1通目 桜の向こうのあなた
アイロンをあてたあとのほんのりとぬくもりの残るハンカチを、慌ててバッグに入れて立ち上がった。
約束の時間に遅れてしまう。
久しぶりにフルコースのメイクをしたので、すっかり目算を誤ってしまった。
結婚して、子供が生まれて。
独り身のときほどではないにしろ、身なりにはそれなりに気をつけてきたはずなのに、このごろはすっかり手を抜いて、ファンデーションと口紅以外は使うこともなくなった。
まつ毛がどうの、眉がどうのと言っていたころが懐かしい。
「おかあさんは、おけしょうしないほうがカワイイよ」
そんなぐっとくることを言ってくれていた子供は、あっという間に大きくなって生意気になり、二年前から県外の大学へ。
「メタボだけは気を付けてよね。血圧は大丈夫なの?」
電話の声は私にそっくり。
あなたこそ、ちゃんと野菜食べなさいよ。戸締り気をつけてね。
「お母さんはそればっかり」
うんざり言われて苦笑する。
母親なんてそんなものよ。
バイトだの友達が来るだのと、あっという間に電話を切られてしまうけれど、それでも声を聞けるだけで安心する。
元気でいてくれたらそれでいいなんて、親という生き物は最大級のお馬鹿さんにできている。
はぁはぁと息があがってきて、やだもう年かしらなんていつものセリフを口の中でつぶやく。
なだらかな坂の途中。学生のころからある公民館。
ここで古い友人と待ち合わせをしていた。
お互いに仕事が忙しく、メールのやり取りだけが続いている親友。
直に会うのはどれくらいぶりかしら。
ああ、そうだ。主人の葬儀のとき以来だわ…。
満開の桜の中の、静かな葬儀。
ならもう、十年も前になるのね。
離れた町に住んでいるとはいえ、今さらながら流れた歳月に驚いた。
日傘を持ってくればよかったわと、容赦なく照りつける太陽を手の甲で遮った。シミや日焼けは気にならないが、熱中症はとても気になる。
平日の昼間はいつもより人はまばらで、車もときおり忘れたころに通る程度。
遠く小学校のプールから聞こえる甲高い子供たちの声のほかは、ジイジイと蝉が絶え間なく鳴くばかりだ。
つうっとこめかみに汗が流れるのを感じて、バックからハンカチを取り出した。
「あら? まだみたいね」
腕の時計は待ち合わせ時間ちょうどをさしていて首を傾げる。
彼女は時間にはうるさい人だ。
ふと思い立って、公民館のドアを開けた。すうっと冷房で冷えた空気が身を包む。
ああ、涼しい。
たしか図書館に大きな時計があったはず。
「…こんにちは」
がらんとした館内。カウンターの老婦人に挨拶し、中に入って見まわした。
「やだ、私の時計、三十分も進んでるわ」
ふぅっと息をつく。
何をやっているのかしら。
こういうところばかり、幾つになっても変わらない。
「外は暑かったでしょう? よろしければ、どうぞ」
背後から声をかけられて振り向くと、さっきの老婦人がトレイに紙コップを乗せて立っていた。
「そこの冷水器のお水ですから、おかわりもできますよ」
「まぁ、すみません。助かります」
砂漠の旅人のようにごくごくと一気に飲み干してしまい、少しばかり気恥ずかしくなる。
「…ありがとうございます」
「もうよろしいの?」
「あ、はい。ごちそうさまでした」
彼女は微笑んで私の手からコップをそっと受け取ると、トレイに戻した。
品のいい顔立ちに、きれいにセットされた白髪はとてもよく似合っていて、まるでどこかの洋館の貴婦人のようだ。若いときはさぞ美人だったに違いない。今のシワの乗った顔でもこんなに素敵なのだから。
「少し、休んでいかれてはいかがです? お好きなところにお座りくださいな」
「ええ…そうですね。そうさせていただきます」
婦人は踵を返し、カウンターにかえっていく。
その瞬間、ふわりと漂ったどこか懐かしい香りに、体の中で張りつめていたものがするりと解けた。不思議な匂い。
早朝のバイトを始めたのは娘が大学に行ってから。
娘とふたり食べるだけなら長年勤めているガス会社の事務だけで十分だったが、県外への進学は思いの外あれこれと費用がかかった。卒業までと決めて職場の理解をもらい、出勤前の時間を弁当屋で働き始めた。
仕事はいい。働いているときは、余計なことを考えずにすむ。
彼が亡くなったときも、ずいぶん仕事に助けられた。
けれど、最近はどうも体が重くて困る。
さっき老婦人から香ったのは、フレグランスかしら。
鼻腔に残った香りが、まるで蓄積した疲れを拭い去るように甘く体内に広がった。
「そういえば、あの本って、あるのかしら」
図書館の真ん中にある楕円のテーブルにバッグを置いて、ぼんやりと涼んでいた私は思い立って椅子からよいしょと腰を上げた。
不思議な臙脂色の本。
噂を聞いたのはまだ学生のころだった。
「…一番奥の棚の…一番下の段で……。 まぁ、あったわ」
ぶつぶつと言いながら指で辿れば、そこにはたしかに臙脂色の本があった。
本棚から引き抜いて、さっきの場所に持ち帰る。
ぱらぱらとめくり始めた本には、とても美しい言葉が並んでいた。
けれど……。
「あら?」
どういうわけか、その言葉たちは頭の中に入ってこない。読もうとしても読めない感覚。よほど疲れているのだろうかと思いながら、そのままぱらぱらと最後までめくった。
「なんだか、残念ね」
呟きながら本を返そうとして、ふと手をとめる。
たしか最後のページに手を置いて想い人に語りかけると、相手に通じるのだったわね。
やってみたらどう?
心の声がしたような気がした。
でも、あの人はもう…。
やってみたくないの?
お母さんはいつまでも子供みたいよね。そう娘に呆れられる悪戯心がひょこりと顔を出す。
まったく……いい年をして何をしているのかしらね。私は。
ふふっとこみ上げる笑みをそのままに、そっと、花をモチーフにした愛らしい装飾のページに手を乗せる。
左手の薬指の指輪は、すっかり節の太くなってしまった指からもう抜けない。
プラチナの細いリングにはたくさん傷がついてしまって、彼がはめてくれたときの輝きはなくなってしまった。
いつまでもきらきらときれいなままの彼のものとは、とてもペアには見えない。
十年の時の隔たり。
「…あなた」
若いままの瞼の人に、小さく小さくささやいてみた。
そうねぇ。
苦労なんて山ほどあった。
涙なんて流す暇もなかった。
けれど、私の人生は、あなたと出会って始まった。
そうして、別れてからもう一度、始まった。
かけがえのない大切な、あなたのくれたものたちが、今は私の人生を彩っている。
あの子、大学生よ。私に似て、かなりの美人なんだから。
これから、就職して、結婚して、お母さんになって……楽しみね。
あなたったらさっさといなくなるんだもの。もったいないことしたわねぇ。
羨ましがってもダメよ。いなくなったあなたが悪いんだから。
ほわりと本から香りが立ちのぼり、あの老婦人のものと重なった。
心の中のなにかがほろほろと崩れていく。
「あ……」
はっとしたのは、自分が子供のように泣いるのに気づいたから。
本に水滴を落とすわけにはいかないと、慌てて顔にハンカチをあてる。
あとからあとから流れる涙。
いなくなった彼を思って泣いたのははじめてだ。
まるでどこかが壊れたように流れ続ける。
あきらめて、私はハンカチを両手に乗せて顔を覆った。
やわらかな暗闇が広がる。
「これじゃあ、脱水症になっちゃうわ…」
自分の声が震えているのがおかしかった。
どれくらいそうしていただろう。
「お久しぶり。お待たせしちゃった?」
ぽんと肩をたたかれ、軽やかな声が明るく投げかけられる。
「あ……ごめんなさい」
たゆたっていた思考がすとんと落ち、顔を上げてとっさに謝ると、懐かしい笑顔が視界に広がった。
泣いていたのがわかってしまっただろうかと思ったが、彼女はまるで気付かない様子で私を見ている。自分でも、泣いた後の腫れぼったさがないのが不思議だった。
「疲れてた? 大丈夫?」
「ええ。大丈夫。…ここにいるの、すぐわかった?」
「着いたら、ちょうどカウンターの方が気付いてくださったの。いい方ね」
彼女が見やった先を遅れて見ると、視線に気付いたのか老婦人はこちらを向いて微笑んだ。
「今日はとっておきのところに行きましょうよ。いいお店みつけたの」
「楽しみにしていたの。ランチなんて久しぶりよ」
本を戻さなくてはと下を向くと、そこには私のバッグだけがあった。
あの臙脂色の本はどこにもない。
あのご婦人が戻してくれたのかしら。 …いつの間に?
「どうしたの?」
「いいえ、なんでもないわ。行きましょうか」
通りかかりに老婦人にお礼を言い、ふたり並んで公民館のドアをくぐる。
ぶわっと包み込んでくる熱い空気と焼け付く日差しに思わず眉をしかめた。
手にしたままのハンカチで顔に日陰を作ると、隣りの彼女がすっと日傘を差し出した。
「相合傘といきましょうよ」
「ありがとう。今日の日差しにはうんざりしていたの。助かるわ」
年数を越えても変わらない笑顔に、感謝を込めて微笑み返した瞬間。
「あぁぁっ!」
幼い悲鳴がしたかと思うと、一陣の風が巻き上がった。
差し掛けてくれていた日傘が弾かれ、カッと強い日差しに包まれる。
風は細かな白いものをひらひらと大量に連れてきた。
青い青い空に、まるで意思をもっているかのようにそれは舞っていく。
桜…?
見上げる私の目には、あのときの空が見えていた。
桜の花弁が、ただ飛んでいた。
凍りついた心には美しさなど微塵も感じなかった。
誰かが、こんなにきれいな季節に逝くなんて彼らしいと言っていたけれど、私にはわからなかった。 彼のいない世界など、きれいなものがあったとして何になるだろう。
けれど。
今、舞い散るものは、なぜかとても美しく思えた。
そうだ……あれから桜を、見た覚えがない。
あのときから、私の目は、桜を映さなかった。
『 涙はもらっていくよ 』
え?
もう一度、風が巻き上がった。
「あ、ハンカチ…」
風は手からハンカチを奪い去り、無数の白いひらめきとともに遠くへ遠くへ連れて行く。
それが青い空に溶け去ったように見えた後。
「もうっ、お兄ちゃんのバカ! ちゃんと持っててって言ったのに!」
「ごめんってば。急に風が吹いたんだから、しかたないだろ。また紙、ちぎってやるから」
「ジャングルジムから紙ふぶきまくの、すっごく楽しみにしてたのにぃ」
「だから、ごめんって言ってるだろ」
ふと我に返って、可愛らしい小競り合いの方に目を落とすと、小さな兄妹が空のビニール袋を手にしている。中にはわずかに白いものが残っていた。どうやら細かくちぎった紙のようだった。
「びっくりしたわねぇ。でも、きれいだったわね」
隣から弾んだ声がした。
そして、あ、と残念そうな声が続く。
「ハンカチ。飛んで行っちゃったけど、大丈夫?」
そうね。 ええ、大丈夫。
答えながら息をつく。
とくとくと胸が鳴っていた。
「あら、こんなところに」
すっと伸びてきた指が、私の髪から一片の白いものをすくい取る。
渡されたのは、ちぎられた紙。
子供のたあいない悪戯。
返した方がいいかしら。 けれども小さな姿はもうそこにはなかった。
そっと手のひらを開く。
残り香のように漂っていた風は、待っていたように悪戯の花弁を一枚持って、空高く追いかけて舞い上がる。
涙をもらっていくよ、なんて。相変わらず気障なこと。
あのハンカチ、お気に入りだったのよ。
少しばかり憎らしく空を見やる。
今いてくれないあなたを。
こんなふうに恋文の返事をよこすあなたを。
そうして、ありがとうと心の奥深くにつぶやいた。
日傘の下を友と歩く。
来年の春は、一緒にお花見に行かない?
今日はそう誘ってみよう。
私は、前を向いた。
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