3通目 メロンパン

 日曜日の朝は嫌い。

 パンを買いに行かされるから。

 近所のパン屋さんベーカリーヒムラは、同じクラスの日村くんのうちだ。

 パンを焼くのはお父さん。お店にいるのはお母さん。

 日村くんはびっくりするくらいに成績がいい。

 いつも眼鏡の真ん中のところをクイッとしながら、黒板を見ている。

 わたしはその横顔を、こっそり見ている。

 すらっとした鼻や、二重のくっきりした目や、しゅっとした顎。

 銀の細いフレームの眼鏡がすごく似合っていて、ときどき博士に見える。

 女子はほとんどの子が王子って呼んでいるけど、気づいているのかな。

 体育のときなんて、みんなより背の高い日村くんは目立つ。

 すらっとしているのは鼻だけじゃない。

 長い手足をきれいに動かして走って、短距離では学年で一番速い。

 女子はみんな日村くんに憧れている。

 だから嫌い。

 だから、日曜日の朝は嫌い。



 当たり前のようにお母さんはわたしに小さなお財布を渡してくる。

 おつかい用の、必要な小銭だけが入ったやつ。

「いつもの、1斤ね」

 食パンを1斤、2斤と呼ぶのを知ったのは、日村くんちのお店に行くようになってからだ。

 スーパーで売っている食パンは切られて袋に入っているから、食パンはどこでもそうやって売っていると思っていた。

 初めてベーカリーヒムラで長い食パンを目の前で切ってもらったときはすごくびっくりした。

 それに、自分の言った「食パン1斤ください」という言葉がちゃんと通じたことが、大人の仲間に入る合言葉を言えたような気分にさせてくれた。

 だから、このおつかいは楽しい。

 日村くんのうちでなかったら。

「おはよう。いらっしゃい。食パン1斤?」

「はい。あの、おはようございます」

 ぺこっと頭を下げると、おばさんはいつものまん丸い笑顔を見せてくれる。

 日村くんとは全然似てない。

 たぶん、日村くんはお父さんに似たんだと思うけれど、お父さんは奥の厨房から出てこないから会ったことがない。

「ありがとう。はい、オマケ」

「いえ、あの……」

「いいのよ。これいつものワケあり。もらってやって」

「……はい、ありがとうございます」

 いたずらした後みたいな顔で、おばさんは小さな声でそう言いながら、メロンパンをひとつ同じ袋に入れてくれた。なぜか最近、よくメロンパンをおまけしてくれる。一番好きなパンだからとってもうれしいけれど、メロンパンばかり失敗するのはどうしてだろう。

 包みを渡され、わたしはちょうどの小銭を渡して、来たときと同じようにぺこっとお辞儀して店を出る。店を出て公園を横切れば、すぐにわたしの家だ。

 昔から変わらない公園。

 すっかり色があせて錆が目立ってきたけれど、わたしには大切な公園。

 ベンチがわりのポールに腰かけて、手首にぶら下げていた袋からメロンパンを取り出す。

 お母さんが見たら怒るかもしれないけど、おまけをもらったときはここでこうして食べてから帰る。おつかいのごほうびだもん。っていいわけしながら。

 今日のメロンパンはすごくおいしい。ちょっとだけ、お店で売っているのよりパサついているけれど、前もらったオマケよりずっといい。これは失敗じゃなかったんじゃないのかな。

 ふんわりした甘さとバターの香り。わたしはいつものように目を閉じてもぐもぐする。こうするともっとおいしくなる気がするから。

 でも、お父さんとお母さんが「ほんとうに、おいしそうに食べるねぇ」と言うから、人前ではやらないようにしてる。だって食いしんぼうだと思われたくない。

 日村くんとは幼稚園が同じだった。

 家が近いこともあって、よく一緒にここで遊んだ。

 地面に絵を描きながら話をしたり、草を取っていろんなものを作ったり。

 それをつまらないと言わない日村くんは、わたしにとってとても特別な人になった。

 店が忙しいせいか、小さいころの日村くんは暗くなっても公園にいることがたびたびあった。みんな帰ってしまった公園。わたしも帰らなくてはならないけれど、日村くんが一人ぼっちになるのがいやだった。

 帰らないの?

 そう聞くと、もう少ししたらねと、やけに大人びた口調で答えて笑う。

 その笑顔が、なぜかいつまでたってもわたしの胸に残っていた。

 笑っているのに泣いているみたいに見えたからかもしれない。

 誰よりも小さくて、さびしそうだった男の子は、小学生になったらあっという間に王子様になった。背がぐんぐん伸びてカッコよくなって、何をやっても誰より上手い。

 日村くんが一人ぼっちでいることはなくなった。

 まわりを囲む子たちが増えるにつれて、わたしはどんどん遠ざかり、今はわたしが一人ぼっち。

 すっかりさびれた小さな公園で、毎日絵を描いて遊んでいる。

 本当は誰かと一緒に遊びたいけれど、わたしの好きな遊びをみんなはたいくつだと言うからしかたない。

 だったら、あなたが違う遊びをしたらいいじゃないの。

 お母さんはきっとそう言うだろうけど、わたしは好きな男の子の話できゃあきゃあ言ったり、嫌いな子のうわさや悪口で盛り上がったりはできないし、みんなが楽しそうに見ているカタログの服は、わたしには似合わない。

『ジャンクチボビル』

 わたしのあだ名。

 誰が言いだしたのかわからないけれど、気がついたら男子たちはわたしをそう呼ぶようになった。

 はじめは言われても意味がわからなかったけれど、ある日の掃除の時間に笑いながら説明してくれる男子がいた。

 並べ替えると『ジャンボクチビル』だろ。

 カッと、体中の血が顔と頭に集まったような気がした。

 目の前の得意そうな顔に大量の水をぶっかけてやりたかったけど、手に持っていた重たいバケツをぶちまけるのは想像の中だけだった。

 そんなことをしても、どうせ先生に怒られるのもかたづけるのも全部わたしだ。

 わたしの唇はぼてっと厚い。おまけに色黒で目が大きくて、前はよくチビクロサンボって言われてたけど、少しだけど背が伸びてチビじゃなくなったから、ジャンクチボビルになったらしい。

 小さなころにはわからなかった、可愛いっていうことと、そうじゃないっていうこと。

 自分がそうじゃないのほうの人間だってわかったころ、日村くんは王子様になっていて、わたしはずぅっと前から日村くんが大好きだったことに気づいた。

 ぽつっと胸が痛くなる。

 ベーカリーヒムラからの帰り道はいつも、こうして胸が痛くなる。

 メロンパンを食べ終わってから、近くに生えているネコジャラシのもしゃっとしたところを、プチっとひとつ取る。

 パンの袋とは反対側の手に握って、ぎゅっと力を入れたり緩めたりを繰り返すと、ネコジャラシはまるで生き物みたいに手の中から這い出してくる。

 「毛虫」と呼んで遊んでいたこれを、最初に教えてくれたのは日村くんだ。

 逆にして持つと、引っ込んでいくんだよ。

 おもしろいだろ? と、小さな日村くんは楽しそうに言って眼鏡の真ん中をクイッとやった。

 手のひらにチクチクした感じがすると、あのころを思い出す。

 自分の顔とかスタイルなんて気にしたこともなくて、いつも日村くんと公園で遊んで、ぽつっと胸が痛くなんかならなかったころ。

 そうして思い出すと、もっと胸が痛くなる。



「ジャンクチボビル、あとやっとけよ!」

 日誌を書いていたら頭の上から声がして、顔を上げたらササキが教室のドアから出ていくところだった。

 日直の仕事ちゃんとやってよ。そう言おうとして口を開いたけれど間に合わなかった。

 放課後、公民館でこども祭りがある。

 みんなそれを楽しみにしていて、いつもは教室でダラダラと何人も残っているけど、今日は誰もいなかった。

 ふと見た時計は三時半で、お祭りが始まる時間だ。

 黒板は半分しか消されていない。きっとメダカのエサやりも、落し物チェックもまだだろう。

 日誌にぽっかり空いている名前のらんに、ササキとカタカナでなぐり書きしてやった。

 明日の朝、お前は名前もちゃんと書けないのかって先生に怒られればいい。

 そう思ってから、すぐに消しゴムをあてる。

 少しシワになるくらいにゴシゴシと消しゴムで「ササキ」を消した。

 黒板をきれいにして、メダカの水槽にひとつまみエサを入れる。教室に落し物がないか見てから、落し物箱を見る。うっすらと名前が読めるものを見つけて、その子の机に置いておいた。

 窓のカギを確認して、カベの時計は見ずにランドセルを背負う。

 そのまま電気を消して、追い立てられてるみたいに教室を出た。

「遅かったなぁ」

 職員室に日誌を持って行ったら先生がのんびり言った。

 先生は日誌を開き、ササキの名前のらんを見たはずだけれど何も言わなかった。そうしてさっとサインすると、早く帰れよとだけ言って何かの書類の続きを書き始めた。

 はい、と返事はしなかった。

 日直のロボットになったみたいに心の中がコチコチで、なんにも言いたくなかった。

 お祭りに今から行ってももうたいして遊べない。わたしだって楽しみだったのに。

 校門を出て右に行くと公民館で、家は左。それでも、少しだけ迷って左に曲がった。

 とろとろと下を向いて歩く。

 通学路の途中にはベーカリーヒムラがある。

 道路側はガラスで、お店からはいつも前を通るわたしが見える。

 だからときどき、おばさんはわたしに手をふってくれる。

 今日は見つからないといいな。

 手なんかふりたくない。

 お祭りには行かなかったの? なんて聞かれたらもっといやだ。

 店を通り過ぎようとしたとき。

「待って!」

 強い声が呼び止めた。

 気のせいじゃなければ、この声は。

「……どうしたの? お祭りは?」

 振り返ると、そこにはやっぱり日村くんがいた。はぁはぁと肩が大きく上下している。

「佐々木は来ていたのに、来てなかったから……。聞いたら、日直の仕事全部まかせてきたって……だから一度学校まで行ってみたけど……すれちがったみたいで」

 なんだか言っていることがよくわからない。こんな日村くんははじめてだ。

 ふうっと大きく息をつく音がした。

「お祭りは途中で抜けてきたんだ。はい、これ」

 カラフルなビニール袋を差し出されて受け取ると、中にはお菓子がたくさん入っている。

「わたしのぶん、持ってきてくれたの?」

 優しくうなづく眼鏡の顔を見上げて、渡されたビニール袋の持つところがすっかり温もっているのに気付いて、なんだか急に心臓がドキドキしてくる。

「ちょっと、公園行かない?」

「え? あ、うん」

 しゃんとのびた背中の後ろを、歩く。

 公園にはいつものとおり、だれもいなかった。

「あそこ、僕の部屋なんだ」

「え?」

 いつもオマケのメロンパンを食べるときに腰かけるポールに、並んで寄りかかったら日村くんが指さした。

 ベーカリーヒムラのお店の裏側。二階の窓。

「いつも、すごくおいしそうにメロンパン食べてるの見てた」

 ぼぼっと顔が熱くなる。言葉なんか出なかった。

 だまっていると、ちょっとだけ間があいて、小さく息の音がして。

「あのメロンパン、僕が作ったんだ」

 今度はびっくりして声が出ない。

「最初はぜんぜんうまくできなくてさ。ちょっとうまくなったとき、母さんがオマケで渡しちゃったからあせった。部屋から公園見たのは偶然だったけど、おいしそうに食べてくれてて、すごくうれしかった」

「……いつものオマケのメロンパンって、日村くんが作ったのだったの?」

「まぁね」

「……ごめん。知らなかったから……」

「え?」

「だって、日村くんが一生懸命作ったパンだったのに。わたしなんかが食べちゃって……」

 おい、とちょっと怒ったような声がして、ぎゅっと肩をすくめると、かさっという音と一緒に紙袋を渡された。

「なに? これ」

「開けてみて」

 そっと開くと、そこにはメロンパンが一個入っていた。

「僕が作った、最新作。父さんに合格もらったから、きっとおいしいと思う。食べてみて」

「……食べていいの?」

「食べてほしくて、ずっと作ってたんだ。いいに決まってる」

「え?」

「いいから、食べてみて」

 声の強さに押されて、甘い匂いにかじりつく。

「……おいしい。お店のパンと同じくらい、おいしい」

 よかったと、かすかに声がした。

 ほんわりと胸があったかくなる。

 お腹じゃなくて胸がいっぱいになってくる。

「幼稚園のころ公園で一緒に遊んだろ。そのとき泥とか草でパン作って遊んだことがあって。覚えてるかなぁ……。僕が作ったやつを、本当に食べちゃうんじゃないかって思うくらいに、おいしそうおいしそうって喜んでさ。そのとき、いつかこの子にちゃんと食べられるおいしいパンを作ってあげたいって思ったんだよ。メロンパンが一番好きだって言ってたろ」

 覚えていなかった。

 日村くんのことは全部覚えているつもりだったのに、そんなこと、全然覚えていなかった。

「小学校入って、気づいたらいっしょにいなくなって。もしかして、避けられてるんじゃないのかなって思ったら、急にあのころの泥のパンを思い出してさ。メロンパン作ってみようって思ったんだ」

 わたしのために、日村くんが作ってくれた。

 羽がはえて飛んでいってしまいそうだ。ずっとずっと遠くまで。

 夢でもいいくらいだ。

 だって夢でもこんなにいい夢なんか、見たことない。

「公民館に図書館があるだろ?」

 突然、日村くんは小さな声になって言った。

「図書館? あの、魔法使いのおばあさんがカウンターにいる?」

 横顔がくすっと笑って、眼鏡をくいっとする。

「そうそう。あそこの魔法の本の話、知ってる?」

「魔法の本?」

「本当にあるんだ。魔法の本が。その本はね、好きな子にちゃんと気持ちを伝えさせてくれるんだって。だから今日、メロンパンを渡すから、本を見てきた」

 まただ。言っていることがよくわからない。

 けど、好きな子って言葉がトゲみたいに残る。

 だれのことだろう。 

 夢みたいなふわふわ浮いた気分が、しゅうっとしぼんでいく。

 メロンパンを持ったまま、日村くんが言いたいことがわからなくて、でも聞きたくないような気がして下を向いたら。

「メロンパンがうまく焼けたら言おうと思ってたんだけど……、小さいときから好きだった」

 おそるおそるとなりを向いたら、日村くんはこっちを見ていた。

「……聞いてた?」

 頭がショートするって小説に出てきたときは、どんなんだろうって思ったけど、きっとそれはこんなんだ。

 アニメで、顔からけむりが出て溶岩みたいに真っ赤になってるのってあるけど、きっとそれは今のわたしのことをアニメにしたやつだ。

「……うん」

 口に残っていたメロンパンの味がしなくなる。

 日村くんはしばらくだまっていたけれど、いつもの声で言った。

「またいっしょに、話しとかしてくれる?」

「うん」

 よかった。返事はいつでもいいよ。とりあえず。

 小さく小さく声がした。

 ふたりしてポールに寄りかかったまま、黙ってた。

 顔が熱くって、はずかしいのか、うれしいのか、よくわからなくなって、たぶん両方なんだけど、どうしていいのかもわからないから、もぞもぞと足で地面に絵を描いていた。

 絵っていってもただの丸。くるくるほわほわとさせていたら。

「それ、メロンパン?」

 日村くんが優しく言った。


 次の日の朝。

「きのうはごめん。次の日直のときは、オレが一人でやるからさ」

 教室に入ると、すぐにササキが言ってきた。

「さっき、先生にすっげぇ怒られた」

 べろっと舌を出してみせて、ササキが笑う。

「けど、その前から決めてたんだからな。次はオレだけでやろうって」

「……うん」

 すうっと胸の中のなにかが消えて、わたしも笑っていた。

「おはよう。なに? どうしたの?」

 通りかかった日村くんが話しかけてくる。

「責任ある男のハナシだよ。 な?」

「うん……」

 へぇ。そう言って日村くんも笑った。

「そうだ。また日曜に来る?」

「え? うん、たぶん」

「じゃあ、メロンパンの新作焼いておく」

「……うん。ありがとう」

 一度向こうを向いたササキがくるりと顔を戻した。

「なんだ? なんの話だよ」

「責任ある男のハナシだよ。 ね?」

 すぐに日村くんがいたずらっぽく答えた。

 なんだよ、マネすんなよ。ほんとはなんの話だよ。

 そう言うササキに笑いながら、日村くんは自分の席に向かう。

 明後日は日曜日。

 大好きになった、日曜日。

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