第九章 竜神降臨
真人は不意に祝詞を唱えるのをやめた。
「何者かが邪魔をしている。私はそちらに行く。お前はここを守れ」
「はい」
実人は真人を見ずに答えた。真人は結界からフッと消えた。
「何?」
藍はそれを見てギョッとした。
(何、今の? 瞬間移動?)
「藍さん、父がどこかに行きました。誰かが外にいます。父はその人を殺しに行ったのかも知れません」
薫が答えた。藍は薫を見て、
「どういう事ですか?」
「私にはわかるんです。嫌だけれど、わかるんです」
薫は泣きじゃくりながら言った。実人はそんな薫を一瞥したが、そのまま祝詞を唱え続けた。
「外に? もしかして……」
仁斎が狙われている。そう直感した。
「でも、お祖父ちゃんなら大丈夫」
藍はそう思い、結界を破る方法を考えた。
「……」
実人は、藍の事より、姿を消した雅の方が気になっていた。
(奴はどこに行った?)
雅が岩手の祠の結界を出たのは承知している。それは予定通りだった。しかし、その後で根の堅州国を出入りしての攻撃には、実人も身の危険を感じたのだ。
(奴の剣では俺を殺す事はできない。しかし、あの方法で小野藍が俺を攻撃したら、ひとたまりもない)
実人は、雅と藍が共同して攻撃して来た時の事を想定していた。
「兄さん、あれほど反対していたのに、どうしてお父さんと一緒にいるのよ? 何があったの?」
薫の声が響いた。しかし実人は微動だにしない。
「兄さん、答えて!」
薫の声は、実人に届いていなかった。
真人は、瞬間移動した訳ではない。辰野神教の結界から出ると、一瞬姿が消えたように見えるのだ。彼は裏から学園の周囲を探り始めていた。
「ぬ?」
真人は仁斎が植えた榊を見つけた。
「何をするつもりだ、小野の者達め」
真人は榊を無視し、仁斎を探した。
「儂を探しているのか、辰野?」
仁斎は物陰から姿を現した。日がすっかり落ちてしまった今、仁斎の表情ははっきりしない。学園内はあちこちに照明があるが、外は外灯しかなく、お互いの顔がぼんやりと見える程度だ。
「自分から殺されに来るとは、愚かな。いや、潔いと言うべきかな、小野仁斎?」
真人は勝ち誇った顔で言った。
「口だけは達者なようだな。所詮お前は息子の力を頼りにしている情けない父親に過ぎんがな」
「何を?」
真人はムッとした。当たっているだけに余計に腹が立つのだ。確かに儀式は実人なしにはできない。
「悔しいのなら、私を仕留めてみよ。お前には無理だろうがな」
仁斎は始めから真人をおびき寄せるためにわざとわかるように動いていたのだ。真人は罠にはめられた事に気づいていない。
「剣志郎!」
美月が現れたので、藍はびっくりしていた。
「お母さん、危険です、離れて下さい」
藍は美月を見て言った。しかし美月は、
「全ては私の愚かさが招いた事です。危険は覚悟の上です」
更に結界に近づく。
「剣志郎、気をしっかり持って! 苦しいと思うと余計に苦しいわ。貴方は自分の気持ちに素直に生きればいいのよ。そうすれば、竜の気は鎮まるのよ」
美月は涙を浮かべて訴えた。すると実人が、
「邪魔だ。どけ!」
竜の気を放った。
「危ない!」
藍がそれを防ごうとして剣を振るったが、間に合わなかった。
「私は剣志郎とは違うわ、辰野実人!」
美月の身体からも竜の気が放たれ、実人の気とぶつかり合った。
「何?」
実人の無表情の顔が崩れた。彼は驚いていた。
「私は、竜神家の正統な継承者。但し、私の父で神社は譲り渡したから、この程度の事しかできないけど」
藍も薫も、美月が竜の気を身に纏っているので、仰天していた。
「母さん……」
剣志郎は美月に言われた事を実行に移した。
(藍……)
彼は自分の気持ちを素直に外に向けた。藍を愛している、誰よりも大切に思っていると。
「?」
藍は剣志郎の竜の気が変化したのに気づいた。
「あれほど猛っていたのが、急に落ち着いたみたい……」
と同時に、藍は剣志郎の心の波動を感じ、赤面した。
(やだ……)
剣志郎が藍にストレートに愛を告白するような感覚に囚われた。
「何、今の?」
今の波動が、もし美月にも感じられるのなら、藍は恥ずかしくて逃げ出したいくらいだったが、美月は慈愛に満ちた顔で藍を見ていた。
「藍さん、剣志郎の本当の気持ち、受け止めてあげて」
「は、はい」
恥ずかしがっている状況ではない。剣志郎は場合によっては命を落としてしまうかも知れないのだ。藍は剣志郎の波動を、自分の心に受け入れた。
「む?」
実人も、剣志郎の気が変質したのを感じた。
「そのような事で、この大事、損なわせるものか!」
実人は懐から玉串を取り出した。
「何?」
藍はその玉串から途方もないパワーを感じた。
「これは、縄文の気?」
大学生の時、一人旅で訪れた三内丸山遺跡で感じたのと同じ気だ。
「ああ!」
薫が叫んだ。祠が崩れた下から、光が出始めたのだ。実人が何事か呟くと、再び剣志郎の竜の気が騒ぎ始め、学園の鳴動が大きくなった。地面から出て来た光は、少しずつ増え、竜の姿になり始めた。
「うわあああ!」
剣志郎の竜の気が激しく結界内を暴れ回り、剣志郎自身ものた打ち回った。
「剣志郎!」
藍と美月が異口同音に叫んだ。
「やめて、兄さん! お父さんの願いなんか、かなえる必要ないのよ!」
薫が叫ぶ。しかし実人は祝詞を唱え続け、学園の下に封じられていた竜の気は、巨大な竜に姿を変えた。
「させない!」
藍は剣を振り上げ、
「神剣乱舞!」
剣撃を結界にぶつけた。
「無駄だ」
実人はチラッと藍を見て呟いた。
真人は仁斎と睨み合いを続けていたが、学園内の揺れが大きくなったのを感じ、
「ここで争っている場合ではないぞ、ジジイ。可愛い孫が死んでしまうぞ」
仁斎を挑発した。
「そうだな。助けに行くか」
仁斎は真人に背を向けて歩き出した。真人はニヤリとし、
「この私に背を向けるとは、愚かなジジイだ!」
竜の気を放った。しかし竜の気は仁斎を襲うどころか、素通りし、標的を失ったようにウロウロし始めた。
「ど、どういう事だ?」
真人は唖然とした。仁斎は背中を向けたままで、
「お前らが、千代田区の本部で藍を罠に掛けた礼だ。辺り一帯、姫巫女流の結界。後は、お前の息子が陣取っているところをぶち壊せば、任務完了だ」
「何だと!?」
真人は眩暈がしそうだった。
「それからな、お前にジジイ呼ばわりされる謂れはないぞ、クソジジイが」
仁斎はそう言い捨てると、学園内に消えた。
「ぬううう……」
真人は、もはや勝敗は決したと感じていた。だが、実人は、真人とは違う事を考えていたのである。
藍の攻撃は執拗に続いていたが、結界は破れなかった。
「所詮姫巫女流は人神の流派。我が神は光の神で最強なのだ。次元が違う。無駄な足掻きはやめろ」
実人は祝詞を唱えるのをやめて藍を見た。
「もはや何をしても詮無き事だ。儀式は完了した。光の神が降臨される」
「何ですって?」
藍と美月、そして薫が叫んだ。
「むっ?」
仁斎が駆けつけた時、まさに剣志郎の竜の気と学園に眠っていた竜の気が融合しようとしていた。
「くっ、遅かったというのか!?」
仁斎は歯ぎしりした。
「見よ! 遂に新たなる時代が幕を開くのだ。我が神によって!」
実人が叫んだ。竜の気は完全に融合し、結界を破り、上空へと上がって行く。
「そんな……」
藍はそれを呆然として見ていた。
「剣志郎!」
美月は結界が消えると、すぐに剣志郎に駆け寄った。彼は気を失っていた。
「ふははは! 我らの勝ちだな、実人!」
真人は狂喜しながら現れた。彼は仁斎にしてやられたと思っていたのだが、実人が見事に儀式を成し遂げたのを知り、態度を一変させていた。
「兄さん……」
薫は悲しみに打ち拉がれていた。
「私、何もできなかった……」
止めどなく涙が流れる。彼女はそのまま地面に崩れるようにしゃがみ込んでしまった。
「とうとう、我らが悲願が成就した。辰野神教が、日本を、いや、世界を統べる時が来たのだ!」
真人は大喜びしながら実人に近づいた。実人はまた無表情に戻り、狂喜する父親を見ていた。
「おのれ!」
仁斎は柏手を打ち、
「姫巫女流古神道奥義、黄泉戸大神(よみどのおおかみ)!」
学園全体に黄泉戸大神の結界を張り巡らせた。しかし、
「手遅れだ、小野の者達。我が神はすでに最強。
実人の言葉通り、あの黄泉の国の最高神であった
「バカな……」
仁斎は目を疑った。
「これが最強の神の力……」
藍はもう完全に呑まれてしまっていた。仁斎ですら、諦めかけていた。
「ははははは! 行くぞ、実人よ。東京を制し、日本を制し、世界を制するぞ」
真人は実人に言い、歩き出そうとした。
「まだです、父上」
実人の感情の籠っていない声がした。真人は眉をひそめて、
「どういう意味だ、実人?」
「我が神は闇をご所望です」
実人の冷たい目が、真人を射るように睨んだ。
「何!?」
次の瞬間、竜の気はあっという間に真人に襲いかかり、彼を跡形もなく食らい尽くしてしまった。
「……」
薫はそれを見てしまった。しかし、叫び声すら出ない。それほど驚いていた。美月も目の前で人が竜の気に食われるのを見て、固まったように動けなくなった。
「こ、これは……」
そこへ安本が現れた。彼は持病が悪化したらしく、歩くのも辛いようである。いや、竜の気が彼を弱らせているのかも知れない。
「安本、離れていろ。それ以上近づくな」
仁斎が彼の様子に気づき、叫んだ。
「辰野実人、貴方、最初から父親を殺すつもりだったのね!?」
藍は怒りに震えて怒鳴った。しかし実人は、
「殺す? 違う。父上は神と同一されたのだ。これは父上がお望みだった事だ」
「何ですって?」
藍は実人が詭弁を弄していると思った。
「自分の父親を殺して、何という言い草だ、貴様は」
仁斎が言い返した。
「何とでも言うがいい。我らの目的は光の神の復活。今こそそれを成し遂げる」
竜の気は上空で輝きを増し、その姿を実体化させた。それは紛れもなく、竜であった。
「神よ、お裁きを!」
実人は柏手を一回打った。すると竜は咆哮し、口から光の玉を放った。
「何!?」
光の玉は学園を直撃した。辺りが強烈な明るさに包まれ、杉野森学園高等部は、一瞬にして消えてしまった。爆発ではなく、消失したのである。
「まさか……」
藍はもう何もなす術がないと思っていた。
「仁斎、藍ちゃん、まだ諦めるな! 方法はある!」
泉進が大声で言いながら現れた。実人が彼を睨む。
「老いぼれ、もう来たか?」
「岩手に雅を閉じ込めた理由、わかったぞ、実人。一つは儂を東京から引き離すため、そしてもう一つは、雅を東京から引き離すため」
「む……」
泉進の指摘が図星だったらしく、実人の顔に焦りの色が浮かんだ。
「そして、あの祠に面白いモノが残されていたぞ」
泉進は持っていた白い布を捲り、中から何かの動物の骨を取り出した。
「それは……」
実人は唖然としていた。
「こいつが、竜の正体。竜の本体の一部だ」
「何? どういう事だ、泉進?」
仁斎が尋ねた。
「恐竜の骨。竜の正体は、太古の昔、この地上を席巻した恐竜だ。そして、その骨を神として祀り、神気を集めたのが、縄文時代の神官達だ」
「……」
実人は黙って泉進の話を聞いている。
「この地の下にも、この竜の骨の別の部分が埋まっているはず」
「つまり、神は完全になったという事だ。もう遅い」
実人が口を開いた。しかし、泉進は、
「いや、まだだ。お前自身が、儂にヒントをくれていたのに気づいていないようだな。何故お前らは雅を閉じ込めたのか? 生け贄にするなら、岩手に閉じ込める必要はないな」
「ぬ……」
実人はまた黙り込んだ。
「闇が閉じれば光が溢れる……」
薫が何かに取り憑かれたかのように呟いた。
「そう、それこそまさに答え。お前らが雅を恐れた理由。そして、何故岩手に閉じ込めたのかも同じ理由でだ」
実人は泉進を睨んだ。泉進はニヤリとして、
「その答え、儂が言うまでもないな。もうすぐ出る」
「何?」
実人は泉進の妙な言い回しに眉をひそめた。その時、雅がスーッと現れた。
「藍、偽物の光の神を潰すぞ。力を貸せ」
「え、ええ……」
唐突にそう言われ、藍は何が何だかわからなかった。
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