2通目 詫び状には月を
僕の生まれ育った町に新居を建てることを、妻は快く許してくれた。
だから、妻の実家からはずいぶん遠くなった。
僕の両親は健在だけど同居は面倒だと言って、同じ町に二人で暮らしている。
孫でもいれば違ったろうが僕らに子供はなく、両親もまだ仕事を持っているからほとんど新居に遊びに来ることはなかった。
家には子供部屋も作ってある。
いつか小さな怪獣に振り回されて生活することを夢見ているが、妻の年齢を考えるとそろそろリミットも近い。
穏やかな、愛する人との生活に不満はない。
妻は素敵な女性だと思っている。
けれど、どこか何かが足りないような感覚が、最近大きくなってきたような気がするのだ。
松林を抜けてなだらかな坂を下りていくと、途中に公民館がある。
通勤にバスを利用している僕は、毎朝毎晩この坂道を歩く。
いつもは横目に見ていただけのそこに立ち寄ろうと思ったのは、まっすぐ家に帰りたくなかったからだ。得意先からの直帰でいつもよりもずいぶんと早い帰宅。少しひとりになる時間が欲しかった。
今朝、妻が爆発をした。
原因はサラダにかけるドレッシング。
朝食に出されたサラダを見て、僕は何かかけるものはないの? と妻に聞いた。
「マヨネーズならあるけれど……」
「前はドレッシングあったよね。なんでないの?」
「なんでって……別に理由はないわ。そんなに使わないから買わなかっただけ」
「何もかけないでサラダ食べるのって、ちょっとさ……」
ダン、とドラマのように妻がテーブルに両手をついた。
「だったらドレッシング買っておいてって、それだけ言えばいいじゃない! あなたの言い方すごく嫌!」
そのまま食べかけの自分の食事をキッチンに持ってゆき、リビングを出ていく。
僕はぽかんと華奢な背中を見送った。
結局彼女はそのまま仕事に出てしまい、僕は僕で苦いものを噛みながら坂を下りてバス停に向かった。
どう思い返してみても、妻の怒りの原因がわからない。
いつも隣に寄り添うように感じていたはずの彼女の心が、気づいたらどこか遠くに行ってしまっていたような。そんな喪失感に襲われる。
深い溝に気付いてしまったような気もした。
「女房なんてもんは、亭主に当り散らしてストレス発散してんだよ。はいはいって聞いときゃいいさ」
会社での昼休み。
雑談の流れで、少しばかり冗談めかして今朝の話をしたら、先輩はそう言ってハハハと笑いながら僕の背中を叩いた。
そうですかね。曖昧に笑い返して茶をすする。
給茶機の緑茶は不味い。彼女の入れてくれる茶とは雲泥だ。結婚したばかりのころ、そんなことを言ったら妻はまぁと口を尖らせた。
「私の愛情たっぷりのお茶と、給茶機のお茶なんかを一緒にしないでよ」
そりゃそうだなと、顔を見合わせて微笑み合った。
もう、昔話になってしまったけれど。
ガラスの大きなドアをくぐると、外界の音が遮断された。
すうっと冷えた空気が、まるで僕の心を鎮めようとしているかのようだ。
図書館は入ってすぐの左手。子供のころの記憶がくすぐられる。
「こんにちは。まだ、大丈夫でしょうか?」
カウンターのおばあさんに声をかける。
都会の上品なマダムのような雰囲気のおばあさんは、座ったままにっこりと僕を見上げた。
「ええ、大丈夫ですよ。ただ、今日は読み聞かせの夕べという催し物がございますので、少し賑やかかもしれません」
「読み聞かせ、ですか」
「月に一度、夕方のこの時間に読み聞かせをしています。小さなお子さん連れの方がほとんどですが、ときどき会社帰りの方もお見えになりますよ。よろしければご覧になってみてください」
ありがとうございます、と軽く頭を下げたとき。
ふわっといい香りが僕の周りを取り巻いた。
うちの柔軟剤の香りとは違うから、おばあさんの香りだろうか。
香水などとは違うほどけるような柔らかさが、吸い込んだ空気とともに肺を満たしていくようだ。冷えた気分までほんのりとぬくめられていくようで、僕は久し振りにほっと身体の力を抜く。
中央に置かれた大きな楕円のテーブルも、子供のころのままだ。
端の椅子にビジネスバッグを置き本棚の間をめぐる。大きかったはずの本棚はずいぶん小さくなっていた。最上段には棚によじ登って手を伸ばしていたのを思いだし、当時の自身の悪ガキぶりがよみがえって苦笑する。
たくさんの人に触れられ、日に焼けて。背表紙は一様に古びているが、一冊一冊愛されているのが伝わってくるような本たちが、行儀よく並んでこちらを向いている。
「よお、久しぶりだな」
そんなふうに声でもかけてしまいそうだ。
大好きだった冒険もの。宝島はとくにお気に入りだった。十五少年漂流記に心臓をどきどきさせ、海底二万マイルを読んだ日には将来は海底調査隊に入ると心に決めた。初恋相手のヒロコちゃんが読んでいた本をこっそり次に借りていたことは、誰にも言っていない恥ずかしい秘密だ。
ふうっと息をついて懐かしさに浸っているとザワザワと人の気配がし出して、小さな子供たちの高い声がおぼつかない口調で何かを言っているのが聞こえてきた。
読み聞かせが始まる時間らしい。
「行ってみるか」
口の中で呟いて、ややおいてから声のする方に近寄ると、小上がりになっている絵本コーナーには、数人の母親らしき人たちと赤ちゃんから幼稚園くらいまでの子供たちがいる。
みんなの視線の先では小柄な女性が数冊の本を傍らに置きながら、慣れたふうに挨拶をしていた。良く通る明るい声がふと妻のそれと重なってしまって、思わず女性を見つめたが僕の知らない人だった。……当たり前だ。
一人で座れる子供は女性のすぐ前に一列に並び、そうでない子供はその後ろで母親と一緒に座っている。真剣な面持ちで前を見ている子もいれば、母親の耳元に顔を近づけて何やら小声で話している子もいる。
ときおり赤ちゃんが音を立てる他は、想像していたよりもずっと静かだった。
簡単な紹介の後、色鮮やかな絵が踊る大判の絵本が広げられる。
ゆっくりと、ものがたりが語られ始めた。
そっと空いていた小上がりのすみの方に座ると、自然に僕の周りが少し距離を開く。
声には出さずにどうもと周囲に会釈をすると、怪訝な視線とともにぎこちない会釈が返された。
さっそく居心地が悪い。
すぐに場所を離れようかと思ったが邪魔になってはいけない。せめてこの絵本が終わってからにしようと考え直した。
たしかに、背広のサラリーマンがこんな時間にこんな所にいたら、良くない勘繰りをされてしまうかもしれない。
子供でも一緒なら別だが……。
そう思って、思った自分にはっとする。
そうか、背広のサラリーマンだからじゃない。大人が一人でいるからだ。
たとえ僕が女性だったとしても、今、ここで一人で参加していたら、やっぱり妙な顔をされるのではないだろうか。
ちっとも悪いことではない。けれど、相応しくないのだ。子供が一緒でないことが。理屈ではなく。
そう思い至ってみたら、自分にはこんな経験がほとんどないことに気付いた。
「お子さんは?」
そう尋ねられることもある。けれどいないと答えたところで、僕は気まずくなったり引け目に感じるようなことはない。
あくまで僕のプライベートな問題であって、それに対して他人がとやかく言うものではないと思っているし、子供がいないことをどう思われるかなど知ったことではないからだ。
それが当たり前だと思っていた。
けれど……。
妻は、どうだったろう。
そして僕は……今まで一度でも、こんなふうに妻の心情を思いやったことなどあったろうか。
新居に子供部屋を作りたいと言ったとき。彼女は本当に快く承諾してくれていたろうか。
両親からの電話のとき。彼女が苦笑しながらもやたらとすみませんと口にしていたのは、なんの話題に対してだったんだろう。
職場の飲み会から帰ってくると、きまって元気がなかったのは本当にただ疲れていたからだけなんだろうか。
彼女がひどく切なそうに見ていたテレビは、いったいなんだったっけ……。
ちゃんと見えているようで見えていなかった妻の姿。
わかっているようでわかっていなかった彼女の本音。
こうして考えてみれば、何一つ僕は明快な答えを出せない。
今朝のは……彼女の中では、きっとただのドレッシングの話ではなかったんだろう。
小さくため息を吐き出したとき。
唐突に。本当に唐突に、ヒロコちゃんが手にしていた本を思い出した。
その本は宝島や海底二万マイルとは全然違っていた。
きれいな臙脂色のシンプルな表紙。たぶん大人向けの本だったのではないだろうか。
きっと細かい文字で挿絵もなくて。
結局僕は手には取らなかったけれど、そんな本も読むのかと、当時の僕はヒロコちゃんを尊敬したっけ。
噂話を耳にしたのは、中学に入ってからだ。
女子たちがきゃあきゃあ言いながら、「きみへ」という本の秘密を聞かせてくれた。
最後のページが、手にしている者の想いを恋文にして伝えるという。
荒唐無稽な、いかにも女子が好みそうな話だと呆れていたものだったが。
ちょっと見てみようか。
せっかくだから。
そんな言い訳を自分にしつつ、遠い昔に教えられた場所へ向かう。
「……これか」
存在しないかもしれないと思っていたそれは、きちんと最下段に収まっていた。
古そうな背表紙を丁寧に引き抜き、その場で壁にもたれて開いてみる。
『きみへ』
たしかにタイトルは記憶の中のものと一致した。
少しだけためらってから、ページをめくろうとしたとき。
無機質なチャイムが鳴った。
閉館時間だ。
今見なければ、僕はずっとこの先も見ることができないような気がして、慌ててページをめくる。書かれている言葉を読む時間などなかったけれど最後のページに来たとき、不思議と胸の中に何かが静かに満ちていた。
それは僕が足りないと思っていたもの。
僕自身が、満たさなければならなかったもの……。
美しい花の装飾はひどく擦れている。
たくさんの人が、それぞれに想いを胸に触れたであろうページ。
僕は、そっと指を乗せた。
ありがとう
たった一言の恋文。
ぱたんと閉じて元に戻す。
ビジネスバッグを手に急ぎ足でドアに向かう。
おばあさんに「どうも」と言うと、「どうぞまたおいでください」ときれいな皺の顔が微笑んだ。
ドアを開けて一歩出て、途方に暮れる。
それまで遮断されていた大きな雨音に包まれた。
予報では雨などと一言も言っていなかったのに。こんなにひどい外れ方は珍しい。おまけに今日に限って折り畳み傘もない。
しかたなくバッグを傘代わりに走ろうとしたとき。
「あれ……?」
少し離れて、こちらに手を振る人がいる。
見覚えのある赤い傘は、去年の強風で折れたものの代わりに僕がプレゼントした傘だ。
「……どうして」
小走りに向かってくる小柄な影が、そばを走った車のヘッドライトで一瞬照らされる。
愛しい姿が、すぐそこに浮かび上がった。
「急に雨が降ってきたからバス停まで行ったんだけど、いつもの時間のには乗っていなかったから。電話もしたのよ」
急いでポケットを探ると、数件の着信を表示したマナーモードの携帯が出てきた。
「ごめん。無駄足させたね。疲れてるだろうのに。悪かった」
え? という表情を浮かべてから、彼女はうれしそうな顔をした。
「いいのよ。こうして、ちょうどいいタイミングで会えたし。でも、ここはなに?」
「ああ、公民館だよ。図書館があるんだ。子供のときによく来ていてね、つい懐かしくなって寄ってしまった」
「そうだったの」
小さな嘘をこころの中で詫びながら、そしてもっと大きな詫びを思う。
「今度、一緒に来よう。本、好きだったろう?」
「そうね。そういえば、しばらくゆっくり本なんて読んでいなかったわ」
彼女は言いながら手にしていた僕の傘を広げようとした。
「いいよ。こうしよう」
赤い傘に滑り込み、白い手から柄を奪う。
まぁ、という小さな呆れ声を聞きながら、僕は左に触れるぬくもりに胸がしびれるような感覚を味わっていた。
「今日は満月のはずなんだけれど、見えないわね」
坂を上りきったとき、妻が呟いた。
「月がきれいですねって、言いたかったな」
ふふっと可愛らしい笑い声がする。
「夏目漱石?」
「……いや、僕だ。月がきれいですねは……thank youだよ」
隣で僕を振り仰ぐ気配がする。
僕は隣を見られなかった。
「それもすてきね」
彼女は囁くように言って、そっと僕の腕に手を乗せて寄り添った。
雨は降り続けている。
僕の恋文は、きっと雨になって彼女を呼んだのだろう。
陳腐な三文小説みたいなことを考えて、僕はくすっと笑った。
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