第7話 なんでここにいるの
僕は教室の窓にもたれたまま、スマホをポケットに入れた。グランドではサッカー部の連中がストレッチしてるし、音楽室では吹奏楽部が賑やかに練習中だけど、毎日学校に来る上に、よくもこんな面倒な事ができるものだと呆れてしまう。
「飛び降り自殺なら手伝おうか?」
いきなり誰かが背中を思い切り押してきて、僕は我に返った。
「ま、二階じゃ即死は無理さ。自分の体重でこの高さだと加速度何Gか判ってる?頭使えよ」
気が利いた冗談を言ってるつもりらしくて、
「美蘭、また
「気が合うんじゃない?」
「それ以上だよ絶対。俺、見たんだけどさ、風香の奴、美蘭をこんな感じで」と、秀矢は僕の首に腕を回して顔を寄せてきた。彼、そろそろ髭は剃った方がいいんじゃないかなと思いながら、僕は「じゃれてただけだろ」と言って身体を引く。
「違うよ、あいつらきっとレズだ」
「だったら面白いね」
「お前、双子なのに気がつかないわけ?」
「こんど会ったらきいとく」
僕はそれだけ言って教室を出た。たしかに美蘭は他の女子よりも風香とよくつるんでるけど、単につき合いやすいんだと思う。遠回しな言い方とかしないタイプだから。まあその分、風香が僕の事をうざったいと思ってるのは率直に伝わる。でもそれは彼女に限った事じゃないので、別に構わない。
僕は生まれついてのいじめられっ子だ。なのに大してひどい目に遭わなかったのは、美蘭が「亜蘭をいじめる特権があるのは私だけ」と、宣言していたからに過ぎない。さすがに今は小さかった頃よりましだけど、彼女に虐待されてる事に変わりはない。とはいえ、僕だってやられっぱなしというわけじゃない。
「美蘭は今どこ?学校にいる?」
さっきそう電話してきたのは、
「残念。帰ったところ」
「一人?だったら誘拐しようかな。この前、食事の約束してたのに、ドタキャンされたからね」
「食事の約束?いつの話?」
「月曜の夜。急に都合悪くなったとかって」
「ふーん、でもまた残念。彼女は今、友達と一緒だ」
「どこ行ったの?」
ここで僕は、いい事を思いついた。
「青龍軒ってラーメン屋。そこでバイトしてる奴がタイプだから、最近行きまくってる」
「それは初耳。だから僕のこと見限ったのかな」
「放っといたら、そうなるかも」
「君はどっちに勝ち目があると思う?ラーメン屋の奴と、僕と」
「もちろん江藤さんだよ」
くすっと笑うような響きがあって、「君はなかなかの策士だね。行ってみるよ、ありがとう」と通話は切れた。僕は頭が切れるわけじゃないけど、この案は悪くない。もし江藤さんが首尾よく現れたら、
それにしても美蘭、江藤さんのことどう思ってるんだろう。初対面であんな風に猫を咥えちゃったのは、彼女的にはかなり動揺した証拠ではある。あれ以来、僕をだしにしてけっこう会いもしてたけど、月曜に二人きりで食事の約束してたなんて、全然知らなかった。
「あ」
僕は思わず声を出していた。月曜って、迷子猫のサンドを探しにいって、あの女の子に出くわした日だ。という事は、僕がドタキャンの原因?そんなはずはない。あれはもう不可抗力だ。まあ、美蘭が一方的に僕を逆恨みしている可能性はあるけれど。
ともあれ、そういう事なら、今日の美蘭は泣いて僕に感謝するかもしれない。思いがけず江藤さんが会いに来てくれたんだから。ちょっとした優越感に浸って校門を出ると、誰かがブレザーの裾を引っ張った。また秀矢か。でも「何?」と振り向いた先には誰もいなくて、気のせいかと歩きだすとまた引っ張る。「だから何だよ」と、もう一度振り向くと、そこには女の子が立っていた。
リム、と名前を呼びそうになって、僕は慌てて口をつぐんだ。あの、僕とサビ猫ウツボが逃がした女の子だ。もちろん水着なんか着てなくて、ピンクのパーカーと水色のショートパンツに、星柄のスパッツとスニーカーという、その辺の小学生と変わらない格好をしている。
「なんでここにいるの?」
ついつい後ずさりしながら、僕は彼女に質問していた。面倒な事に巻き込まれるのは御免だし、彼女が一体どうやってこの学校を探し当てたのか判らない。
「あのお姉さんに、お洋服を返したいの」
彼女はそう言って、腕にかけていた紙バッグを持ち上げた。中身はどうやら、美蘭のブラウスらしい。これでまた妙な事に関わる羽目になったら、美蘭は激怒するに決まってる。
「そんなの捨てちゃっていいよ。どうせあげたんだし」
僕はそれだけ言うと、彼女に背を向けて歩き出そうとした、なのに「ちゃんとお洗濯して、アイロンもあてたから綺麗だもん」なんて言われると困ってしまうのだ。更にタイミングの悪いことに、女子が何人か通りがかって「やーだ、
「ねえねえ、こんなヘンタイの相手しちゃ駄目だよ。早く帰らないと暗くなるし」
見た目は女子高生だけど、中味はおばさんと変わりない彼女たちに声をかけられて、女の子は「でも、お兄さんに聞きたいことがあるの」とはっきり言った。
「ちょっと亜蘭、用があるんだからちゃんと話を聞いてあげなさいよ」
「時間も時間だし、お家まで送ってあげるべきね」
口々に正義感溢れる言葉を投げつけられて、僕は彼女を連れ、すぐ近くのコーヒーショップに緊急避難するしかなかった。
氷抜きのりんごジュースというのが女の子の注文で、僕はアイスコーヒー。店の明かりの下で向き合う彼女は、この前よりも顔色が良いように見えた。僕はあらためて、「名前、何だっけ」と聞いてみる。
「あんざいりむ」と答えながら、彼女は背負っていたリュックのフラップをめくって、「安西莉夢」という名札を見せてくれた。
「お兄さんは?」
「え?ああ、
言ってしまってから、鈴木田吾作とかの偽名にしておけばよかった、と後悔する。この子には美蘭の脅し、効いてないんだろうか。
「あのさ、こないだ僕と会った後で、猫が助けに来ただろ?」
「うん」
「その事、誰にも言っちゃ駄目って、約束したよね」
「うん。誰にも言ってない」
「じゃあどうやって、僕らがここの学校の生徒だって判ったの?」
「かっちゃんが調べてくれた」
「かっちゃん、て誰?」
「パパのお姉さん。ばあちゃんと住んるけど、足が痛いからずっとお家にいる。でも、ネットで調べて色んなことを知ってるの。このお洋服の襟にある刺繍は、有鄰館って学校のマークなんだって」
僕は思わず自分のシャツの襟を引っ張り出していた。確かに、白地に白で目立たなくはあるんだけど、校章が刺繍されていて、お金持ち学校だと無駄に主張している。
「中学校は刺繍の場所が胸のポケットで、襟にあるのは高校。でも、かっちゃんには猫の事やお姉さんの事とか、絶対に言ってない」
今まで大して気にもしてなかったけど、学校の制服ってのはけっこう世間の注目を集めているらしい。いっそ、その方面の店で売ってくれたらよかったのに。
「だからさ、あげた物だし、捨てちゃっていいよ」
僕は面倒くさくなってそう繰り返したけれど、莉夢は「捨てないもん。お姉さんに返して、ありがとうって言う。今日会えなくても、明日から毎日、学校終わるの待ってる」と食い下がった。
「でも、君も学校あるだろ?また変な人につかまったら大変だし、パパとママも心配するよ」
「学校はずっとお休みしてる。それに、変な人が来ても、きっとお姉さんが助けてくれる」
「あのさ、彼女は君が思ってるような優しい人じゃないから。何があっても、もう二度と助けたりしてくれないよ。それどころか、うわ面倒くさっ!マジでウザい!って、怒るだけだから」
僕の演技がことのほか真に迫っていたのか、莉夢は一瞬きょとんとして、それからじわっと目に涙を浮かべた。
「パパもママも莉夢のことは心配してない。ばあちゃんとかっちゃんはお金がないから、莉夢はまたルネさんちに行かなきゃならないかもしれない。そうしたら、またお外に出れなくなる」
「ルネさん?」僕はその名前を思い出そうとしてみる。サビ猫ウツボと一緒に忍び込んだあの家にいた女の人、確かルネさんって呼ばれてなかったっけ。
「ルネさんはママのお友達。ママはトシアキさんと住むけど、莉夢はお部屋がないから、ルネさんちに行ったの。でも、あそこはもう嫌。絶対行きたくない」
僕はあの家で見た、床に並べられた食事とビデオカメラを思い出していた。
「それで、君は今、おばあちゃんの家にいるの?」
「うん。でもお金がないから、長くは預かれないって」
「パパは?」
「お仕事で遠くにいる」
「そっか」と言いながら、僕は頭の中のあれこれを並べ直してみた。どうやら彼女は誘拐監禁されたわけじゃなくて、母親の同意があって「ルネさん」という女に預けられ、あんな風に扱われていたのだ。要するに彼女は、身内にとってはお荷物で、ルネさんには小遣い稼ぎの道具というわけ。でも、だからって僕に何ができるわけでもないし、そんな義務もない。
「まあ、話は判ったからさ、もう暗くなるし、そのブラウスは僕が預かって彼女に返しとくよ」
そう言って手を伸ばしても、彼女は紙バッグを渡そうとしなかった。
「お姉さんに会って、直接返すの。あと、猫ちゃんたちにこれ食べさせてあげる」
莉夢はリュックサックの中をかき回すと、パックに入った「猫おやつ」シリーズのささみジャーキーを取り出した。ご丁寧にきらびやかなシールやリボンで飾り立ててある。いや別にウツボやサンドの事なんかどうでもいいし、と思いながらも、僕はそれが言えなかった。代わりに何故だか「とにかく、もう学校まで来ちゃ駄目だよ。明日の夜、ここに電話してみて」と、湿ったコースターの裏に電話番号を書いていた。
家に帰っても何だか気持ちは落ち着かなくて、僕は途中で買ったローストビーフサンドとニース風サラダを、炭酸水で流し込むようにして食べた。それから何をする気にもなれないので、シャワーを浴びてベッドに入ることにした。自慢じゃないけど、僕は寝ようと思えばいくらでも眠れるのだ。
でも本当の事を言えば、、毛布に潜り込んでもまだ眠ってるわけではなくて、僕は意識の端っこをずっとずっと遠くへ伸ばしていって、小さな街の旅館で飼われている黒猫を捕まえたりしてみる。
出入り自由の気ままな生活を満喫している黒猫は、夜の住宅街を飛ぶように駆けて、とある一軒家の塀をよじ登って屋根に乗り、二階の窓ガラスを叩いたりする。それに応えて窓を開けるのは中学生の女の子で、「来てくれたの?」と微笑む。
黒猫は彼女の邪魔をしないように、窓際のスタンドの脇で脚を揃え、尻尾を身体に巻きつけて座っておく。彼女もそれ以上僕らのことを構わずに、問題集を解いたりしているけれど、時々「これどっちだと思う?」なんて質問してくる。そして少し疲れると、思い切り伸びをして、黒猫をゆっくりと何度か撫でる。
そんな事をしてるうちに、僕は段々と自分がどこで何をしてるのか判らなくなってきて、いつの間にか眠ってしまっていたりするのだ。
ふいに、何かがベッドに飛び込んできて、僕は慌てて目を開いた。
「美蘭?」
何がどうなったのか判らないけど、僕と背中を合わせるようにして毛布の下にいるのは美蘭に違いなかった。
「ここ、僕のベッドなんだけど」と言っても返事がない。
ふだん寝る時と同じように、Tシャツと短パンって格好だから、飲んだくれて帰ってきたわけでもなさそうだ。でもずっと外にいたのか、身体がひどく冷たくて、僕はそのせいですっかり目が覚めてしまった。
枕元の時計を見ると、もう日付が変わりそうな時間。江藤さんと会ってたみたいだけど、どうしてこんな真似するんだろう。あれこれ考えていると、美蘭はいきなり身体の向きを変えた。僕の肩に柔らかな息がかかって、頬が背中に押し当てられるのを感じる。そして彼女は氷のように冷たい指先を僕の指に絡めた。
「猫のところに行こう」
なんだ、そういう事か。
僕は、美蘭と指を絡めたまま、空いた方の手で毛布を肩まで引き上げた。そして、どこか近くに母猫と眠る子猫がいないかと捜し始める。最初は小さく、それから徐々に円を広げてゆくと、このマンションの六階にキジトラの母猫がいるのを感じた。横になっている彼女の懐には、生まれて一月ほどの子猫が四匹いて、僕はその中の一匹に波長を合わせてみる。
穏やかで何も恐れるもののない、暖かな感覚が僕を包み込み、それは僕を通じて美蘭にも伝わっているはずだった。さっきまで感じていた彼女の身体の冷たさは遠ざかり、やがて抗えないほどの眠気が押し寄せてくる。僕はそれに呑み込まれながら、ふと莉夢の事を想った。今、あの子はどうしているだろう。こんな風に安心して、眠っているんだろうか。
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