第20話 何もできない子
この撮影の間ずっと、俺は莉夢の付き人みたいな感じで、彼女の送り迎え、衣装や飲み物の準備、トイレの場所の確認、なんて事をしていた。
俺の中で「仕事」ってのは何となく、会社に行ってパソコンのキーボード叩きながら電話する、みたいなイメージがあったんだけど、撮影やメイクや照明、そんな仕事もあるんだと、あらためて気がついたのだ。
まあ、そんな感じで猫カフェでの撮影も順調に終わって、クランクアップ。大人だけの現場なら、打ち上げで飲み会ってのが定番らしいけど、何せ莉夢はいいとこの令嬢って事になってるし、俺も美蘭もその姉のご学友という設定なので、現地解散だ。
撮影の人たちは慌ただしく機材を片付けていて、監督と出版社の
それにしても美蘭の奴、大人の中でも全く物おじしないんだから恐れ入る。弟の
しかしいくら美蘭でも、予想外の展開はあるらしい。それが
「あれ?今日は休み?」と、雑然とした雰囲気に面喰ったような顔をしてたけど、猫カフェの店長はすぐに「あら、江藤さん。いらっしゃい」と声をかけた。
「ごめんなさい、ちょっと撮影してたの。いま片づけてるとこだから、よければ座ってて」
どうやら彼はここの常連らしい。でも、そんな偶然ってあるだろうか。
「そう?じゃあ遠慮なく」と入ってくると、彼はすぐ美蘭に目をとめた。もちろん彼女は先に気づいてて、にこやかに挨拶した。
「今日はお仕事、お休みなんですか?」
他人行儀な言葉遣いだけど、木原さんたちの手前仕方ない。なんせ俺たちは良家の子女なのだ。江藤さんは「うん、代休なんだよ。用事で近くまで来たから寄ったんだけど、奇遇だね」とか言って、近くの席に腰を下ろす。確かに、前回会った時はスーツだったのが、今日はマウンテンパーカーにチノパンという出で立ちで、首にはイヤホンがかかってる。
「偶然すぎてびっくりしちゃった」
美蘭はそう言って笑ったけど、彼に近寄ろうとはしない。江藤さんは、テーブルを飛び石みたいに渡ってきたキジ猫を抱き上げると、「本当のこと言うとね、うちのマカロンが、今日ここに来れば君に会えるかもって、教えてくれたんだ」と言った。
「本当?」と微笑みながら、彼女はまだ何か言おうとしたけれど、宗市さんの「美蘭」という呼びかけがそれを遮った。その声にはたしなめるような響きがあって、江藤さんはそこで初めて彼と目を合わせた。
「どうも初めまして。江藤と申します」
代休だってのに、ポケットからちゃんと名刺を出してご挨拶だ。うちのパパなんか、休みの日はダミダミのジャージ姿で完全に油断してるけど、やっぱりこれが業界の人って奴だろうか。宗市さんもにこやかに挨拶して、彼らのいる場所だけ異次元のビジネス空間になっている。
その時、奥で何かが割れるような音がして、甲高い悲鳴が後に続いた。
「どうかした?」と、店長が覗き込んだところへ、バイトの女の子が血相かえて飛び出してきた。
「蜂!おっきいの!」
彼女がそう叫ぶ間にも、低い羽音を響かせて大きな蜂が五、六匹、こちらへと飛んできた。
「スズメバチだ!刺されるぞ!」
監督の
しかし猫たちは飛び回る蜂に興味津々で、首を伸ばし、尻尾をばたつかせながら目で後を追っている。江藤さんは立ち上がると、「猫は危ない時には自分で逃げるよ。先に出た方がいい」と店長の背中を押した。
俺はまあ、スズメバチといったって、こっちが巣に近づいたわけでもないし、いきなり刺されることもないだろうと思ったので、様子を見ながらドアの方に移動した。それより心配なのはまだ奥にいる莉夢だ。でもちょうどそこに、メイクの
どうせ何が起きても騒ぐ女じゃないんだけど、彼女は店の中を飛び回る蜂たちを、どこか楽しんでいるような風情で立っていた。江藤さんは彼女の足が竦んでいると思ったらしくて、その手をとろうとする。でもその前に宗市さんが彼女を、まるで親鳥が雛をかくまうように抱き寄せてしまった。美蘭は不意をつかれたのか抵抗もせず、そのまま引きずられるようにして店を出た。
外では店長がスマホに向かって、「だから殺虫剤!あるだけ持ってきて!」と喚き、木原さんはバッグを抱えてへたり込んでいる。監督たちは機材を中に置いたままなので、渋い顔で店を睨んでいた。俺はとりあえず莉夢の傍へ行くと、彼女のフードを外して無事を確かめた。
「驚いたね。怖かった?」と言うと、「大丈夫。柴さんが守ってくれたから」と笑顔を見せたけれど、やっぱり青ざめている。美蘭はどうしたろうと思ったら、まだ宗市さんの傍にいて、少し離れたところに江藤さんが所在なげに立っていた。
さっきのあの宗市さんの態度、江藤さんへのあてつけみたいだった。わざわざ美蘭の腰に腕を回して、あんなに身体をくっつけなくても逃げられるし、何より彼女は少しも怖がったりしていなかった。いや、怖がっていたとすれば、いきなり江藤さんが現れたという状況に、かもしれない。
宗市さんって一体何者なんだろう。すごく優しそうだけど、その気になればどんな事だってやる、大胆な人にも思えた。
スズメバチはそれからも店を占領し続けて、莉夢と俺、そして美蘭は宗市さんが呼んでくれたタクシーで一足先に帰ることになった。現場では無口だった莉夢は、車が走り出した途端に、「最初にね、キッチンの窓から一匹入ってきて、それからどんどん増えたの。お店のお姉さんがびっくりしてお皿とかいっぱい落として、莉夢と柴さんはそれに驚いたよ」と、さっきの様子を語り始めた。
「柴さんはね、お店のすぐそばが公園だから、木の上とかに巣があるのかなって言ってた。スズメバチの巣をとるの、宇宙服みたいなの着るんだって。針がすごく太いから、危ないんだってさ。中に猫ちゃんたち残ってるの、刺されたりしないかな」
「大丈夫よ。猫は毛皮に守られてるもの」
美蘭は気怠そうにそう答えて、窓の外を眺めている。俺はちょっと気になって「さっき江藤さんが来たの、偶然かな」と確かめてみた。
「たぶん、猫つながりって奴よ」
「猫つながり?」
「店長が猫友達に、撮影のこと喋ったんだと思う。木原さんの口止めが足りなかったのかな。それが回り回って、江藤さんに伝わった」
「マジで?」
「正確には江藤さんの奥さんに伝わったのかも。彼女、人脈ならぬ、猫脈ありそうだから」
そして美蘭は軽く溜息をついた。俺は思わず「何かまずい事になりそう?」と確かめる。彼女は「心配いらない」と首を振り、「ごめん、莉夢を家まで送ってくれる?私ここで降りるから」と言った。
「ここって、今どこ?」
俺は外を見たけど、どこを走ってるのか見当がつかない。それでも美蘭は「どこでもいいじゃない」とだけ答えると、タクシーを停めてさっさと降りてしまった。
莉夢はしばらく後ろ向きになって手を振っていたけれど、信号で止まったところで向き直り、「美蘭、また遊んでくれるかな」と呟いた。
「多分ね」と言ってはみたものの、俺も美蘭が莉夢とどこまでつきあう気なのか、いま一つよく判らない。あからさまに可愛がるわけじゃないし、むしろ突き放してるぐらいの感じがするのに、莉夢は美蘭にぞっこんだ。
「莉夢ね、これからもずっと、ニャーニャみたいな事がしたいの。莉夢じゃない女の子になって、色んな事がしてみたい」
「なんで?莉夢は莉夢のままでいいじゃない」
「それは駄目。別の女の子になりたい。本当の莉夢は何もできない子だから」
彼女はそれだけ言うと、リュックをきつく抱きしめた。こんな時、普通の女の子ってどんな会話をするんだろう。ふだん小学生と全く接点のない俺は、言葉に詰まってしまった。これまではまだ撮影が控えていたから、そういう話をしてればよかったけど、今じゃ全て終わってしまったし。
何だか気まずい沈黙を漂わせたまま、タクシーは走り続け、俺はさも大事な用があるようなふりをして、スマホの中に逃げ込んでいた。ようやくタクシーが停まると、俺は美蘭からもらったチケットで支払を済ませ、いつの間にか眠っていた莉夢を起こした。
彼女を預かっているおばあさんには「猫少女ニャーニャ」の話は一切秘密だったから、俺はいつも、一番近いコンビニでタクシーを停め、彼女の家の玄関が見える十字路のところまで送り迎えしていた。おばあさんは莉夢が長時間出かけていても、全く心配していないみたいで、それはとりあえず、俺たちには好都合だった。
「じゃあね。お疲れさま」
俺はそう言って、まだ眠そうな莉夢がリュックを背負うのを手伝い、小さく手を振った。莉夢も「バイバイ」と手を振り、歩き出したけれど、数歩いったところで立ち止り、すごい勢いで駆け戻ってくると俺の後ろに隠れた。
「何?どうしたの?」
見下ろした彼女の表情は、猫カフェでスズメバチが現れた時よりもずっとこわばっていて、しがみついた指先には食い込むような必死さがあった。
「あの車、ルネさんのだ。莉夢を迎えにきたんだ」
確かに、莉夢の家のそばには水色の軽自動車が停まっている。
「ルネさんて、誰だっけ」
「ママの友達。でも嫌。絶対に行かない」
「でも別に、莉夢を迎えに来たかどうか判らないじゃない」
「判るの。ねえ
「帰りたくないって言っても、莉夢の家なんだから帰らなきゃ」
「違う。あそこは莉夢のおうちじゃない!絶対帰らない!」
叫ぶようにそう言うと、莉夢は声もたてずに、大粒の涙をこぼした。俺はもちろん他の男と同じように、女の子の涙なんて苦手だから、それ以上は何も言えない。仕方がないから美蘭に電話して、助けを求めることにした。ところがこんな時に限って、向こうは電源を切ってやがる。さっきタクシーを降りたのは、引き返して江藤さんに会いに行ったんだと、俺は今更のように思い当たった。
でも一体どうすればいいんだろう。ここに莉夢を置き去りにするわけにいかないし、かといって自分ちに連れて帰るわけにもいかない。美蘭といつ連絡がつくかわからないけど、彼女のホテルで待ってるのは無理だろうか。あれこれ考えて、俺はさしあたっての避難先をようやく思いついた。
「いらっしゃい!」
「莉夢ちゃん、ここは初めてだよね。どのラーメンにする?」
水を運んできた桜丸は、注文をとろうと伝票を取り出す。俺は先にもやしハーフを頼み、莉夢は「のりラーメン」と小さな声で告げると、俯いてメニューを閉じた。
「了解!ちょっとだけ待っててね」と厨房に戻ろうとする桜丸を、俺は小声で呼び止めた。
「ねえ、すごく急で、勝手なお願いなんだけど、この後しばらく、アパートの部屋を貸してくれない?」
「部屋って、僕の?」
「そう。行く場所がなくて困ってるの。美蘭に連絡がつくまででいいから」
いきなり過ぎる話に、桜丸はぽかんとした顔をしていたけれど、すぐに「いいよ」と答えた。
「でも、ちょっと散らかってるかな」
「そんなの全然平気だから」と俺が言うと、莉夢まで「平気だよ」と後に続く。桜丸は軽く苦笑しながら「じゃあ、後で地図と鍵を渡すね」と言った。
「今日は、美蘭と一緒じゃないの?」
「途中から別行動なの」
「そう」と頷いて、彼はもう何も詮索しなかった。莉夢はようやく本当に落ち着いた表情になって、コップの水を半分ほど飲んだ。
しばらくして注文の品を運んできた桜丸は、「ちょっと考えたんだけどさ、僕の部屋ってあんまり女の子向きじゃないかも。トイレとか共同なんだよ」と言った。俺はもちろん「そんなの大丈夫よ」と答えたけれど、彼は「だからさ、別のとこ紹介するよ」と続けた。
「別のとこって?」
「亜蘭のとこ。けっこう近いんだ。引っ越したところだから、冷蔵庫もテレビもないけど、ワンルームでトイレやなんかはちゃんとしてる。あとさ、莉夢ちゃんと動画を撮った猫もまだ預かってるし」
猫と聞いて、莉夢の顔がぱっと明るくなった。桜丸はその反応に満足そうで「さっき電話してみたら、行って構わないって。亜蘭は入れ替わりで僕のとこに来るから、気を遣わなくていいよ」と告げて、厨房に戻っていった。
莉夢は人が変わったように元気になってラーメンをかき込み、「早く行こう」とはしゃいでいる。俺は亜蘭と顔を合わせるのが少し億劫だし、部屋に猫がいるというのも落ち着けないんだけど、まあほんのしばらくの我慢だと自分に言い聞かせた。
青龍軒から亜蘭の引っ越し先まで、タクシーだとすぐだった。一体どういう経緯であの豪華マンションから下町のワンルームに転落したのかさっぱり判らないけど、当の本人は全く変わらないぼんやり加減でドアを開けると、「猫の餌と水、よろしくね」とだけ言って鍵を渡し、そのまま出ていってしまった。
そこは面白いほど何もない部屋で、ベッドの代わりにマットレスと毛布が置いてあるだけ。あとは段ボールとスーツケース。そして猫のキャリーケースが二つ。猫たちは不意の来客を警戒して隠れていたけれど、莉夢が「サンド、ウツボ」と呼ぶ声に応えて顔を覗かせた。彼女が猫を撫でまわしている間に、俺は風呂場とトイレを探検してみた。ほとんど何もないけど、汚れてもいないという感じで、キッチンにはミネラルウォーターのペットボトルが何本かと、キャットフードの袋があるだけだった。
後でコンビニでも探しに行こうと思いながら、俺は莉夢のところに戻った。彼女はマットレスに座り、サンドを膝に抱いて何やら話しかけている。
「莉夢は本当に猫が好きだね」と、俺もその隣に腰を下ろす。テレビも何もないし、退屈なことこの上ないけど、
それにしても、莉夢のおばあさんは彼女がどこで何をしてるか、気になったりしないんだろうか。少なくとも俺が莉夢ぐらいの年の頃には、こんなに遅くまで外をほっつき歩くなんて、ありえない事だったんだけど。
「ねえ、これ、美蘭のセーターじゃない?」
不意に莉夢が声を上げたので、俺は我に返った。彼女はマットレスの隅に、ウツボが寝床みたいに丸め込んでいるピンク色の物体を引っ張り出してきた。広げてみるとたしかにそれは、この前スタジオで撮影した日に美蘭が着ていたセーターだった。
「ウツボちゃん、駄目じゃない、こんなにくしゃくしゃにしたら」と、莉夢は一生懸命セーターの形を整えようとしていたが、すでに猫の毛だらけで、おまけに爪でひっかけたらしく、細い糸が何本も飛び出している。
「それ、もう着られないよ。美蘭がいらなくなったから、ウツボにあげたんじゃないかな」
「そうなの?」
莉夢は半信半疑、といった顔つきでセーターから手を離す。ウツボは細い声で鳴くとその上にのり、前足でせっせと自分好みの形にこね始めた。しかし、という事は、美蘭はあの日、撮影の後でこの部屋に来てたのか。彼女の口からは亜蘭の話なんて一つも出てこないのに、ちゃんと会ってるのだ。
仲が悪そうなこと言ってるけど、やっぱり双子だもんな。そう思うと一人っ子の俺は、すごく羨ましいような気持ちになる。あんなぼんやりした弟はご免だけど、美蘭みたいにしっかりした姉貴がいれば、すごく心強いに違いない。まあ、莉夢みたいな妹でも、それはそれでいいんだけど。
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