ヒメミコ伝 太古の神

神村律子

プロローグ 辰野神教

 竜神剣志郎は憂鬱だった。


 彼は吉野山で起こった小野家同士、そして姫巫女流古神道と黄泉路古神道との戦いに間接的にではあるが巻き込まれた。

 そして職場である杉野森学園高等部の同僚小野藍が、自分には全く恋愛感情を抱いていないと思い込んだ。まさしく思い込みである。彼は只の一度も藍に直接確認はしていない。

( 九州の病院に入院した時のあの一瞬の出来事は、もう遠い過去の話なんだ……)


 剣志郎はその後同じ同僚である武光麻弥から告白され、彼女と交際する事に決めた。


 何日かが過ぎた。


 彼にとってその一日一日は、非常に重苦しい日々であった。


 小野藍は職場で顔を合わせると、挨拶はするが、それ以外は決して話しかける事はない。もちろんこちらが用があって声をかけると、それに対してはきちんと応対してくれるが、個人的な話には一切耳を貸してくれないし、彼女の携帯に電話をしても出てもくれない。

( 藍は武光先生と俺が付き合っている事を知っているのだろうか? )

 彼女が嫉妬して口を利いてくれないのか、それはわからない。確かめようもない。そんな事を訊いても、答えてくれないどころか、相手にもしてくれないだろう。

( 武光先生が藍に何か言ったのだろうか? )

 それも確認していない。いや、できない。それでは、

「私は小野先生の事が気になるんです」

と麻弥に言ってしまうのと同じ事だ。それはそれで麻弥には残酷な仕打ちになる。

「どうしたらいいんだ……」

「悩み事かね?」

 剣志郎のしょぼくれた背中を見かねて、声をかけた人物がいた。

「事務長……」

 剣志郎は振り向いてそう呟いた。事務長。杉野森学園高等部の事務方のトップである原田裕二は、眼鏡を斜めにかけ、ワイシャツにグレーのベストがトレードマークの、ロマンスグレーの男性である。

「何だ、色恋か?」

「えっ?」

 いきなり核心を突かれ、剣志郎はギョッとした。原田事務長は呆れ顔で、

「まるで顔に書いてあるようにわかりやすいな、竜神先生は。武光先生とうまくいっていないのか?」

「えっ?」

 剣志郎はギョッとした。麻弥との事は学園には話していない。理事長には伝えたいと麻弥は主張したのだが、学園の理事長である安本浩一は、藍の祖父仁斎と旧友で、理事長に話すという事は、藍に話すのと同じだからだ。麻弥は、

「どうして理事長に言ってはいけないんですか?」

 剣志郎を問い詰めた。しかしまさか、

「藍に知られたくないんです」

とも言えず、

「もう少し待ってからにしましょう」

 理由にならないような事を言って無理矢理麻弥を説得した。麻弥は不承不承頷いた。

「な、何の事ですか?」

 剣志郎はそれでも恍ける事にした。もしかすると、事務長が「カマ」を掛けている可能性も考えられるからだ。

「恍けんでもいいよ。武光先生と付き合っているんだろう?」

「はァ?」

 原田事務長の確信に満ちた物言いは、剣志郎の度肝を抜いた。

「もしかして、内緒のつもりだったのかね?」

 事務長は逆に驚いた顔で言った。剣志郎は苦笑いをして、

「いえ、あの、その……」

「腐れ縁の小野先生には話して、私達には話さないのが人として正しい事とは思えないけどねえ」

「えっ、えっ、えーっ?」

 剣志郎は仰天した。発信源は藍だと言うのか? 彼は頭がクラクラした。

「お、小野先生が何か言ったんですか?」

「いや、何も言っていないよ」

「あっ!」

 剣志郎は結局「古狸」の異名を保つ事務長にもてあそばばれてしまったのだ。自白したも同然だった。

「やはりそうか。ま、小野先生は何も言ってないが、ここ何日か、妙に機嫌が悪いのでね。多分そんなところじゃないかと思っていたよ」

 事務長の言葉通りなら、丸分かりだったのは自分だけではなく、藍もそうだという事らしい。つまり、いろいろと考えて策を練っていた事が、全て徒労に終わっていたのである。

( この人、俺達の高校時代も知っているんだっけ……。やりにくいなァ……)


 その藍はすでに所用のため帰宅していた。祖父である仁斎の古い友人である遠野泉進(とおのせんしん)が来る事になっているのだ。

 泉進は修験道の行者で、「現代の役小角えんのおづぬ」と言われている程の実力の持ち主である。

「全然記憶にないわ。私が三歳くらいだったんでしょ?」

 藍はバイクのヘルメットを脇に抱えながら、社務所の前に立っている仁斎に言った。

「確かにな。泉進とは久しく会っていない。年賀状と暑中見舞いくらいしか連絡がなかった男が、わざわざ出羽の山奥から東京まで来ると言うのだから、余程の要件なのだろう」

 仁斎は腕組みをしたままで答えた。藍は社務所の戸を開いて、

「また何か起こるって事?」

「多分な」

 仁斎は先に立って社務所に入り、椅子に腰を下ろした。そして後ろ手に戸を閉める藍を見上げて、

「建内宿禰との戦い、そして舞との戦いで、日本中の気が乱れてしまった。その影響は計り知れない。雅もその事を感じて日本各地を回っていたようだしな」

 「雅」という名に藍はピクンとした。昔許婚だった男だ。様々な障害や誤解があって、今はその関係は消滅してしまっているが、小野一門が決めた事だろうと、自分の意志は反映されていない事だろうと関係なかった。藍は確かに雅を愛していた。幼い恋だったと言われてしまうかも知れないが、彼女が生まれて初めて好きになった男なのは紛れもない事実である。

「雅の話はしないで。私……」

「わかったよ」

 仁斎は苦笑いをした。

( いつまでも引き摺っていては埒が開かんぞ、藍。しかしそれは自分で気づかねばならん事。儂がどうこう言うべき問題ではないからな )


 剣志郎は帰り支度をすませて車へと歩いていた。先日の事件で壊れたウィンドーの修理も終わり、あちこちにできていたへこみや傷も補修が完了した。

「竜神先生」

 後ろで声がした。麻弥の声だ。剣志郎は何か約束してたっけ、と思いながら振り返った。

「はい」

「ごめんなさい、私が言い出したのに、『竜神先生』って呼んじゃいました」

 麻弥はバツが悪そうに言った。確かに麻弥は綺麗だし、他の男性教師にも人気がある。しかし、剣志郎には彼女の魅力が伝わらない。麻弥はそれを感じていたので、余計に剣志郎に対しては「女」を強調するようにしていた。

「いえ、それは別にかまいませんよ。自分だってそうですから」

「ほら、また敬語。私は年下なんですから、そんな話し方しないでって言いましたよね?」

 麻弥は周囲に誰もいない事を知ると、剣志郎の左腕に自分の右腕を巻きつかせるように寄り添った。剣志郎はギクッとしたが、付き合っている者同士なら自然な事だと自分に言い聞かせ、そのままにした。

「わかった。気をつけるよ」

 剣志郎はまるでセリフを棒読みするような調子で言葉を選んで話した。麻弥はクスッと笑い、

「無理しないでね、剣志郎さん」

「あ、ああ」

「剣志郎さん」なんて誰にも言われた事がないな、と剣志郎は改めて思った。

「あの二人って、ホントに付き合ってるのかな?」

 渡り廊下から二人の後ろ姿を見ていた仲良し三人組の一人、水野祐子が言った。ちょっと横に大きい彼女は、脚の太さが気になるのか、スカート丈が他の二人に比べて長めだ。

「付き合ってるんでしょ、多分」

 素っ気ない返しをしたのは、古田由加。クラス一の美少女だと思っているちょっぴり自惚うぬぼれの強い子だ。

「あら、由加は竜神先生が好きなんじゃなかったの?」

 丸眼鏡をクイッと上げながら突っ込みを入れたのは、事実上のクラス一の人気者、江上波子である。由加はキッとして、

「どこをどう押すとそんな言葉が出て来るのよ! あんな剣道バカ、好きじゃないわよ」

「冗談よ」

 波子は陽気に言った。祐子はケラケラ笑って、

「剣道バカは可哀想よ。せめて小野先生バカにしてあげないと」

 由加もその言葉に思わず吹き出し、

「武光先生の方が可哀想よね。竜神先生ったら、ホントは好きでもないのに付き合ったりして」

「かもね」

「そうね」

 祐子と波子は同意した。


 遠野泉進という人物は、まさしく藍の想像した通りの男だった。誰が見ても「年老いた山伏」という出立ち。そして眼光鋭く、口はへの字に結ばれたまま。だからと言って威圧的ではなく、慈愛に満ちた「オーラ」が出ている。とにかく、不思議な雰囲気の人物である。

「大きくなったな、藍ちゃん。以前会った時は、まだオムツが取れていなかった頃で……」

「はァ」

 玄関で出迎えると、開口一番そんな事を言われてしまったので、藍は苦笑いをした。仁斎は笑って、

「まだ似たようなものだ。未だに独り立ちしていないからな」

「何だ、まだ結婚していないのか。こんな別嬪べっぴんさんなのに」

 泉進はその風貌とは大きく違って、只のセクハラ親父に思える程、言う事に品がなかった。

「ホホホ」

 藍は一度もした事がないような愛想笑いをして応じた。

「お前がわざわざ出羽から出て来たという事は、相当な理由があるのだろうな」

 居間で仁斎が腰を下ろしながら切り出した。泉進は藍に出された座布団に座りながら、

「ああ。建内宿禰なんぞ可愛いと思えるくらいの途方もないモノが動き出したようなのだ」

「えっ?」

 藍は自分が憧れていた京都小野家の椿が命がけで戦った程の強敵だった建内宿禰が可愛いと思える、という言い方が引っかかったが、泉進は巫山戯ふざけている様子もないので、何が起こっているのかとドキドキした。泉進は仁斎を見て、

「北海道から東北にかけて、数多くの縄文遺跡があるのは知っているな」

「ああ。それぞれ相当の力を秘めた、所謂いわゆるパワースポットとなっているな」

 仁斎も真顔で応じた。泉進は藍からお茶を受け取り、

「その遺跡から、栓を引き抜かれたかのように、神気が消失しているのだ」

「神気が消失?」

 仁斎と藍は異口同音に言った。泉進は頷いて、

「遺跡自体は荒らされた様子はない。普通の人間が見ても、何も変わっていないように見える。しかし、明らかに力がなくなっているのだ。何者かが盗んだと思われる」

「そんな事が出来る人間がいるのですか?」

 仁斎の横に正座して、藍は思わずそう尋ねてしまった。泉進は藍を見て、

「いる。東北地方に本拠を持つ古神道系の神社がある。そこの親玉なら、やりかねんな」

「古神道系の神社? 初耳だな。何という神社だ?」

 仁斎が眉をひそめて言った。泉進はニヤリとして、

「何だ、お前、知らんのか?」

「知らん。悪いか?」

 仁斎は泉進のバカにしたような顔が癪に障ったらしく、ムスッとした。泉進はお茶を一口だけすすり、

「辰野神社という神社だ。そこの系図によれば、発祥は一万年前」

「一万年前? それは随分と大風呂敷だな」

 仁斎は呆れ顔で言った。泉進は真顔になり、

「つまり、縄文の昔から続いているという事だ」

「!」

 仁斎と藍は思わず身を乗り出した。泉進は二人の顔を見比べて、

「その神社の宮司は、縄文時代から封じられている神気を集めていると思われる。何をするつもりなのかはわからんがな」

「しかし、日本の神気は先日の建内宿禰の計略で、そのほとんどが吉野に集められたはず。それほどの力が残っているとは思えんぞ」

 仁斎が反論した。すると泉進は、

「いや。あの時集められたのは、関東と中部と近畿以西の神気のみ。北海道と東北は手つかずなのだ。豊国一神教、すなわちお前の妹の小山舞が仕出かした騒動の時も、北海道と東北の神気は使われてはいない」

「そうなのか? だとすると、話は違って来るな」

 藍はギクッとして泉進を見た。泉進は、

「辰野神社は東北各県に各一社ずつある程度の規模の小さい神社だが、悪い事に東京本部が千代田区のビル街にあるのだ。そこが本当の本拠地らしい」

「東京に? しかし何も感じんな。それほどの連中なのか?」

 仁斎は尚も訝しそうに言った。泉進は再び仁斎を見て、

「東京の本部には、力のある者はいない。単なる受け皿だ。しかし、千代田区にあるというのがまずい。あそこは吉野とは違った意味で神気の集まる場所。連中が東京に本部を置いたのはちょうど建内宿禰が根の堅州国に封じられた直後なのだ」

「待っていたという事か?」

「恐らくな」

 藍は泉進の言葉に身震いした。

( 建内宿禰が封じられるのを待っていた意味はわからないけど、何か嫌な予感がする……)

「その宮司の名前は?」

 仁斎が尋ねた。泉進は仁斎を見て、

辰野真人たつのまひと。見かけは温厚そのものの爺さんだが、神官とは思えん程の金銭欲の強い男だ」

「なるほど。なかなか与し難い人間らしいな」

 仁斎は腕組みをして呟いた。泉進はさらに、

「真人は頭脳担当で、息子の実人みひとが体力担当だ。自分の意に沿わない連中を神罰と称して鉄拳制裁している」

「ほォ。何とも形容し難い親子だな」

 仁斎が言うと泉進はニヤリとして、

「鉄拳制裁はどこかの誰かさんも昔得意だったと聞いたぞ」

「な、何の事だ?」

 その話には藍も思わず吹き出したが、仁斎に睨まれて慌てて顔を背けた。藍は女の子だったから殴られた事はないが、小学生の時よく同級生の男子が仁斎に頭をコツンと叩かれていたのは知っている。

「別の誰かさんは男共五人を相手に大立ち回りしたとも聞いている」

 泉進のその言葉に今度は藍が仁斎を睨んだ。仁斎はスッと顔を横に向けてトボケた。藍が中学生の時、同級生の女子が男子に虐められているのを助けた時の事を仁斎が大袈裟に電話で泉進に話していたのを思い出したのだ。

「話が大分脱線してしまったようだな」

 泉進は真顔に戻った。

「奴らの狙いは恐らく太古の神気。それを求めて縄文の神気を盗んでいるのだと思う」

「えっ?」

 藍はギョッとした。何故か泉進は藍を見ていたからだ。仁斎が、

「藍と何か関わりがあるのか?」

「大ありだ。奴が目をつけたのは杉野森学園だからだ」

 藍は仁斎と顔を見合わせた。

「どうしてそんな事が分かったのだ?」

 仁斎が尋ねた。泉進は仁斎に目を向けて、

「辰野親子がある暴力団と接触しているのだ。その暴力団を飼っていると言われているのが超大物政治家の工藤くどう清蔵せいぞう

「……」

 政治の話には疎い仁斎は藍を見た。藍は、

「聞いた事があります。影の首相とも呼ばれている、与党の大長老ですよね? その人が何か?」

「まだ正確にはわかっておらんのだが、工藤が杉野森学園の土地を欲しがっているらしいのだ」

「杉野森学園の土地を? あそこを手に入れてどうしようっていうんですか?」

 藍には工藤代議士の意図が読めない。泉進は、

「そこまではわからん。安本さんから何か聞いていないのか?」

「安本からは何も聞いていない。あいつ、自分で何とかしようとしているのか……」

 仁斎は腕組みをして呟いた。藍が心配顔で、

「理事長、お身体の具合が良くないのよ。そんな事が本当に起ころうとしているのなら、力になってあげないと、お祖父ちゃん」

「そうだな。明日にでも会いに行くか」

「私も明日聞いてみる」

 藍がそう言うと、泉進が、

「いや、儂が明日会いに行く。二人は動かんでくれ」

「どういう事だ?」

 仁斎は泉進を睨んだ。泉進は仁斎を見て、

「辰野神教の祭神は竜。いくら姫巫女流でも太刀打ち出来ん。儂が調べてみるから、しばらく待て」

「竜? 祭神が竜なのか?」

 仁斎はギクッとした。藍は仁斎の様子がおかしいのに気づき、

「どうしたの、お祖父ちゃん?」

「杉野森学園を辰野神教が狙っている理由が分かった」

 仁斎の言葉に泉進はニヤリとした。

「ほォ、お前も少しは出来るようになったな、仁斎」

「バカにするな、泉進。儂は杉野森学園の建設の時、地鎮祭を執り行ったのだぞ。あの土地の事はよく知っておる」

 仁斎はキッとして泉進に言い返した。

「どういう事なのよ、お祖父ちゃん?」

 藍が重ねて尋ねた。仁斎は藍を見て、

「あの土地の下には竜が眠っているのだ」

「じゃあ、辰野神教の目的は、その竜なの?」

「恐らくな」

 藍は身震いした。


 東北地方にある辰野神社。その規模は全国にある小野神社に比べれば小さい。そして、宗教法人として活動を始めたのはまだそれほど前ではなく、氏子もいず、一切の宗教活動をしていない。謎が多い神社である。

「只今戻りました」

 広い板の間で長身で細身の若い男が言った。辰野神教の次期宮司である辰野実人である。グレーのスーツに総髪、切れ長の眼、高い鼻は、実人の鋭さを象徴していた。彼の向かいに正座している老人が実人を見上げた。

「どうであった?」

 老人は白装束で、髪は長く白一色、長い顎髭を生やしている。顔は穏やかだが眼は鋭く実人を見据えている。彼の名は辰野真人。実人の父親であり、辰野神社の現宮司だ。

うつわは見つかりました。これでわが教団の悲願が叶います」

 実人は真人の前に正座し、無表情のまま答えた。真人はニヤリとして、

「あの男は見つかったか?」

「小野雅ですか? 罠にかけて結界に閉じ込めてあります」

 小野雅。かつて藍の許婚いいなずけだった男だ。真人は再びニヤリとし、

「これで一方の力は封じた。闇が閉じれば、光が溢れる」

と呟いた。

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