第五章 剣志郎拉致

 修験者である遠野泉進は、仁斎の依頼で雅を探すために岩手県に赴いていた。

「確かに彼奴の独特の気が感じられぬ。本当に結界に閉じ込められているのか?」

 泉進は、辰野神社の近くに来ている。

「真人も実人も、東京か。ここにはいないようだ」

 その方がやり易い、と泉進は考え、周囲を探り始めた。


 藍は、薫を見送ってから、一瞬躊躇ったが、剣志郎の携帯に連絡した。

「はい」

 緊張した剣志郎の声が聞こえた。

「ごめん。大丈夫?」

「ああ。どうした?」

 藍は深呼吸をしてから、

「貴方はここを辞める必要はないわ。私が辞めるから」

「えっ?」

 剣志郎が何か言おうとしたのを藍は遮るように、

「この学園に渦巻いている竜の気は、私達が何とかする。でも、私と貴方の気の相性はどうしようもない。だから、私がここを辞める。貴方は残って」

「いや、でも……」

「残って!」

 藍は強い口調で言った。

「今度は、長い戦いになりそうなのよ。仕事を続けながらでは無理。それに、理事長のお身体の事もあるし」

「えっ? 理事長? どういう事だ?」

 剣志郎は何も知らないのか? 藍は携帯を持ち直して、

「理事長は心労が続いていて、あまり無理が効かないの。そこへ貴方が辞める話をしたら、もっとお身体に障るでしょう?」

「それは、お前が辞めるっていう話でも同じだろう?」

「私は、ここに勤め始める時に、こんな事が起こるかも知れないので、理事長にはあらかじめお話してあるのよ」

「……」

 藍は嘘を吐いている。剣志郎はそう思った。しかし、その嘘が自分の事を思っての嘘だとわかるので、とても辛い。

「貴方だけの問題ではないの。学園の存続に関わるような話なのよ。だから、私は……」

「辞めるなんて言うなよ」

 剣志郎の声が後ろで聞こえた。いつの間にか、彼は藍の近くに来ていた。

「ダメ!」

 尚も近づこうとする剣志郎を藍が止めた。竜の気が、再びうごめき始めている。朝より激しい。

「くっ……」

 剣志郎は眩暈めまいがして、足下がふらついた。藍は、助けてあげられない自分が歯痒い。

「藍!」

 剣志郎が呼び止めるのも虚しく、藍は走り去った。

「……」

 剣志郎は意を決して、母美月に連絡した。

「母さん? 今夜会いたいんだけど。ああ。辞めるよ。俺が辞めないと、収まりがつかないんだろ?」

 半ば自棄になっている剣志郎の口調を感じ取り、美月は、

「何があったの?」

と尋ねた。

「今夜話す。じゃあ」

 剣志郎は一方的に話を終了し、携帯を切ってしまった。


 辰野神教の東京本部の執務室で、実人が配下の男から報告を受けていた。

「そうか」

 薫が藍と話をした事まで、全て筒抜けになっている。

「バカな女だ。そんな事をしても、全くの無意味だという事がわからんのか」

 実人は窓に近づき、外を眺めた。

「姫巫女流が如何に強かろうと、それはあくまで人神じんしんでの話。我らが神は、光の神で最強なのだからな」

 実人は無表情のままで呟いた。


 辰野薫は、杉野森学園を出ると、今度は辰野神教の東京本部に向かっていた。

「どうしても止める。私は本気よ、お父様、お兄様……」

 タクシーの中で、薫は決意を新たにした。


 一方雅は、何をしても出られない事を知り、地面に正座して目を瞑っていた。

(一体何が起こっている? 外の気配もまるで探れない。一切を遮断されている。会話はできるのに、結界の外の気がまるで感じられないのは何故だ?)

 ふと目を開き、地面の小石を拾い、結界の外へ投げてみた。

「むっ?」

 小石は何の障害もなく、結界の外に転がり出た。

「物理的には遮断されていないのか? では力ずくではどうだ?」

 雅は立ち上がり、結界の外へと手を差し出してみた。

「!」

 手は出せる。足の先も出せた。しかし、頭は出せない。

「気か?」

 そう思い、手に気を集中してみる。すると手は出せなくなった。

「しかし、それがわかったところで、どうしようもないな。気を足先に集中させれば、その他は外に出られようが、足先だけ出られない事になる」

 仕組みはわかって来たが、出る事ができないのに変わりはなかった。

「この理屈だけでは、どうして根の堅州国に入れないのか、説明できん」

 彼はまた地面に正座し、目を瞑った。

「一から考え直しか」


 藍は理事長室を訪れていた。

「そうですか……」

 安本はソファに向かい合って座りながら、藍の辞意を伝えられた。

「いつかはこんな日が来るとは思っていましたが、これほど早く訪れてしまうとは思いませんでしたよ、藍さん」

 安本は残念そうな顔で言った。藍も頭を下げて、

「本当に申し訳ありません。でも、私のせいで、剣志、いえ、竜神先生を辞めさせる訳にはいきません」

「それはそうなのですがね……。他に方法はないのですか? 仁斎さんとも相談してみて下さい」

「はい……」

 仁斎は、元々ここで藍が働く事をそれほど賛成していなかったから、辞めると言えば、止めはしないし、安本の願いも聞き入れないだろう。むしろ、藍がここを辞める事で、より強くなれると考えるかも知れないのだ。

「とにかく、もう一度考えて下さい。私は貴女にも、竜神先生にも、辞めて欲しくないのですから」

「はい……」

 藍は安本の辛そうな顔を見ているうちに、自分の決心が揺らぎそうになったので、退室した。


 剣志郎は学園を出ていた。しばらく走って信号待ちをしていた時、

「あのー、すみません」

 助手席側から男に話しかけられた。剣志郎はウィンドーを開けて、

「何でしょう?」

 男はニッコリして、

「杉野森学園はどちらですかね?」

「ああ、それならですね……」

 その瞬間、男が何かのスプレーを噴射した。

「な、何……?」

 剣志郎はたちまち眠ってしまい、ドアロックを開けられ、連れ出された。その間、わずか数十秒で、周囲の人達が異変に気づいた時、すでに剣志郎の車は無人になっていた。


 藍は考え事をしながら、駐車場に来た。

「剣志郎……」

 剣志郎の車がない事に気づく。それと同時に、彼の気が乱れたのにも気づいた。

「何?」

 只ならぬ気配がした。

「何があったの、剣志郎?」

 藍はすぐさまヘルメットを被り、バイクに跨がった。

「何、何なの?」

 胸騒ぎがする。しかし、どうして胸騒ぎがするのか、藍にはわからなかった。


 安本は居ても立ってもいられず、仁斎に電話をしていた。

「藍さんが今日、学園を辞めたいと言って来ました」

 仁斎は安本の言葉に、

「そうかね」

とだけ言った。

「仁斎さん、藍さんを説得して下さい。彼女が辞めてしまうのは、我が学園にとって大きな損失なのです」

「藍から理由は聞いたのかね?」

「はい。竜の気が関係しているとか」

 安本がそう答えると、仁斎は、

「ならば、儂には止められんよ。あいつは誰に似たのか、とんでもなく頑固者なのだ。何もかも解決しない限り、辞めるだろうな」

「そこを何とかして下さいませんか?」

 安本は懇願するように言った。

「わかったよ。藍を説得するのは無理だろうから、竜の気の方をできるだけ早く何とかしよう」

「ありがとうございます」

 安本はホッとした。すると仁斎は更に、

「本当は、あの竜神剣志郎に学園を辞めてもらうのが一番なのだがな」

「仁斎さん……」

 安本は呆気に取られた。すると仁斎は、

「まあ、そっちの方も泉進と何とかしよう。しばらく待ってくれ」

「わかりました」

 安本は、仁斎が藍を辞めさせたがっている事を知っていたので、少しだけ不安だった。


 藍はしばらく走って、剣志郎の車が路上に止まっているのを見つけた。そのせいで、道路は渋滞していた。

「何であんなところに?」

 しかも、どう見ても、停止している場所から考えて、駐車しているようには見えない。その上、周囲に人が集まっており、そのうちパトカーまで現れたのだ。

「何があったんですか?」

 藍はそばまでバイクを進め、近くにいた女性に尋ねた。

「ああ、あの車に乗っていた男の人が、誰かに連れ去られたらしいんですよ」

「えっ?」

 藍はギクッとした。

(まさか……)

 藍は携帯を取り出し、泉進に電話した。

「どうした、藍ちゃん?」

 泉進はワンコールで出た。

「泉進様、泉進様が追っていた暴力団て、どこにあるんですか?」

「何があったのだ、藍ちゃん?」

 泉進はいきなりそんな事を訊かれたので、驚いて尋ねた。藍は剣志郎が拉致されたらしい事を告げた。

「そうか。とうとう、実力行為に出おったか、あいつらは」

「それで、そいつら、どこにいるんですか?」

「知ってどうするつもりだ、藍ちゃん?」

「助けに行きます」

 藍は即答した。泉進はしばらく考えていたようだったが、

「わかった。取り敢えず、仁斎も連れて行くのだ。連中の居場所は、恐らく辰野神教の東京本部だろう」

「千代田区ですね?」

「そうだ。武道館の近くのはずだ」

「それだけわかれば、十分です」

 藍は泉進に礼を言うと、携帯を切り、バイクをスタートさせた。

「剣志郎……」

 今は彼の命が最優先。藍は仁斎を連れに行く間も惜しみ、そのまま千代田区へと走った。


「何?」

 泉進は、藍が一人で言ったと判断し、仁斎に連絡していた。

「バカめ、何を考えておるのだ、藍は」

「とにかく、相手はヤクザだ。いくら藍ちゃんでも、刃物や銃を持った相手では危険だ。すぐにお前も向かった方がいい」

「そのようだな。また後で連絡する」

 仁斎は携帯を袂にしまうと、社務所を出た。

「藍、無茶も大概にしてくれよ」

 彼は大通りへと走り、タクシーを拾って千代田区を目指した。


「器様、こちらに向かっているようです」

 ご神体の間で、実人が報告した。真人はニヤリとし、

「そうか。大野め、手際が良かったな」

「但し、薫もこちらに向かっています」

「薫、か」

 真人は苦々しそうに呟いた。

「それから、小野藍も、こちらに向かっているようです」

 実人の言葉に真人はフッと笑った。

「器様が手に入れば、姫巫女流など赤子同然。恐るるにたらず」

 実人はそんな父親を、無表情な目で見ていた。


 その頃、杉野森学園高等部は、剣志郎が誘拐されたらしいという情報が入り、騒然としていた。

「確かな情報なのですね?」

 原田事務長が、警察からの連絡を受けた事務員に確認した。

「間違いありません。竜神先生の所持品は、全て車の中に置かれたままだったそうですから」

「そうか。では、私は親御さんに連絡する。君は理事長に伝えてくれ」

「わかりました」

 原田はすぐさま書類を捲り、美月の家の電話番号を調べ、連絡した。


 辰野神教の本部があるビルの前に、辰野薫が立っていた。

「ここね」

 彼女はビルの中へと足を踏み入れた。すると、玄関ホールに実人が降りて来ていた。

「兄さん」

 薫は実人を見て言った。実人は薫を見下ろして、

「何をしに来た? 土産でも持って来た訳ではあるまい?」

「ええ。話があって来たの」

 薫は真剣な表情で言った。しかし実人は薫に背を向けて、

「今は忙しい。下らん話は後で聞く」

「下らなくなんかないわよ! 兄さん!」

 薫は歩き出した実人の前に回り込んだ。

「お父さんもいるんでしょ? 話をさせて。お願い」

「ダメだ。帰れ」

「嫌よ!」

 薫は尚も実人の行く手を阻もうとした。

「例え血を分けた兄弟でも、あまり邪魔をすると、痛い目に遭わせるぞ」

 実人はそれでも無表情な顔で薫を見た。

「遭わせてご覧なさいよ。私は怖くないわ!」

 薫のその言葉に、一瞬だけ実人の目がギラッとした。

「お前は可愛い妹だ。傷つけたくはない。帰れ」

「本当にそう思うのなら、話をさせてよ」

 薫はそれでも引き下がらなかった。

「五月蝿い!」

 遂に実人の平手打ちが、薫を跳ね飛ばした。薫はその力に抗し切れず、床に倒れてしまった。それに構わず、再び歩き出した実人の携帯が鳴った。

「私だ。そうか。わかった。すぐ行く」

 彼は足早に廊下を奥へと歩いて行ってしまった。

「ううう……」

 薫は、その痛みよりも、全く昔と変わってしまった実人の事が悲しくて、立ち上がる事ができなかった。

「薫さん!」

 そこに藍が飛び込んで来た。薫は藍の声に驚き、彼女を見た。

「あ、藍さん……」

「どうしたんですか?」

 藍は薫の頬が赤くなっているのに気づいた。

「兄を、兄を止めて下さい。お願いします」

 薫は助け起こそうとした藍にすがりついた。

「薫さん……」

 藍は薫が実人に叩かれた事を感じ取った。

「お兄さんは?」

「奥に行きました。何かが着いたみたいなんです」

「着いた?」

 藍は剣志郎の気を感じた。

「ここにいて下さい」

 そう言い残すと、藍は実人を追いかけた。

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