第6話 背中をくわえて仁王立ち
男は
うちのパパより若い感じ、ということは三十代だろうか。中年太りとは無縁のすらっとした体型で、スーツ姿だけど、ちょっと長めの髪は銀行員とか公務員じゃなさそうで、しいて言えば、カーディーラーをしているスミレのお父さんに雰囲気が近い。どこか調子よさそうな、皮肉っぽいような笑顔を浮かべて「亜蘭は関係ないよ。僕は自分の勘で君の居場所を突き止めたんだ」なんて言っている。
美蘭は「あっそ」とだけ答え、席を立ってトイレに雲隠れしてしまった。大人相手にこんなデカい態度とっていいのかと、こっちがハラハラするけど、男は別に気にする様子もなく、今度は俺に話しかけてきた。
「邪魔してごめんね。自己紹介が遅れたけど、
いきなり名刺なんか差し出してきて、俺は「どうも」とか言いながらそれを受け取った。
「え?じゃあ、美蘭をスカウトした人?」
つい、そう尋ねたら、奴は一気にテンション上げて「そう!目利きだと思わない?」なんて、打ち解けようとしてくる。俺は何だか鬱陶しくなって、「だけど彼女、断ったんでしょ?」と突っ込んだ。奴はしれっとした顔で、「まあね。でもいいんだ、今は彼女とつきあってるから」と言ってのけた。
悔しいことに、俺はそこでうろたえて「本当?」と言ってしまった。美蘭ならこれぐらい年の離れた男が相手でもありうると思ったのだ。でも、奴の指に光ってる結婚指輪が目に入ったので、うまい具合にからかわれたと気づく。
何か言い返してやりたかったけど、その前に美蘭が戻ってきた。相変わらず江藤さんの事なんてどうでもいいって態度だったけど、よく見るとリップグロスを塗り直してたりして、微妙な感じ。おまけに「ねえ、せめて僕が食べ終わるまで一緒にいてよ。車だし、送るから」なんて言われて、「好きにすれば」と、そのまま居座ったんだから。
ちょうどいいタイミングで、奴の青龍スペシャル黒胡麻担担麺が出てきたので、俺はこっそり「帰らないの?」と美蘭に尋ねた。
「まあいいじゃん、タクシー代浮くから」
彼女はどこか上の空って感じでそう答えると、「ちょっと失礼」とか言ってまたタブレットを取り出す。じゃあ俺は一体どうすりゃいいのかと、泳いでしまった視線の先に
「ねえ君、亜蘭が猫探偵だって知ってる?」
江藤さんは美蘭に無視されてるのなんか全く平気な様子で、ラーメンを食べながら俺に話しかけてきた。
「は?猫、たん、てい?」
「そう。迷子の猫を探す天才。彼がうちの家出しちゃった飼い猫を見つけてくれたのが、僕と美蘭の知り合ったきっかけなんだ」
「そうなんですか」
あの間抜けな亜蘭に、そんな特技があったなんて初耳だ。
「あれ、一種の超能力だよね。猫が寝てるクッションとか、触っただけで探し出せるんだから。残念ながら僕は現場に居合わせたわけじゃなくて、出張から帰ったら、ちょうど猫が戻ったとこで、そこに亜蘭たちもいたんだけど」
「つまり、亜蘭が猫を連れ戻したんですか?」
「そう。でも僕は正直なところ、猫が戻ったことより、そこにいた美蘭に驚いた。ちょうどその時探してたモデルのイメージにぴったりだったんだ。誤解を受けないように言っておくとね、モデルってのは顔立ちが綺麗とか可愛いとか、そういう事じゃないんだ。だって女の子ってのはみんな綺麗で可愛いからね。もちろん君もそう。だけど、モデルというのは存在感が命なんだ」
「でも、亜蘭って存在感ないけど」
江藤さんがあまりにも調子よく話しかけてくるので、俺はつい本音を漏らしてしまった。奴はにやっと笑うと、「学校じゃそうなの?」と質問で返してくる。
「まあ、無口だし、とにかく気配消してる感じです」
「そうだね。でも、彼はそうやって自分を隠してるんだよ。その煙幕みたいなものの向こうに、本当の亜蘭がいる。まあ、僕もまだ、ちゃんとお目にかかったことはないけど」
「へえ、そうなんだ」と、俺は素直に感心してしまった。今まで亜蘭について、そんな事を言う奴なんかいなかったからだ。
「でもね、だからといって美蘭が自分自身を表に出してるかというと、そうでもない。僕は彼女のこと、実はすごく内気でシャイじゃないかと思ってる」
当たってる、と言いそうになって、俺はそれをごまかすためにグラスの水を飲んだ。こいつはたんに軽くて調子がいいだけの男じゃなさそうだ。でも、そこで美蘭が「もう!うるさいよあんたたち!」と吠えた。
「ね?こういうところ」と、江藤さんは悪びれる様子もない。
「だからうるさいっての!」
美蘭は手にしたタブレットで奴を殴りそうな勢いだけど、その間に挟まれてる俺はどうすればいいんだか。
「初めて会った時、美蘭は不思議な事を教えてくれた。猫が家出するのは、何かを知らせようとしてるの、って。それで僕は、はっと閃いて、じゃあ、うちの猫が家出したのは、君をここに連れてくるためだったんだね、って言ったんだ。そしたら彼女、そこにいたうちの猫をひっつかんで、背中をくわえてぶら下げちゃった。それで仁王立ち」
「猫を?くわえた?」
「そうだよ。親猫が子猫を口にくわえて移動させるだろ、あんな感じ」
「うそ、美蘭マジでやった?」
俺の問いかけに、美蘭は憮然として「するわけないじゃん」と言うんだけど、江藤さんの訳知り顔を見てると、やったような感じがする。
「うちの奥さんはそれを見て、卒倒しそうになっちゃってさ。猫はあんがい平気そうだったけどね。そしたら亜蘭が冷静に、美蘭、そういう事しちゃ駄目だよって、猫を救出してくれた」
そこまで聞いて、俺はつい爆笑してしまった。いつも偉そうにしている美蘭が、弟に諭されるってのはなかなか面白い。気がつくと厨房の桜丸も笑っていた。江藤さんは俺たちがうけたのに満足したらしいけど、最後に「でもさ、僕はそこで彼女のことを本気で好きになったわけ。人を好きになるのに、結婚してるかどうかって関係ないんだよ」と付け加えた。そして呆気にとられている俺を後目にラーメンを平らげ、「待たせたね。ごちそうさま。じゃあ、行こうか」と立ち上がった。
「門限七時なら、まだお茶飲むぐらいの時間はあるよ」
バックミラーごしに江藤さんは誘いかけてくるけれど、俺は「昨日もちょっと遅くなったから」と断った。だいたい門限じたい、早く帰りたいが故の出まかせなのだ。家まで送ってもらえるのはありがたいけど、美蘭はこの後どうするつもりなんだろう。
助手席に座るのを渋った彼女は、俺の隣で何も言わずシートに身体を沈めている。タブレットも出さず、窓の外に視線を向けたままで、その艶やかな髪の上を暮れてゆく街の明かりがせわしなく通り過ぎる。さっきタクシーに乗った時の寛いだ感じとは逆に、内側から張りつめているような気配。
この車、パパが春先に新車に乗り換えた時、最後まで買うかどうか迷ってた奴だ。予算オーバーで、泣く泣くあきらめてたっけ。さすがそれだけの事はあって、乗り心地がいいし、広々してる。江藤さんってけっこう稼いでるんだな。
「明日の数学、自習かもしんないよ。浅田先生、町内会のドブ掃除でぎっくり腰になって動けないんだって」
わざわざ関係ない事を言いながら、俺は江藤さんに気づかれないように右手を伸ばし、美蘭の膝にのせた。ちょっとした対抗意識というか、俺の方が先だって事を彼女に思い出させたくなったのだ。掌に彼女の温もりを感じた途端、もう少しいいかなという気がして、俺はスカートの下にそろそろと指を移動させる。美蘭はまるで気づかない顔で窓の外を見てるけど、俺には彼女がほんの一瞬だけ反応したのが判った。
「ぎっくり腰か。君たちみたいに若い子には、あれがどんなに恐ろしいか、絶対にわからないだろうな」
ゆっくりとハンドルを切りながら、江藤さんは俺たちの会話に遠慮なく入ってくる。仕方ないから「江藤さんは、なったことあるんですか?」と聞いてやった。
「幸い、まだないね。でも半年ほど前にうちの社長が、デスクから立ち上がろうとした瞬間にやらかしちゃって。そのままの姿勢で固まって、動けないんだよ、本当に」
「なんかすごく、大変そう」
口ではそんな事言ってみるけど、知らないおっさんのぎっくり腰なんかどうでもいい。俺は全神経を右手に集中して、美蘭の滑らかな肌の上をゆっくりと移動していた。掌がいいか、指先なのか。指先だったらどの指がいいのか。彼女の示すどんな小さな反応でも、感じ取れるように。
「それで、これは大変だって、彫刻みたいに固まった社長を、みんなで担いでタクシーに乗せて病院に行ったんだ。その夜にすごく大事な商談が控えてたから、なんとか歩けるようにしてくれって頼んだら、痛み止めの注射をしましょうって事になった。腰椎に直接打つんだよ。神経をブロックするんだ」
「わあ、痛そう!」なんて騒ぎながら、俺は指先にほんの少し力を加える。美蘭の肌は明かりを灯したように、ほんのりと温度を上げ、やがてその熱は他の場所へと波紋のように広がってゆく。
「注射針も太くて、見てるこっちの方が恐ろしかったけど、劇的に効いたよ。しばらく休憩したら、歩いて帰れたものね。ゆっくりだったけどさ」
「じゃあ先生も、注射打って出てくるかな」なんて、俺が江藤さんの相手を続けてると、とつぜん美蘭が俺の手に触れた。払いのけられるのかと一瞬身構えたけど、彼女はそのまま掌を重ねてきた。横顔は無表情に外を眺めたままだけど、神経を尖らせてるのが指先から伝わってくる。
「よっぽどの事がないかぎり、注射なんて必要ないよ。あれは何日か安静にしてればおさまるんだ。人が病気になるのは、それが治るまでの間は休む必要があるというサインだからね」
江藤さんは相変わらずしゃべってたけど、俺は返事するのも忘れ果て、美蘭の指に捕らわれたまま息をひそめ続けた。
知らない人の車で家まで送ってもらうとママが騒ぎそうだから、俺は近くのドラッグストアの前で降ろしてもらった。江藤さんは「またね。気が向いたら電話して」なんて最後まで調子よかったけど、美蘭はほとんど無言。もしかして江藤さんにさよならしたいのかと思って、「ちょっと寄ってかない?ママすごく喜ぶよ」と助け舟を出してみたけど、「また今度ね」という返事があっただけ。そして俺がドアを閉めようとすると、江藤さんは振り向いて「前に来なよ」と美蘭を誘った。彼女は素直に車を降り、俺に「お母さまによろしくね」とだけ告げて助手席に移り、そのまま夜の向こうに消えてしまった。
家のドアを開けると、何故だか晩ごはんを作ってる気配がない。これはもしや、と思ってダイニングをのぞくと、ママが草加せんべいを齧りながらテレビを見ていた。
「あら
いいかしら?って、要するに手抜き宣言なんだけど、俺も別に異存はない。特に今日みたいに寄り道してきた日は。
「ママ、お友達の生け花の展覧会に行っててね、帰りにみんなでお茶飲んだりしたから、なんかお腹すいてないのよ。ちょうど近くにお寿司屋さんがあったから、太巻きとか買ったんだけど。お味噌汁、インスタントでいい?物足りなかったら、カニ玉でもつくろうか?」
「お寿司だけでいいよ。パパ、出張ってどこ行ったの?」
「さあ、チンタオって言ってたけど、どこの国かな。パリとかニューヨークとか、 判りやすいところに行ってくれるといいのに。もうお土産に外国の変なお菓子買ってこないでって言ったの、ちゃんと憶えてるかしら」
ママは基本的にパパの仕事には興味がない。なんか機械作ってる会社、って言ってるけど、本当は自動車部品のメーカーらしい。ママにとって気になるのは、パパの仕事内容より毎日の帰宅時間と出張の予定ってとこか。それ次第で我が家の夕食は随分変わるのだ。
「パパ、出張はいいんだけどさ、土曜に郡山の法事があるの、ママ一人で行かなきゃなんないのよ。風香も一緒に来ない?みんな喜ぶよ」
「受験生だからパス!」
ママの「もう!」という溜息を聞き流して、俺は階段を上がった。郡山、というのはパパの実家がある場所で、じいちゃんばあちゃんを始め、親戚が大勢住んでる。という事はママにとって完全アウェーだから、何とかして俺を巻き込もうとしてるわけ。でも俺は親戚関係を極力避けたい。風香ちゃん、もう彼氏できたの?なんて下らない事をあれこれ言われたくないのだ。
俺の親戚は別にひどい人間の集まりではない。でも、悪気のない社交辞令ほど俺をげんなりさせるものもないし、今のうちにフェードアウトしといた方が、将来本当の俺、つまり男に戻った時のショックが小さくてすむんじゃないかとも思う。パパとママには悪いけど、俺なりに考えた結果なのだ。
俺は少しどんよりした気分になって、自分の部屋に戻った。真っ先に制服を脱いでジャージに着替え、それからベッドに腰をおろしてスマホを見る。
もうどのくらい顔見てないだろう。俺は沙耶の顔だとか声だとか、絶対に忘れないけど、彼女は俺のこと、少しずつ忘れてるかもしれない。大勢いる女友達の中の一人で、同じ学校でもなく、気が向いたらラインするだけの相手。一番大事な受験に比べたら、取るに足らない存在。
俺に親しくしてくれるのだって、彼女的にはそれが普通って事にすぎなくて、もしかしたら俺は知り合いレベルの評価かもしれない。沙耶が明るくて活発な女の子だって事そのものが、俺の気持ちを暗くする。
沙耶にとって、特別な誰かじゃない。
ちょっとでも油断すると、この考えが雨雲みたいに頭の中に広がり始める。俺はさっき打ったばかりの「土曜とか、会えない?」を削除すると、ベッドに寝転がった。こんなつまらない事で沙耶の邪魔するわけにいかない。俺はそんな面倒な男じゃない。でもこの雨雲を払ってほしくて、さっき別れたばかりの美蘭に会いたくなる。
「だからさ、あんた十分にいい男だって」
嘘でもいいから、美蘭のこんな言葉を聞いて、本当にそう思ってんのかよ、なんて言いながら彼女を腕に抱きたい。美蘭、今頃何してるんだろう。江藤さんは美蘭をどうする気なんだろう。
そんな事を考えると、俺はますます自分一人だけ世界から置き去りにされたような気持ちになる。そしてママの「風香、ごはん食べよう!」という能天気な呼び声が、結局のところ俺が何者であるかを教えてくれるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます