第21話 震えてるのはどうして
どこをほっつき歩いてたのか知らないけど、
「すぐ食べたいならカップラーメンがあるけど、スパゲティも作れるよ。もっと別なものがいい?」
お人好しの桜丸は立ち上がると、食糧庫になっている棚を覗き込んだ。
「ホットチョコレート飲みたい」
いったんそう口にしてから、美蘭はすぐに「なんてのは冗談」と打ち消した。
「お金払うからさ、その辺のコンビニでパンかおにぎりでも買ってきてくれない?食べたいものがあれば、あんたの分もおごるわ。こいつは知らないけど」と、僕の方を一瞥する。
「僕と
桜丸はにこりと笑ってそう言うと、パーカーを羽織って出ていった。全く、どうして美蘭のわがままなんか聞いてやるんだろう。当の彼女は何食わぬ顔で「ここ、なんか寒い」とか言いながら、スマホをチェックしている。
「
僕はまだこの部屋に居残るべきかどうか確かめるため、質問してみる。「帰ったわ」と、そんなに機嫌は悪くなさそうな答え。
「今日は猫カフェで撮影したんだろ?何かトラブル?」
「撮影は問題なしよ。ただ、風香が莉夢を家に送っていったら、またルネさんが来ててさ、あの子、帰らないってゴネたの」
「でも、ルネさんの家は燃やしちゃったよね」
「だからさ、もう莉夢のことなんかどうでもよくなるかと思ってたんだけど、やっぱり母親に頼まれたらしい」
「おばあさんは?預かってくれないの?」
「まあ、金に困ってそうだったから、動画の広告代とDVDのギャラで一息つかせようと思ったんだけど」
「おばあさんは撮影のこと知ってる?」
「まさか。下手に欲を出されたら面倒。だからさ、莉夢の実の父親から金が回ってきたって話にするつもりだったの。でも今は金がどうこうより、かっちゃんの具合が悪いらしくて」
「かっちゃんて、誰だっけ?」
「おばあさんの娘だよ。莉夢の母親の、二人目の旦那の姉さん。莉夢の実の父親は一人目の旦那」
僕はこういうの、いくら説明されてもすぐに忘れてしまう。まあ要するに、うちの一族ほどではないけど、ややこしい家系ってことか。
「かっちゃんてさ、進行性の病気らしいんだよね。おばあさんはパートで忙しいし、新しく介護の人を頼んだりする手続きもあって、実際のところ莉夢まで面倒みきれないの。そこでルネさん再登場ってわけ」
「彼女、今どこに住んでるの?」
「埼玉の賃貸。燃えた家は彼女の親が買った築古で、かなり傷んできてたし、火災保険のおかげで何か儲けたみたいになってんの。ムカつくんだよね」
「それで、莉夢は?」
「今日のところは帰らせたけど、きっと今週中にはルネさんちに連れてかれる」
「しょうがないって事?」
「そこであんたの出番」
美蘭はしれっとそう言って、今日はじめて僕の目を見た。
「出番って、何も聞いてないけど」
「そりゃそうよ、こっちだって大急ぎで計画変更したんだから」
僕はようやく、美蘭がどうして桜丸を追い出したのか理解した。でなければ使い走りは僕に決まってるんだった。
「入り込んでもらう。いつになるか判らないけど」
「でも…」
「うるさいな。あんたのせいで始まった事なんだからね」
またいつもの嫌味な決まり文句。どうやり返そうかかと考えていると、ドアの隙間から茶トラ猫、トハ三七がぬっと顔を出した。どうも桜丸の閉め方が緩かったらしい。美蘭が「うわ、来た!」と腕を伸ばすと、ニャゴ、と返事して寄って来る。
さあ、これはチャンスだ。僕は美蘭に気取られないようトハ三七に意識を飛ばし、一撃くらわす瞬間を狙う。難しいのは、僕が猫を操るために集中すれば、それだけ彼女に気づかれやすいという点。
「七キロいくかな」と言いながら、美蘭はトハ三七を膝にのせ、僕は接触を最小にして目標を絞った。顔はさすがに報復が怖いので、手の甲で勘弁してやろうか。そう考えながらトハ三七と一緒に深く息を吸い込むと、美蘭の胸元から
「江藤さんに会ってたんだ」
思わず口にすると、美蘭は鋭い目でこっちを睨み、膝にのったトハ三七にちらりと視線を落としてから「あんた、何をしゃべった?」と言った。
「あの人、動画に出てたのがサンドとウツボだって気づいてるし、今日も撮影してた猫カフェに現れた」
僕は言い訳を必死で考える。でも美蘭に下手な嘘をつくと後が余計に苦しいので、「確かにこないだ、家にご飯食べに行ったし、動画の話も出たけど、何もばらしてない」と答えた。美蘭は眉間にしわを寄せて、「家にご飯?」と繰り返す。それから思い切り無関心を装って、「奥さん、いた?」と尋ねた。
「いたら行ってない。彼女きっと、僕らのこと嫌いだから」
「そんなの百も承知よ」
美蘭はふふんと鼻をならして、トハ三七の喉元を撫でる。僕はぼんやりと、あの日江藤さんに聞かされた、未遂に終わった情事の話を思い出す。今夜もまた空振りだったみたいだけど、やっぱり美蘭は彼なんか相手にしてないんだ。
「あの人、猫のことも気にはなるらしいけど、それより、莉夢を事務所に引っ張りたいみたい」
「だったらいいんじゃない?紹介料いっぱいもらって」
「無理よ。下手に人気が出たりしたら、ルネさんがネットに流してた動画のことがばれる。ニャーニャはメイクでごまかしてるけど…」
美蘭はふいに口をつぐみ、ドアの方を見た。桜丸が戻ったのだ。彼は「あ、トハ三七!ねえ、その猫すごいだろ」と嬉しそうに入ってきた。
「ちょっとこの重さ限界」と、美蘭は文句を言ったけれど、膝から下ろす気にはなってないみたいだ。桜丸はコンビニの袋をテーブルに置き、「さっきホットチョコレート飲みたいって言っただろ?実は僕、こないだから色々と研究して、お母さまが作ってたのにかなり近い奴を開発したんだ。いま作るから、君たちの意見を聞かせてほしいな」と、生クリームに牛乳、カカオたっぷり大人のブラックチョコレートなんかを並べていった。美蘭は「期待させるじゃない」と笑い、彼が一緒に買ってきたオレンジピール入りのデニッシュを食べ始めた。
結果として、桜丸特製、コンビニブレンドのホットチョコレートはかなりの出来だった。熱くて、滑らかで、苦くて、こくがあって、香りが立って、甘い。僕らは無言のまま、褐色の液体から立ち上る湯気を吸いこみ、最後の一滴まで執念深く飲み尽くした。
「ラーメン屋より、ケーキ屋でバイトした方がいいんじゃない?」
彼女なりの賛辞をのべる美蘭の頬には赤みがさしていて、子供のころの面影を甦らせる。桜丸は少し得意そうではあったけど、「作れるの、これだけだからね」と笑った。トハ三七はおこぼれにあずかろうと必死だったけど、残念ながら猫にチョコレートは毒物だ。彼は空になった生クリームの紙パックをもらい、テーブルの下に隠れて最愛の恋人みたいに舐めまわしている。
美蘭は巨大な猫から解放されて、ふうと一息つき、床に転がしていたバッグに手を伸ばすと、僕のアパートの鍵を放ってよこした。
「そろそろ引き上げれば?あんたの顔みてるの飽きたわ」
「いや、そりゃ、帰るけど。そっちは帰らないの?」
「帰るに決まってるでしょ。あんたとタイミングずらしたいだけよ」
僕だって美蘭にはうんざりなので、大人しく桜丸に別れを告げ、古びたアパートを後にして、人気のない夜道を歩いた。でもまあ、そんなのはうわべだけで、僕の意識の一部はトハ三七につながったままだ。彼は相変わらずテーブルの下で、生クリームを削り取るようにして舐めているけれど、僕が帰った途端に美蘭が始める悪口は聞き逃さない。
「あの子の部屋ってさ、いまだに冷蔵庫も何もないの。風香も呆れてたわ」
「あれこれ選ぶのが面倒だって言ってたよ。一人暮らしは初めてだから、わからないんだろ?」
「じゃあさ、買うのつきあってやってくれない?新生活応援セットみたいなのあるじゃない」
「それは構わないけど、条件が一つだけある」
「何?」
「美蘭も一緒に来ること」
「無理」
「どうして?亜蘭のこと心配なら、自分で面倒みてあげなよ」
「別に心配じゃないもの。もういい。この話なかった事にして」
確かに話題は僕関連だったけど、悪口、というには変な感じがする。美蘭の奴、黙ってしまったけど、一体何を考えてるんだろう。僕は時たまバイクや車とすれ違いながら、ひんやりとした夜の街を歩き続ける。トハ三七はまだテーブルの下にいて、すっかり綺麗になった生クリームのパックをまだ弄んでいる。しばらくして、また美蘭の声がした。
「帰るの、明日の朝でもいい?」
「え?」
「一緒に寝たいの」
「そりゃ、構わない、けど、でも」
桜丸の声はあやふやで、冗談か本気かとうろたえてるけど、美蘭は「大丈夫よ。あんたは何も心配しないで」と言いきった。僕は慌ててトハ三七をテーブルの下から引きずり出し、何が起きているのか確かめさせる。
美蘭が、桜丸の首に腕を回し、食らいつくようにキスしてる。
桜丸は理性なんか一瞬でショートしてしまったらしく、されるがままだ。二人はそうやって長いこと、繰り返しキスしていたけれど、ようやく美蘭が「電気消して」と囁いたのをきっかけに、桜丸は部屋を暗くして服を脱ぎ始めた。でも猫の目にはこの程度の暗さは問題じゃない。そしてもちろん、美蘭にも。彼女はキャミソールとショーツだけ残してあとは全部脱ぐと、ベッドに入って桜丸を抱き留めた。
僕は撤退すべきなのか、このままトハ三七と目の前の出来事を見届けるべきなのか、決断できないまま息をひそめていた。あの猛獣美蘭が、こんなにあっさりと桜丸に抱かれるなんて。玄蘭さんは「うちの一族はさかりがつくと手におえない」と言ってたけど、そういう事なんだろうか。
僕は尚も夜道を歩き続け、意識の片隅から二人の荒い息遣いと、シーツの擦れる音を聞き続けた。でも突然、ひときわ大きな溜息をついて、桜丸が「やめよう」と言った。
「美蘭、何か無理してるだろ?」という問いかけに、彼女はくぐもった声で「大丈夫よ」と答えた。それでも桜丸は身体を起こし、「じゃあ、こんなに震えてるのはどうして?」と尋ねた。
「美蘭、君ほんとうは男の人が怖いんじゃない?」
返事は何も聞こえなくて、桜丸は美蘭の髪に軽く触れた。
「子供の頃にさ、外にいたりして、知らない男の人がそばに来ると、君はいつも僕の後ろに隠れるようにして、ポケットからカッターナイフを出してた。カチカチって、刃を出す音が今も耳に残ってる。大人のこと信用してないんだなって思ってたけど、あれは怖かったんだね?」
それでも美蘭は何も答えず、桜丸に背を向けてしまった。
「ねえ美蘭、正直いって、僕は怖いんだ」
彼は半分身体を起こしたまま、美蘭の髪をその長い指でゆっくりと梳いた。
「こんな事するの初めてだし、君に何か嫌な思いさせたらどうしようって、不安でしょうがない。だからもう少し、このままにしてていいかな?」
桜丸は何だか悲しいような顔つきで美蘭の返事をじっと待っている。僕はトハ三七の中で息をひそめながら、絶好のチャンスを見送ろうとしている、彼の要領の悪さに呆れ果てていた。
酔っぱらって帰ったらしい住人が足音を響かせて廊下を歩いて行き、隣の部屋のテレビは天気予報を流し始める。桜丸が再び口を開こうとした時、美蘭が小さな声で「好きにすれば」と言った。
次の瞬間、何かがすごい勢いでぶつかってきて、僕は焼き鳥屋の看板と、積み上げられたビールケースの間に背中から突っ込んでいた。
僕の目の前には倒れた自転車と、中腰でこちらを見ている男がいる。 スーツにデイパック、どうやら勤め帰りらしい彼は、僕が何故ここにいるのか判らない、という当惑を隠しもせずにじっとしていたけれど、僕がどうにか身動きしたのを見届けると、手さぐりで自転車のハンドルを握って起こし、視線をこちらに向けたままサドルにまたがると、何も言わずに走り去った。
どうやら僕は、自転車にはねられたらしい。
ビールケースの間から這い出して、そろそろと立ち上がる。とりあえず動けるけど、あちこち痛くて結局どこがどうなってるのか判らない。でもまあいいかという気もしてきて、僕はそのまま歩き出した。後ろの方で焼き鳥屋の引き戸が開いて、誰かが呼びかけてきたけど、もちろん面倒くさいから振り向いたりしなかった。
いつの間にか僕はアパートに辿り着き、玄関ではサンドとウツボが待ち構えていた。足元にまとわりつく猫たちをよけながら部屋に入ると、僕は明かりもつけずマットレスに座り込んだ。左の手首に擦り傷があって、肩と顎と背中がひどく痛んだけれど、そんなのは寝れば治まるような気がする。
そのまま横になると、僕はゆっくり目を閉じた。足元ではサンドがうろうろと寝場所を探していて、ウツボは一足先に美蘭のセーターの上に丸くなっている。猫たちの波動をぼんやりと感じながら、僕はある考えを弄んでいた。どうせ新しい傷になると判ってるんだけど、剥がさずにいられない、治り切らないかさぶたみたいな執着。
そして僕はもう一度、トハ三七に意識を飛ばした。
桜丸の脱ぎ捨てたパーカーの上に、トハ三七は巨体を丸めて眠っていた。僕は彼をそっと起こし、眼を開く。部屋は暗いままで、隣のテレビは通販番組を流している。ベッドからは寝息が二人分聞こえてきて、僕はさっき自転車にぶつかってから、どれだけの時間が経ったのかと考えてみる。その間に何が起きたのかを。
トハ三七は僕の指図に従い、静かに立ち上がるとベッドに近づいた。美蘭と桜丸はアクリル毛布と薄い布団にくるまっていて、猫の目線ではわずかに覗いた美蘭の髪しか見えない。もう少しよく見ようと近づくと、いきなり細い腕が伸びてきて、首筋つかんで引き寄せられた。
猫は宙吊りにされたまま、薄闇に見開いた美蘭の左目に走査される。彼女がほんの少し目を細めたのは、僕に気づいたせいかもしれない。だとしたら本気で半殺しだ。その時、桜丸が「どうしたの?」と寝ぼけた声を出した。美蘭はちらりと後ろに視線を投げて「トハ三七」と答える。それから、「一緒に寝ていい?」と尋ねた。
「もちろん」という返事があって、桜丸はまた寝息をたて始める。美蘭は少しだけ身体を起こし、キャミソールを着たままの胸元に空間を作ると、そこに猫を抱き込んだ。トハ三七は自分の周囲を前足で何度か押して身体の位置を決め、枕に顎をのせると一瞬で眠りに落ちてしまう。
僕もそれに引きずられるようにして、沼のような眠気に沈み込んでゆく。薄っぺらい美蘭の胸は思ったよりずっと柔らかくて、枕からは涙の匂いがした。
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