七、殻の外へ Ⅰ
軍の宿舎は想像より居心地がよかった。本来四人部屋だったのをひとりで使っているせいもあるかもしれない。港と空港がある基地だったが、防音や防振はしっかりしていた。
窓から新しい景色を見ながら、家を出る前の母の態度を思い返してみた。部屋のドアのところに立ち、当面の着替えや洗面道具などを準備するマサヒコを見ていた。
「父さんには連絡した?」
「した。体に気をつけろって」
「いつ帰ってくるの?」
「前に言った通り。六ヶ月後。でも延長もある」
「断れないの?」
マサヒコは手を止めた。いまさらなにを言うのだろう。
「ねえ、断って、家にいたらいいじゃない」
胸の前で両手をもんでいる。
「そんなんじゃないよ」
「じゃあ、なんなのよ。なんでマサヒコばっかり」
「ぼくだけじゃない。人にない能力があるから。ぼくらは」
また荷造りを始める。荷物は少ないのに変にかさばってきちんと収まらない。あれこれと入れ替えてみる。すこし考えたが、青いバケツと包み紙コレクションは入れた。たいした荷物ではないし、やはり手の届くところに置いておきたかった。
「子供はいつか家を出るものだって思ってたけど、早すぎる」
「でも、この便利な生活を捨てる気はないんでしょ?」
「ひどいこと言うのね。その通りだけど」
みんなそうだ。能力者に関わる特別法ができた時、反対や批判はあったが、『異次元高エネルギー体』の利用そのものについての反対は無かった。誰も、『虎』以外にリスクのないエネルギーに面と向かって反対することなどできなかった。いや、しなかった。
だから、いまさらなにを言うのだろうと思う。
「『バーニング・ブライト』なんてふざけた能力、無かったらいいのに」
「たらればの話はしたくない。ぼくはいまの社会を維持する根本の部分に関わってる。この仕事を誇りに思ってる」
研修で聞かされたことを言った。
「嘘。そんなんじゃないでしょ」
母は見抜いていた。
「そうだね。そんなの考えずに夢中でやってきた。子供の頃からほかの生活はなかったし」
「あなたを取り戻すために手を尽くしたけど、合法的にできることはなにもなかった。国や世界を相手になんかできなかった。この件に関しては人権団体なんていうのは全然役に立たなかった。そもそも手を貸してくれなかったし」
マサヒコはうなずいた。過去に例を見ない天災が頻発し、戦争なみの被害が目の前に発生した。それを食い止められるというのに個人の人権などかまってはいられない。
荷造りの終わったかばんを肩からかけ、母の横を通り抜けて家を出た。マサヒコも、母も泣かなかった。涙はずっと以前に流しきってしまっていた。
宿舎に落ち着くとすぐに共同演習が始まった。軍隊の行動は慣れるまできつかったが、慣れてしまうとひとつひとつの動きが合理的であり、かえって楽だとわかった。また、食事は良かった。マサヒコの若い食欲を充分に満たすだけの味と量があった。国防軍はその点においてすばらしい組織だった。
しかし、移動の演習は楽になることはなかった。早朝、深夜、気象状況にかかわらず出動の訓練を行った。抜き打ちもあった。いつの間にか目標時間は十五分から十二分になり、しばらくすると十分を切ることが要求された。
乗りこむ機体もさまざまで、ヘリコプター、垂直離着陸輸送機、戦闘機、それに水上輸送を想定し、高速艇までつかって訓練した。現場への到達を確実にするため、法が改定され、モーターボートやバイクの操作まで習わされた。
国防軍の兵士たちはしかし、いつまでたってもマサヒコをお客様、いや、よそものあつかいした。それがかれらなりの『機関』という組織に対する思いなのかもしれない。国民を守るために自らの身命をなげうつ覚悟を決めている者たちからすれば、『機関』の行動方針は理屈としてはわかっても、心から受け入れがたいものがあるのだろう。いくら政府が全面協力すると決定したとしても、末端の兵士たちはこんな組織に協力するなど恥ずかしく、腹立たしいのかもしれない。
「……シラセ君、ベルトの締め方が違う。それだと衝撃が加わったときに胸を痛めてしまう……」
「……そう、だいぶ良くなった。タイムが五秒縮んだ……」
「……ハンドルはもっと小さくきる。無駄な動きが多い……」
「……では、これで訓練を終わる。解散」
ほかの隊員たちは連れ立って食堂などへ向かうが、マサヒコに声をかける者はいなかった。訓練には時々、能力者ではない『機関』の隊員も加わったが、かれらは終わり次第すぐに帰っていった。国防軍と『機関』は礼儀正しくお互いの間に壁を作っていた。
マサヒコのような能力者は、国防軍宿舎で生活しているのに、その壁のせいでだれとも打ち解けなかった。
ここでも、マサヒコはひとりだった。
訓練時間の増加に反比例して勉強は遅れていったにもかかわらず、かつ、期限に間に合わなかったうえに自分でもあまりよくできたとおもえない課題で優等が取れた。その結果、予定通り中学を卒業できることになった。あきらかに実力ではない。いまの自分の学力はよくわかっている。とくに数学がひどく、一、二年程度の独学で認定試験に合格できるかどうか自信はなかった。物理学者の夢はあきらめたほうがいいかもしれない。
でも、なにものかにはなりたい。『バーニング・ブライト』能力だけが自分の価値だなんていう人間にはなりたくない。そのためにいまできるのは勉強だけだ。それはわかっているが時間がない。『機関』や軍の装備のあつかいばかり上手になっていく。
自分はなにになりたいのだろう。仮に、今『バーニング・ブライト』能力が消え失せたとして、どんな将来があるのだろう。
なんでもいい。人の命について悩まなくてもいい仕事がしたい。それでいて、たくさんの人と触れ合い、話ができる仕事。教師などがいいかもしれない。
しかし、『バーニング・ブライト』能力が消滅したという事例はない。年齢によって変化したという事例はあるが、能力そのものはなくならない。
スマートフォンが振動し、宿舎に警報が鳴った。
「訓練警報。繰り返す。訓練警報。『虎』発生……」
マサヒコは飛び出した。廊下を最短経路で駆け抜ける。スマートフォンの画面には集合すべき場所が表示されている。こんどは高速艇だ。宿舎から一番遠いが、またタイムを縮めてやる。今のぼくにはそのくらいしかやる価値のあることはない。
走りながら手の感覚だけで装備を整える。すれ違う国防軍の兵士たちは道を譲ってくれる。心の壁があるとは言え、こういう事で幼稚な意地悪はしない。『機関』の方針は嫌っていても、任務の重要性は心得ている。それだけは確かな事だった。
そんなある日、特別待機任務が始まってから初めて特異事象が発生した。通常の単独転移だった。転移場所の関係からマサヒコは待機のみで現場出動はしなかったが、後の報告を読むと、当初の計画通り到着までの時間はほぼ半減し、早期に回収できたため、周辺被害は小さくなった。
しかし、一方で、能力者たちの精神的な問題は無視できないものとなっていた。この任務で、予備に指定された二名のうち一名が出動を拒否していた。宿舎のベッドにすわりこみ、刃物を自分の首に当ててだれも近寄らせなかったが、差し入れの水に手を出したところを取り押さえられ、薬物で安静状態におかれている。
『機関』はこの事態を受け、ようやく重い腰をあげて精神的な問題に対応する部署をつくり、機密保持に同意した外部の専門家が雇われた。
マサヒコも診断を受けたが異常は認められないとの結果だった。『虎』に対して感じた感覚も、自分で幻覚だったと処理している点が評価され、治療の必要はないとのことだった。いわば、専門家にも『様子を見よう』と結論づけられたようなものだった。
けれど、正常と診断されたのではない。マサヒコの受け取った診断結果には『異常は認められず』と記載されていた。
担当の医師に相談すると、そんなに深く考えて気にすることはないと言われた。あのようなことがあったので、単純に正常と診断できなかったにすぎないと説明された。それに、君くらいの年齢で正常といえるくらい精神が安定していたらそっちのほうがおかしい、と冗談めかして言われたが、なんとなくわざとらしかった。
部屋に帰ってひとりで考えてみたが、うまくまとまらなかった。異常が認められないと言うんだから素直に受け取っておけばいいと思ったり、いや、正常と歯切れよく診断できなかったのにはなにか事情があるのだろうと考えたりした。
あんな幻覚を感じた自分の精神はどうかしているのだろうか。『虎』に暖かみや、友人になれるかもなどと感じたのは、心が壊れたのか。
医者は大丈夫だと言ったが、なにかを隠していないだろうか。『機関』が情報を操作するなど珍しいことではない。報道に対して常に行なっていることをこっちに向けてするだけだ。
ただし、仮にそうだとして、なぜ異常を隠すのか。理由がない。異常なら異常と告げて早く治療したほうがいいに決まっている。あんな事件を起こす前に。
あの能力者のその後はわからない。正確な報道はされず、能力者が任務遂行に支障をきたす病気により治療を受けると発表されただけだった。日本の貴重な能力者が一名任務から外れると言うのに、病気の詳細や治療の経過については発表されず、報道機関が独自に取材を進めることはなかった。
おかしいという声は上がったが、小さいもので、そのうち消えてしまった。だれも『機関』に関わることに深入りしたがらなかった。明るい夜を失うのが怖いのだろう。
宿舎での生活や訓練が日常となった春の日、卒業証書が届いた。証明コードを自分のプロファイルに紐づけると、マサヒコは義務教育の全課程を終えたことになった。宿舎の窓から見える遠くの公園の桜がぼんやりとかすんでいた。
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