三、キャンデーの包み紙
イナムラ博士は、マサヒコが博士と呼ぶのをいやがる。だから、いつもイナムラさんと言う。本人はもっとくだけて、名前のヨリコで呼んでほしいらしいのだが、さすがに失礼だろうと思うのと、なんとなく照れがあってそれはできない。
イナムラさんは、マサヒコが九歳のときに能力を発現してから、ずっと研修や訓練、精度の測定などを担当している。遠い親戚よりたくさん会っているだろう。歳は母よりすこし下なくらいだが、ずっと若く見える。本人は研究室で日にあたらず机に向かってばかりのせいだというが、どこまで本当かはわからない。
今日は定期精度測定で、マサヒコは近県の炉に来ている。二泊三日の泊りがけだが、両親はついてこなかった。いつもどおりだ。
測定は併設された研究所で距離やさまざまな条件を変えながら一日かけて行う。炉内の『異次元高エネルギー体』は『虎』とはちがい、予測不可能な乱数的挙動をせず、多数のセンサーで囲まれた炉内という限定された空間に存在するため、中核の座標を正確に測定できる。それとマサヒコの予想点とを比較して精度を出す。ほかの能力者もそうやっている。
測定では吐き気はしない。炉の中にいるのは『異次元高エネルギー体』であって、『虎』ではないからだろうと思うが、理由ははっきりしていない。
測定は順調すぎるほど順調に進み、マサヒコの三十-九十五という能力は発現時からまったく変わっていないとわかった。成長もおとろえもしていない。
「今回も変化なし。すばらしい」
イナムラさんはご機嫌だ。明るい口調で続ける。
「予備日、無駄になっちゃったわね。遊んでく? おもしろそうなテーマパークできたよ」
「いいえ、繰り上げて帰ります。勉強たまってますし」
イナムラさんはちょっと気の毒そうな顔をした。マサヒコはふつうの学校には通っていない。探知能力保持者であると確認されて以降、特別法が適用された。『虎』対応のため、マサヒコは義務教育すべての課程の通信での修了と一部課程の免除が認められ、未成年であるにもかかわらず、長時間や深夜の労働も認められている。また、心身に危険のおよぶ可能性の高い任務を行わせるため、本人の人権と両親の親権は一部制限されている。
「そっか、勉強か。物理学者になりたいんだよね」
「はい、『異次元高エネルギー体』について知りたいですから」
イナムラさんとはそういう私的な話もするようになっていた。進路についてはとても悩ましい。いまのマサヒコではふつうの高校へは通えず、通信制も定期的な面接指導や対面授業を必須としているところばかりだった。特別法は義務教育以上の高等教育までは対応していないし、そういう学校がマサヒコひとりを特別扱いしてくれるとは思えない。
だから、中学卒業後は高校へは行かず、一、二年ほど勉強して認定試験を受けようと思っていた。大学はネットでの課程を提供しているところが内外に多数ある。そうしたところに進学するつもりだった。その準備や遅れぎみの課題の仕上げで忙しくなっている。一日余裕ができただけでも助かる。
炉から駅までの送迎バスはそんなに混んでいなかった。遠慮したのに、イナムラさんは見送ってくれる。
「これ、おみやげ。学会に行った時の」
パステルピンクの読めない字が書かれたキャンデーの袋を手渡してくれた。
「ありがとう」
バスはかすかなモーター音と、周囲に聞かせるための走行音をさせて動き出した。イナムラさんは手を振る。はじめて会ったときと髪型以外はほとんど変わっていなかった。
炉の関係者しか使っていないようなひっそりとした駅で電車を待つ。送迎バスは電車の時刻表に合わせて運行されているが、間の悪いことに着いた頃に事故が起きて乱れていた。鹿と衝突したとのことだった。それで、予想以上の時間を待つことになった。
キャンデーをひとつなめる。まずい。なぜミントとチョコとカラメルの味がひとつになっているんだろう。甘ったるい歯磨きとしかいいようがない。イナムラさんの学会みやげのキャンデーはいつもこうだ。
そのうち、雨が降り出し、風も出てきた。待合室などないホームのベンチの上には屋根があるが、浅くて降りこんでくる。できるだけ奥の方へよけた。
マサヒコの世代はおだやかな天気をほとんど知らない。雨といえば大雨、風といえば大風。いつも極端から極端へ移っていく。これは、急激な温暖化によって大気中の水分が短期間に増加したことによる。
もともと温暖化傾向があったとはいえ、その進行速度が大幅に速くなった原因ははっきりしている。シベリアのタイガがほぼ消滅したせいだ。陸地でもっとも二酸化炭素を固定していた地域が『虎』によって丸裸になった。
マサヒコは退屈だったが、スマートフォンをいじる気にもなれなかった。電車がどうなってるか調べたところで早く来るわけではないし、ここにはほかの路線や代替輸送もない。それに、どうせ誰からも連絡なんか来ていない。ゲームは飽きた。
雨が本降りになってきた。あと少しの時間をつぶすため、頭の中で、研修で丸暗記した『異次元高エネルギー体』についての歴史や事実をならべてみた。
1999年、ロシアはエネルギー問題を解消し、周辺諸国に対して優位に立つため、新式の核融合炉の試験をシベリア北部のまったく利用されていない土地で行った。それは成功し、膨大なエネルギーが生みだされ始めた。しかし、成功しすぎた。新規に開発された装置が作りだした強力な磁場によって集中したエネルギーは空間を裂き、分解、消失する炉心周辺と引き換えに、『異次元高エネルギー体』をこっちの次元に引きずりこんだ。
融合炉の残骸のなかで驚きから覚めたロシアの科学者たちは、この『異次元高エネルギー体』を研究し、核融合をも超えるエネルギー源となると判断した。
後の研究では、それはこちらの次元では半径一、二メートルのほぼ球状の白い塊と、その周囲を包む濃い霧のように見え、全体の大きさは半径五から十メートル以上になることもある。境界はぼやけており、気体のように手応えはない。測定では物理的実体は検知されないが、肉眼で観察できる。一説には三次元的に投影された影のようなものと考えられている。
そして、実用上重要な点として、核融合炉の仕組みをほんの少し修正するだけで、その球を炉内に固定し、エネルギーを取り出すことができた。その際に余分な物質や熱、放射線等は発しない。つまり人間や環境に有害な影響を与えない。
取り出せるエネルギーの上限については取り出す炉や送電線などの設備に依存する。人類が用意できるもっとも良質の材料で高効率の機器を組み上げればそれだけのエネルギーが取り出せた。『異次元高エネルギー体』自体の限界については不明だが、シベリアでの事象によって一応の検討はつけられている。
しかし、科学者が『異次元高エネルギー体』を研究観察したように、『異次元高エネルギー体』も人間を感じ、触れた。とくに、その心に。そして、心の中の『悪』の概念を夢中でむさぼり、自らのものとして変異した。当時の記録は失われたが、現在の『虎』の研究からそのように推測されている。
『異次元高エネルギー体』や『虎』に心や知性があるかという点については議論があり、結論は出ていないが、心はなく、知的存在でもないというのが多数派の意見だ。
『虎』に変異するときに人間の心が重要な役割を果たすが、それは化学反応のようなものであって、人や動物のように判断しているのではないとされている。
この世に初めて誕生した『虎』は、やむを得ないとはいえ、対応の稚拙さから最悪の『虎』になった。行動は予測できず、敵意をむき出しにしていた。次元をすり抜ける転移によって炉周辺の研究基地に出現し、知性の感じられない幼稚な悪意をもって周囲を破壊した。不定形だが、研究棟を積み木のように破壊する姿はどことなく『虎』を思わせる輪郭をしていた。
多数の死傷者を出した後、ロシア軍と科学者たちは協力し、それまでの分析結果と核融合炉の予備部品からSDDの粗末な原型を即席で作って抑えこみにかかった。
能力者のいないなか、多数のセンサーを用い、幾度もの失敗とさらなる死傷者を出しながら捕獲はなんとか成功し、『虎』はその場に固定されたが、安定化させるための炉はなく、いまのように『異次元高エネルギー体』に戻すにはいたらなかった。
歪曲された空間に閉じこめられたままの『虎』は、自ら持つエネルギーを一瞬で爆発的に放出した。『虎』の非安定的かつ完全な消滅はこの時が初にして唯一だ。結果として、集結していたロシア軍、科学者たち、実験設備、そしてタイガが消え去った。
また、このとき世界中に伝わった『衝撃波』が人類を変え、『バーニング・ブライト』能力者を生みだすきっかけとなった可能性があると、現在の研究は示している。
当時のロシアには、これだけの事象を隠しとおしたり、他国の調査要請という名目の圧力をはねつけたりする力はもうなかった。すべての事実が明るみに出、わずかに残ったデータは世界各国に公開され、分析された。当初は次元の裂け目をふさぎ、二度とこのような事象が発生しないようにすることと、再発した場合の対処方法を確立するのが目的だった。
しかし、分析と研究が進むにつれ、目的はすこしづつ変更されていった。この素晴らしい存在を利用できないだろうか。
大小の被害を出しながら、数年で『異次元高エネルギー体』を取り出す手法と、封じる『炉』が完成し、SDDはその性能に磨きをかけられた。
『虎』を『異次元高エネルギー体』にもどす技術はロシアの残したデータの詳細な分析から早期に開発され、その過程でEADが発明された。
科学者と政治家は、『異次元高エネルギー体』に対し、危険だが、慎重にあつかえば制御できると考えるようになった。怪物的な存在だが、飼い慣らせる、と。
同時に、探知能力者の発生が報告され始め、科学的に証明された。能力者の年齢や性別、人種や地域の分布にかたよりはなく、能力者には肉体的変化は見られない。遺伝子も変化せず、ゆえに遺伝はしない。検査では見つからず、能力者が突然『バーニング・ブライト』状態になることで発見される。当初は新しい病気だと思われていたが、偶然、炉の近辺で発症した者が黒点が見えたと告げ、それが『異次元高エネルギー体』の中核に相当することが判明した。
もう、運任せでSDDやEADを使わなくていい。狙いをつけることができるようになった。
能力についてさらに研究がすすめられ、どの能力者も測定された精度に応じて任務を強制されるようになった。個人の人権という概念は、社会という集団の要求に対して抵抗できるほどの強さを持たなかった。
世界は、『異次元高エネルギー体』によって得られる利益と『虎』による被害を天秤にかけ、利用すると決めた。賢い決定だったのか、愚かな決定だったのかは議論が続いている。
そして2005年。マサヒコが生まれた年にはすでに『異次元高エネルギー体』の利用を適切に行うための国際組織が結成され、危険に対応するため『異次元高エネルギー体による特異事象対応機関』が設置された。『機関』にはタイガ消滅事件以降、一千万人に一人の割合で発生するようになった探知能力者が登録され、必要に応じて招集された。
2010年は比較的いい年だった。『異次元高エネルギー体』の制御が研究段階から実用段階に達し、安価で環境負荷のないエネルギーを大量に取り出せるようになった。漏出と、『虎』への変異という特異事象は散発的に発生したが、対応手順がしっかり定まったことで、人々は不安げではあるが、『異次元高エネルギー体』の利用に賛成票を投じた。
しかし、この結論はすでに決まっていたようなもので、実際のところ、人々には熟慮する時間などなかった。『異次元高エネルギー体』でなければ、タイガ消滅や、実験段階で発生した環境破壊から起きた気候変動から来る被害をどうにもできない。極端な気候は、過去の戦争以上の損害を発生させつつあった。
社会は『異次元高エネルギー体』から取りだされるエネルギーをすすってようやくゆとりを取りもどそうとしていた。
2014年にマサヒコに能力が発現し、特別法が適用された。イナムラさんに初めて会ったときの笑顔をよく覚えている。両親は無表情だった。
2015年のはじめての任務で、出動のときに青いバケツをもらった。使うものかと思っていたが、ほとんどの場合、使うことになった。いつも、折りたたんで料理などにつかう密閉できる袋に入れ、かばんにほうりこんである。いまではお守りのようなものとなった。
2020年。もう三十回以上出動し、『虎』の攻撃を受けながら中核を予想してきた。『バーニング・ブライト』状態には簡単に遷移できるようになった。指をならすようなものだ。でも、吐くのは治らない。ほかの能力者には不快になるだけで吐かない者もいるので、これはかなり個人差があるらしい。しかし、薬などでは抑えられなかった。
いまでも、科学者たちは炉内の『異次元高エネルギー体』や『虎』の記録データを分析し、人の心に触れて『虎』に変異し、狂暴化するしくみを研究している。『虎』の発生には、漏出した『異次元高エネルギー体』と、五人以上の複数の人間との接触が必要だという点のみはっきりしている。接触された人間は例外なく、幼児にもどって暴れたり、ものを壊したりする鮮明な幻覚があったと証言した。
『異次元高エネルギー体』は人間の『悪』の概念によって『虎』に変異するのだろうか。知性のない、幼稚な『悪』だが、タイガを消滅させるだけのエネルギーを内包している。
それに対して人類のできることは少ない。ただ捕獲、回収、炉に転送して復旧できるようになっただけだ。漏出の件数は年々減少しているが、それでもゼロにはならない。むしろ、最近は横ばいの傾向にある。
現在、日本には七基の炉がある。一基で全国のエネルギー需要の二、三割をまかなえる。一方で漏出は年に八、九件ほどある。日本だけではなく、どこの国でもそんな統計になっていた。つまり、年内にくりかえし漏出させてしまっているということであり、単純な事故とはちがい、厳重な監視や注意ではどうにもならないなにかがあると示しているが、それもよくわかっていない。
ただ、くりかえし漏れ出て『虎』として暴れているにもかかわらず、その行動からは経験を蓄積している様子はなかった。
雨はさらに激しくなり、雨滴は大粒になってきた。まだこない。ホームには集まってきた人が屋根の下からあふれだしていた。あざやかな色の傘や雨具が背景からくっきりと浮かんでいる。マサヒコの情報はきびしく制限されているため、だれの注意も引かない。それに、ここにいるのはほとんどが炉の職員なので、なかには分かる人もいるのだろうが、放っておいてくれる。
大げさで目立つ警備はついていないが、公共の場には監視機器が必ずあるので、その映像を担当者や人工知能が分析している。そのためと、世界各国の暗黙の了解により、お互い手出しするようなことはせず、能力者が事件に遭った例は無かった。
だから表向きはひとりで自由に行動できる。そして、ひとりにはもう慣れた。同年代の子と最後に会話したのはいつだったか、思い出せない。そういえば、両親とも用事以外あまり口をきいていない。進路についてもよくわかっていないだろう。
アナウンスが流れ、ようやく電車が到着した。雨をはじき、あたたかい水滴が顔にかかった。
乗る前に、もうひとつキャンデーを口にほうりこんだ。ひどい味だと思いながら、マサヒコは包み紙のしわをていねいにのばしてノートにはさんだ。もらったキャンデーの包み紙はこうして残している。もうだいぶたまった。
窓の外を通りすぎる景色はたたきつける雨でゆがんでいた。歪曲空間にとらえられた『虎』も、こんな光景を見ているのだろうか。いや、空間そのものが曲がって閉じこめられているのだから、その『虎』にとっては外は存在しない。ちょうどわれわれがこの宇宙にいるのとおなじだ。
雨の景色を眺めながら電車にゆられて十分ほど経ったか経たないとき、『機関』のスマートフォンが独特のパターンでふるえた。
『つぎの駅で降りてください。改札外で車が待っています』
田舎の駅の無人改札を抜けると、窓のない車が停まっていた。気のきかない停め方で、頭と肩が濡れた。三人乗っていたが、全員知らない顔だった。車が動き出すと、指揮官がパッドに地図を表示しながら口を開いた。
「このビルの最上階に転移した」
「なんとかと煙は高いところが好きっていうけど……」
「は?」
「ううん、なんでもない。高さはどのくらいですか」
「六十メートル。十七階建て」
これは厄介だ。有効半径まで『虎』が頭上にいる建物を歩いて登らなくてはならない。探知可能な球内に余裕をもって入れようと思えば、けっこう上まで行かないといけない。マサヒコは身一つでいいが、携行型のSDDをかつぐ担当者はもっと大変だ。
マサヒコはスマートフォンでビルの情報を確認した。最上階はだいたい二十かける三十メートルの長方形だった。五、六階下まで登ればいいだろう。中央で『バーニング・ブライト』に遷移しないといけない。
「レストラン兼展望台なんですね」
「そう。転移時、三十人前後の観光客がいたと思われる」
画面から顔をあげて指揮官の目を見た。かれはゆっくり首をふった。
「救助活動は警察や消防と協議の上、行われないことになった。すでに周辺にも被害が出ている」
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