第4話 構われると逃げる

 隣の部屋から聞こえてくるテレビが、バラエティ番組のどこか嘘っぽい笑い声を運んでくる。

「耳がちょっと遠いお婆さんなんだ。時々点けっぱなしで寝ちゃうみたいだけど、僕はテレビ持ってないし、得してるかな」

 桜丸さくらまるはそう言いながら、電気ポットで沸かしたお湯でインスタントコーヒーを淹れてくれた。僕は来る途中で買ってきたドーナツの箱を小さなテーブルにのせ、蓋をあける。桜丸はそれを覗き込んで「おいしそうだね」と笑顔になった。

 六畳一間で小さなキッチンがついた古いアパート。ここが桜丸の今の住まいで、子供の頃とは比べようもない質素さだ。安っぽいベッドと本棚と折りたたみのテーブルが目ぼしい家具で、後は小さな冷蔵庫だけ。シャワーとトイレの他に洗濯機も共用らしいけれど、彼は気にかけている様子もない。

「六つもあると迷うね。亜蘭あらんはどれがいい?チョコ好きだろ?」

「先に選んでよ」

「じゃあこの、黒砂糖の。いただきます」

 彼はそう言って一番手前のをとると、大きく一口かじった。僕はチョコレート生地の、白くアイシングしてあるのを選ぶ。

「店の賄いでけっこうお腹いっぱいになるんだけどさ、こういう甘いものって出ないから嬉しいな」

「桜丸って、ケーキとか大好きだもんね」

「うん。お母さまに似たんだと思う。お父さまは甘いもの苦手だったからね」

 二つ目にバナナフレーバーのドーナツを選んで、半分ほど食べたところで、桜丸は「あ、来た来た」と笑った。いつの間にかドアが少し開いていて、隙間から入ってきたのは巨大な茶トラ猫だった。

 この猫の名はトハ三七サンナナ。アパートの大家さんの飼い猫で、住人が何か食べていると必ず覗きに来るらしい。この猫が器用なのか建物が古いのか、施錠していないドアだと、自力で開けて入ってくるのだ。茶トラ猫は物おじせずにゆっくり歩いてくると、僕の膝にのってドーナツの匂いを嗅いだ。

「君の食べ物じゃないよ」

 僕は急いでドーナツを平らげた。体重七キロ超えの中年の雄で、食欲と好奇心が旺盛。僕はもう彼との間に「回路」を開いているので、大体のところは判っていた。

「やっぱり亜蘭って猫を扱うのが上手だね。人によっちゃ、全然触らせてくれないって文句言ってるのに」

「猫ってさ、放っておかれるの好きなんだ。構われると逆に逃げる」

 僕はわざとそっけなくトハ三七を膝からおろすと、二つめのドーナツを手にした。

「構われると逃げるって、まるで美蘭みらんみたいだ。彼女、君が来る少し前に電話してきたよ。遊びにおいでよって言ったら、嫌、だって」

「なんで電話してきたの?」

「さあ。退屈しのぎかな。彼氏と会ってるはずなのに、変だね」

 桜丸はそう言って笑うけど、僕は穏やかじゃない。嘘がばれるのも心配だけど、僕と美蘭の、彼に会いたくなるタイミングがほぼ一緒というのが気にくわないのだ。

「ね、今日は泊まってくだろ?」

 三つ目のドーナツを齧りながら、桜丸はトハ三七を撫でた。

「明日は僕、朝から語学だから、一緒にここを出れば亜蘭も遅刻しないと思うよ」

「学校は、別に行かなくてもいいんだけど」

「まだ高校なのにサボっちゃ駄目だよ。それに、君たちのマンションよりこっちの方が学校に近いだろ?」

「それはそうなんだけどさ」

 でも何だかわざわざ人んちから学校に行くなんて面倒くさいのだ。僕はぬるくなったコーヒーを飲み、「もう、このアパートに引っ越そうかな」と言ってみた。桜丸は少し驚いた顔つきで、「空き部屋はあるけど、あんなにいいマンションから、わざわざここに来るのはどうかな」と言った。

 たしかに、僕と美蘭が住んでいるのはタワーマンションの二十七階で、桜丸の部屋とは比べようもない。しかしこれは別に贅沢を好んだわけではなく、ただの仕事なのだ。

 僕らが入る前、このタワーマンションには引退したばかりの野球選手が住んでいた。彼は引退の理由が薬物疑惑だったのに、懲りずにまた手を出して、過剰摂取で絶命してしまった。彼の遺体は、いつも僕がぐうたらしているリビングで発見され、その隣で意識を失っていたのが、ベストセラー本「激やせ!スピリチュアル野菜レシピ」を書いた美人料理研究家だったということで騒ぎは大きくなり、マンションは事故物件となった。

 そして事故の記憶をきれいさっぱり抹消するため、部屋には僕と美蘭が住んで「ロンダリング」しているというわけ。僕らは事故物件という点については全く平気だ。死んだ人間なんて恐ろしいこともは何もない。人間、厄介なのは生きている時だけだ。

「でも、もしここに越してくるなら、亜蘭ひとりってこと?美蘭はどうするの?」

 嘘に耐性の低い桜丸は、さっきの戯言を真に受けている。

「さあ、彼氏に部屋でも借りてもらうんじゃないかな。けっこう収入あるらしいし」

「そうなんだ、すごいね」

「大人だからね。色々と経験豊富なところも、美蘭は気に入ったみたいだよ」

 経験、のところを嫌になるほど強調して、僕は冷えてしまったコーヒーを飲む。偽りの言葉に弄ばれて、桜丸の長い睫毛はブラインドのように瞳の輝きを閉ざしてしまう。僕のこのどうしようもない性格は、やっぱり母親譲りだろうか。


 僕と美蘭の母親は、とにかく僕らの事が嫌いだったから、何とかして関わらずにすまそうと、あらゆる手を使ってきた。お金の心配はないから、学校は小学校から寄宿制だし、夏休みにはサマーキャンプに送り込まれた。それでも何日かの空白ができて彼女の元に戻る時には、ベビーシッターの女性が来て、僕らの世話をした。

 支払いは悪くなかったはずだけれど、母親のところには常に怪しげな人間が出入りして、昼夜逆転、酒びたりで薬物オッケーという環境だったので、ベビーシッターは仕事が終わると逃げるように去って、二度と来なかった。「次はどんな人だろうね」というのが僕と美蘭の合言葉だった。

 僕らの母親はもちろん働いてなんかいなかった。でもタロットカードのインチキ占いが得意で、皮肉なことによく当たると評判だった。この占いに心酔した人は、まるで教祖みたいに彼女を持ち上げ、頻繁に訪れては買い物や運転、料理に洗濯、果てはトイレや風呂掃除といった雑用を引き受けていた。要するに彼女は、占いを餌に使用人を集めていたのだ。

 この取り巻きたちに僕らは、「親戚の子供」と紹介されていた。「従姉が育児放棄しちゃって、しょうがないのよ」なんて、産んだ本人が言うんだから呆れるけど。

 大人ばかりの中に子供がうろついていると、どうしたって注目を集めるわけで、僕らを構おうとする人はけっこういた、でも、少しでも彼らの注意がこちらに向くと、母親は声のトーンを一気に引っ張り上げて「ねーえ!私の目、なんだか腫れぼったくない?」なんて具合に、注意を引こうとした。そして後でこっそり僕らのそばに来て、「あんたたちみたいに憎らしい子、誰も相手にしないんだからね」と低い声で念を押し、髪を指に巻いてきりきりと引っ張ったり、脇腹に血がにじむほど爪をたてたりするのだった。

 何度も言われなくても、僕と美蘭は自分たちが並はずれて醜く、厄介な子供だという事は承知していた。僕らを帝王切開で産んだせいで、母親の「完璧に美しかった」身体には傷跡が残ってしまったわけで、彼女は何かにつけその事で僕らを責めた。

「あんたたちのおかげで、もう二度と幸せなんて戻ってこないんだわ」というのが得意の台詞だったけれど、僕も美蘭も自分たちが彼女のお腹を引き裂いて生まれてきたのだと信じていた。最初に美蘭がその鋭い歯で、膨らませ過ぎた風船みたいな皮膚を食い破って外に出る。産声の代わりに獣みたいに凶悪な叫び声をあげている彼女に続いて、よろよろと這い出していくのが僕というわけだ。

 もっと大きくなって、学校の授業で帝王切開のビデオを見た時には、拍子抜けして美蘭と顔を見合わせてしまったし、うちの母親に関して言えば、普通に産むのが面倒だったというのが真相なのは容易に想像がついた。過去をすり替えるなんて、彼女にとっては呼吸と同じくらい当然の事なのだ。

 しかし皮肉なもので、大きくなるにつれて、母親の取り巻きたちは美蘭と僕を「きれいな子」とほめそやすようになった。こっちはまだ十にもなっていないというのに、出入りしている男の中には、僕らに手を出そうとする奴までいて、美蘭は常にカッターナイフを持ち歩いていた。脅しても懲りない相手には実力行使で、流血沙汰になった事もあるけれど、そんな時に責められるのはもちろん僕らだった。

「その年で大人を誘うなんて、本物の悪魔ね」なんて、男の気を引くのに夢中な母親に言われてもうんざりするだけだ。そして彼女は本気でライバルを消したくなったらしくて、ついに僕らは毒を盛られてしまった。もちろん、美蘭は狡猾だし、用心深いから危険は回避した。僕はといえば、素直に毒入りのミルクを飲んで、腎臓をやられてしまった。

 母親にとっては残念なことに、彼女の取り巻きたちが異変に気づいて僕を病院に運んでくれたけれど、回復の余地はなかった。ふだんは無関心を決め込んでいる玄蘭げんらんさんも、さすがに警察沙汰になるのは困るという事で病院に現れ、とりあえず病死って事で、と大金を積んでの買収工作にとりかかった。そこへ待ったをかけたのが美蘭だ。母親の事を警察に通報すると脅して、自分の腎臓を片方、僕に移植させたのだ。その代わり、自分が大人になったら、一族のために働くと約束して。

 僕はぼんやりしているから、移植された腎臓が誰のものか知らずに育ってきた。でも今年の夏休みに、ほんの偶然からこのことを知ったのだ。でも結局、僕は未だに、それについて話せずにいる。だって美蘭はいきなりロシアのカムチャツカに高跳びして、ふらっと帰ってきたかと思えば、相変わらず僕の事なんて厄介極まりないという態度だし、どう近づいていいか判らなくて、いっそ何もなかったように振る舞った方がいいような気がするのだ。


「亜蘭、眠いならベッドを使いなよ」

 気がつくと、桜丸が僕の肩に手をのせて覗き込んでいる。

「あれ?僕、寝てた?」

「うん、倒れそうになってたから、頭打つ前に起こした方がいいかと思って。僕はこれから明日の予習するから、先に寝なよ」

「そっか」と言いながら、僕はもうベッドに潜りこんでいた。ベッドの下には桜丸の友達が持ち込んだマットレスと毛布があって、僕が来ると彼はいつもそっちで寝るのだった。

 桜丸は電気スタンドをテーブルに置き、「節電しないとね」と言って蛍光灯を消した。たぶん節電よりも僕を気遣っての事だろうけれど、僕はもう口をきくのも面倒で、毛布をかぶって目を閉じた。

 この眠気の原因はよく判ってる。猫、特に自分とそんなに相性のよくない猫を操るのはかなり疲れるし、今夜みたいな大立ち回りをすれば尚更だ。でもそれは猫にとっても同じ事で、サビ猫ウツボは今頃眠りこけているだろう。すると足元へ、トハ三七がもぞもぞと乗っかってくる。この巨大な茶トラ猫はいつもこうやって、部屋をわたり歩いて夜を過ごしているらしい。

 小さい頃、母親の機嫌を損ねてクローゼットに押し込まれたり、風呂場に閉じ込められたりして夜を明かすことがけっこうあった。そんな時僕は、近所にいる子猫に波長を合わせた。猫に限らず、動物の頭の中というのはシンプルで居心地がいい。妬みや憎しみ、僻みなんてものが一切なくて、掃除が行き届いた部屋みたいにすっきりとしている。

 僕が波長を合わせた子猫は母猫の懐に潜り、きょうだいたちと押し合いながら、暖かい寝床でまどろみ続けていて、僕はその満ち足りた感覚を共有することで、自分の現状を忘れて長い夜をやり過ごした。そして美蘭もまた、僕と手をしっかりつないで身体を寄せ合っていれば、同じ感覚を分かち合うことができた。

 学校の寄宿舎にいる時でも、寝付けないようなことがあると、美蘭はこっそり僕のベッドに潜りこんできて、「猫のところに行こう」と呼びかけた。寄宿舎の隣にある古いお屋敷で飼われている雌のコラットはいつも何匹かの子猫を育てていたので、僕はそこに波長を合わせた。柔らかい寝床と、暖かい母猫の身体。でも実際に暖かいのは母猫だったのか美蘭の身体だったのか、僕の記憶はあいまいだ。

 僕も美蘭も、何割かはこうして猫に育てられたようなものだし、そのせいか、いわゆる普通の人と少しずれてて、相手を当惑させたりする。まあどうせ、まともな一族じゃないんだし、気にもならないけれど。そういえば、美蘭が僕のベッドに潜りこむのを止めたのって、一体いつからだろう。こういう事に限って、僕の記憶から抜け落ちてゆくのだ。

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