第30話 新しい名札
雨が止んだみたいだ。
僕はベッドから出ると、窓辺に行った。微妙にひずんだガラス越しに眺める庭は、何だか現実味が薄い。低い雲の隙間から少しだけ陽がさしてるけど、その光は夕暮れがあまり遠くないことを知らせるように、金色を帯びている。
そして僕はまたベッドに腰をおろし、ここはどこかと考えてみる。新しい場所に移ってすぐの時は、よくこんな事が起きる。朝はそうでもないんだけど、今みたいに昼寝をしてると、目が覚めた瞬間、自分がどこにいるのか判らなくなってしまうのだ。
十日ほど前、
僕らが訪ねたのは三重の山奥に住む、金目銀目の黒猫専門のブリーダー。
車を降りた奈々は緊張した様子で美蘭にくっついていたけれど、家に入るなり真っ黒な猫がうじゃうじゃと寄ってきたので、少し安心したみたいだった。そして彼女は榊さん夫婦と一緒に家の中や周囲を見て回ったり、子供の足だと半時間ちかくかかる小学校まで行ってみたりと、新しい生活の輪郭を手探りし始めた。でも運転手として来ただけの僕は、本当に何もする事がなかった。
スマホのゲームを除けば、縁側で黒猫たちを構うぐらいしか暇つぶしがない。とはいえ、猫なんて別に面白くもない生き物だからすぐに飽きてくる。仕方ないから横になってうとうとしていると、「ぐうたら昼寝三昧で、本当にいいご身分だね」という、嫌味ったらしい声がした。
薄目を開けると、庭の柿の木に鴉がとまってこちらを見ている。相手をするのが面倒なのでまた目を閉じると、鴉は「聞こえてるのかい」と、いきなり飛びかかってきた。僕は慌てて跳ね起き、傍にいた黒猫達も散り散りに逃げる。鴉は勢い余って座敷に飛び込んでから、畳の上を歩いて僕のいる縁側へと戻ってきた。
しょうがないので「何か用?」と尋ねると、「用もないのにお前さんの顔なんぞ拝みたくないね」と吐き捨てるように言う。
「アパートに借り手がついた。家具、家電つきって条件にしたら即決だ」
「でも、あの冷蔵庫とか、
「宗市がそんなムダ金を遣うわけないだろう。とにかく、戻ったらすぐに荷物をまとめて出ること」
「わかったけど、次はどこ行けばいいの?」
「うるさいね、これから言おうとしてるのに、余計な口をはさむんじゃないよ」
鴉は苛立った様子で嘴を突き出し、羽ばたいて庭先の物干に移動した。多分だけど、僕に見下ろされてるのが嫌なんだろう。
「今度は立派なお屋敷だよ。彫刻家の
「じゃあ、ほぼ新築」
僕がそう言うと、鴉はのけぞって笑った。
「これだから教養のない人間は嫌だねえ。醒ヶ井守は明治の生まれ、日本の彫刻界の草分けだよ。こっちの震災は関東大震災だ。木造の日本家屋は頼りないってんで、洋館をお建てになったのさ」
「ふーん」
僕は極力さりげなく、鴉のレクチャーを聞き流す。本当に、人を馬鹿にする時は心底嬉しそうなので鬱陶しい。
「お屋敷には醒ヶ井の末娘の
「だったら事故物件でもないし、僕が住む必要ないじゃん」
「話は最後までお聞き!」
鴉が羽根を逆立てたので、僕は口をつぐむ。
「相続人は全員海外で、管理もできないから屋敷を売りたがってる。ところが遺言状のせいでそうもいかない。絹子は猫を一匹飼ってたんだけど、その猫が手厚く世話をうけて天寿を全うするまで、屋敷の売却は罷りならんと書いてあるのさ。
猫に毒でも盛ってやりたいとこだけど、弁護士が獣医とも契約してるんで、下手な事ができない。まあ、二十年は生きてるらしいから、じきお迎えが来るだろう。お前はこれまで散々猫の世話になってきたんだから、恩返しのつもりでお仕えするんだね」
「猫の世話になんかなってないし、飼いたくもない」
こないだようやくサンドとウツボを返したところなのに、また猫の餌やりに明け暮れるなんて、冗談じゃない。でも鴉は僕の言葉を遮るように「うるさいね。お前の値打ちなんざ、その猫以下だってのが判らないのかい」と喚いた。
「用はそれだけだ。お屋敷の住所はアパートのポストに入ってる」
鴉が翼を広げて飛び立とうとした時、後ろから「それはアナログ過ぎ。せめてメールにしてくんない?」という声がした。美蘭だ。
彼女は座敷の奥から縁側に姿を現すと「素敵なおうちみたいじゃない。その話、私がいただくわ。猫の世話はごめんだけど」と言った。鴉は「立ち聞きとは、行儀の悪い小娘だ」と不愉快そうだけど、美蘭は「なんせ育ちが悪いからね」と開き直っている。
「猫の事は心配しなくてもいいわよ。世話係としてこいつを雇うから」
美蘭は腕を組んだまま、爪先で僕の背中を小突いた。捕まえてひっくり返してやろうと手を伸ばすと、瞬時に間合いをとられてしまう。鴉はそんな僕らをうんざりしたように一瞥すると、「猫の面倒さえみるなら、誰が住もうと知った事じゃない」と言い捨てて飛び立ってしまった。
そんなわけで僕はこの屋敷に移り住んだ。大きく見えても半分ほどはアトリエで、実際に住める場所はそう広くない。元の住人の荷物は処分済みだけど、家具やなんかはそのまま残してあって、館の主である三毛猫の
げんに今も僕の部屋の猫ドアをくぐり、彼女が入ってきた。かなりの年だけど、いいものばっかり食べてきたのかすごく元気で、毛並みもいい。だみ声で「ビャア」と鳴き、ベッドに上がると丸くなった。餌の時間でもないのに僕のところに来るのは、他の部屋の居心地がよくないからだ。
耳を澄ますと、一階の居間から甲高い笑い声が聞こえてきて、これが原因だと判る。美蘭の奴、
ここに越してからというもの、美蘭は僕の雇い主だと主張して、一層態度が大きくなって傲慢さも倍増だ。
とにかく、美蘭とお客が盛り上がってる限り、小梅も僕もここからは動けない。僕はもう一度ベッドに横になると目を閉じた。小梅がお腹に乗ってくるけど、それには構わず、意識をずっと遠くまで飛ばしてみる。三重の山奥、古い家で飼われてる、金目銀目の黒い猫が僕の行き着く先。
あっちじゃ天気は快晴で、この黒猫は庭先にある柿の木の根元で日光浴の最中。ヒヨドリが鋭い声で仲間を誘い、鶏小屋からは雌鶏の声が低く聞こえてくる。乾いた空気には焚火の匂いが混じっていて、その中にほんのりと焼き芋の甘い香りが漂う。
僕と黒猫は地面からかすかに足音を感じたので、身体を起こして耳を立てた。その足音はどんどん近づいてきて、やがて庭先にランドセルを背負った女の子が駆け込んできた。胸につけた真新しい名札には「夜久野奈々」と書かれている。
「ただいま、ええと、モミジ」
彼女は何匹もいる黒猫を、まだちゃんと見分けることができないらしくて、首輪の色で確かめてる。僕とモミジが頭を摺り寄せて挨拶すると、彼女は慌ただしく背中を何度か撫で、「また後で遊ぼうね」と言ってから、「おばさん、ただいま」と声を上げ、家の裏手にある畑の方へと駆けていった。
それを見送って、僕とモミジはまた横になり、日光浴を続ける。目を閉じてはいるけれど、耳はずっと奈々の声を捉えている。そして待っているのだ、彼女が新しい家族と戻ってくるのを。別に心配してるとか、そういうわけじゃない。ただちょっと、気になるだけ。
猫少女縁起 双峰祥子 @nyanpokorin
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
未確認飛行物体/双峰祥子
★0 エッセイ・ノンフィクション 完結済 1話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます