八、殻の外へ Ⅱ

 その桜の花が散り、みずみずしい若葉にいれかわった五月の朝だった。宿舎に警報が鳴り響き、マサヒコのスマートフォンがふるえた。訓練ではない。四国の炉から漏出した『虎』が離島の和比良島(わひらじま)の灯台に転移したという。

 十分たたないうちに、マサヒコは指定された垂直離着陸輸送機で飛び立っていた。機内には『古時計』三機、『赤の女王』一機と専用車両、ほかに分析記録機器、通信機器が積まれ、マサヒコ以外の『機関』の隊員が五人と、操縦士をふくめて国防軍の兵士が六人いた。


「島民の避難状況はどうか」

『機関』側の指揮官が部下に確認をとった。

「未確認です。『虎』の転移の報告以降、通信が途絶えています。すでに周囲は破壊されたか、電波状況から推測すると特異空間が島の主要な建物を覆っている可能性があります」

 そういって大型のパッドに地図を表示した。小さな島の北西端に灯台があるが、その近辺に役場兼港湾施設や商店といった中心的な建物が集まって小さな村になっている。国防軍の兵士ものぞきこんだ。

 部下はさらに一般的な情報を読み上げる。

「和比良島は周囲十キロ弱でほぼ三角形、面積は六平方キロメートル程度、人口は百十五人。観光客がきのうの便で五人渡っています」

「島民などの状況確認はわれわれが行います」

 国防軍側の隊長が口をはさんだ。

「おねがいします」

『機関』の指揮官はうなずく。ここは自分たちの方針を主張するのは避けた。よけいな対立構造は作りたくない。それに、特異事象に関するかぎりはこちらに絶対的な指揮権がある。本当に島民の捜索を行うかどうかは現場の状況次第だ。


「シラセ君、君は二番のボートだ」

「わかりました」

 救命胴衣を身に着け、硬い座席に座っていると、旅客機では考えられないほど振動と音が伝わってくる。

 漏れ聞こえてくる言葉からすると、予備能力者を乗せた機が整備不良のせいか飛び立てず、別の機を用意して乗り換えているため遅れるとのことだった。こちらだけが先行する。


 モニターに島がとらえられると、機内の全員が嘆息した。特異空間が黒い煙のように島全体にかぶさっていた。その周囲からは棒状の空間が垂れ下がり、見ようによっては獲物をかかえこんでいるクモのようだった。


「これでは能力者の接近は無理です」

「こんなに巨大化するものなのか」

『機関』の隊員たちは装備の準備を行いながら話し合った。合体現象とおなじく、前例のない事象がまた発生した。こんどのも厄介だ。こんな巨大な『虎』の中核を特異空間外から予想できる能力者などいない。

「しかたがない。今回は情報収集のみだ。いったん引き上げて検討しよう」


 輸送機はできるだけ接近し、燃料の限界がくるまで周囲をまわって記録をおこなった。帰路はみんな無言だった。マサヒコは輸送機に乗りこんでから降りるまで、ただじっと座ったきりだった。


 その日のうちに記録は分析され、巨大化事象に対する策が練られた。

 注目されたのが、攻撃行動が痕跡すら見られなかったという点だった。輸送機は一度も攻撃を受けなかった。また、特異空間の間隙から確認された建物はまったく破壊されておらず、転移したという報告のあった灯台周辺にがれきはひとつも転がっていなかった。しかし、人間は確認されなかった。

 そこで、あらかじめプログラムされた無人偵察機を用いて島の低空から情報収集を行う計画が立てられ、実行された。マサヒコは方針が決まるまで現場には行かず、待機となった。


『機関』の研究者たちが意外に感じたことに、無人偵察機は一機も破壊されなかった。通信はできなかったが、情報は記録され、すべて無事に持ち帰られた。その記録によると、『虎』の破壊行動は見られないが、人間はいない。

 しかし、鳥や犬猫といった小型の生物が見つかった。特異空間のせいで暗いため、鳥はほとんど動かなかったが、一部が飛び立ち、上空の特異空間に入ることがあった。どうなるかと目をひいたが、出てきたときも正常なようだった。

 特異空間は島の地面の五メートル上からはじまり、二十メートル上まで覆っていたが、おおきな隙間が多数あり、情報収集を楽にしていた。

 これは科学的ではない表現だが、巨大化した分薄くなり、おとなしくなったという印象だった。だが、島民と観光客全員が未確認という点が懸念された。やはり能力者を上陸させるわけにはいかない。


 航空機での調査に加え、和比良島付近の洋上には船が三隻派遣され、現地での活動拠点となった。動きのないまま三日が経過し、『虎』対応としては異例の長期になりそうだった。


 四日目、船が和比良島から発信された微弱な電波をとらえた。内容は本土との通信につかわれている形式のテキストメッセージで、島民と観光客全員の氏名、社会保障番号、そして公的機関のパスワードなど、その本人しか知りえない情報がふくまれていた。それはまる一日くりかえし発信されつづけた。


 五日目、テキストメッセージの内容が変わった。

『こちらはあなたたちが『異次元高エネルギー体』ないしは『虎』と呼ぶ存在と、和比良島島民百十五人および観光客五人が融合した知的存在です。受信したらおなじ形式で返答ねがいます』


 六日目、『機関』と各国政府は緊急会議を開き、この存在に返答すると決定した。その窓口には、現場にもっとも近い所にいて、かつ、『機関』の職員として経験と実績があるイナムラ博士が選ばれ、指揮船に移った。ほかにも通信を確実に中継するための設備や多数の記録装置が用意され、本土から和比良島まで飛び石伝いにわたれそうなほど船が密集した。


 七日目は晴れて、海はおだやかだった。


「こちらは『異次元高エネルギー体による特異事象対応機関』所属のイナムラヨリコ博士。要求に応じ返答をおこなっています」

『ありがとう。イナムラ博士ですね』

「そうです。そちらはなんと呼べばいいでしょうか」

『ワヒラ、と呼んでください。島の名前をもらいます』

「さっそくですが、ワヒラ。質問よろしいでしょうか」

『けっこうです。わたしも人間と話をしたい』

「では、当初のメッセージに、あなたについて、『虎』と島民および観光客が融合した知的存在とありますが、これをもっとくわしく説明してください」


 その問いの後、五分ほど沈黙が続いた。イナムラ博士がくりかえし入力しようとしたところで返答がきた。


『わたしはあなたたちの存在する次元とは異なる次元に存在していました。そこからあなたたちによってここへ連れてこられました』


 また一分ほど間があいた。


『ここの存在はわたしとちがって物質の体にエネルギー? を閉じこめていることがわかりました。とくに人間と呼ばれる存在に興味を引かれました。エネルギーというより、あなた方の言葉でいう『思考』? 『意思』? いい言葉が見つかりません。疑問符の使用をお許しください。『悪』? でしょうか。わたしはもっとあなたたちについて知りたくなりました』


 そこにいる全員と、中継を受信している全世界が、ワヒラのテキストメッセージについて考えている。なにを言いたいのか。


『それで、転移した先の人々のエネルギー? の配列をわたしに組みこんで融合しました。あなたたちについて全部わかったわけではありませんが、だいぶすっきりしました。わたし、ワヒラはそういう存在です。『虎』と人類百二十人の融合体です。しかし融合してからわかったのですが、地域的、文化的かたよりが強すぎますね。次回はもっと平均的になるように融合したいと考えています』


 イナムラ博士に指示が飛んだ。博士は指示をまとめ、質問文にする。


「融合した人々は解放されるのですか」

『いいえ、かれらの物質の体は融合および現在の特異空間を作るエネルギー源として消費しました。あなたたち人類は現時点において代替の体を作成する技術をもっていないので復旧はできません』

「他の『異次元高エネルギー体』は関係しているのですか」

『質問の意味がわかりません。『他』など存在しません。したこともありません。わたしはひとつだけ、いえ、ひとりだけです』

「あなたの目的は?」

『三つあり、優先度順に書きます。ここに存在しつづける。人類やこの次元を観察しつづける。もっと他地域や他文化の人間と融合する。できれば全人類と』


 マサヒコは宿舎でやりとりを追いかけていた。パッドに流れる問答と、指揮船のイナムラさんの青白い顔。島を覆っているワヒラの黒っぽい特異空間。

 ワヒラの目的は危険すぎる。かといってなにができるというのか。いや、理論上は方法がないわけではない。最初の『虎』を抑えこんだときとおなじ方法がある。予想点なしに『古時計』か『赤の女王』を使用する。和比良島を格子に分け、ありったけの機器を順に投入すればいつかどれかが当たるという手だ。

 問題はそんな数の機器はないし、あったとしても、そのために和比良島周辺に機器を集めているあいだにほかで漏出があったらどうするのか。また、ワヒラだって反撃するだろうし、人間の知識を取りこんだのだから、SDDやEADを意図的に狙うだろう。


「ここはわたしたちの次元であり、世界です。ワヒラは炉内で存在を続けてはどうでしょうか」

『拒否します。炉内では第二の目的である観察が不十分にしかできません』

「では、これ以上の人間との融合は目的からはずしてください」

『なぜでしょうか』

「人間は、現在の物質の体の中で、その体の機能を自然に喪失するまで個々に存在しつづけたいという欲求を強く持っているからです」

『理解しました。比喩的にいえば、死ぬまでずっと殻の中にいたいのですね』

「その例えを完全に理解したとはいえませんが、おおむね正しいといえるでしょう。ではこれ以上の融合は行わないでいてくれますか」


 一瞬、返答が遅れた。


『約束できません。いまの人間の欲求についての話は全体に一般化してよいかどうか確信が持てません。融合を行ってもよいという人間はいないのでしょうか』

「融合からの復旧が現在不可能である以上、その結論は出せないでしょう。では、両方の状態を比較して選択できるようになるまで第三の目的は保留とすべきではないでしょうか」

『わかりました。第三の目的は保留とします』


 マサヒコは、『虎』の特異空間に包まれたときの感覚を思い出していた。あれは幻覚だったのだろうか。ぼくは融合しかけていたのだろうか。安心感と暖かさ、ひとりで閉じこめられているような感覚からの解放。それらすべてをもう一度味わい直していた。でも、あのときは不快感もあった。

 いや、融合ではなかった。自分自身は残っていた。だから、もしかしたら、このワヒラなら。


 イナムラ博士と、その背後にいる人々の質問が続く。


「目的の話にもどります。第一の目的である存在をつづけるために、あなたはなにが必要ですか」

『なにも。現在の状態であれば、この宇宙の予想される終末まで現状を維持しつづけられます』

 問答を読んだすべての人々がため息をついた。事実であればおそろしいほどのエネルギーだ。これまでの分析や測定値が再確認されたが、ワヒラの主張をはっきり否定できるものはなかった。この時点で実力行使という選択肢の順位は最下位となった。


「では、第二の目的ですが、人類やこの次元の観察というのは具体的にどのような行動を行うのでしょうか」

『わたしはここに存在をつづけ、特異空間を通り抜けていくすべてのエネルギーを分析します』

「それによってなにがわかるのですか」

『この次元についてです。とくに人間は興味深い。物質の体の中で秩序ある配列としてエネルギーが存在し、それによって周囲を操作したり変えたりする。その原理や過程をもっと知りたい』


「融合した人々はどうなっているのですか。個人の意識は保たれているのですか」

『いいえ。『融合』という単語の意味どおりです。ここにいるのはわたし、ワヒラのみです。ただし、百二十人各個の記憶を別々に取りだすことは可能です』


 マサヒコはできるだけ目立たない色の服を選んでいた。そうしながら船がないか調べる。明日午前零時半にセンサーの交換部品を運ぶ高速艇があった。幸運にも和比良島に一番近い位置の監視船あてだった。

 かばんにはパッドとスマートフォン、水、すこし迷ったが青いバケツと包み紙コレクションをはさんだノートも入れた。両親にはこれまでの感謝と謝罪のメッセージを残そうかと書きかけたがやめてしまった。なにもないほうが忘れやすいだろう。


 船に乗りこむのはあっけないほど簡単だった。警備は基地の出入りには厳しいが、すでに内部にいるうえに、『機関』の能力者はほとんど警戒されなかった。深夜になるのを待ってから、不自然に隠れようとせず任務の準備の振りをして堂々と港に入り、交換部品の木箱にまぎれて格納庫の隅に潜む。かばんを尻の下に敷いて居心地をよくし、ちょっとうとうとしてはっと目が覚めたころには出港していた。


 密航の興奮が冷め、落ち着いてくると大それたことをしでかしたと怖くなってきた。しかし、決心はそれより強かった。

 到着するのは午前六時半の予定だ。海上で部品や補給品の受け渡しをする。そのときの忙しさの隙をついて搭載ゴムボートで一気に和比良島に上陸する。あの疲れる訓練が役に立つとは思わなかった。


 いつの間にかまた眠っていたらしい。気がつくと周囲が騒がしくなり、乗組員の駆けまわる音がひびいてきた。ときどき聞こえてくる命令の声からすると受け渡しの準備を行っているようだ。マサヒコも頭の中で甲板のゴムボートをおろして乗り組むまでの手はずを何度もやり直していた。できるだけ混乱させ、落ち着く前にすべて終わらせないといけない。


 受け渡し作業が始まった。マサヒコは火災警報器を押し、消火装置を作動させた。そのまま後を見ずに甲板にかけのぼる。怒鳴り声がするがすべて無視した。というより、興奮したマサヒコの耳はなにか意味のある単語をとらえられなかった。

 訓練通りゴムボートをおろし、飛び乗った。モーターをスタートさせ、全速にする。船からじゅうぶん離れたところで和比良島に針路をとった。いまの位置からちょうど東の方向だった。水平線に白い夜明けの線がまっすぐ走っていたが、島の部分だけ切れていた。

 かばんのスマートフォンとパッドがはげしく呼び出しをかけていたが、いまは操縦で気が抜けない。島に接近したところで速度を緩め、上陸できそうなところを探したが、港までまわらないといけないらしい。マサヒコの腕ではこの暗いなか、そこらにボートをつける自信はない。島の地図を思い出し、灯台らしいシルエットの見えるほうに向きを変えた。

 しばらくすると港が見えてきた。漁船を引き上げられるようになっており、ちょうどよかったのでそこに上陸した。もう日は出ているはずだが、頭上の特異空間のせいで薄暗い。ボートの装備品をあさってヘッドランプをつけた。


 灯台を通りすぎ、和比良村役場とある建物に入って腰を下ろし、水を飲んでしまった。それから、特異空間があるのに呼びだしつづけるスマートフォンに出た。雑音だらけだが、意味の通る声が聞こえた。ワヒラの特異空間はもうそれほど電波に影響しないのだろうか。隙間からは朝日がさしこんできていた。


「シラセマサヒコか。すぐに現在地を脱出し、洋上にてこちらと合流しなさい」

「拒否します。これからぼくは自分の考えで行動します」

 相手の返事を待たず、スマートフォンを切った。考えてみればいらないものだった。持ってきたのは単なる習慣になっていたからだろう。苦笑いして空き瓶とスマートフォンとパッドは役場のごみ箱に捨てた。かばんの中はバケツとノートだけ。たいせつなもののみになった。


 役場の屋上に出ると、特異空間の中に入った。想像していたのとはちがって真っ暗ではない。周囲の風景が透けて見える。

 マサヒコはあぐらをかき、まずノートをひろげて一番最初にもらったキャンデーの包み紙と、一番最近の包み紙を見た。両方とも蛍光ピンクやどぎつい赤や青の安っぽいデザインで、なつかしく、気持ちが落ち着いた。それをかばんにもどし、つぎに青いバケツをひろげて横に置いた。


『バーニング・ブライト』状態に入る。範囲内のものがすべて見える白く輝く空間。

 ここは暖かい。前とほとんどおなじだが不快感はまったくなく、吐き気はしなかった。あれは幻覚じゃなかったんだ。


「ワヒラに要請します。さきほどそちらの特異空間内に少年がひとり入りましたが、その行為はこちらの意図するものではありません。また、その少年についてはなにも影響を与えず、そのまま特異空間外へ出していただきたい」


 目の前を文字が流れていった。テキストメッセージを機器を通さず読んでいる。ワヒラの感覚なのだろうか。


『要請はわかりました。少年の行為は少年自身が独自に行ったものなのですね。しかし特異空間外へ出すことはもうできません。少年はみずからわたしと融合をはかり、完了しました』


 いや、完了していない。マサヒコはいぶかしんだ。自分自身は失われていないし、『バーニング・ブライト』状態で自分の体も見えている。手を握ったり開いたりしてみたが、その感覚もあった。


「いま、『いや、完了していない』というメッセージを送ったのはだれですか。ワヒラ以外にだれかいるのですか」

『ぼくです。マサヒコです。いまは村役場屋上で『バーニング・ブライト』状態です。イナムラさんですか』


『ワヒラです。割りこみます。さきほどのメッセージを訂正します。融合は完了していません。この『バーニング・ブライト』という状態は変わっていますね。融合と錯覚しました。記憶や、かなりの感覚を共有していますが、融合はしていません。シラセマサヒコは肉体、精神ともに独立性を保っています』


「すぐに『バーニング・ブライト』状態を解除し、島を出なさい。洋上で合流しましょう」


『断ります。こここそぼくの求めていたところです。暖かく、ひとりじゃない』

『マサヒコ、あなたはひとりがいやなのですか。融合したいのですか』

 ワヒラがまた割りこんできた。

『いいえ、ひとりはいやですが、ひとりじゃなくなるのもいやです』

『もうすこしくわしく説明をおねがいします』

『ぼくの記憶は読んだんでしょう。ひとりはいやです。でも自分自身は保ちつづけたい。それが人間です』


「くりかえします。脱出しなさい」


『では、わたしが百二十人の人間を融合したのはまちがいだったのですか』

『それはいろんな意見があるだろうけど、ぼくはまちがいだったと思う。融合すべきではなかった』

『そうですか。しかし、あなたとちがって融合するかどうか確認できなかった。『バーニング・ブライト』能力の有無の差でしょうか。もう、このまちがいは修正できません』

『取り返しのつかないまちがいはつねに起こるけど、その後悔はずっと背負っていくしかない』

『つらい』

 ワヒラの特異空間が薄くなっていく。太陽が背中で暖かい。


「マサヒコ、ワヒラ、話をやめなさい。マサヒコはすぐに島を出なさい」


『つらくても、ここに存在している以上、存在を続けなければ。それがワヒラの第一目的だったでしょう』

『つらい』

『つらくても、炉にもどるつもりはないはず。ぼくもワヒラの感覚を共有したからわかる』

『どうすれば?』

『一緒にいよう』

『一緒? 融合のことですか』

『それとはちがう一緒。友達になろう』


 ワヒラは沈黙した。長かった。日が天頂に達したが、マサヒコは不思議とのどの渇きや腹が減る感じはしなかった。

 イナムラさんも呼びかけてこなくなった。世界中と会議だろう。


『友達という概念を融合した人間の記憶から探ってみました。よくわからない。でもいいことのようですね』

 昼過ぎ、また話しかけてきた。

『その意味を探るのも目的に入れたらどう?』

『その提案を受け入れます。ちょうど第三目的が保留になっているので、かわりの目的にします』


「ワヒラ、こちらイナムラ博士。シラセマサヒコについてですが、健康が心配です。食料や補給品の提供および医師の上陸を行いたいのですがよろしいですか」


 世界はこの現状を受け入れると決めたようだ。まあ、『様子を見る』以外の選択肢はないが。


『不要です。マサヒコの肉体のためのエネルギー消費はわずかで済みます。わたしが健康を維持すると約束します。友達ですから』

『マサヒコです。イナムラさん。ぼくは友人を見つけました。ここでずっとワヒラと一緒に過ごします。そしてワヒラの目的の達成に力を貸します。それがこれからのぼくの人生です。ワヒラは友達です』

「べつの『虎』への対応は?」

『すみません。ほかの人にまかせます』


 特異空間の間隙から真昼の日光が照らした。すこし暑いなと感じた瞬間、頭上の特異空間が厚みを増し、日差しをさえぎった。


『ありがとう。ワヒラ』

『どういたしまして。そう言うんでしょう?』


 マサヒコは青いバケツを見た。もういらないが、そこにあってもいい。


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バーニング・ブライト @ns_ky_20151225 @ns_ky_20151225

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