た後は、思い切りアルミのドアを蹴り閉めた。

 ベキッという変な音がして内心ギョッとしたが、振り向かずに廊下を歩いた。



 じいちゃんが入院して、ベッドで眠っているやせた顔を見たとき。

 俺は自分でもおかしくなるくらいに動揺した。

 人は誰でもいつか死ぬ。

 そんな当たり前のことを、じいちゃんに対しては考えたことがなかった。

 頑固で頑丈で、殺したって死なないようなクソジジイだったはずなのに。

 病はあっという間にじいちゃんから生気を奪い、ただ見るだけで俺の胸をぐちゃぐちゃにするくらいに変わり果てた姿に変えた。

 実家から車で三時間ほどのところに一人暮らしをしている俺は、あまり自由には病院に行けない。それを言い訳に、ついつい足が遠のいた。あんなじいちゃんを見たくない。声の大きなゲンコツの痛い、わからずやのジジイでいてほしい。

 子供じみた身勝手な考えだと、わかってはいるけれど……。

 局で一番若い俺が、街の中心地からずいぶんと離れた区域の担当になったのは去年のことだった。

 郵便を配達するだけでなく、過疎の進みつつある寂れた区域ならではの役割も兼ねている。

 老人の孤独死の防止。

 俺が配属される少し前に、街の民生委員から郵便局が相談を受けたと聞いている。以前は新聞配達員がその役割を果たしていたらしいが、高齢化するにつれて様々な理由から新聞をとらない家庭が増え、その受け皿として郵便配達員に白羽の矢が立ったとか。

 さほど標高は高くはないけれど山の中腹に村はあり、舗装こそされているものの車が入れないような細い山道をバイクで走る。

 ただでさえ配達しづらい区域の上に、じいさんやばあさんだけで暮らしている家への家庭訪問っていうのがくっついている。

 正直、ずいぶんとしんどい。

 局長が担当者を年齢で選んだのも頷けるし、特別手当や特別休暇が認められることにも納得する。何も知らない他の配達員の中には、俺ばかりが特別扱いだと思い込んでいるヤツも多いのだけれど。

 そのころにはもうじいちゃんが入院していて、俺にとっては二重に嫌な仕事だった。どうしたって、村の老人たちにじいちゃんが重なって見える。

 一軒一軒、ひとりひとり。毎日顔を見に行って他愛ない話をほんの少しする。最近は小さな頼まれごとを請け負うようにもなった。

 じいちゃんの見舞いから逃げている自分が、赤の他人のじいさんやばあさんの相手をしていることに無性にイライラした。



「木田さん、切れてるのどこの電球ですか?」

「あぁ、こっちこっち」

「イス借ります」

 玄関の電球をかえて古い電球を渡すと、大丈夫なのかよってくらいに曲がった腰の小さな背中が和室に戻りながらのんびり言う。

「茶ぁでも飲んでいけぇ」

「すみません、俺、配達まだ残ってて。じゃ、行きますね」

 靴を履きながら部屋に向かって言うと、

「どこだぁ?」

 と返ってきた。

「田辺さんと、松田さんです」

「ンなら、ここだよぉ」

「え?」

 履きかけた靴をもう一度脱いで和室に入ると、同じくらいに背を丸めたばあちゃんたちが車座になって茶をすすっていた。

 田辺のばあちゃんと、松田のばあちゃんだ。

「ほぉら、ちょうどいいあんばいに、みんないる」

「おれんとこ手紙来てたか? もらってぐ、もらってぐ」

「おれも、もらってぐよ」

 本当はこういうのいけないんです。言いながらもそれぞれに数枚ずつの手紙を渡した。

「さぁ、仕事終わったな。茶ぁ飲んでいけぇ」

 ばあちゃんたちの淹れる茶はすごくうまい。

 安い茶葉を使っているのは知っている。頼まれて買ってきたのは俺だ。

 なのに、うまい。

 じいちゃんが昔言っていた。茶は心で淹れるもんだと。そのときは、なんだよ千利休でも気取ってんのかよガラでもねぇ、なんて鼻で笑ったのだったけれど。

「ほら、腹が空いてるだろ。食ってけ」

「モチですか?」

「急に食いたぐなってな、ついたんだぁ。その切れっぱしだよ」

 小さな半月型のような餅が焼かれて皿にどっさり乗っている。

 前に食い物を断ったとき、ばあちゃんたちはそれはそれはがっかりした顔をして、それ以来、俺は食い物は断らないことにした。そういうのも大事だと、あとから局長に言われたのもある。

「うまそうですね」

 遠慮なく手を伸ばすと、ばあちゃんたちに笑顔がこぼれた。

 イライラするのはこんなときだ。

「そういや、山下んとこの若いのは、まぁだあの娘んこと気にしてるんだと」

 ひゃっひゃっだか、ふぁっふぁっだか、空気の抜けた笑い声が弾けた。

「あの娘?」

「ほぉら。田所さんとこの、べっぴんさんだ」

 ああ、あの窓辺の。

 古い大きな家の二階で、いつもぼんやりと外を眺めている美女。

 外からくる若い男は誰でも一度はあの美女に惚れるんだと、ばあちゃんたちから聞いていた。

 あの家だけ、まだ俺は住人に会ったことがなかった。

 様子を知るために仕方なくインターホンを鳴らすけれど、彼女が出てきたことはない。彼女からは門の前にいる俺は見えているはずなのに。

 出てこられない事情でもあるのだろうかと勘繰りたくなる。

「なんだ。おめぇも気になってんのかぁ?」

 黙ってしまったのを誤解したらしい木田のばあちゃんが、俺に茶をつぎ足しながら言ってくる。

 聞いてみようかと思ったが、やめた。

 もしも本当に深い事情があるのなら、それはちゃんと本人から聞いた方がいい。

 俺は探偵じゃないのだから。

「べつに。俺は興味ないですよ」

「なぁに。おれたちだって、畑もしないでずっと家に座ってたらば、あんくらいのべっぴんさんだったよぉ」

 再び三人は笑いだす。

 モチを噛みながら、俺にはそんな三人がずいぶんと可愛らしく見えた。

 そうしてこんな瞬間が増えれば増えるほど、俺のイライラは大きくなっていくのだ。



 朝から空は厚い雲におおわれていた。予報では天気は大きく崩れるらしい。

 こんな日は早めに配達を終えてしまいたい。

「……やっぱ出ないよなぁ」

 いつものように、真っ先に田所邸のインターホンを押しに行ったが、やはり返事はないし誰かが出てくる気配はない。

 民生委員からの依頼はあくまでボランティアの域を出ないから、何かなければ勝手に中に入ることはできない。

 昨日、ばあちゃんたちと彼女の話をしたからだろうか。ふと二階が気になって顔を上げる。

 鉄製の門の向こう、白い家。二階の窓辺の長い黒髪の女の人は今日も美しい。

 それは突然だった。

 ふっと目が合ったような気がしたのだ。

 こんなことは初めてで、俺は弾かれたように会釈する。ほっとした。これで安否確認ができる。

 なのに。

「あ……!」

 次の瞬間、そんな安堵は吹き飛んだ。

 再び顔を上げた俺の目に、そのひとがゆっくりと倒れていくのが映ったのだ。

 とっさに門扉に手を掛けると、ギィッと油のきれた音とともに開いた。

 後はもう何も考えずに家に向かって走る。

 家のドアにもカギはかかっておらず、俺はそのままお邪魔しますと大声を出しながら中に入った。

 入ってすぐの階段を駆け上がり、ずらりと並ぶドアの中から彼女がいそうな位置のところを選んで勢いのまま開ける。二つ目に開けた広い寝室の窓辺に、崩れ折れた華奢な体を見て駆け寄った。他に人の気配はない。

「大丈夫ですか!?」

 抱き起こそうとして手をかけたとき。

 俺は全身が心臓から順にさぁっと凍っていくような錯覚に陥った。

 手を放したいのに動けない。

 彼女は、驚くほど硬く、冷たかった。

 そこには命を感じさせるぬくもりはまったくなく、うつむいた恐ろしいほどに美しい横顔はピクリともせずに目を開いている。

「……ひっ」

 喉で悲鳴が引きつった。

 自分の出してしまった声にはっとして、ようやく彼女を手放して後ずさる。

 立てているのが不思議なくらいだった。

 その時。

 パッと暗い窓の外が光り、途端に激しい雨音がし始めた。

 ばらばらとガラス窓を雨粒が叩く。

 閃光のせいでますます暗く感じる部屋の中、茫然と倒れている美女を見下ろす。

 俺のすべてが真っ白だった。

「そこで何をしている!」

 怒鳴り声はいきなりで、ほとんど反射神経だけでビクッと振り返ると、老人がひとり入口の近くにいた。

「た……倒れたのが見えたので……あ……すみません……勝手に入ってしまって……俺は郵便局員で……今日は様子をうかがいに……そしたら……」

 言葉を出している自覚はあったけれど、何を言っているのか自分でもわからなかった。

 老人の険しい表情はそのまま和らぐことはない。深くため息をつき、かすかに引きずるような足音を立ててこちらに歩いてきた。

 殴られると思った。

 けれど老人は俺の脇をすり抜けて窓辺の彼女に近づくと、無骨な手からは想像もできないような丁寧な手つきで抱き上げ、元通り椅子に座らせた。

「最近の若いもんは、鍵が開いていれば勝手に入ってくるのか。郵便局員なら門のポストで十分だろう」

 低い声が言い、俺の返事を待たずに続けた。

「出ていけ」

 その言葉は、鋭いナイフではなくずっしり重たい鈍器だった。

 本当に殴られたわけではないのにずんと響く。

 雷雨は激しさを増している。

 それからの配達をどうやってすませたのか覚えていない。

 ただ、局に戻った俺を見て、女の先輩があげた小さな悲鳴で我に返った。

「どうしたの! あなたカッパは? ちょっと待って、タオル持ってくるから」

 ぼたぼたと自分の体から滴る水滴が足元に大きな水たまりを作っているのを、俺はぼんやりと見つめていた。

 とても、とても、寒かった。

 


 がちがちと歯が鳴るほどに冷え切ったその日、夜に熱を出した。

 もっと布団を掛けなくてはとか、薬を飲まなくてはとか、思いながらも動けない。その代わりに朦朧とした頭で悪寒に耐えながら、勝手に再生される今朝の光景を見ている。

 倒れた美しいひと。

 抱き上げる老人。

 老人は、尊いものに触れるように彼女の衣服を整え、髪を直し、倒れた拍子にかすかに汚れた頬をぬぐう。

 若く美しい姫君と老騎士。

 そんな妄想をかき立てる光景。

『出ていけ』

 低く響く、田所の声が聞こえる。

 途端にすべてがねじれていく。

『出ていけ』

 夢とも現ともわからない世界で、田所が言いながら泣いていた。

 泣きながら、出て行けと言っていた。

 やがて泣いているその顔が、じいちゃんのものになった。

 じいちゃんは細い細い手を俺に向かって振り上げて、出て行けと言った。

 お前なんぞ、出ていけ、と。

 言われた俺も泣いていた。

 ぼたぼたと流れる涙をぬぐうこともできずに、じいちゃんを見ながら泣いていた。心が悲鳴を上げながら、痛くて痛くてたまらないと言っていた。

 なんでじいちゃんがいなくなるんだ。あんなに元気だったじゃねぇか。

 ふざけんな……ちくしょう……。

 あんな村なんか行きたくて行ってんじゃねぇんだよ! 何にも知らないくせにいい加減なこと言ってんじゃねぇ!

 俺に笑顔なんか、見せんな! 俺に優しくなんかすんな!

 じいさんもばあさんも、大嫌いだ! 大っ嫌いなんだ!

「はぁ……はぁ……」

 すうっと目が覚めた。

 荒い息が熱い。耳のあたりが冷たく濡れている。本当に泣いていたのだと気付いてため息交じりに乱暴に拭った。

 無理やり起き上がり、よろけながら冷蔵庫に向かう。たしかスポーツドリンクがあったはずだ。何か飲まなくてはいけない。

 まだ夢の中から抜けきらないような気分だった。

 夢の中での叫びが、まだ俺の胸を震わせていた。

 どくどくという鼓動が聞こえる。

 もし……。ふと思った。

 もし、あの老人のところへもう一度行けたなら、俺は変われるだろうか。

 行ってちゃんと向き合ったなら、俺は逃げることをやめられるだろうか……。

 ペットボトルから口をはなしたとき、カーテンの隙間から静かな金の光が斜めに落ちているのに気付いた。月夜は思っていたよりずっと明るいようだった。



 数日後。

 インターホンを鳴らした俺を、老人は驚いたようなホッとしたような、妙な顔つきで出迎えてくれた。インターホンは壊れていなかったようだ。それともあんなことがあったから直したのかもしれない。どちらにしても、田所が出てきてくれたことに感謝した。

「その……もう大丈夫なのか。体は」

 代理で配達をしていた者から聞いたのだろう。

 俺は、かなりほっとした。

 あの日のことにまだ腹を立てているわけではないようだったから。

 だからいくぶん落ち着いて頭を下げることができた。

「すみませんでした。余計なことをしました」

 頭上から咳払いが聞こえた。

「……ちょっと、寄っていかんか」

 思わずがばっと顔を上げると、難しい表情をした田所が門をさらに開いた。

「入れ」

 俺は失礼しますとだけ言って、老人の背を追った。

 家にはそこら中に人形が置いてあった。

 どれもがとても精緻な作りで、知識のない俺でもすごいものだとわかる。

 老人は田所自身で、この家にずっとでいると言った。

 まだ子供のうちに人形師の家に口減らしに弟子入りさせられて、気が付いたらそこそこ名の通った人形作家になっていた。

「……人……形」

「ああ。そうだ」

 ことりと胸に落ちた。

 そうか。人形。……人形だったのだ。

 あの夜、助け起こした冷たい身体を思い出す。すぐにわかりそうなものだったのに、あのときの俺はなんだと思ったのだったっけ……。

 小花の散った可憐な茶器セットで、うっとりするような香りの紅茶が用意されていく。

 室内はまるで昔見た長崎の洋館そのままの内装で、時代ドラマのセットに入ったような気分になる。そこでマタギのような恰幅のいい、そして粗野な雰囲気の老人が、貴婦人のようなしぐさで紅茶を淹れている。

 すべてがアンバランスで俺はどこに目を当てていいのかもわからない。

 仕方なく老人……田所の手元を見ながら黙って待っていた。

「飲め」

 乱暴な言い方とは真逆のきれいな手つきで、前に紅茶を置かれた。

「……いただきます」

 いつも味もわからずに習慣だけでガブガブとコーヒーを飲んでいる俺には、生まれて初めて嗅ぐ花のような香りとほの甘い上品な味は、ドキドキとうるさかった心臓にじわりと沁み込んでいって、いつの間にか穏やかなリズムに変えてくれる。

 田所は自分に淹れた分の紅茶をゆっくりと飲んだ。

「あの窓辺の人形は、少しばかり特別なもんだから家に置いている」

「とても……人形には見えませんでした。……驚きました」

 そうかと言ったきり、老人は再び黙る。

 しょうもない世間話をする雰囲気ではなく、俺もティーカップを手にして黙ったままだ。

 コチコチという時計の音がやけに大きい。

 けれど、不思議と居心地の悪い沈黙ではなかった。

 古いながらも美しく保たれた部屋は、おそらく田所の性格を表しているのだろう。

 見るともなしにゆるゆると視線を動かしていると、不意に目の前の体が動いた。

 がたりと椅子から立ち上がり、やっぱりほんのわずかに足を引きずりながら部屋を出ていったかと思うと、やがて手に一冊の本を持って戻ってきた。

「これを……あるひとに届けてほしいんだが、頼めるか?」

 差し出された、赤をくすませた色の古そうな本はむき出しだった。

 封筒に入って住所が書いてあるものではないということは、郵便局に配達してほしいのではないということだろうか。

 窓辺の人形と同じく、これは田所の大切なものだと思ったことに根拠はない。

 けれど俺は、疑わなかった。

 だから、躊躇したのは一瞬だった。

「いいですよ。どちらへですか?」

 田所は明らかに驚いた顔をした。

「いいのか?」

「ええ」

「どうして」

「……お詫びです。その、なんとなく」

 とっさに出た俺の言葉に、そうかと言って、はじめて田所が小さく微笑んだ。



 老人の昔語りはいつだってどこか悲しい。

 どんな言葉にも、二度と戻れない時を愛おしむ色がにじむ。

 それがとても、胸を締め付ける。

 よくある昔話であってもなお、聞くものの心の奥底に雫を落とす。

 田所の昔語りもそうだった。

 厳しかった修行のこと、初めて作った人形のこと、そして人形師の娘との恋のこと……。

 桜子さくらこという心優しい聡明な女性は、思いをともにしながらも田所と結ばれることはなかった。

「……それはそうだ。半人前の弟子に娘をくれるほど、師匠は甘い人じゃなかったからなぁ」

 それでも忘れられないひとだった。だから一人前の人形師になったとき、一体だけ彼女を写そうと心に決めた。

「窓辺の人形は彼女を写したものだ。人形作家として修練を積んできたが、どんなに頑張ってもあれ以上の人形は作れなかったよ」

 女々しいだろう。

 田所は笑ったが、自嘲というにはあまりに悲しい笑みだった。

「この本は、彼女が去るときにくれたものだ。二冊あった本を一冊ずつ分けた」

 俺の目の前にそっと置かれた本には、金の文字が乗っている。


     「 きみへ 」     レットル・ダムール


「……桜子さんに、お返しするんですか?」

 田所は静かに頷いた。

「ずっと、返す機会を逃してきてしまったよ」

 凪いだ海のように、深く穏やかな声だった。

「この本は、こんな所にいつまでもあってはならなかったんだ。これでようやく、わたしは……」

 大きな皺の手が顔をぐしゃりと撫でて、そのままとどまった。

 覆われた向こうの表情は見えない。

 何か言いたくても言えなかった。

 俺なんかに言える言葉なんて何もない。

 会えないひとを愛しむ声色は、聞いているこっちが苦しくなるようだった。

 長い時をかけて積み重ねられた想いの前に、俺はただ口をつぐむ。

 俺なんかには、まだわからない。

 ひとの心の底には、なんて深い河が流れているんだろう。

「なんで、俺なんかに……この本を?」

 田所が頬を緩ませた。

「きみはまた、ここに来てくれた。それ以上の理由などいらないだろう」

 きみは大丈夫だと、やわらかな目が言っている気がした。

 知らないはずの俺の心の中を、とんとんと幼子の背を叩く母親のような田所の優しい目が、そっとなでていた。



 桜子さんは旧公民館の中の図書館にいると、田所は言った。

 だから公民館に本を届けてほしいと。

 たしかに自宅では都合の悪いこともあるだろう。俺は疑問も感じずに公民館に向かった。

 ここに来るのは、配達区域が変わって以来だ。

 以前、ここは俺の担当地区だった。

 いつも応対に出ていたばあさんのことは、よく覚えている。だから図書館と聞いたとき、「桜子」があのカウンターの女性だとすぐに気づいた。明らかな面影があったからだ。

 けれど、今日の俺は私服で、持っている手紙は切手のない届け物がひとつ。

 ひどく緊張した。

 あのひとは受け取ってくれるだろうか。

 返事を返してくるだろうか。

 そして俺はその返事を、ちゃんとじいさんに伝えることができるだろうか。

 重たい手紙だ。

 さして厚くもない本が、カバンの中でひどく重い。

 公民館のガラスのドアの前に着いても、すぐには開けられなかった。

 ふと、じいさんの節くれだった手を思い出す。

 窓辺の人形を思い出す。

 その人形を語る、じいさんの目を思い出す。

「よし……」

 顔を上げてドアを開けた。

 図書館はすぐ左。

 カウンターには、以前と変わらない品のいいばあさんが見えた。

「こんにちは」

 カウンターの真ん前に立って声を掛ける。

 うつむいて作業をしていたばあさんは、すぐに顔を上げた。

「こんにちは。あら、お久しぶりですね」

 ふわりと花のような香りが流れてきて、同時に艶やかな微笑みを向けられる。ばあさん相手に艶やかっていう表現もどうかと思うが、それ以外に言いようがないからしかたない。

 きれいな人というのは、年齢に関係なくきれいなものだな。そんなことを考えながら、頭に浮かんだ「桜子」にやはり似ていると思った。

「今日はお仕事はお休みですか?」

「あ、はい。あの……今日はこれを、お届けに」

 斜めに掛けたカバンから、あの本を取り出した。

 そのままカウンターに置く。

 ばあさんの顔が、一瞬で変わった。

「まぁ……」

 しばらく言葉もなく本を見つめていたが、覆っていた口元から細い手を放すとまっすぐに俺を向いた。

「どなたに頼まれましたの?」

 声は凛として、俺はたくさん汗を乗せた手のひらを握る。

「田所さんという方から預かってきました。桜子さんにお返しするために」

 そうですか……そうですか……。静かに繰り返して、ばあさんはそっと本を手に取った。そうして、自分を落ち着けるように小さく深呼吸をした。

「……どうもありがとうございます。お時間があるようでしたら、少しお話をうかがってもよろしいですか?」

「はい」

 促されて中央の楕円のテーブルにつく。

 すぐに奥から、ばあさんが茶を出してきてくれた。芳ばしい香りが広がる。

「わたしは東條槇子と申します。桜子は、わたしの母です」

 俺が茶をひとくち飲んだのを見届けたのか、穏やかに言葉が流れた。

「……お母さん?」

「ええ。まだわたしが子供のころに亡くなりました。田所さんのことを母から聞いたことはありません。けれど、この本と同じものを母はそれは大切にしていました。ひとりになったときにはいつも、本を見ていました」

「田所さんは、桜子さんと別れるときに二冊の本を分け合ったと言っていました。ずっと返さなくてはならないと思っていたとも言っていました」

「そう……。そうですか……。幼心にもこの本が母の特別なものであることはわかりました。母は、父のことも私のこともとても愛してくれました。でも、その愛とは別の所に、母が大切なものを持っているのを、わたしは感じていたように思います」

 手にしたままの本にじっと目を落とし、東條は口をつぐんだ。

 沈黙がおりる。

 言いたくないことを聞くつもりはない。

 俺はただ、田所の思いを届けたかっただけだ。

「東條さん、あの、俺は……」

「田所さんに、お会いになったのですよね?」

「……え?」

「ご本人に、じかにこれを手渡されたのですよね?」

「ええ。そうですけど……」

 じっと目を見つめられて、それがまるで試されているように感じられて首を傾げる。

「少し、お待ちになってくださいますか」

「……はい」

 東條はすくっと立ち上がり、カウンターに向かうと何かを書き始めた。

 たぶん、手紙だ。

 失礼かなと思いながらも、俺は目を離すことができなかった。

 横顔は、あの「桜子」によく似ている。

 一度も止まることなく書き上げた万年筆がひたりと止まり、白い便箋はきれいにたたまれた。そのまま淡い桃色の封筒に収められたとき、顔を上げた東條と目が合った。優しい微笑みが俺を包み込む。

「お待たせいたしました。これを、田所さんに」

 宛名はなかった。

 ただ、封筒には桜の花が散っていて、俺にはそれを手にした田所の気持ちがわかるような気がした。

「ありがとうございます」

 ふっと東條が笑った。

「不思議なお方ですね。あなたは」

 何か言いたげだったが何も言わず、俺もまた何も聞かず、手紙をカバンに入れて頭を下げる。

「では、これで」

「どうか、くれぐれも、田所さんによろしくお伝えください」

 それから、と、東條は俺を見た。

「きっとまた、あなたはここにいらっしゃるでしょう。そのときには、田所さんの本と母の本、並べてゆっくりお話いたしましょう」

 今日は来てくださってありがとうという声に見送られながら、最後の奇妙な言葉が少しばかり引っかかったが、一刻も早く田所にこの手紙を届けたいという気持ちの方が勝って、俺ははいとだけ返事をして早々に公民館を出た。

 いつもは局のバイクで行く村へ、今日は友達から借りたバイクを飛ばす。

 こんなに気持ちが逸るのはどれくらいぶりだろう。

 村へはあっという間に着いた。

 インターホンを鳴らして待つのももどかしく、そわそわと門扉から中を覗いていたが、一向に田所が出てくる気配がない。

 また壊れたのだろうかと数回ボタンを押してみるが、やはり屋敷から人が出てくる様子はなかった。

 ふと見上げた窓には、桜子がいる。

 入ってみよう。

 よし、と門扉を開く。ドアにも鍵はかかっていなかった。

「田所さん?」

 呼びながら、先日通された部屋に行ってみたが誰もいない。家の中はひどく静かだった。そっと見て回ってみるが、田所の姿はどこにもなかった。

「田所さん」

 二階へ行ってみることにする。

 もしかしたらと桜子のいる寝室へ行くと、案の定、じいさんは窓辺の人形の隣に腰かけていた。

 穏やかな表情で桜子とともに目を窓の外に向けている。

 ほっとしたが、そこには妙な違和感があった。

「田所さん?」

 胸騒ぎがした。

 ゆっくりと近づく。

「……人形……」

 田所老人瓜二つの精巧な人形が、静かに座っている。

 隣を見れば、いつものように桜子は窓の外を眺めている。

 おかしな世界に紛れ込みでもしたように、頭の中がちりぢりでうまく考えがまとまらない。

 家のどこにも田所はいなかった。

 家の鍵は開いていて、けれどもどの部屋にも、生活の匂いがしなかった。

 ついこの間来た時と同じくきちんと整えられていた部屋。そのそこかしこに、今日はうっすらと白く埃が積もっている。

 俺は、カバンから手紙を出した。

 そうして、桜の舞い散る封筒を、老人の人形の膝の上に置く。

「田所さん、お返事、もらってきました」

 そっと声をかける。

 この人形が、田所だった。そう思った自分をおかしいとは思わなかった。

 それは、俺が心のどこかで、気付いていたからだと思う。

 何者かが見せている幻影に。

 そしてその幻影を、最後まで見たかった。

 だから誰にも聞かなかった。田所のことを。ばあちゃんたちや局長に。聞けばすぐにわかったろうし、調べることもできた。

 それをしなかったのは、そうすれば幻は跡形もなく消え去ると思ったからだ。

 幻は、どうにかしたくてどうにもできなかった俺の中の混沌に、光をくれるかもしれない奇跡だった。

 大切な人が終焉へむかうことへの……怒り、悔恨。焦燥。恐怖。

 得体のしれないものが、今まさに俺の内臓をもぎ取っていこうとしている。

 こんなにも人の死は、人の命は、でかくて強いものなのか。

 そっと老人の人形の頬に触れた。

 するりとした不思議なぬくもりが、ただ冷たいはずの人形の頬から感じられて、しばらく指が離せなかった。

「きっとまた、あなたはここにいらっしゃるでしょう。そのときには、田所さんの本と母の本、並べてまたお話いたしましょう」

 ふと、図書館で東條が言った言葉が耳の奥で聞こえた。

 東條は知っていたのだろう。

 田所がすでにこの世のものでないことを。

 なのに、俺の話を信じ、この手紙を書いてくれた。中身はわからないけれど、あの横顔はきっと温かな真心のこもった手紙を書いてくれたに違いない。

 彼女は「桜子」と「田所」の残したものを、しっかりと受け取った。そうして、その想いを成就させた。

 死してなお、生きるものになにかを与えることができるなら、生きているものはそれを受け取る義務がある。

 受け取って生きていく義務がある。

 じいちゃんは……俺に残したいものがあるだろうか。

 俺でも、じいちゃんの何かを受け取ることができるのだろうか。

 しっかりと、別れることができるのだろうか。

『きみはまた、ここに来てくれたじゃないか』

 田所の声がたしかに聞こえた。


 

「なに言ってんだぁ。いっつもふたつ並んで、窓の所にいたろうに。娘とじいさんと。あれはいい人形だぁ」

 あとで田所の屋敷のことをそれとなく聞いたとき、木田のばあちゃんは事もなげに言った。

「でも……村にくる若い男はみんな一度はあの女の人を好きになるって……」

「あぁあ、あれはホントの話だ。なぁに、年寄りの楽しみよぉ。人形相手にあこうなる若いもん見るのは、なかなかおもしろいもんだぁ」

「うわぁ。木田さん、意地悪いなぁ」

「年寄りをなめると怖いんだでぇ」

 ふぁっふぁっという笑い声に苦笑する。

 田所はずいぶん前に亡くなっていた。

 生前の田所の遺言で、屋敷はそのままの姿で残された。

 中にある人形も。

 窓辺にはいつもふたつの人形が並んで座っているのだが、娘の人形につい目が行くから老人の人形に気付かないひとも多いのだという。

 それでもと、局長にも田所のことを聞いてみたが、あそこは長いこと空き家だろうと、こちらもまたあっさりと言われて終わった。

 あの不思議な体験を、俺は誰にも話していない。

 単なるコワい話のようには絶対にしたくなかったからだ。

 近いうちにあの図書館に行って東條に田所のことを伝えたら、あとはずっと胸にしまっておくつもりだ。





 仕事休みの日。

 早くに目が覚めてしまった。

 明けきらない朝の空が、一日の晴天を告げている。

 今日、俺は病院に行く。

 じいちゃんに会いに。

 じいちゃんから、何かを受け取るために。

 ちゃんと受け取れるか自信はない。

 だけど、それでも、痩せたじいちゃんの顔をまっすぐ見ながら、話をすることはできる気がした。

 俺はあの田所の本を、受け取れたのだから。


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恋文 新樫 樹 @arakashi-itsuki

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