第3話 別の猫ちゃん

 青龍軒を出た時、空に懸っていた細い月も沈んで、今日は暗い夜というわけか。美蘭みらんが指示してきた八時に合わせて公園に戻ると、サビ猫ウツボはシーソーの上に蹲り、ちゃんと僕を待っていてくれた。

「美蘭もこれくらい聞き分けがよければいいのに」

 抱き上げて頭を撫でてやると、ウツボは細い声で鳴いた。そこへ「私のどこが猫以下だってのよ」という声がして、美蘭の黒いシルエットが公園の入り口に現れた。

「こっちはあんたの道楽に付き合ってるんだから、さっさと終わらせなさいよ」

 彼女は公園には入らず、そのまま例の家へと歩いてゆく。あの、女の子が閉じ込められていた家。

 僕は抱いていたウツボを地面に下ろすと、シーソーに腰かけた。目を閉じると深く息を吸い、頭の片隅の、ウツボとつながっている場所を覗く。そして一気に飛び込むと、次の瞬間には枯草の中に立っている小柄な雌猫をとりまく全てが、僕の世界になっている。

 僕とウツボは小走りに公園を抜け出すと、もう随分と先を歩いている美蘭の後を追った。すれ違いに犬を散歩させている人が来たので、脇に逸れて家の軒下を通り抜ける。側溝を飛び越え、道を横切り、不法駐車のミニバンをくぐって、小走りに進む。自販機の脇に隠れていた野良の雄猫が突然顔を出し、もの欲しげに寄って来たって相手にしない。

 そうして最短距離を突き進み、僕とウツボは美蘭よりも先にあの家に着いた。昼間は人気の感じられなかった一階の窓に、ぼんやりと明かりがさしている。誰か帰ってきたんだろうか。僕とウツボは家の脇に回り、昼間やったようにブロック塀をよじ登ると、一階の窓の庇を踏み台にしてジャンプし、二階の窓の手摺に飛びついて、這い上がった。なるほど、美蘭が言った通り、これは身軽な猫じゃないと少し難しい。

 中には明かりがついているので、誰かいるのは間違いない。僕とウツボは前足で何度か窓ガラスを叩いた。すぐに、分厚いカーテンが揺れて窓が少しだけ開き、昼間の女の子が顔を覗かせた。

「別の猫ちゃん。お姉さんが言った通りだ」

 頬を紅潮させて、明らかに驚いている。僕とウツボは彼女の肩を踏み台にして部屋に飛び込み、ドアに駆け寄ると前足でひっかいた。

「本当に逃げるの?ちょっと待って」

 昼間と同じ、スクール水着姿の彼女は、床に敷いたマットレスに乗ると、壁との隙間に押し込んであった美蘭のブラウスを引っ張り出した。それを丸めて大事そうに抱えると、ドアノブに手をかけた。

「ルネさんが帰ってるから、静かに歩いてね」

 ドアが開くと、階下から食べ物の匂いが漂ってくる。肉、多分冷凍ハンバーグの、けっこう値が張る奴をレンジで温めてる感じ。ウツボはその匂いに浮かれてしまって、僕が押さえておかないと一気に階段を駆け下りそうだ。女の子は足音を忍ばせて一階に降りると、階段の脇に積まれた、フランス産ミネラルウォーターの箱の隙間にブラウスを隠した。それから「ちょっとだけ待ってね」と言ってからトイレに入った。

 タイミング悪いなあ、別に今じゃなくてもいいのに。猫の口ではそんな文句も言えなくて、仕方ないから僕とウツボはその間に玄関の様子を探った。ドアにはシリンダー錠の他に、暗証番号を使うらしい電子錠がつけてある。昼間出かけている間は、これで彼女を閉じ込めてるわけか。今は施錠されているのか確かめようとした時、別な物が僕の目を引いた。靴だ。

 そこに一足だけ脱いであるのは、少しヒールのある、紺色のパンプスだった。この家の主は女装が趣味なんだろうか。でも、靴のサイズは美蘭のより小さくて、普通の男が履けるようなものではなかった。それに、料理の匂いで判りにくいけれど、この家には人間の男の匂いというものがしない。

 どういう事なんだろう。

 その時、水を流す音がして、女の子がトイレから出てきたので、僕とウツボはそちらに戻った。水なんか流さなくていいのに、全く。その音を聞きつけたのか、廊下の突き当たりのキッチンで、誰かが動く気配がした。

「リムちゃん?ごはんすぐできるよ。こっちおいで」

 女の声。リムちゃん、と呼ばれた女の子は一瞬身体を強張らせて、そちらへ行こうかどうしようか迷っている様子だ。もちろん、そんな事してる場合じゃない。僕とウツボは女の子の足元に駆け寄ると、頭でぐいぐいと彼女のすねを押した。

「そうだよね。逃げなきゃ」

 彼女は自分に言い聞かせるみたいに呟くと、さっきミネラルウォーターの箱の間に隠しておいたブラウスを取り出し、急いで身に着けた。袖が長すぎるので何度か折り返し、前のボタンを喉元まで留める。美蘭が言った通り、ブラウスの丈は彼女の水着が隠れるのに十分な長さだった。

 女の子は足音を忍ばせて玄関に向かい、それを見届けてから、僕とウツボは回れ右をして廊下の奥へと進んだ。まあ、ウツボが肉の匂いに抗えなかっただけの話だけれど、そこにいる女は何者なんだろう、という疑問も僕を動かしていた。

 僕とウツボは、明るい花柄の暖簾で廊下と仕切られたキッチンに入る。でもそこには誰もいない。冷蔵庫の陰に身を潜め、隣の部屋を覗き込むと、そこに女が一人いた。彼女はこちらに背を向け、しゃがみこんで何かを拾っているみたいだった。セミロングの髪を後ろで一つにまとめ、ベージュのカーディガンにグレーのロングスカート。丸みを帯びた肩のラインや体格から考えても、男が女装しているとは思えない。

「今日はハンバーグだよ。にんじんのグラッセと、コーンポタージュもあるからね」

 女の子が近くにいると思っているのか、彼女は歌うように語りかけてから、ゆっくりと立ち上がり、部屋の奥に移動する。それまで彼女の身体で隠れていたけれど、フローリングの床には水色のレジャーシートが敷かれ、その上にはペットの餌入れに盛りつけられた料理が並んでいた。その一角がうまくフレームに入るように、彼女は三脚にセットされたビデオカメラを調節していた。よく見るとカメラは一台だけではなく、床置きのものもある。

「みんなリムちゃんがごはん食べるところ、可愛くて大好きだってよ」

 湯気をたてているハンバーグに突撃をかけようとするウツボを全力でなだめながら、僕は目の前の現実をどう受け止めるべきか戸惑っていた。どこか芝居がかった声で語りかけるこの女は、ごくありふれた三十代に見える。ピンクのフレームのメガネをかけて、色白のふっくらした丸顔で、メイクは控えめ。うちの学校に事務室にもこんな感じの人、いたと思う。

「ね、リムちゃん?お部屋に戻っちゃったの?」

 カメラをセットし終えた彼女は、まだ女の子が傍へ来ていない事に気づくと、声を張った。その時いきなり、耳を刺すような電子音が鳴り響いた。反射的に隠れようとするウツボに逆らえず、僕らはキッチンの隅にある、使用済みの食品トレーの山に身を潜めた。

「リムちゃん!何してるの!お外に出ちゃ駄目よ!」

 女の声は一気に甲高くなり、せわしないスリッパの足音が廊下を移動してゆく。どうやら玄関の電子錠は、セットされたままだったらしい。僕は食品トレーの中で縮こまっているウツボを無理やり奮い立たせ、キッチンから廊下に出て女の後を追いかけた。そして前方にいる彼女の背中めがけてジャンプし、爪をたてて一気に駆け上ると肩に噛みついた。

「ぎゃああ!」

 絞め殺されるニワトリみたいな悲鳴をあげて、女はその場にしゃがみこんだ。でも、すぐにまた立ち上がって腕を肩に回すと、僕とウツボを引きはがそうとする。僕らは彼女に食らいついたたまま、前足を伸ばしてその指に何度も爪をたてた。すると彼女は反射的に身体を激しく揺すり、僕とウツボを振り落とそうとする。それでも僕は彼女の肩にとりついたまま、顎に一層力をこめようとした。

 僕の精一杯の攻撃にも拘らず、肝心のウツボは相手の反撃に怯んでいた。どうにかしてこの場から逃れたい、その気持ちが強すぎて、女の肩に食いついていた顎の力が緩んでしまう。その機を逃さず、女は壁に思い切り背中をぶつけ、僕とウツボをつぶそうと試みる。これにはウツボが完全に参ってしまった。

 ウツボは大人しくて、本来こんな荒っぽい真似をするような猫じゃないのだ。自分の何倍もある生き物に攻撃をしかけるなんて、縄張り争いに明け暮れている、気の荒い野良の雄猫を使っても、そう簡単にはいかない。

「何これ!猫?別のが入ってきたの?」

 女は肩で息をしながら、ついに転がり落ちてしまった僕とウツボを見下ろした。そしてスリッパを脱いで手にとると、凄い勢いで投げつけてきた。

 早く女の子の後を追って、玄関から逃げなきゃ。僕はそう考えて焦っているのに、攻撃を受けてパニックに陥ったウツボは、袋小路であるキッチンへと全速力で撤退する。そして、さっきあんなに食べたがっていたハンバーグの器を蹴散らかして、奥の部屋へと突進した。

 僕は何とかしてウツボを落ち着かせようとしたけれど、恐怖に駆られた猫というのは、そう簡単に言うことを聞かない。更にまずいのは、猫のパニックに僕まで引っ張られてしまう事だ。もちろん、ここでウツボから離れるのも一つの解決法ではあるけれど、そういう真似をすると後で美蘭に何をされるか判らないから、どうにかして乗り切らなくては。

 ウツボが駆け込んだ袋小路の先、部屋の突き当たりは、壁面収納のクローゼットだった。彼女は何とかよじ登ろうとジャンプしたけれど、爪が立たずに落ちてしまう。その一方で僕は、方向転換して女の足元をすり抜け、廊下を走って玄関から逃げるよう彼女に命令していた。相反する二つの意思が衝突したせいで、ウツボの身体は固まりつつあった。そこへ、空の段ボールを捧げ持った女がじりじりと接近してくる。

「動いちゃだめ」

 肩で息をしながら、彼女は一歩また一歩と近づく。カーディガンには血が飛び散り、まとめていた髪はほどけ、汗で額に貼りついている。ウツボは尚も動く気配を見せず、全身の毛を逆立てたまま、自分を呑み込もうとする虚ろな箱を凝視していた。

 その耳に、かすかな振動が聞こえる。

「痛っ!」

 突然、女は悲鳴をあげて段ボールを放り投げた。驚いたウツボは飛び上がり、僕はその一瞬の隙をついて彼女の全身を支配する。目の前で変拍子のステップを踏んでいる女を見上げると、一匹のスズメバチが彼女の顔を狙って執拗に飛び続けていた。

「何?何なのもう!」

 怒りと恐怖に突き動かされながら、彼女は両腕で顔をかばい、ぐるぐると回転している。僕とウツボはそのまま駆けだすと、廊下を抜け、わずかに開いた玄関のドアから外に飛び出した。


 ほとんどウツボ任せで公園まで戻ってくると、僕はようやく彼女を解放した。公園に残っていた僕自身は、何がどうなったのか、座っていたはずのシーソーから落っこちて枯草の中に寝そべっていた。頭上に見えるのは、晩秋の地味な星空だ。

 自由の身になったウツボは、すぐに我が家へ向かおうとせず、律儀にも僕の様子を見にきてくれたので、僕もそれに応えようと起き上がった。背中がびっしょりと汗で濡れていて、今更のように夜風が冷たい。それはつまり、ウツボが味わった混乱と恐怖の量を意味していた。

「本当に、手際が悪いったらないわね」

 かさこそと、枯草を踏み分けて近づく黒い影。美蘭はしゃがみ込むとウツボを抱き上げ、「よく頑張ったね。いい子。偉いね」と、僕にはかけた事もない優しい声で呼びかけて頬ずりをした。その髪にはハロウィン向けのアクセサリのようにも見える、大きなスズメバチがとまっている。

「おうちに帰ってゆっくりお休み」と、美蘭が地面に下ろすと、ウツボはか細い声で鳴いてから、後も振り返らずに公園を出て行った。

「あの子、ちゃんと逃げた?」

「タクシーに乗ったところまでは見たけど。後は知らない」

 美蘭はそして立ち上がり、髪にとまっていたスズメバチを指先に移し、腕を高く天に向けた。蜂は低い羽音を立てて指先を離れると、北極星の方へと飛んでゆく。

「女の人、だったね」

「だから何よ。あんたね、たとえ道楽でも、やるならもっと手際よく、確実にやりなさい」

 冷たい声でそれだけ言うと、美蘭は足早に公園から出て行ってしまった。取り残された僕は枯草の中に座ったまま、今夜は桜丸さくらまるに泊めてもらおうかと考え始めていた。

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