第27話 僕も病気だよ
はっきりはそう言わないんだけど、でなきゃどうしてあの大食い女王が何も口に入れないのか、説明がつかないからだ。さっきもファストフードの店に寄ったのに、ストレートティーしか飲まなかったし。でも一体どうしたんだろう。
「おととい
「まあね、向こうは二人でこっちは一人だったもの。勝ちはしたけどね」
「お前の胃袋って、思ったより繊細なんだな」
「そうよ。か弱い乙女だもん」
俺の挑発にも全くのらず、美蘭は手際よく猫トイレを掃除して、食器を洗うと新しい水と餌を入れてやった。さっきから彼女の長い足にまとわりついていたサンドとウツボは、大急ぎで食事を始める。その間に彼女はフロアモップで床を掃除して、かつては自分のセーターだった猫の寝床をベランダに持ち出してはたいた。俺は別に何をしてくれと頼まれたわけでもないけど、手持無沙汰でちょっと居心地が悪い。
「いつ帰ってくるの、
「さあ、あと二、三日かな」
「だからさっさと医者に見せればよかったのに」
こないだ自転車とぶつかったという亜蘭だけれど、後から具合が悪くなったらしくて、ちょっと入院している。といっても猫は預かったままなので、こうして美蘭が世話をしに来ているわけだ。しかし不思議なのは、彼女にさほど心配している様子がないところ。最初に亜蘭の傷を見た時の落ち着きのなさに比べると、妙に平然としている。
「ねえ、悪いけどこれ、コインランドリーで乾かしてきてくれない?」
いつの間にか彼女は洗濯機から洗い上がったシーツやタオルを取り出してきたので、俺はバスケットごと受け取った。美蘭の奴、普段は何かにつけて面倒くさいなんて口走るくせに、面白いほどてきぱきと部屋を片付けてゆく。もしかして、結婚したら「素敵な奥さん」なんてものに化けるかもしれない。
俺は歩いて五分ほどのコインランドリーへ行くと、乾燥機に洗濯物を放り込み、美蘭から預かった硬貨を落とした。いったん戻ってもいいけど、却って邪魔になるかもしれないと考え直し、並べてある椅子に座る。俺の他には誰もいなくて、洗濯機と乾燥機は半分ほどが運転中。DVDの撮影もそうだったけど、美蘭といるとふだん無縁の場所に足を踏み入れる事ばかりだ。まあ、これも社会勉強って奴。
退屈しのぎにスマホを取り出してみるけど、今日は土曜で
「
奴はいつもの笑顔を浮かべて俺の隣に腰を下ろすと「亜蘭に全然連絡がつかないから、様子を見にきたんだ。バイトまで少し時間があるし。そしたらちょうど、君が座ってるのが外から見えた」と言った。
「もしかして、亜蘭が怪我したの聞いてない?いま入院してるんだけど。だから美蘭が猫の世話しに来てるの」
「入院?」
途端に桜丸の表情が険しくなったので、俺は慌てて「でもそんな重傷じゃなくて、二、三日ですむらしいよ」と付け加えた。
「何があったの?」
「自転車にぶつかったんだって。ほら、こないだ、私と
彼はほんのしばらく考えて、それから「本当に?!」と声をあげた。
「肋骨にひびが入ったらしくてさ、私は自分が原因作ったような感じで、何だか悪い気がして」
「いや、風香は何も悪くないよ。それより…」と言って、桜丸は唇をかんだ。
「ねえ、美蘭は?すごく心配してるだろ?」
「うん、口には出さないけど、手なんか震えちゃって、あんなの初めて見た」
「当然だよ。亜蘭は一度、死にそうになったことがあるんだから」
「本当?そんなの聞いたことないけど」
いや待てよ。なんか聞いたことがあるかも。でもあれは、美蘭がうちのママにでっち上げた大嘘のはずだけど。桜丸は俺が頭の中を整理するのなんか待たずに、「小学校の時の事だからね」と話を続けた。
「二人が三年生の夏休みだったかな、ちょうど家の内装工事をしていて、亜蘭は白い塗料をミルクと勘違いして飲んじゃったんだって。手術とかして、やっと助かったらしいけど、新学期が始まってもまだ入院してたよ。美蘭は学校に来てたけど、本当に元気がなくてさ、ごはんもほとんど食べないもんだから、すごく痩せちゃって、給食を全部食べるまで反省室に入れられたり、色々大変だった」
「そうなんだ」と、頷きながらも俺は、塗料をミルクと間違うなんて、やっぱり亜蘭は昔から間抜けだったんだと納得していた。
「おまけにさ、美蘭はすぐに学校や寮から脱走して、亜蘭のいる病院に行っちゃうんだ。それで夜遅くに帰ってきて叱られたりね。お腹が痛いとかって保健室で休むふりをしておいて、こっそり出て行くって手口なんだけど、僕はちょうど彼女が逃げようとしてる現場に出くわした事がある。止めても絶対に行くだろうけど、ほとんど食事してないのが心配だったから、一緒についてく事にしたよ。
美蘭って小さい頃からすごく逞しいっていうか、しっかりしてたんだよね。学校にある焼却炉の裏に隠し場所を作っていて、小さい空き缶にお金を入れてるんだ。それも小銭だけじゃなくって、札束。といっても千円札だけど。多分お年玉だろうね。出かける時は、それを何枚かポケットに入れてくんだ。
一緒に行って初めて知ったんだけど、亜蘭のいる病院はすごく遠かった。子供だから余計にそう感じたのかもしれない。まず電車に乗ったけど、けっこう混んでて座れなかったりしてさ。美蘭はただでさえ痩せちゃってるのに、大丈夫かと思うんだけど、平気そうなんだよね。僕が色々話しかけてもほとんど黙ってて、いきなり「次、乗り換え」とか言うんだ。
たしか二回乗り換えて、ようやく電車を降りたらこんどは迷路みたいな地下街だ。人がいっぱい歩いてるのに、美蘭はほとんど走るみたいにして進んでいくからこっちも必死だったよ。見失ったら自分が迷子だからね。それで、なんとか外に出たと思ったら、次はバスに乗り換え。三十分ほど乗ったような気がするけど、病院はバスを降りてすぐの場所にあったかな。
あれ一体どこだったんだろうって、今も時々不思議になるけど、けっこう大きな病院だったな。美蘭は慣れた感じで入っていって、顔見知りの看護師さんに「こんちは」って挨拶したりね。でも彼女は「桜丸は子供だから上まで来れないよ」って、僕にロビーで待ってるように言った。「美蘭も子供じゃないか」って反論したんだけど、「私は保護者だから」って、置き去りにされちゃった。
それで、どれ位待ってたのかな。病院って午後になると人もあんまりいなくて、通りがかった人に、おうちの人は?とかってきかれたりしてね。まあ、お薬もらいに行ってます、なんてごまかすんだけど、内心ドキドキしちゃって。このまま美蘭が戻らなかったらどうやって帰ろうか、なんてね。
本気で心配になってきて、小児科って書いてある五階まで上がってみようかって、立ち上がったところで、ようやく美蘭がエレベーターから降りてきたんだ。僕はこれで一安心、と思ったんだけど、彼女の顔を見てびっくりした。新学期になってから一度も見たことのない、嬉しそうな笑顔だったから。でも更に驚いたのは、彼女がまっすぐ駆けて来て、僕に抱きついたこと。「明日退院するんだって!」ってさ、全身で嬉しいって叫んでる感じだった。
僕らたしかに仲良しだったし、亜蘭とはじゃれあって遊んでたけど、美蘭とはそんなの初めてでさ、どうしていいか判んなくなった。だって…」
そこまで言って、桜丸は急に口をつぐんだ。心なしか奴の頬が赤みを帯びたように思えて、俺は、もしかして奴はそこで初めて感じちゃったのかな、なんて馬鹿なことを考えていた。話をつなごうと、「その頃は美蘭も可愛いとこあったのね」と混ぜ返すと、奴はかなり真顔で「今だって可愛いよ」と言った。俺は可笑しくなってきて「何それ、まるで本気宣言」と突っ込んでやった。
「美蘭にきいたけど、彼女できたばっかりなんでしょ?そんな事言ってたら、二股って疑われるよ」
「美蘭が?僕に彼女がいるって?」
「そう。その子のこと、本気で好きらしいよって」
さすがに、可愛げがない女ってコメントは黙っておいた。でも桜丸は急に、笑いをこらえきれないって顔つきになって、「それ、美蘭のことなんだけど」と口にするなり、「うわあ、言っちゃった!」と立ち上がって、意味もなく辺りを歩き回った。
「それ、どういう意味?あんた達、つきあってるの?」
俺にはさっぱりわけが判らない。桜丸はこちらに背をむけたまま「つきあってはないよ。でも、美蘭に僕の気持ちは伝えた。彼女が
「それで、美蘭は何て?」
「考えさせてって」
俺は「そう…」と言ったものの、後が続かなくなった。美蘭の奴、どっちにするか迷ってるのかな。普通に考えたら桜丸の方が釣り合ってるけど、やっぱ大人の魅力には勝てないんだろうか。
桜丸はすっかりテンション上がってる感じで、ようやく俺の隣に戻ってくると、「たぶん、僕も入院した方がいいほど病気だよ。寝ても起きても、何を見ても美蘭の事ばっかり考えちゃって、我ながら、頭がおかしいと思う」と自嘲気味に言った。俺もまあ、気持ちは十分に判るから「そういうの、すごく辛いよね。いっそ生きてない方が何も考えずにすむから楽かも、なんて思ったりして」と同意すると、奴は少し真顔になって「誰か好きな子、いるの?」と尋ねた。
「まあね。片想いだけど」
「言えばいいのに。向こうに彼女がいるとか?」
「そうじゃないけど、ちょっと事情があるの」
「そっか」
桜丸はさっきまでの浮かれ具合が嘘みたいに、神妙な顔つきになって頷いた。
「でもさ、やっぱり気持ちは伝えた方がいいよ。風香ならきっと大丈夫だから。何ていうか、君と話すのって気が楽なんだ。こんな言い方すると変だけど、男同士でしゃべってるみたいな感じ」
奴は笑ってたけど、俺は複雑な気分だった。うまくごまかしてるつもりなのに、結局のところ俺が男だって事はうっすらと見えてるんだ。女の身体に閉じ込められた男。自分で考えただけでも気持ち悪いのに、沙耶にばれたらどう思われるだろう。美蘭が特別に鋭いのは別にしても、桜丸なんてすごく単純そうなのに、こうして嗅ぎつけてる。
「どうかした?僕、何か嫌な事言った?」
「ううん、そんな事ない。それよりさ、病院の話。その後どうなったの?美蘭が抱きついてきて」
「ああ、そう、それで、僕がびっくりして動けずにいたら、美蘭も自分が普段と違うことに気がついたみたいで、さっと離れると、スカートの皺なんか直しながらそっけなく「じゃあ、帰るから」なんてさ。で、僕らはまたバスと電車を乗り継いで寮に帰ったんだ。
夕方の電車は通勤の人で混んでて大変だった。美蘭は慣れてるから大丈夫なんだけど、僕は駅に停まるたびに人の波に流されちゃってさ。ぐるぐる回ってようやく戻るってのを繰り返して、将来サラリーマンにだけはならないでおこうって思った。でもさ、途中でワッフルとコーヒー牛乳を買って、ホームのベンチで食べたのはおいしかったな。
ようやく寮に帰った頃にはすっかり暗くなってて、食事の時間もとっくに終わってた。僕はそれまで無断外出なんてしたことがなかったから、ひやひやしてたんだけど、美蘭はいつも通り帰ってきましたって感じなんだよね。舎監の先生も心配を通り越して「またか」って呆れ顔で、美蘭は言われなくても反省室に直行。仕方ないから僕もついて行こうとしたら、「あなたはこっち」って、別の部屋で食事させてもらって、外で何してたか色々聞かれて、美蘭は問題のある子だから、これからは絶対について行っては駄目、なんて念を押されちゃった。
その日はそれで終わったけど、罰として一週間、授業が終わってから夕食までの自由時間を反省室で過ごしたよ。偉人伝みたいなの読んで、感想文を書くんだ。美蘭は一緒じゃなくて、たしか鳥小屋の掃除か何かしてたと思うな。僕は後にも先にも、そんな大きな規則違反をしたことがなかったけど、そういうのって当然、両親にも連絡が行くんだ。でも、次の週末に家に帰ったら、お父さまは「お前のした事は間違ってないよ」って、お咎めなしだった。
それから少しして、亜蘭は学校に戻ってきたけど、半年ぐらいは何かと熱を出したりして、そのたびに美蘭は食事しなくなったり、授業を抜け出して保健室に様子を見にいったり、落ち着かないんだ。僕もちょっと大げさだと思って、もう入院してないから大丈夫だろ?って言ったことがあるけど、彼女は「だって怖い夢見るんだもの」ってふてくされちゃった。どんな夢かは黙ってたけど、何となく想像はついたし、僕はごめんねとしか言えなかったよ。
きっと美蘭は今も同じ心配をしてるし、これからもずっとそうだ。いくら亜蘭が彼女より背が高くなって、病気なんかしなくなっても変わらないと思う」
桜丸の話に一区切りついたその時、俺の使ってた乾燥機が止まった。奴は「洗濯物、僕が運ぶよ」と言ってくれたけれど、俺はそんな事させるほど野暮じゃない。
「あのさ、多分だけど、この乾燥機のドアは故障してて、業者の人を呼ばないと開かないと思うの。きっと三十分ぐらいかかるから、先に行って、美蘭にそう伝えといて」
「え?何言ってるの?」
「とにかくそういう事。今から三十分はかかるの。早く行かないとバイトの時間になるよ!」
桜丸はようやく、ちょっと肩をすくめて「わかった。ありがとう」と笑顔で言った。俺はその瞬間、何故だか突然大きな賭けをしてみようという気持ちになって、出て行こうとする彼に「あのさ、少し驚くと思うんだけど」と声をかけていた。
「本当のこと言うと、私は男なの。つまり、見た目は女だけど、心は男って事。今のところ美蘭しか知らないけど、何かその、ええと、桜丸にも黙っていたくなくて」
思い切ったはずなのに、俺の言葉は後になるほど勢いを失っていった。少し冷静になったのもあるけど、何より、桜丸が真顔になってしまった事で、奴の受けた半端ない衝撃にようやく気がついたのだ。間違いなくドン引き。やっぱり、言うんじゃなかった。
「そう、なんだ。じゃあ、風香が好きな相手って、もしかして、美蘭なの?」
「まさか!美蘭はただの友達。絶対違うから。ああいう身長も態度もデカい女はタイプじゃないし」
俺が全力で否定すると、桜丸は「それ、ちょっとひどくない?」と苦笑した。
「でもとにかく安心した。もしライバルだったら勝ち目ないかもって、ひやっとしたよ。君たち本当に仲がいいから。じゃあ、三十分、もらうね」
奴はそれだけ言って、軽く手を振ってから外に出ると、まるで翼があるみたいに一瞬で駆けて行ってしまった。
俺は一人になってようやく、全身が震えてることに気づいた。額には汗がにじんで、心臓はバクバクいってる。桜丸の奴、俺の話を本当に理解してくれたんだろうか。でもまあ、とにかく、言えた。言えたことに変わりはない。
まだ震えている手で乾燥機からシーツやタオルを引っ張り出し、テーブルでたたみながら、美蘭がどんな顔をして突然現れた桜丸を迎えるのかと想像してみる。せっかくだから、彼女は意外と強引なのに弱いって教えてやればよかった。でもまあ、余計なお世話かもしれない。そういうのって、自分で発見するのが嬉しかったりするから。
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