第一章 剣志郎の憂鬱

 翌日になった。


 泉進は山伏姿からごく普通のスーツ姿になり、杉野森学園の理事長室のソファに腰を下ろしていた。

「久しぶりですね、遠野さん。お元気そうで何よりです」

 長身で白髪混じりの頭の紳士然とした男が言い、泉進の向かいに座った。彼が杉野森学園の理事長である安本浩一である。

 先代が戦前築いた莫大な資産で様々な事業を興し、日本の発展に寄与して来た。そして今は学業に人生を賭けて挑んでいる人物である。温厚そのものの人柄は、誰からも慕われている。仁斎とは旧知で、泉進とも長い付き合いである。但し、泉進はあまり出羽から出ないので、顔を合わせるのは何十年か振りではある。

「あまり楽しい話をしに来たのではないので、用件をすませたらすぐに帰るよ」

「ほう。どんなお話ですか?」

 安本は微笑んだままで尋ねた。泉進は真顔で、

「ヤクザがうろついておるだろう?」

「……」

 安本はまさかそのような話題に触れられると思っていなかったのか、ギクッとした。

「さすがですね。どこでその情報を?」

 安本はそれでも落ち着いた様子で泉進に尋ね返した。泉進は真顔のまま、

「儂は儂で別の連中を追っていた。偶然だよ。儂の追っていた連中があんたのところにチョッカイを出しているヤクザと接触したんだ」

「何者なんです、泉進さんが追っている連中は?」

「竜を悪用しようとしている輩だ。何としても阻止しなければならん」

「竜?」

 その言葉に安本の顔色が変わった。

「仁斎も言っておったが、この土地には凄まじい竜の気が渦巻いていたそうだな? 仁斎が姫巫女流の結界でそれを封じ、地下深く押さえ込んだと言っていた」

「はい。その竜の気に我が学園は守られているそうで。それを狙う連中とは、穏やかではありませんね」

「確かに以前来た時には感じられなかった竜の気が学園に渦巻いている。気を感じない者には何でもないが、少しでも竜の気がわかる者は影響される。生徒達や職員達にそのような事は起こってはいないかね?」

 泉進は真剣そのものの顔で訊いた。安本は戸惑った顔で、

「それは何とも……。私自身、竜の気を感じられませんから。それに学園で何か起こっていれば、すぐに私の耳に入るはずですから、今のところは何もないと思われます」

「そうか」

 泉進はホッとしたように呟いた。そして、

「ヤクザはどんな事をして来ている?」

「今のところは具体的な事は何もして来ていません。只、学園周辺を歩き回っているらしく、女子生徒の何人かが職員に相談して来たようです。何をされた訳ではないので、警察にも言えず、正直困っているのです」

「なるほど。合法的に嫌がらせをしているのか。それにしても、そいつらの飼い主は一体何が目的なのか」

「工藤代議士、ですか?」

 安本は探るように尋ねた。泉進は頷き、

「あの物欲の塊が、まさかこの学園を乗っ取ろうなどとは考えてはいまい。何かあるはず。暴力団まで使って何を企んでいるのか?」

「ええ」

 安本も腕組みして考え込んだ。

「いずれにしても、しばらくは静観だな。仁斎には儂から話をしておく」

「はい」

 安本は真顔のままで頷いた。泉進は彼の顔を覗き込み、

「疲れているようだな。無理はせん事だ。この学園、まだまだあんたなしでは立ち行かなくなる」

「ありがとうございます」

 泉進は立ち上がった。

「取り敢えず、竜の気の中心に行ってみる。現時点では、何も異常は感じられんが、気になる事もあるのでな」

「はい。場所はお分かりですか?」

 安本も立ち上がった。しかし泉進はそれを手で制して、

「承知しておる。仁斎から聞いた。あんたはついて来なくていい。それに、今のあんたはこれ以上竜の気に近づかん方がいいぞ」

「はァ……」

 泉進は安本の見送りも拒否して、理事長室を出て行った。

「竜か……。一人気になる男がいるが……」

 安本は自分の机に戻り、ある男の事を考えた。


 泉進は、学園の裏手、木陰ができている場所に来ていた。方位的には、杉野森学園の鬼門に当たる。祠があり、注連縄で囲まれている。

「なるほど。これは想像を絶する竜の気だ。しかし、何故?」

 泉進が知る限りでは、これほどの竜の気は、東北地方にも北海道にもない。

「だからか。だから、辰野神教はここを……」

 泉進は決意を新たにした。

「ならば尚更手出しはさせぬ。この気を悪用されれば、首都壊滅は免れぬ」


 安本が気になったという男である竜神剣志郎は、その日も憂鬱だった。

「ここ何日か、特に身体がだるいな。何だろう?」

 彼は俯いたまま歩いていたので、前から来た人物に気づかず、ぶつかりそうになった。

「考え事をしながら歩くな、若造」

 そう言って剣志郎を叱責したのは、泉進だった。

「あ、す、すみません」

 剣志郎はビックリして頭を下げた。しかし泉進はそれには応じず、サッサと歩いて行ってしまった。

「何だ、あの老人は?」

 剣志郎は泉進の事を全く知らなかったが、泉進は剣志郎の事を知っていた。と言うより、藍から聞かされていたので、思い当たったのだ。

「今の男が、竜神剣志郎か……。まるで何も気を感じないが……。苗字は伊達か?」

 泉進は歩いて行く剣志郎の後ろ姿を眺め、目を細めた。

「しかし、やはり微かに竜の気を感じるか。しかし、まさかな……」

 泉進は苦笑いをして、

「もしそうなら、ずっと以前に目覚めているはず。今その兆候がないのは、彼奴(あやつ)にその才がない何よりの証拠だ」

と呟くと、クルリときびすを返し、歩き出した。



 藍は、正面玄関から出て来た泉進に気づき、廊下の窓を開けて、

「泉進様!」

 声をかけた。泉進は藍のほうを見て微笑み、

「おう、藍ちゃん。授業は終わったのか?」

「ええ。もうお帰りですか?」

「うむ。ここは確かに良い気が集まっておるな。この学園は、この気がある限り、栄え続ける」

 泉進は周囲を見渡しながら言った。藍は頷いて、

「私も気を感じます。ただ、乱れているような……」

「そうだな。外を見回ってから、帰るとするよ」

「はい。お気をつけて」

 藍が泉進の背中にそう言うと、彼は振り返らずに、

「儂よりも安本の方を気遣ってやってくれ。それと、あのボンクラもな」

「は? ボンクラ、ですか?」

 藍はキョトンとした。泉進はニヤリとして振り返り、

「藍ちゃんを好いておるのに、他の女子おなごうつつを抜かすボンクラじゃよ」

「まあ!」

 泉進が剣志郎の事に言及したので、藍はビックリした。

「剣志郎に会ったのですか?」

「すれ違っただけだ。それよりな」

 泉進は再び藍に近づき、

彼奴あやつは竜神という姓を名乗っておるが、ほとんど竜の気を背負っておらん。どういう事だ?」

「竜の気を? 剣志郎の家の事は聞いた事がないので、わかりませんが」

 藍は少し考えてから答えた。泉進は再び歩き出し、

「まあいい。だが藍ちゃん、あの男、気にかけていてくれ。危うい事になるやも知れぬ」

「え?」

 藍はその言葉にギクッとした。

(気にかけたいけど、今はあいつに近づくのは気が引けちゃう……)

 藍の思いは複雑だった。


 その頃、社務所で仁斎はある女性と向かい合っていた。

「竜神さん、ですか?」

 意外な人物の来訪に、仁斎は驚きを隠せなかった。しかも、その女性は只ならぬ気をまとっているのだ。正体が余計に気になった。

「はい。剣志郎の母の、竜神りゅうじん美月みづきです」

「……」

 アップにした髪と和服姿が似合う、整った顔立ちの女性だ。面差しはどこかあの男と似ているな。仁斎は予想してはいたが、まさかと思う気持ちもあったので、言葉が出なかった。

「さすがに名立たる神社の宮司様ですね。私の身に纏わりついているものがおわかりのようで」

 美月はそう言って微笑んだ。

「もしや、杉野森学園の一件と関係がありますかな?」

 仁斎は探るような目で彼女を見た。美月は表情を変えずに、

「学園で何が起こっているのかは私は存じ上げません。今日は全く個人的なお願いで参りました」

「そうですか。どのような?」

 仁斎は探るのをやめて、居ずまいを正した。美月は真顔になって、

「宮司様のお孫さん、藍さんとおっしゃったかしら?」

「はい、そうです。藍が何か?」

 仁斎はますます訳がわからなくなった。美月は続けた。

「藍さんに、今後一切剣志郎に近づかないようにお願いに参りました」

 仁斎は、それはこっちのセリフだ、と思ったが、

「それはどういう意味ですかな? 藍が何か貴女の息子さんにご迷惑でも?」

 少しばかり嫌味がきつかったかなと思うが、藍に対して近づくなとはどういう了見だ? 仁斎はすっかり只のジイ様になって、ムッとしていた。

「そうではありません。藍さんのために申しております。剣志郎にこれ以上関わると、藍さんが大変な事になりますので」

「具体的にどうなると?」

 仁斎は、多分教えるつもりはないと思ったが、取り敢えず尋ねてみた。

「それは申せません。竜神家の内々の事ですので」

「竜の気が絡んでおるのですか?」

 仁斎はカマをかけるつもりで言った。しかし、美月は仁斎の誘導には乗らず、

「大変申し訳ありませんが、お答えできません。お許し下さい」

 深々と頭を下げた。仁斎は不満だったが、

「わかりました。藍には私から言っておきます。しかしですな、職場が同じですから、全く近づかないという訳には……」

「剣志郎には、杉野森学園を辞めさせます」

 美月は冗談を言っているようには見えない。仁斎は「竜」が繋ぐこの一連の出来事に戦慄した。

「では、私はこれで」

 美月はサッと立ち上がった。仁斎が続こうとすると、

「お見送りは結構です。失礼致します」

 美月はそう言って社務所を出て行ってしまった。

「竜……」

 仁斎は思わずそう呟いた。


 泉進は、学園の塀の周りを歩いていた。

「む?」

 彼は塀のあちこちに土を掘り返したような形跡がある事に気づいた。

「只、掘り返しただけか。どういう意図があるのだ?」

「おい、ジイさん、そんなとこで何してるんだ?」

 その声に振り向くと、ヤクザと思しき屈強そうな男が三人立っていた。

「何じゃ、お前らは? 儂に用か?」

 泉進はまるで怯んだ様子もなく、ヤクザ達を見上げた。

「妙な事嗅ぎ回ってるらしいな。東京湾に浮かびたくなかったら、家に帰りな」

「嫌だと言ったら?」

 泉進は全身から気をみなぎらせて尋ねた。ヤクザ達にはそれがわからないらしく、年寄りの強がりと映ったらしい。笑い出したのだ。

「このジジイ、自分が正義の味方か何かだと思ってるぜ」

「イカれたジジイか」

 泉進はその間に気を溜め込んでいた。

「思っているのではないぞ。儂はまさしく正義の味方じゃ」

 泉進のその言葉と同時に、三人のヤクザに気が放出された。

「グヘエ!」

 ヤクザ達は、まるで強烈なパンチでも見舞われたかのように飛ばされ、塀と道路の間の側溝に落ちてずぶ濡れになった。

「ちょっかい出す相手をよく見定めよ、愚か者め」

 泉進の言葉に、ヤクザ達は何も言い返せない。泉進は立ち去りながら、

「ついでにお前らの飼い主に言っておけ。ここはお前のような欲の皮が突っ張った輩が手を出していい場所ではないとな」

と言い放った。


「そうか。わかった」

 辰野真人は、それだけ言うと、携帯を切った。

「出羽の出しゃばり行者が、しゃしゃり出て来たか」

 彼はソファに腰を下ろしながら呟いた。

「宮司、大丈夫なのだろうな? ヤクザ三人をまとめて側溝に落としてしまうようなジイさんを相手にして」

 そう尋ね、ソファの向かいに座ったのは、政権与党の長老である工藤清蔵だ。スキンヘッドで眼光が鋭いため、暴力団の組長にも見えるが、間違いなく衆議院議員である。

「そちらは実人がおります故。ご安心下さい、先生」

 真人はフッと笑った。

「杉野森学園は我が神が降臨した土地です。何としても、手に入れなければなりません」

「そして、地下に眠る時価数百億円とも言われている埋蔵金。それも是非手に入れねばならん」

 工藤の目がギラつく。所詮は金が目当ての男だ。杉野森学園を乗っ取れたら、校舎は全部壊し、埋蔵金を回収した後は、高級マンションを建てる計画である。

「埋蔵金は官僚だけが抱えている訳ではないのだな、宮司」

 工藤は下品な笑みを浮かべ、真人を見た。

「はい」

 真人は顔は微笑んでいたが、

(お前も用がすんだら、我が神の生け贄になってもらう)

と考えていた。


 その頃、剣志郎は思わぬ訪問者に戸惑っていた。

「母さん、何しに来たんだ?」

 応接室で剣志郎は大声で言った。しかし、母美月は冷静に、

「今日は理事長先生に会いに来たのよ。貴方は関係ないわ」

「理事長に?」

 実は剣志郎は、麻弥と付き合っている事を美月には伝えていない。本気ではないから、そこまでする必要はないと考えているのだ。しかし、理事長に会われると、理事長からその話を聞くかも知れない。剣志郎は焦っていた。

「どうしたの、顔色が悪いけど?」

 美月が尋ねる。剣志郎は苦笑いして、

「そ、そりゃそうだよ。何の前触れもなく、母さんが来るからさ」

「私に来られると、何かまずい事でもあるのかしら?」

「……」

 剣志郎は冷や汗を掻いて黙り込んだ。そこへ原田事務長が顔を出した。

「お母上、理事長室へどうぞ」

「はい」

 剣志郎はドキッとした。そして更に驚愕の事実を告げられた。

「貴方も同席しなさい、剣志郎」

「えっ?」

 そんな事を言われるとは思っていなかった剣志郎は、理由(わけ)もわからないまま、美月と共に理事長室に向かった。


 藍はちょうど家に帰り着いたところだった。いつもは出迎えたりしない仁斎が、鳥居の前に立っていた。泉進も一緒だ。只ならぬ気配を感じ、藍はヘルメットを抱えて二人に近づいた。

「どうしたの、お祖父ちゃん?」

「まァ、中で話そうか」

 仁斎は先に立って歩き始めた。泉進が、

「さっきからあの調子だ。何も教えてくれん」

「そうですか」

 仁斎がムスッとしている時は、ろくな事がない。昔から藍はそれを思い知って来た。

「何なのよ、全く」

 藍はそう呟き、仁斎を追いかけた。


「お久しぶりです、美月さん。お元気そうで何よりです」

 安本は微笑んで出迎えてくれた。美月も微笑み、

「お久しぶりです。理事長先生はお変わりありませんか?」

「いやあ、最近めっきり老け込みました」

「そうですか」

 他愛もない話をしながら、三人はソファに腰を下ろした。

「さて、今日は何ですかな? 剣志郎君も同席とは、何かおめでたい話ですか?」

 安本はすでに原田から麻弥との事を聞かされているので、その件だと思っていた。剣志郎は、もうダメだという顔をして下を向いた。

「いえ、そのようなお話で参りましたのなら、私も嬉しいのですが。今日は大変申し訳ないお話をしに参りました」

「は?」

 安本はキョトンとした。剣志郎もそうだ。

(何言い出すんだ、母さん?)

 彼は母親の横顔を凝視してしまった。美月はゆっくりと口を開き、

「剣志郎にこの学園を辞めさせるために参りました」

 安本も剣志郎も、驚き過ぎて何も言えないでいた。

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