第22話 一人になりたくないの
「あんなに遅い時間に帰らせて、
学校の裏門から徒歩三分の定食屋。人目があるので、俺は女子を装ったまま
「私、表向きは一切あの子と関わりなしだもん。何時に帰ろうと、それは変わらないわよ」
「でもさ、それで莉夢は怒られたりしないの?」
「しないみたいね。おばあさんはパートの時間が不規則で、夜にいないことも多いらしいから」
美蘭はそっけなく言うと、お茶を一口飲んで、特盛のソースカツ丼を注文した。俺はおろしハンバーグ定食で、ごはんを半分にしてもらう。バスケ部で練習しまくってた頃は平気で一人前いけたんだけど、ここは基準量が大盛りなので、引退した今はちょっと苦しいのだ。
この前の日曜、猫カフェでの撮影を終えた帰り、莉夢は急に家に戻らないと言い出し、俺はそれにつきあう羽目になった。あの子は大人しそうに見えてなかなか頑固で、俺なんかが宥めすかしたところで簡単に従ったりしない。多分、腹の底では美蘭のことしか信用してないんだろう。
でも、その美蘭がなかなかつかまらなくて、ようやく姿を現したのはほぼ十時。それまで俺と莉夢は、独房みたいに殺風景な
美蘭は莉夢のことを叱りつけるわけでもなく、ただ冷静に「あんたまだ子供なんだから、大人が決めた場所に住まなきゃ駄目よ」としか言わなかった。猫たちと遊んで、いったんは笑顔が戻っていた莉夢は、また涙を浮かべたけれど、そんなもので手加減なんて一切なしだ。
美蘭は俺に「ごめんね、色々ありがとう」とだけ言うと、莉夢を送っていった。そして俺は美蘭と遊び歩いてたふりをして家に帰ったのだ。
「ねえ、なんかいい事あった?顔に書いてある」
たぶん図星だろうなと思いながら、俺は美蘭に問いかける。莉夢との事があった日曜の夜はちょっと疲れてて、どこかとげとげしい感じさえした彼女。月曜は学校に来なくて、火曜の今日は昼ごはん食べに現れたようなものだけど、妙に穏やかな雰囲気で、表情も柔らかい。
美蘭は少し眉を上げて「とりたてて報告するような事はないわ」と、意外に素直な答えをくれた。
「でも少しは進展あったでしょ?絶対そんな感じするもの」
「なくはないけど、やっぱり駄目。すごくぎくしゃくして、自分が自分じゃないみたい。あんたとだったら大丈夫なのに」
「要するに、緊張しちゃってるんだ。でも気にすることないよ、あっちにリードさせればいいんだから」
「でもなんか、向こうも遠慮してて」
「いっそ強引に、奪ってほしい?」
思い切って口にした問いには何も答えず、美蘭は頬杖をついて目を伏せた。俺はそれ以上余計な事を言うのは止めて、店の奥に視線を移す。近所の会社の人やなんかに混じって、うちの生徒も何組か来てるけど、まさか俺たちがこんな話をしてるなんて、誰も思いはしないだろう。身勝手な話だけど、俺は彼女がまだ
やがて美蘭は軽く溜息をつくと、「鬱陶しい。何をヒロインぶってんだか」と笑った。でも何故だろう、悩んでるみたいな言葉の割に、どこかふっきれたような気配がある。俺は率直に、「美蘭さあ、少し変わったね」と言った。
「そんな風に、自分の弱さみたいなの見せるなんて、びっくりした。でもその方が絶対いいよ。男ならそこに惚れる」
「冗談やめて。大体さ、特盛のソースカツ丼食べる女なんてお呼びじゃないし」
美蘭はそう言うと、ちょうど目の前に出された大きな丼に顔を近づけ、立ち上るソースの香りを深く吸い込むと、勢いよく食べ始めた。
「そっちこそ、
美蘭は一息つくと、話題を変えてくる。
「どうもこうも。追い込み入ってて、マジですごいよ。冬休みも毎日学校らしくて、寝るのと食事以外は全部勉強って感じ。恋愛したいとか騒いでたのも、また封印だしね」
「そうなると、却って心配しちゃうわね」
「まあ、受験が終わったら弾けるつもりみたい」
「あんたは黙って見ておくの?」
食べるペースは全然落とさずに、美蘭はキツいことを聞いてくる。俺はこの前思い切り醜態をさらしたところだし、黙って見てられるはずはないんだけど。
「他に選択肢ないからね。こっちは最低あと五、六年は女のままだし」
「もう学校の願書出しちゃったの?お母さまうまく説得できたんだ」
「説得っていうか、ゴリ押しに近かったよ。パパが意外と味方になってくれて、
俺は結局、大学じゃなくて専門学校に入ることにした。医療系の学校で理学療法士の資格をとるつもりだけど、大学を選ばなかったのは、沙耶より先に社会人になりたいから。資格があれば仕事に困らないし、男に戻ってからも続けられそうなところも気に入った。仕事自体はまあ、バスケ部の先輩が靭帯切って入院した時に初めて知ったぐらいで、詳しいわけじゃないんだけど。
「ママはやっぱり、大卒にこだわってるんだよね。同じ資格がとれるんだったら、四年間ゆっくりすればいいじゃない、とかさ。要するに大学卒業して、いいとこ就職して、エリートサラリーマンと結婚して、孫の顔見せてほしいんだよね」
「自分と同じ幸せって事か」
「どうだろう。うちのパパはエリートってわけじゃないし」
「でもバリバリ仕事して、立派な家に住んで、奥様は専業主婦で、娘は名の通った私立学校に通ってる」
「だけどママは、海外駐在してみたかったって言ってるよ。お手伝いさんのいる生活したいんだって」
「なるほど。そういう上昇志向の強い奥様がいると、男の人は出世するんだ」
そう言って美蘭は笑ったけど、本当に、うちのパパはエリートじゃないし、出世してるかどうかも疑問だ。新卒で機械メーカーに入って、ずっと営業で突っ走ってきただけ。ママとは友達の紹介で知り合ったらしいけど、妹の君香おばさんによると、当時のママは失恋したとこだったからパパにしがみついただけで、本当の理想はもっと高いらしい。
「あーら美蘭、お久しぶり!」
またうちの生徒が三人入ってきたと思ったら、バレー部の連中だ。
「相変わらず豪快に食べてるんだ。ね、一口おくれ」
杏樹がねだると、美蘭はトンカツを一切れつまんで彼女の口に放り込んでやった。
「ん、おいしい!杏樹は何にしようかな。ただいまダイエット中につきまして」
「だったら人の食べ物ねだるなっての」
そう美蘭に突っ込まれても、杏樹は「一口だから大丈夫」と受け流し、わかめうどんを注文した。
「そんなの、一瞬でお腹空くんじゃない?」
「だからいいの。ダイエットだもん。うちのお母さん全然協力してくれなくて、昨日の夕飯にまた揚げ物出してきたから喧嘩しちゃった」
「そりゃ作ってる側からすれば、腹が立つかもね。おまけにあんた、デブってないし」と、美蘭はソースカツ丼のラストスパートに入っている。
「まさか、目標体重かなりオーバー。だからサラダだけでいいの。クラブ引退したし、進路も決まったし、杏樹は本格的に自己改造するつもりなの」
「自己改造って?」俺はちょっと、その言葉に興味があった。
「うん、まずは部活で蓄積しちゃったお肉をすっかり落とすでしょ、それで、電車なんか乗ってても、すぐにヨロヨロってなるぐらい、華奢な感じにするのね」
とはいえ、杏樹はけっこう骨太で、身長も俺より少し高いほどだ。いくら筋肉を落としてもそれなりにがっちりした外見は変わらない気がした。
「まあね、理想は美蘭なのね。それぐらい細くなったら、あとは髪型変えて、カラコン入れて、お人形さんぽい印象にするんだもん。大学じゃ最初っからそのイメージでいきたいから、早いとこ始めなきゃ」
「なるほどね」と、美蘭はほぼ聞き流してるのに、杏樹は「ぜったい期待してね」と張り切っている。
「つきましては、彼氏の方も作りたいんだけど、あの子まだフリーかな?ラーメン屋さんの」
「
「いや全然。ただ、杏樹ってビジュアル系みたいなのが好みかと思ってたから」
「まあね、でもあの彼、真面目で優しそうで、色々わがままきいてくれそうじゃない。学校もいいとこだし。ねえ?」と同意を求められて、美蘭は「かもね」と軽く頷いた。
「でもさ、こないだ会ったら、彼女っぽいのと一緒だったよ」
「うっそ!やっぱりお店行った時に、グイグイいけばよかった。でも、彼女っぽい、ならまだいけるかも。杏樹とキャラかぶってる?どんな感じの子だった?」
「可愛げのない女。なんでこんなのがいいんだろ、って思ったけど、好きなんだってよ」
「なにそれ、本気じゃん。最悪!」
杏樹の大げさなリアクションとは対照的に、美蘭は別に面白くもない、といった顔つきだ。それなりに妬いてるのかもしれない。
予想通り、わかめうどんなんか一瞬で平らげて、杏樹は「やっぱ甘いもん食べたい。三人であんみつシェアしない?」と言い出した。俺はそういう食べ方は苦手なので「のってあげたいけど、昼休み終わっちゃうし」と、スマホの時計を見せる。
「うっそ、もうこんな時間?亜蘭のことなんか構うんじゃなかった」
「え?亜蘭、来てたんだ」
そういえば、あいつの姿も今週は見てないけど、日曜の事があるから、一言お礼は言っとくべきだろう。
「さっき校門のとこですれ違ってさあ、もう笑っちゃうから」
「なんで?」
「だって、顔にすっごい痣つくってて、どしたの?って聞いても、別に、なんて、平然としてるんだもん。カツアゲでもされたんじゃない?」
俺は思わず「知ってた?」と美蘭に尋ねたけど、返事は「関係ないし」だった。
でもまあ、口ではそんなこと言ってても、気にはなったみたいで、美蘭は午後の授業が終わるなり、帰ろうとしていた亜蘭をとっつかまえた。
「ほんとだ、面白い事になってる」というのが最初の一言だったけど、実際には面白いどころじゃない。強烈な左アッパーでもくらったみたいに、顎から頬にかけて派手に内出血していて、右の手首にも生々しい擦り傷が残ってる。
「あんた一体、何やったの?」
美蘭は腕組みをしたまま、唸るように言った。
「自転車にぶつけられた」
「いつ?」
「こないだ、桜丸のとこから帰る途中」
「それであんた、相手と話はしたの?」
「してない。ちょっとぼんやりしてたから」
「よく言うよ。いつだってす、ご、く、ぼんやりしてるくせに」
美蘭は苛立ちを隠せない様子で、こんどは「脱いで」と命令した。亜蘭はあからさまに面倒くさいという顔つきになったけれど、「聞こえてんの?」という言葉に小さく舌打ちをしてから、のろのろとブレザーを脱いだ。
それまで教室には何人か残ってて、遠巻きに見てたんだけど、亜蘭がシャツのボタンを外し始めた頃には、誰もいなくなっていた。よく考えたら、俺もそこで席を外すべきだったけど、ついタイミングを逃してしまって、じっと二人のやり取りを見てるしかなかった。アンダーシャツだけになった亜蘭の肘にも痣は残ってて、どうやら奴の動作がのろいのは、痛みが原因のようだった。
「まだ脱ぐわけ?」
「背中。それだけ見せればいいから」
亜蘭は明らかに「面倒くさい」と主張する溜息をついてから、こちらに背を向けてアンダーシャツを半分ほど脱いだ。美蘭に劣らないほど白い奴の背中は、ちょっとした現代アートみたいに赤紫の内出血で禍々しく彩られていて、俺は思わず「うっわ」と声をあげてしまった。美蘭はきつく腕を組んだままで、「呆れた」と呟いてから「もういい、服着な」と言った。
「亜蘭、それ相当痛いんじゃない?病院とか行った?どっか折れてたりしない?」
姉の美蘭をさしおいて、俺の方が慌ててしまう。よく考えたら、自分の部屋にいた亜蘭を追い出して、桜丸のところに行かせたのは俺と莉夢だし、何だか責任があるような気がしてきたのだ。でも亜蘭は「昨日は動けなかったけど、今日はましだから、どれだけ動けるか試しに学校に来たんだ」とか言ってる。
「本当呆れるよね。加害者つかまえて金払わせなくてどうすんのよ」と、美蘭は口惜しそうだ。でも当の被害者である亜蘭は淡々と、シャツだけ着てブレザーを肩にかけると「それじゃ」と、出ていこうとした。
「面白いもの見せてもらって有難う。そういえばさ、
「僕だけ?なんで電話してこないのかな」
「知らない。とにかく顔出せってさ」
美蘭はそれだけ言うと、教室を出て行く亜蘭を見送った。俺の方が何だか落ち着かなくて、「ねえ、あれ本当にかなりヤバいんじゃない?」とか言ってたんだけど、美蘭は「自力でここまで来たんだから、大丈夫でしょ」と、平然としている。でも奇妙なことに、組んでいた腕をほどいた彼女の指先は、小刻みに震えていた。
「美蘭、気分でも悪いの?手、震えてるけど」
「お腹空きすぎちゃって。低血糖だね」
「昼にあんだけ食べてて?」
「甘いものは別腹だもん。杏樹の言うとおり、あんみつ食べればよかった」
いつの間にか美蘭の穏やかさは消えていて、代わりに苛立った空気をまとったまま、彼女はスマホを取り出すと何やらメールを打ち始めた。でも半端なく指が震えてるもんだから、何度も間違っては舌打ちをしてる。俺は傍にいてはいけないような気がしてきて、「じゃあ、お先に」と声をかけてその場を離れることにした。
「待って、
背中から美蘭の声が追ってくる。振り向くと彼女はこちらを見ていて、「一人になりたくないの」と言った。
一人は嫌とはいえ、二人きりもイマイチな気がして、俺は美蘭をうちに連れて帰った。ママはもちろん喜んじゃって、せっかくだから焼肉でも食べに行く?その後でカラオケは?なんてはしゃいでたけど、俺は自分が風邪気味って事にして、うちでふだん通りの晩ごはんを食べた。
あれから何も甘いものなんか食べなかったのに、美蘭の震えはいつの間にかおさまって、ママの前ではいつもの元気でおしゃべりな彼女に戻っていた。俺は二人のためにわざわざケーキなんか買いにいったりして、男ってのはどうしてこうも女のご機嫌をとってしまうんだろう。言い換えれば、不機嫌な女ほど男の居心地を悪くさせるものはない、って事かな。
食事が済んでしばらくすると、美蘭は「急にお邪魔してすみませんでした」なんて、あっさりと帰っていった。ママは「いいじゃない、泊まってけば。パパなんか気にしなくていいわよ」と、全力で引き留めたけど、俺には何となく、今の美蘭はまた一人になりたいんだと判った。
たぶん彼女の中には、誰かと一緒にいたいのと同じぐらい、一人でいたいって気持ちがあって、いつもそれが本当に微妙なところで揺れ動いているのだ。
その日の夜遅く、俺が歯を磨こうと一階に降りてゆくと、リビングでテレビを見ていたママが、仮面みたいなパックをしたまま「美蘭ちゃんから、今日はごちそうさまでしたって、メール来ちゃった」と喜んでいる。あいつはこういうところが本当にぬかりない。
「泊まってくれたら、このパック試してもらえたのにね。今話題の漢方エキス配合らしくて、もちもちプルプルよ」
「美蘭はそんなの使わなくても大丈夫だよ」
「あら、今からやっとくと、十年後が違うのよ。風香も美蘭ちゃんも十年後にはもう二十八よ。三十手前よ」
「はいはい」と相槌を打ちながらも、俺は二十八の自分なんてうまく想像できずにいた。予定ではもう働いてるし、順調に貯金できてれば、手術を受けて男に戻ってるだろうし。でも、沙耶はどうしてるだろう。
「あらやだ、蜂だってよ。スズメバチ」
ニュースに反応したママの声に、俺は我に返った。
「夜道でスズメバチの群れに襲われたって。考えただけで発狂しそう」
ママは虫関係を異様に怖がるんだけど、詳しく見ようにもニュースはもう次の話題に移っていた。
「なんかさ、今年は異常気象で、スズメバチが大量発生してるらしいよ。美蘭の知り合いの家、屋根裏に巣ができてて、駆除できるまで住めないんだって」
「ちょっと、怖いこと言わないでよ」
まだ騒いでいるママを残して、俺は部屋に戻るとスマホでこの事件を検索してみた。驚いたことに、現場は亜蘭のところにけっこう近い。自転車で帰宅途中の会社員が、突然現れたスズメバチの群れに襲われて転倒、全治三週間の怪我をしたらしい。
何故だか判らないけど、俺はスズメバチと聞くと美蘭を思い出してしまう。やたらと攻撃的なところとか、獰猛なのにすごく綺麗な姿だとか。
彼女はいま、一人で何してるんだろう。でも、「一人になりたくないの」って言えるようになったんだから、やっぱり誰かと一緒かもしれない。その一方で俺は、彼女がそんな事言える相手は自分しかいないと、うぬぼれてみたりするのだ。
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