第三章 それぞれの動き

 翌日。

 藍は学園に着いたが、駐車場からなかなか歩き出せない。剣志郎と顔を合わせたら、多分逃げ出してしまう自分がいるのがわかっているからだ。

「おはようございます、小野先生」

 そんな事をしていたので、もっと顔を合わせたくない武光麻弥が現れてしまった。

「お、おはようございます、武光先生」

 藍は顔を引きつらせて応じた。すると麻弥は神妙そうな顔をして、

「少しお時間大丈夫ですか?」

「は?」

 麻弥は駐車場の端まで藍を誘導してから、

「竜神先生はまだ誰にも話さないで欲しいとおっしゃっているのですが、私は黙っているのは嫌なので、小野先生だけにでもお話したいと思います」

「えっ?」

 何を言い出そうとしているのか、察しがつくだけに嫌な汗が出る。

「私と竜神先生は、結婚を前提にお付き合いしています」

「……」

 知ってはいた。しかし、こうして実際に麻弥の口から宣言されると、自分が思っていた以上に動揺している事に気づく。

「私、どうしても、小野先生にだけはお話したかったんです」

 麻弥は真っ直ぐな目で藍を見た。藍は目を逸らしそうになるのを堪え、彼女を見た。

「そうですか。どうして?」

 何とかとぼけてみた。だが、あまりにも白々しいとも思った。

「竜神先生は、未だに小野先生の事が好きだからです」

 麻弥は澱みない口調で言い切った。

「そんな事ないですよ。それは武光先生の誤解です」

 それでも言ってみる藍。麻弥はフッと勝ち誇ったように微笑み、

「そうかも知れません。でも今は間違いなく、竜神先生は私の恋人ですから」

「そうですか……」

 別に剣志郎が誰と付き合おうと関係ないと思っていた。今でも私は雅の事を忘れられないのだ。そう信じていた。確かに雅を忘れられるはずはない。しかし、知り合って十年近く経つ剣志郎に、何の思いもないかと言えば、それも嘘だと思い知らされた。

「では」

 麻弥はそのまま駐車場を去った。藍はしばらく呆然としていたが、剣志郎の車が駐車場に入って来たのに気づき、ハッとした。

(逃げちゃダメ。きちんと話をしないと……)

 今日は自分の感情で動いてしまってはいけない。藍はもう一度自分自身に言い聞かせる。

「あっ……」

 藍がまだ駐車場にいる事に気づき、剣志郎もギクッとした。彼は、藍のバイクが学園の門をくぐるのを見て、手前で待機していたのだ。もういないだろうと判断し、車を進めたのだが、まだ藍はいた。

(まさか、今逃げるように去るって訳にはいかないよな。多分、藍もお祖父さんから聞いて、ここにいるんだろうからな)

 剣志郎は意を決して車を降り、藍の方へと歩き出した。

「あ……」

 藍も、剣志郎が車を降りて、自分の方に歩いて来るのに気づき、ビクッとした。

(訊かなくちゃ。何があったのか……)

 藍も剣志郎に向かって歩き出した。

「!」

 その時だ。藍は剣志郎の周囲に光の玉が動き回るのを見た。

「何?」

 それが竜の気だと気づくのに然程さほど時間はかからなかった。彼女は立ち止まった。

「そこで止まって!」

「どうしてだ?」

 藍の意外な言葉に、剣志郎は驚いて尋ねた。

「貴方も聞いているんでしょ、何が起こっているのか?」

「あ、ああ……」

 剣志郎は、夜になって美月から携帯に連絡を受け、気を鎮める呼吸法を指導された。確かにそれによって大分身体は楽になったのだが、今こうして学園の敷地に入り、その上藍に近づくと、それでも鎮められないほど身体の中の何かが活性化するのが感じられた。

「私に近づいたから、竜の気が騒ぎ出したわ。そこでいいから、話を聞かせて」

 藍はゆっくりと言葉を選ぶように話した。剣志郎は頷いて、

「お前もお祖父さんから聞いているんだろう?」

「ええ。でも近づかせないでくれという話しか知らないわ。後は私達の推測でしかない」

「そうか……」

 剣志郎はそれでも言い淀んでしまう自分が情けなかったが、

「ウチは、竜神を祀る神社の家系だったらしいんだ」

「竜神を?」

「ああ。俺のジイさんの代で、その血筋は途絶えたと思われていた。俺の親父は養子で、神社の宮司は血縁の男しか継げなかったからだ」

 藍はゆっくりと頷いた。女が宮司の神社もあるが、それはやはり少数である。歴史が長いところほど、女性に継がせないという風習が残るところは多い。

「それで、俺の家は、神社を遠縁の者に譲り渡し、宮司の職も渡した。だから、親父はウチが神社だった事は知らないし、俺も知らなかった」

「でも血が受け継いでいたのね」

 藍が言った。剣志郎は頷き、

「そうだ。俺のお袋もしっかりと竜の気を受け継ぎ、俺もそれを引き継いでいた。その事がわかったのは、俺がこの学園に勤め始めてからだったそうだ」

「でも、貴方がここに来たのは、三年前よね。どうして今になって……?」

 藍はドキドキしながら尋ねる。仁斎と泉進の説が正しければ、答えはわかっている。

「藍が、強くなったかららしいよ」

 剣志郎は俯いて答えた。言い辛そうだ。

「そう。私のせいなのね」

 藍のその言葉に、剣志郎は弾かれたように顔を上げた。

「ち、違うよ。お前のせいって事じゃない。仕方なかったんだ。お前は知らなかったのだし……」

「でも、私のせいには変わりないんでしょ?」

 藍は少し意地悪かも知れないと思いながらも、そう言った。

「いや、でも……」

 剣志郎は言葉に詰まる。違うと言い切れない。事実はそうなのだから。

「それから、おかしな連中が、学園を狙っているらしい。そのために、俺の身体の中にある竜の気が必要だと、お袋を脅かしたそうなんだ」

「何ですって?」

 藍はさすがに驚いてしまった。

「だから、お袋は、一刻も早くこの学園を辞めて、違う職に就けって言うんだ」

「……」

 藍には衝撃的な話だった。

(剣志郎が、学園を辞める?)

 杉野森学園高等部の同級生で、大学では一年後輩であったが、腐れ縁なのか、就職先まで一緒になった。そんな剣志郎が自分のそばからいなくなるかも知れない。藍は動揺がはっきりとわかっていた。

「どうしてよ?」

「えっ?」

 藍の声が酷く非難の籠ったトーンだったので、剣志郎はハッとした。

「当てつけ? 私に対する当てつけなの? 何の怨みがあるのよ!?」

 自分でも不思議なくらい、藍は暴言を吐いていた。全身から、形容し難い怒りが込み上げて来て、怒鳴らずにはいられなかったのだ。

「いや、そんなつもりは……。俺はまだ、お袋の言う事を承知した訳じゃないし……」

「決まってもいない事をどうして私に話すのよ? 当てつけだからじゃないの!」

「おい、藍……」

 剣志郎は藍を宥めようとして一歩踏み出した。その時だった。

「うおっ!」

 剣志郎の身体から、竜の気が噴出した。それは気を全く感じない剣志郎にすら感じられるほどの勢いだった。突然身体がだるくなった。

「何?」

 藍も、その竜の気の勢いに驚き、身構えた。噴出した竜の気は、巨大化し、竜そのものの姿に変化へんげした。

「竜?」

 藍はその気を見上げて呟いた。剣志郎にはその気は見えない。

「何だ、何が起こっているんだ?」

「離れて、剣志郎!」

「え?」

 何が何だかわからなくなっている剣志郎に苛立った藍が、

「だったら、私が離れるわ!」

と叫ぶと、背を向けて走った。

「ああ……」

 藍が剣志郎から離れると、あれだけ勢いがあった竜の気がたちまち萎み、剣志郎の身体の中に戻ってしまった。

「あれ?」

 剣志郎は、さっきまでの倦怠感が嘘のようになくなったので、完全にキョトンとしていた。

「ごめん」

 藍は突然そう言った。

「えっ? 何で謝るんだよ?」

 剣志郎には藍の謝罪の意味がわからない。

「やっぱり私のせいね。でも貴方がこの学園を去る必要はないわ。私が辞めればすむ事だから」

「いや、お前のせいだけじゃないんだよ。この学園の土地に、竜の気があるんだ。そのせいで、俺の中の竜の気が暴走するかも知れない。だから、俺が辞めるしかないんだよ」

 剣志郎はあくまでも藍の事を庇おうとしていた。しかし、それが藍にはいっそう辛い事なのだ。

「だったら、何かいい解決方法がないか、探しましょうよ。貴方のお母さんを脅かした連中、私には見当がついているわ。そいつらの事は私達に任せて。絶対にこの学園にも、貴方にも、指一本触れさせないから」

 藍のその言葉に、剣志郎は感激していた。

「藍……」

 剣志郎は藍と通じ合えたと初めて思えた。しかし、藍は違う事を考えていた。

(この土地の竜の気は、泉進様と知恵を出し合えば、どうにかできる。でも、私と剣志郎の相性は、どうする事もできない)

 藍がごく普通の家庭に育ったのであれば、自分の力を何かしらの方法で消失させるという選択肢もあったろう。しかし、小野宗家の後継者である藍には、そんな選択肢はないのだ。

「会議が始まるわ。私は後から行くから、貴方は先に行って、剣志郎」

「ああ」

 剣志郎は嬉しそうに返事をすると、駐車場を後にした。

「ごめんね」

 藍は彼の後ろ姿を見ながら、そう呟いた。


「小野宗家の娘、竜の気に影響するほどの存在です。小野雅よりも、あの娘の方が厄介です」

 辰野実人は、千代田区にある辰野神教の本部のご神体の間で、父である真人と話していた。

「そうだな。しかし実人、いくら我が神が最強と言えども、あの娘は建内宿禰すら倒したのだ。簡単にはいかぬぞ」

「だからこその器の存在なのですよ、父上」

 実人は無表情のまま言った。真人はニヤリとし、

「そろそろ、実行犯に動いてもらうという事か?」

「はい。竜神美月は、我らの脅しに完全に屈服しております。もはや手駒も同然。あの息子も、母親の命が危ないと思えば、迂闊な事はできないでしょう。母一人、子一人ですから」

「なるほどな」

 真人は狡猾な笑みを浮かべ、携帯を開いた。

「大野さんか? 私だ。頼みがあるのだがね」

 相手が何が言っている。

「もちろん、これは工藤先生の件とも関係ある。ある男をウチに連れて来て欲しいのだ。ああ、手荒な真似をしても構わんよ」

 真人はニヤニヤしながら話す。

「だが、命だけは取らんようにな。大事な『器様うつわさま』なのだからな」

 「器様」とはどうやら剣志郎の事のようだ。しかし、どういう事なのだろうか?

「行者のジイ様が、また出羽に戻ったらしいぞ。何かを探るつもりらしい」

 真人は携帯をしまいながら実人に言った。

「あんなジジイ、放っておいても、何も支障はありませんでしょう。むしろ、この東京から離れていてくれる方が良いかと」

 実人は少しだけ頭を下げて言った。真人はフッと笑って、

「確かにな。もう、東北には用はない。器も、ご神体も、東京にあるのだからな」

と言った。


 工藤清蔵は、国会に向かう車の中で、広域暴力団である大野組の組長、大野寛おおのひろしからの連絡を受けていた。

「そうか、そうか。遂に見つかったのか。わかった。うまくやれよ。なァに、警察や検察なら、私に任せておけ。何とでもなる」

 工藤は悪意に満ちた顔で言い、携帯を秘書に渡した。

(私も戦後間もない頃から、随分と裏社会を見て来ている。辰野め、この工藤清蔵を陥れようとしているのだろうが、そうはいかないぞ。大野はお前の友人かも知れないが、私の手下なのだからな)

 工藤は真人の企みなどお見通しだった。しかし、どちらかより狸なのかは、終わってみるまでわからない。

「化かし合いで負けた事はない。喧嘩を売る相手を間違えた事をじっくり後悔してもらおうか」

 工藤はそう呟き、ニヤリとした。


「ねえねえ、見た?」

 祐子が嬉しそうに尋ねる。由加はウンザリ顔で、

「何よ?」

「小野先生と、竜神先生が、凄い言い合いをしていたのよ」

「どこで?」

「駐車場で」

「あんたも暇ねえ」

 由加は呆れて歩を速めた。只今彼女達は、体育館に移動中だ。

「私も見たわよ」

と波子が会話に加わった。

「言い合いっていうより、竜神先生がやり込められてたって感じに見えたけどなァ」

「そうかなァ。ここのところ、鳴りを潜めていた痴話喧嘩に見えたんだけど……」

 祐子は首を傾げた。由加は、

「どっちも正解なんじゃない。今までだって、大概、竜神先生が負けてたんだからさ」

 藍はすっかり「カカア天下」にされているようだ。

「藍先生はさ、何だかんだ言っても、竜神先生の事が好きなのよ。だから、最近、すっごく機嫌悪かったじゃない? それってさ……」

 由加が言いかけた時、波子が何故か「やめろ」のサインを出す。

「えっ?」

 ハッとして振り返ると、麻弥が近づいて来ていた。

「わわっ、ヤバ……」

 由加は慌てて口を噤んだ。

「先生、今日はまた一段とお綺麗ですね」

 波子が白々しいお世辞を言う。麻弥も心得たもので、

「あら、そんな事ないわよ、江上さん」

とニッコリ笑って返し、去って行った。

「危なー……。聞かれてないわよね?」

 由加は胸を撫で下ろして言った。祐子が、

「多分ね」

「でも、悪口は聞こえ易いって言うからねえ」

 波子が脅かす。

「やめてよ、私、英語ヤバいんだからァ!」

 不安がる由加だった。


 仁斎は境内を掃除していた。辺りは静まり返っており、ほうきが枯れ葉をかき集める音だけが聞こえている。

「む?」

 彼は視界の端に人影を捉え、手を止めた。

「どなたかな?」

 鳥居の前に立つ、若い女性。藍と同年代くらいか、と仁斎は思った。

「失礼致します。私は、辰野薫と申します」

 女性は一礼をして名乗った。

「辰野? まさか……」

 仁斎は眉をひそめた。するとその女性は、

「はい。私の父は真人、兄は実人です。小野家の方にお話があって参りました」

と答えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る