第四章 辰野薫
仁斎はあまりに意外な訪問者に、しばらくの間、何も言えないでいたほどだった。
「すみませんな、ぼんやりしてしまって。こちらへどうぞ」
彼は辰野薫を社務所に招き入れた。
「失礼致します」
薫からは全く何も感じられないのであるが、仁斎は一応警戒していた。辰野真人が送り込んだスパイかも知れないからだ。
「私をお疑いなのですよね?」
薫は勧められた椅子に腰をかけながら切り出した。仁斎はビクッとしたが、
「あ、いや、そんな事はありませんよ。只、苗字がですね……」
「仕方ないですよね。今はどんなに小さな子供が現れても、苗字が辰野だったら、間違いなく疑いの目で見られますよね」
薫は自嘲気味に微笑んで言った。仁斎はお茶を用意しながら、
「申し訳ない。私はそんなに疑っている顔でしたか?」
「いえ、そういう意味ではありません。私もそれなりに、父と兄の事は伝え聞いています。ですから、こちらの神社を父と兄が敵視している事も存じております」
「敵視、てすか?」
不穏な言葉に仁斎の眉間に皺が寄った。薫は仁斎を真っ直ぐに見て、
「はい。小野神社がなくなれば、辰野神社が栄えると申しておりました」
「なるほど」
商売敵という事か? 仁斎は少しだけホッとした。
「それから、これが一番お伝えしたかった事なのですが」
薫はそう言いながら、一枚の写真を出した。
「これは……」
仁斎は写真に写っている人物を見て驚いた。小野雅だったのだ。
「この写真は?」
「実家の近くの森で撮られたものです。お知り合いの方ですよね?」
「はい。以前ここにおりました。この写真、いつ撮られたものですか?」
仁斎は写真を手に取りながら尋ねた。薫は首を横に振って、
「いつ撮られたものなのかはわかりませんが、それほど前ではないと思います」
「そうですか。それで、これが一番伝えたかった事ですかな?」
仁斎はまだ何かあると思い、促した。すると薫は、
「いいえ。そうではありません。一番お伝えしたかった事は、その人がいる場所なんです」
「いる場所?」
確かに藍なら知りたがるだろうが、と仁斎は思った。
「その人は、兄が作った
「結界に?」
途端に話が謎めいて来た。
「何故雅は貴方のお兄さんに閉じ込められたのですか?」
「それはわかりません。でも、その人はそこから出られないでいます。ですから、小野家の方にお知らせした方がいいと思い、ここに来たのです」
「出られないのですか……」
仁斎は不思議に思っていた。黄泉路古神道の使い手は、根の堅州国を通れば、どこにでも行けるはずなのだ。それなのに結界から出られないというのは、妙な話だ。
「兄はその人に、『闇は光には決して勝てない』と申していました」
「闇は光には決して勝てない……」
確かにその通りだ。しかし、結界に閉じ込めたものに何故そのような事を言うのだろう? もしや実人は、雅を試しているのか? その言葉に何か意味があるのか?
「一つお尋ねして宜しいかな?」
仁斎はお茶を出しながら言った。
「はい」
薫は相変わらず真っ直ぐに仁斎を見ている。
「辰野神社のご神体は何ですか?」
「竜です」
「そうですか。それで、貴方の父上と兄上が、杉野森学園の土地を手に入れようとしている事はご存知ですか?」
仁斎の質問に、薫はキョトンとした。
「すぎのもり学園ですか? いえ、初めて知りました」
「実は私の孫娘が勤めている学校なのですよ」
薫は考え込む仕草をしてから、
「どちらにあるのですか?」
「世田谷です。ここからそれほど離れていません」
仁斎がそう言うと、薫は何かを思い出したようだ。
「東京で何かを手に入れようとしているのは聞いた事があります。最近は父は東京にいる事が多くて。兄は時々戻って来るのですが」
「そうですか。こちらにはお一人で?」
薫はニコッとして、
「ええ。私、大学が東京なので、父と兄には東京の友人に会うと嘘を吐いて参りました」
「大丈夫ですかな、
仁斎は、薫の身を案じて尋ねた。すると薫は微笑んで、
「大丈夫です。私はノーマークですから。何をしていようと、咎められる事はありません」
「ほお」
仁斎は意外な返答に思わず大きく頷いた。
「何よりも、父も兄も、自分達の力を過信しているのです。ですから、万に一つも計画が頓挫するなどとは思っていません」
「そうですか」
仁斎は、薫の楽天ぶりに、逆の意味で怖さを感じた。
(竜を祭神とする神社は多いが、杉野森学園の竜の気は別物だ。あれを手に入れようとしている連中が、このお嬢さんが思うような単なる自信過剰とは思えぬ。やはり……?)
「あの、何か?」
仁斎が黙り込んでいるので、薫が声をかけた。
「ああ、申し訳ない。考え事をしてました」
仁斎は、薫に力は感じなかったが、何か油断ができないものを感じていた。
(この娘、スパイとは思えんが、何か妙だ。現れ方が、唐突過ぎる……)
藍はなるべく剣志郎に近づかないように行動した。剣志郎も、藍と鉢合わせしないように気をつけながら、校内を移動した。その二人の不自然な動きが、由加達お喋り三人組にはとても奇異に写ったようだ。
「あの二人、隠れんぼでもしているつもりかしら?」
呆れ顔で由加が言った。祐子は肩を竦めて、
「さァね。会いたいんだか、会いたくないんだか、わからないわね」
「もしかしてさ、武光先生に気を遣っているんじゃないの?」
波子が眼鏡をクイッと上げて言った。
「誰が私に気を遣っているの?」
「わわっ!」
いきなり後ろから、本人が登場したので、三人は仰天して飛び上がった。
「あっははは、何の事ですか、武光先生?」
いきなり恍ける由加。無理がある。波子が慌ててフォローする。
「先輩に会うと気を遣うよねえって、話していたんですよ」
「そんな話してた? 私の名前が聞こえたんだけど?」
麻弥は疑いの眼差しを三人に向けた。
「もう、先生、自意識過剰ですよ。いくら竜神先生と付き合っているのが秘密だとしても」
祐子がまた口を滑らせた。思わず顔を見合わせ、ヤバいという顔をする由加と波子。
「えっ?」
思わず赤面する麻弥。知られていると思っていなかったので、彼女はかなり動揺した。
「わわわーっ、何でもないですゥ!」
由加と波子は「お喋り魔神」の祐子を抱きかかえるようにして逃げて行った。
仁斎は薫を見送った後、あちこちに連絡を取り、その返事を待ってから、泉進に連絡を取った。彼も仁斎に言われ、出羽に入る前に携帯を購入したのだ。
「泉進か」
仁斎が言った。すると泉進は、
「当たり前だ。これは儂の携帯だからな。儂が出るのが当然だろう」
「しかし、携帯電話だからこそ、誰が出ても不思議ではない」
仁斎の言う事ももっともな話である。
「つまらんことを言うな。そんな事を話すために、わざわざ高い電話料を払うのか?」
「そうではない。辰野薫と名乗る女が来たのだ」
「辰野薫? 真人の娘だな」
仁斎は電話相手に頷いて、
「雅が辰野に囚われていると教えに来た」
「そうか。妙だな」
泉進も仁斎と同じ考えのようだ。
「そうだ。何でも、真人と実人は、彼女の事を全く警戒しておらんとの事だ。それも妙だ」
「そうだな。実人はともかく、真人は猜疑心の塊のような男だ。自分の娘でさえ、疑っているかも知れぬ」
仁斎はまた頷く。
「仮に彼女が全く真人と実人に疑われていないとしても、何故わざわざ小野神社に来たのかわからん。雅が囚われている事を知らせたいのなら、電話でも手紙でも、最近流行のメールでも良かろう」
「確かにな」
泉進は苦笑いをして、
「メールは相手のアドレスがわからんと送れんぞ。調べる方法もないしな」
「藍がウチのホームページを立ち上げておる。インターネットで検索すれば、『小野神社』で見つけられるはずだ」
「ほお」
泉進は素直に感心した。
「直接来る必要はないはず。何か他に理由がある」
「かも知れんな。で、儂にどうしろと言うのだ?」
「雅の居場所を探って欲しい。お前なら、雅の気を辿れよう」
仁斎は真剣な表情で告げた。泉進は、
「雅が囚われの身というのが想像できんな。どういう事だ?」
「奴は結界に閉じ込められているのだと彼女は言っていた」
泉進は眉をひそめた。
「黄泉路古神道の使い手ならば、どのような結界でも出る事ができるはず」
「儂もそう思った。しかしな、確かに雅の気が封じられておるのだ。東北各県の小野分家に探らせたのだが、雅の気は辿り切れなかった。岩手の分家が、一番多く雅の気を辿ったようだ。しかし、それも途切れている」
仁斎の話に、泉進は俄然興味を惹かれた。
「あいつは縄文遺跡の気の消失を知り、あちこち現れていた。儂も奴の行動を気にかけていたのだが、お前のところに行っている間に大きく動いたようだな」
「そういう事だ。頼めるか?」
仁斎は改めて泉進に言った。
「頼まれるまでもない。そもそも辰野神教との関わりは儂の方が先だし、深い。雅の事は任せろ。藍ちゃんのためにも探し出す」
「藍は関係ない」
仁斎は藍絡みだとまだ雅を許せないらしい。泉進はニヤリとして、
「儂はあの同僚の男よりは雅の方が藍ちゃんと似合いの夫婦だと思っとるぞ」
「余計な事は考えんでいい。とにかく、そちらは任せたぞ」
「わかった」
仁斎は電話を切り、玄関に向かった。杉野森学園の事も気にかかったのだ。
その藍は、授業を終え、剣志郎がいないのを確認して、社会科教員室に向かっていた。
「小野先生」
原田事務長が声をかけた。
「はい」
藍は声に応じて振り返った。原田の隣には、薫が立っていた。彼女は藍と目が合うと、会釈した。藍も会釈して、
「あの、そちらの方は?」
「辰野薫さんだ。小野先生に会いに来られたそうだ」
「辰野、薫さん?」
藍はその苗字を聞いて緊張した。
(あの辰野神社と関係があるのかしら?)
「応接室が空いているから、そちらでどうぞ」
原田はニヤリとして立ち去った。
「ありがとうございます」
藍は原田に礼を言い、
「こちらです」
薫を誘導し、応接室に入った。
「あの……」
向かい合って座りながら、藍は切り出した。
「はい、私は辰野神社の者です」
薫は笑顔で答えた。藍はその笑顔が余計に怖くなった。
「どういったご用件で?」
藍は探るような目で尋ねた。薫はそれに気づいたようだったが、
「実は先程、小野先生のお宅に伺いまして、お祖父様とお話しました」
「えっ? 祖父とですか?」
藍はビクッとした。
「はい。それで、ある方の事をお話したのです」
「ある方? 誰ですか?」
薫は仁斎に見せた写真を出し、テーブルの上に置いた。
「この方です」
藍は驚いた。まさか雅の写真を見せられるとは思っていなかったからだ。
「お知り合いの方ですよね?」
「はい……」
藍は写真を見たままで答えた。
「確か、小野雅さんでしたよね」
「はい」
藍はそこでようやく薫を見た。
「彼はどこにいるのですか?」
「岩手県の辰野神社の裏手にある森の奥の祠の中です」
「祠の中? どうしてそんなところに?」
藍は詰め寄るように尋ねた。薫は藍の迫力に驚きながらも、
「私の兄である実人が、雅さんを結界の中に閉じ込めたんです。それで、雅さんはそこから出られないでいます」
「結界?」
雅に結界など無駄以外の何ものでもない事は、藍はよく知っていた。
「お祖父様も同じ顔をされました。結界から出られないのはおかしいとも言われました」
「ええ。その通りです。その人は、特殊な力があって、どんな結界でも閉じ込める事はできないのです」
藍の説明に薫は頷き、
「私の兄も、その事を知っていたようです。その上で、雅さんを閉じ込めたのです。何かそこに秘密があるようなのですが」
藍は薫の言動に疑問があった。こんな事を自分に話して、この人は大丈夫なのだろうかと。
「何故そんな事を私に話して下さるのですか?」
藍の疑問に薫は苦笑いをした。
「そうですよね。私の行動、不自然ですよね」
「あ、いえ、そんな事を言っている訳では……」
藍は慌てて否定したが、薫は、
「私は、父と兄に目を覚まして欲しいのです」
「えっ?」
薫の顔は真剣そのものだった。
「二人は、途方もない事をしようとしているのです。私は、まだ後戻りできるうちに、二人を止めたいのです」
「……」
藍は薫の話を素直に聞く事にした。
「続けて下さい」
藍のその言葉に、薫はニッコリして、
「ありがとうございます」
頭を下げた。
「二人は、神社の隠し扉の中から、千年以上前に記された書物を見つけました。それには、ご神体の場所が記されていたらしいのです」
「ご神体?」
藍は鸚鵡返しに言った。薫は頷いて、
「ご神体は武蔵の国にあると記されていたそうです。それが、恐らく、ここ」
「!」
藍はギョッとした。ご神体とは、祖父仁斎が封じた竜の気の事だろうか?
「その書物には、ご神体を手に入れた者は、永遠の栄華を手に入れられると書かれていたそうです」
「永遠の栄華、ですか……」
そんなものは存在しない。藍は確信している。そのようなものに惑わされ、自滅して行った者を見て来ている。小野源斎、小山隆慶、小山舞。そして、小野椿……。
「ご神体は一体何なのですか?」
藍が尋ねた。すると薫は首を横に振り、
「それは記されていなかったようです。私も、父と兄が話しているのを聞いただけで、その書物を見た訳ではないのです」
「そうですか……。それは今どこに?」
「多分、辰野神教の東京本部。千代田区のビルにあると思います」
「千代田区に?」
「はい」
藍は何かの罠かとも思った。しかし、いくら探ってみても、薫からは何も出て来ない。彼女が術者でない事は明白だ。
「私は、何としても二人を止めたいのです。そんなご神体なんて、私達に必要ではないのです。貧しくてもいいから、昔のように親子仲良く暮らしたいんです。嫌なんです、今の父と兄が!」
薫の感情が一気に爆発したようだった。一筋の涙が彼女の頬を伝った。
(この人、本当にそれだけを願っているのね。疑ったりして悪かったわ……)
「わかりました。ありがとうございました。私も、貴女に協力します。いろいろ教えて下さい」
「はい。よろしくお願いします」
薫は涙を拭いながら言った。
「本当に構わんのか、実人?」
辰野神教の東京本部のご神体の間で、真人と実人は差し向かいで正座していた。
「はい。薫が何をしようとも、然したる影響はございません」
「そうだといいがな。あいつは現に、私達に嘘を吐いて、東京に来ている。友達と会うとか話して、実際は小野神社に行ったらしいぞ」
真人は警戒心が強い。しかし、実人はそんな事には動じていなかった。
「先程も申し上げたように、薫一人が何をしようとも、我らが計画に微塵の差し障りもございませんよ、父上」
真人は、息子の凄まじいまでの冷静さに、父親ながら恐ろしくなっていた。
「むしろ、薫の行動は、我らの望むところです。あいつが動けば動くほど、小野の者達は、我らの真意を見誤りましょう」
実人は無表情のまま言った。
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