第17話 本当にヤワだねえ
「五分遅刻」
僕は言い訳せずにテーブルの傍に立つ。美蘭の向かいにはスーツにひっつめ髪の女の人が座ってる。年は三十代だろうか。そして美蘭の隣にいるのは
「こちらが、弟さん?」と女の人は僕に向かって会釈した。僕はとりあえず「遅れてすみません」と謝り、彼女が「大丈夫です、おかけになって」と笑顔で答えるのを待ってその隣に腰を下ろした。
全く、いきなり一時間後にホテルのカフェテラスに集合とか言われたって、こっちにも都合がある。といっても、授業聞かずに寝てたんだけど。おかげで僕は制服のままで、朝からサボってた美蘭は白いニットにモスグリーンのフレアスカートという、作為ありありの慎ましい格好だ。僕はメールで送られてきた、このミーティングについての詳細を頭の中に呼び出してみる。
スーツ姿の女の人は
美蘭が木原さんに話した「設定」では、「猫舌」はさる高貴な一族の子女で、妹のあまりの愛らしさに、出来心で動画をアップしてしまったが、下々の者と直接やりとりできるような立場ではない。しかし木原さんからの誠意あふれるアプローチに心を動かされ、ご学友である
ご学友の美蘭さんと同席するのは、彼女の叔父にあたる
まあ要するに宗市さんは「大人要員」で、まだ学生の美蘭の代わりに事務仕事を引き受けているわけだ。彼の所属する芸能事務所なんてのは、
「うちとしましては、各三十分、三巻ぐらいのシリーズにして、それぞれに付録もつけることを考えています。独自に調査したところでは、ニャーニャちゃんの動画は一般の猫好きの方以外では、特に低学年の女子からの人気が高いので、この年齢層向けの文具雑貨、ステッカーやなんかですが、これを候補にしています。ただ、少し申し上げにくいんですが、一緒に遊んでいる猫ちゃんがですね、サビ猫ちゃんの方なんですが、絵的に、何と言いますか」
はじめは勢いよかった木原さんだけど、サビ猫ウツボの話になった途端にトーンダウンしてしまう。美蘭が営業スマイルで「それは私も思っていました。あの子は少し、地味すぎますよね」と後を続けると、彼女は困ったように言い訳をした。
「いえ、うちの読者の方はもちろん、サビ猫ちゃんの良さは十分にご存知なんですよ。私も一匹飼ってますけど、本当に頭がよくて気立てのいい子です。ただ、やはり子供向けにアピールする商品となりますと、もう少しはっきりした毛色の、できれば血統書のある品種の子が望ましいんです。それで、メールでお願いしたような事が可能かどうか」
僕は運ばれてきたハムとアボカドのサンドイッチを食べながら、木原さんの話を聞いていた。僕以外の三人はコーヒーしか飲んでなくて、美蘭が明らかに「空気読め」という目つきで睨んでるんだけど、昼を食べてないんだから仕方ない。でももしかして、と思った僕は美蘭に「ひと切れ食べる?」と聞いてみたけれど、あからさまに無視されたので、読むべき空気はそっちじゃなかったみたいだ。
「そこは問題ありません。うちの弟はご覧の通り社会性の欠片もありませんが、猫の調教については天才ですから」
「そうなんですか」と、ほっとしたような笑顔を浮かべて、木原さんはこっちを見ている。
「ただ、猫ちゃんによって憶えの早い遅いがありますので、お伝えしたように、何匹かの候補から選ばせていただきたいんです」
「それなんですが、うちのカレンダーのモデルになってくれた子がいいんじゃないかと思いまして。こちらなんですけど」と言いながら、木原さんはテーブルに置いていたファイルから週刊誌ほどの大きさのカレンダーを取り出した。
「うちの雑誌、ねこたいむの新年号に付録として毎年つくんですけど、これは来年分のサンプルです。一月から三月、六月と九月、これだけの猫ちゃんが同じ飼い主さんのところにいるんですけど、話をしてみましたら、是非にという事で。よろしければ今から、ご自宅の方へご一緒していただけないでしょうか」
美蘭はテーブルに広げられたカレンダーを覗き込みながら、「ええ、もちろんそうさせていただきます。どの子もすごく可愛いですね」と盛り上がっている。本当はここですぐに出発なんだろうけど、僕はまだサンドイッチを食べ終わっていなかった。一瞬、美蘭の冷たい視線が僕を刺し、木原さんは「ゆっくり召し上がってね」とフォローしてくれた。
木原さんが僕らを連れて訪れたのは、東京湾に面した高層マンションの一室だった。間取りは多分3LDKで、だだっ広いリビングにキャットタワーがオブジェみたいな感じに設置され、猫たちが思い思いにくつろいでいる。その片隅にラグを敷いてクッションを置いたコーナーがあり、そこが人間の居場所らしかった。
この部屋の主はナツメさんという。「ナツメ」が名前なのか名字なのかよく判らないし、若いのかそれなりの年なのかもよく判らない、痩せて小柄な女の人だ。背中まである髪を無造作に束ね、化粧っ気のない顔に太い眉が印象的。カットソーのワンピース姿できびきびと歩き回って、ラグの上に身を寄せ合っている僕らのために紅茶を淹れ、焼き菓子と一緒にトレーに載せて運んできてくれた。
「猫と暮らしてると、余分なものは全部しまっちゃう生活になるわね」
彼女は少しハスキーな声でそう言うと、ポットから紅茶をカップに注いでゆく。美蘭は「遊牧民みたいでいいですね」と言い、彼女を手伝ってカップを移動させた。僕もこういう暮らしは嫌いじゃないなと思いながら、抱えた膝の上に顎をのせていると、早くも丸顔のアメリカンショートヘアが挨拶に来た。
「その子はロビンちゃん。カレンダーの六月に写ってる子です」と木原さんが説明する。僕はとりあえずその猫を抱き上げてみる。まだ若い雄で、好奇心旺盛だし、まあ有力候補。それから紅茶を飲んで、ナツメさんの出してくれたマドレーヌでも食べようかと手を伸ばしたところで、美蘭が「さっさと済ませな」と囁いた。
僕はしぶしぶ立ち上がると、キャットタワーに近づく。猫たちは来客には慣れているらしくて、僕のことなんかどこ吹く風といった感じで寛いでいる。ペルシャやスコティッシュフォールドといった外来種ばかり十匹近くいるけれど、かなり年とってるのと、明らかに体重オーバーなのを除くと、候補は四匹。まず一番近くで尻尾をぱたぱたさせているラグドール。僕は正直あんまり長毛種と相性がよくなくて、まあこれは国民性みたいなものではないかと思う。背中を撫でてみたけれど、こいつはのんびりした性格で、あまり動き回るのが好きじゃない。
「これはジュリアちゃん。女の子です」
気がつくと、木原さんがすぐ傍まで来ている。僕は一応笑顔らしきものを浮かべてうなずくと、次に頭上でこちらを見下ろしているアビシニアンに手を伸ばした。ちょっと臆病だけど、遊び好きで活発な雄。ここにいる猫の中ではいちばん小柄で、身軽そうだ。
「ロブ君は、うちの子と兄弟なんです。パパがコンテストで入賞しているから、まあ折り紙つきのハンサム猫さんね」
どうやら木原さんのイチ押しはこの猫らしい。確かに悪くないな、と思いながら、僕はもう一度頭を撫で、足元にすり寄ってきたロシアンブルーの方に屈み込んだ。
「これはソフィアちゃん。この子のママは漫画家の夜空燐さんちの猫なんですよ」
「そうなんですか」と言ってみたけど、僕はその漫画家を知らなかった。猫は名前の通り雌で、ちょっと控えめな性格。でも他の猫に比べて明らかに頭がいい。猫の頭の良し悪しなんて取り沙汰する意味があるかどうか知らないけど、それはもう歴然としていて、風通しのいい部屋と、閉め切った地下室ぐらいの違いがある。
結論から言えば、アビシニアンがベストだけれど、ロシアンブルーも捨てがたくて、僕はこの二匹を候補にした。ナツメさんは「あら、もう決まったの?」と半信半疑だったけれど、「ソフィアを選んだなら間違いないわね」と結果には満足そうで、僕のために紅茶を淹れ直してくれた。
「それで、この子たちの訓練にはどれくらい時間がかかるのかしら。その間お預けすることになるの?」
「ご心配なく。撮影の前日にお預かりすれば、それで大丈夫ですから」
美蘭が自信満々で断言すると、ナツメさんと木原さんは顔を見合わせた。
「でも、そんな事ってありえないわ。猫ちゃんが芸をするだけでもすごいのに」
「だからうちの弟は天才なんです。ただし、猫ちゃんたちは撮影が終わった後にはもう芸の事は憶えていませんから、その点はご了承ください。あと、気が散るといけないので、飼い主さんは撮影にはご一緒いただけません」
「それって、催眠術みたいなものなのかしら?大丈夫なの?その、性格が変わっちゃったりとか」
「大丈夫です。猫ちゃんにとって芸を憶えるというのは、やっぱり少し負担になる事ですから、わざと忘れさせているんです」
美蘭はさくさくと話をまとめてしまうと、「じゃあ私たち、門限がありますので、今日はこれで失礼します」と、僕がマドレーヌを食べる隙を与えずに立ち上がった。
事務所に戻るという木原さんと別れて、僕ら三人はタクシーを拾った。僕は助手席で美蘭は後ろ、宗市さんの隣でふんぞり返っている。
「あのナツメさんて人さあ、なんか見たことあるよね。テレビかな」
「女優さんだよ。
「へーえ、そんなに売れてたの?」
「そうだね。クールな個性派女優って感じで、海外の映画祭で主演女優賞とったこともあるんだよ」
「なんで木原さん、教えてくれなかったのかな。そのネタで盛り上げたのに。宗市さんも気がついたなら言ってよ」
「まあ、引き際が微妙だったからね。プロデューサーと不倫騒動起こして、相手が自殺しちゃったんだよ。不倫相手の奥さんは梨園の令嬢で、元宝塚の娘役。悲劇のヒロインと性悪女って構図になって、週刊誌で思い切り叩かれた」
「玄蘭さんの好きそうなネタだ。で、引退して静かに猫と暮らしてるわけ?」
「さあ、オリンピックぐらいの間隔で、小さく話題になってるかな。ロッククライミングの国際大会で入賞したり、青年実業家と結婚してすぐに別れたり、毛皮扱ってる業者のビルにペンキぶちまけて、警察のお世話になったり。自由人なんだろうね。あからさまに言えば、世渡りは上手じゃない。」
「社会性のない人と猫は相性がいい、ってとこか」
美蘭は軽く笑い、宗市さんは「不倫ってのは、時としてひどく高くつく」と言った。
「それは格言?」
「率直な感想。リスクを回避したいなら、通らない方がいい道だね。美蘭は賢いから、そんな割に合わない事しないと思うけど」
宗市さんは時折こんな風に、不意打ちで釘を刺してくる。美蘭は「意味わかんない」と受け流し、「お腹空いてない?」と尋ねた。僕が「空いてる」と答えると、即座に「あんたに聞いてない」と返される。
「自分だけ呑気にサンドイッチ食べといて、意地汚いんだよ」
「でもさっき、マドレーヌ食べ損なったし」
「あれは絶対ダミーだ。干からびてて、すごく変な味がしたもの。半年ぐらい前から、客が来るたびに出してはひっこめてた奴に違いないよ。食べて損した。まあ、あんたにはぴったりだけど」
そんな事言っても、美蘭は食あたりなんか絶対にしない。たまった雨水を飲んでも平気な、野良猫並みの胃腸なのだ。
「ナツメさんて、金持ってるのか貧乏なのかわかんないわね。ただのケチかな。玄蘭さんみたいな」
「玄蘭さんはそんなにケチじゃないよ」
「宗市さんにはね。そのスーツ、新しく作ってもらったでしょ?いい生地使ってるんだ。イタリアの?いくらかかった?靴も買ってもらった?」
言いながら、美蘭はぺたぺたと宗市さんを触りまくってじゃれついている。それを見て僕は、やっぱりこの前の、
「それに、玄蘭さんは君たちに対してもケチじゃない。ちゃんと大学だって行かせてくれるだろ?」
「けっ、そんなの当たり前じゃない」
美蘭は宗市さんのネクタイを手首に絡めたまま、忌々しげな口調で唸ったけれど、僕にはそれは初耳だった。
「大学、行くんだ」
「何か文句でも?」
「いや、でも聞いてないな、と思って」
「別にあんたに進路相談する必要ないじゃん」と、美蘭は後ろからシートごしに蹴りを入れてきた。運転手がちらりと心配そうな視線を向ける。とんだ客を乗せてしまったと、後悔してるみたいに。
「ねえ、亜蘭も大学に行く?」
宗市さんはネクタイを直しながら、まるでカラオケに誘うみたいな感じできいてくる。
「実を言えばその件と、あと他にも話があるらしくて、君たちを帰りに連れてくるよう、玄蘭さんに言われてるんだ」
「え?それこそ聞いてないし。運転手さん、私ここで降ります」と美蘭はシートの間から身を乗り出してくるけど、タクシーは高速を走ってる。僕は観念して、少しだけでも寝ようと目を閉じた。
「全く、これじゃ拉致されたようなもんだし」
美蘭は文句たらたらでいつもの椅子に勢いよく腰を下ろした。玄蘭さんはリモコンでDVDのスイッチを切ると、例によって不機嫌そうに「ご挨拶だね」と言い返してこちらに向き直った。僕は大人しく指定席に座り、この不愉快な時間がさっさと終わるように祈る。
「この紗月もりかって子さあ、進学するから引退なんて話、みんな信じてるのかね」
美蘭はテーブルに転がってるDVDのケースを手に取った。「黒苺遊撃隊 紗月もりか卒業ライブスペシャル」と書いてある。
「本当は親が色々と口出してきて、事務所と衝突しちゃったんでしょ?」
「綺麗ごとで飾ってないものを、アイドルとは呼ばない。どっちにしろ、黒苺のセンターは雪乃宮ちぇろだ。ややこしい子はどんどん卒業させて、また新人を育てればいいのさ」
玄蘭さんは男のアイドルには目もくれない。とにかく女の子のグループしか興味がなくて、美蘭に言わせると、来世で生まれ変わったらアイドルになりたいと思ってるらしい。
「あれさ、どっぷり見てる最中は自分がなりきってんだよ」なんて言ってるけど、頭の中を想像するのも恐ろしい。
「さてと、面倒な話はさっさと片付けようじゃないか。こっちはまだ半分も見終わってないんだから」と言いながら、玄蘭さんは煙草に火をつけた。
「まず亜蘭、あんた大学行くのか行かないのか、どっちなんだい」
いきなりそんな事言われても困るんだけど、僕だって考えてないわけじゃない。例えばもし女の子がいるとして、大学生である僕と無職の僕、どちらを選ぶかという状況になったら…
「こいつ、どっちが女にもてるか考えてるよ。本当に馬鹿」
美蘭はうんざりした様子で僕の方を見る。玄蘭さんは「あんたの弟なんだから所詮その程度だよ。似た者同士さ」と、煙を吐いた。
「まあ、百歩譲って、真面目にお勉強する算段をしていたとして、だ。こっちも使える駒は多い方がいいんだから、先生と呼ばれる資格をとっていただければ申し分ない。といっても教員免許みたいな、しみったれたもんじゃ駄目だよ。弁護士税理士会計士あたりだね。もちろん医者になっていただいても結構。学費の方はご心配なく」
「それはちょっと、無理かな」
「謙遜しなくてもいいんだよ」と、玄蘭さんは勿体つけた動作で煙草の灰を落とす。こういう厭味ったらしいやり方を美蘭が踏襲して、いけすかない女になってきたわけだ。
「とはいえ、夜久野の連中は馬鹿でもぐうたらでも、恥じ入る必要はない。そこがアイデンティティって奴なんだからね。あんたも好きにすればいいさ。名ばかりの学生さんになって、ちゃらちゃら遊んで暮らしても構わないよ。そっちの費用は私に代わって、あんたの姉さんがせっせと稼いでくれるから」
「でも、別に、無職がイマイチなだけで、学生でなくてもいいんだけど」と、僕は妥協案を考えてみた。
「はあ?あんた何を名乗りたいんだい」
「ええと、会社役員とか」
いきなり、美蘭が派手に失笑した。玄蘭さんは忌々しげに煙草をもみ消すと、「たしかに会社は山ほど作ってるけどね、形だけでも役員名乗ろうなんざ十年、いや、二十年早いんだよ」と唸る。
「もういい、質問したこっちが馬鹿だった。スカスカの脳味噌であれこれ考えなくていい。とりあえず学生になっときな。女目当てならそれで十分だ。学校はどこにする?」
本当にどこでもいけるんだったら、東京大学とでも答えてやろうかと思ったけれど、また何を言われるか判らないのでやめておく。しかし候補になる学校の名前が浮かばず、面倒くさいのでつい「美蘭と同じとこでいい」と言ってしまった。
「はあ?」
案の定、彼女は凄んでる猫みたいな顔でこっちを向くと「ふざけんな」と脅した。玄蘭さんは新しい煙草を取り出し、「相も変わらず、美蘭と同じとこがいいってか」と言って火を点ける。
「違うよ。同じとこでいいって言ったんだ」
「馬鹿、よそ行け。ツンドラ大学とか行って、そのまま永住しろ」
美蘭が本気で蹴りを入れてきたので、僕は椅子ごと少し移動する。玄蘭さんは「ここで暴れるなって、一千回言われても判らないのかい、あんたは」と、美蘭に煙を吹きかけた。
「まあ同じ学校なら授業料の振込手数料も一回分で済むし、手間が省けて結構。書類は宗市が揃えるから、学部とか適当に考えときな」
「ちょっと、玄蘭さん本気?私の意見は完璧スルー?」
「やかましいね。もうこの話は終わりだ。どうせ遊びで行く学校の事を長々とやりあっても意味がない。さて次のお題に移らせてもらうけれど、美蘭、あんたいつまで無駄金使ってホテルに住むつもりだ」
「ちゃんと自腹切ってるから、文句言われる筋合いないけど」
「生意気言うんじゃないよ。あんたらは事故物件に住むのがお役目だ。勝手に好きなとこに住んでいいわけないんだよ」
玄蘭さんは煙草を指に挟んだまま、空いた手でテーブルに置かれていたフォルダを繰ると、紙切れを一枚引っ張り出して美蘭の鼻先に突き付けた。
「駅近1DK、六階建てマンション五階、西向き」
「普通じゃん」と言いながら、美蘭はその間取り図を手に取って眺めた。
「何?薬やった勢いで飛び降りちゃった、的な物件?」
「シングルマザーが、ガキ二人閉じ込めたままで男と沖縄旅行。電気も水道も止められて、もちろん食べ物なんか置かずにボンボヤージュ。帰ってみたらガキは極楽に旅立ってたって具合」
玄蘭さんは深く煙草を吸い込むと、長々と煙を吐き出した。美蘭は無言で間取り図を見るふりをしていたけれど、しばらくして「東向きの部屋がいいんだけど」と言った。玄蘭さんはそれ見たことか、という感じに鼻で嗤うと、「本当にヤワだねえ」と口角を上げる。
「別に誰がどうお陀仏になろうと構わないけど、東向きがいいのよ」と、美蘭は間取り図を放り出して椅子に深くもたれた。
「まあ、ワイドショーにも散々映ったし、近所の暇人がエントランスに地蔵なんか置いちまったりしたから、ごまかしもきかないんだけど」と、玄蘭さんは煙草を咥えたままで次の物件をあさる。美蘭は「だったら最初から言うなっての。ふざけやがって」と苛立ちを抑えきれない様子で足を組んだ。
「うるさいね全く。そういや亜蘭、あんた部屋を出る準備はできたのかい。来週から工事だ。若奥様はヴァイオリンをお弾きになるから、一部屋を防音に改装なさるんだよ」
「ええと、次どこに住むの?」
「親父が愛人に頭割られて死んだワンルームだってこないだ言っただろ。もう忘れたのかい」
「でも今、東向きの部屋がいいって」
「だから美蘭と住めなんて、一言も言ってない。あんたの犬小屋は、ええと、これだ」と、玄蘭さんはよれよれの紙を一枚、投げてよこした。何度もコピーを繰り返したような、すすけた間取り図だけど、ワンルームだから見るまでもない。
「どうせ一人じゃ荷物もまとめられないろくでなしだ。引っ越し業者を行かせるから、邪魔にならないようにするんだね」
「預かってる猫はどうしよう」
「知ったことかい。私の言う事もきかずに動画だDVDだ、やりたい放題のくせに。猫なんか勝手に逃げたってことにして、どこかに捨てておいで。そいつを見つけてやったら、また小銭が稼げるんだから」
玄蘭さんは自分のアイデアにご満悦という感じにほくそえんで、煙草を深々と吸った。
「そういや美蘭、猫娘のギャラ、もう少しふっかけないかい。動画は見たけど、あの子はなかなか上物だ」
「
「そこを逆手にとって、自分の小遣い程度って感覚で大金ふっかけるんだよ」
「まあ、宗市さんが言えば大丈夫だと思うよ。出版社の木原さん、宗市さんのこと狙ってるから」
「それはよござんした」と、玄蘭さんはあっさり受け流す。そして僕も美蘭も、何がどう間違っても宗市さんは玄蘭さんから心変わりしないことを判っている。世の中には変な人っているのだ。とてもいい人なんだけど。
「じゃ、そういう事で」
美蘭はちらりとスマホを見て、いきなりそう宣言すると立ち上がった。そして僕に向かって「撮影に遅刻したら、部屋に野良猫二十匹ぶちこむからな」と言い残して出て行った。玄蘭さんは舌打ちして「本当に小憎らしい。とっておきの物件に住ませてやる」と呟き、蕁麻疹でも出てるような顔つきで煙草を吸い込んだ。僕は僕で、撮影には絶対に遅れるなと自分に言い聞かせる。野良猫二十匹、本気でやるに違いないから。
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