五、小さな世界

 家の風呂のシャワーヘッドがまたちがうのになっていた。母だろう。これは健康にいいとか、節水になるとか、趣味のようなものだ。今度はなんだろう。


「健康によくて、節水になるの」

 風呂から上がって聞くと、そう答えた。リンゴをむいてくれる。それから、シャワーヘッドについて答えたのと同じ口調で言った。

「父さんと話し合ったんだけど、わたしたち、離婚するから」

「そう」

「届けはもう出したから」

「いつ?」

「一昨日。マサヒコが再教育受けてた時」

 なんの相談もなかったが、なぜかその事に怒りを覚えなかった。それに、両親の事なのにまったく気付かなかった自分、無関心だった自分を思うと、批難する気にもなれなかった。

「今年に入ってから、父さん、出張多かったでしょ。あれ、試験的に別居してみてたの。気づいてた?」

 マサヒコは首を振る。母は悲しそうな、ちょっと怒ったような、複雑な表情をした。嘘でも、気づいていたが、気を遣ってなにも言わなかったと答えたほうが良かっただろうか。しかし、嘘は面倒だ。それに、母に芝居をする気にもなれなかった。

「それで、別れようって決めたの。別々の人生を歩もうって」

「分かった。反対しない。それで、今後はどうなるの?」

 マサヒコはリンゴをつまむ。甘くて歯触りもよかった。母はあとをつづけて一気に説明した。


 母が親権を持つ。父は月に一回面会する権利を行使できる。それと入学、卒業式など母が認めた重要な行事に出席できる。ほかには、母は家と土地、父は有価証券を取った。母も収入があるので養育費などは取るつもりはないという。

「あなたにも収入があるし、経済的にはこまらないから」

 マサヒコは自分に支払われている給与や手当を考えた。たしかに一般の平均年収の倍以上は稼いでいる。それも離婚をあと押ししたのだろうか。


「理由、聞かないの?」

 だまってまたリンゴに手を伸ばした時、母がたまりかねたように言った。

「ぼくが将来なにになりたいか知ってる? そのためにどういう進路を取ろうとしているかも」

 逆に聞きかえした。こんどは母がだまりこんでしまう番だった。


「リンゴごちそうさま。おやすみ」

 じっとリンゴの皿を見ている母をのこして二階の自分の部屋に行き、鍵をかけた。作業のようにたまりにたまった課題をかたづける。深夜までかかって三分の一ほどかたづけた。

 ベッドに入ってみたが、疲れているはずなのに眠くならない。しずかで明るい夜。物心ついたころから夜はずっとこうだ。イナムラさんや両親によると、むかしはこうではなかった。エネルギーは高く、供給もかぎられていたため、むだのないように節約しながら利用するものだった。公共の交通機関は二十四時間運行ではなかった。また、はげしい気象の変化にもろく、大雨や大風で電車が遅れたり止まったりしていたし、ときには都市部でも冠水があったという。

 環境負荷がなく、安価で大量に供給されるエネルギーはそれらすべてを変えた。なにかものを作ったり、サービスを提供したりするときにエネルギーの心配をするのは二の次でいい。防災のための設備が必要ならすぐ建設にかかろう。人や物は夜だからといって止まらなくてもいい。好きな時に好きなだけ移動できる。食料を増産したければ人の住まない砂漠だろうとどこだろうと作ればいい。水がないなら海水を蒸留すればいい。土を肥やしたいならよそから肥料をはこびこもう。タイガや破壊された自然は植林したり修復したりすればいい。あまりに広大なので時間はかかるが不可能ではない。すでに試験計画がうごいている。

 人類がやりたいことをエネルギー不足がじゃますることはない。『異次元高エネルギー体』は実質無限で環境にとって清潔なエネルギー源だ。特異事象以外は。

 危険があってももうもどれない。それはみんなわかっている。特異事象のたびに目を覆わんばかりの凄惨な被害が発生するが、その情報は制限されているうえ、過去と比較して現在に満足している者が多数派のため、反対者はいつも少数派で社会をうごかすにはいたらない。


 でも、とつぜん『虎』が転移してきて、かんしゃくを起こした幼児がほうりなげる積み木か離乳食のようにたたきつけられた人々の遺族たちはその理屈で納得できるだろうか。調査では、たいていの場合、転移後即時死亡と推定されている。なにが起きたかもわからないうちに、安価でゆたかなエネルギーのために落とし穴に落ちるように人生を終える。被害者だって賛成票を投じた者が大半だろうから、それでいいのかもしれないが、投票のときに自分の死が見えていた人なんかいないだろう。

 その意味では自分だってそうだ。いまここに転移してきて、自分と母が殺されるかもしれないなんていちいち考えない。でも、それはあり得ることだ。窓の外の、あの街灯を点灯させつづけるエネルギーのために死ぬ可能性がつねにある。むかしはなかった死の形だ。


 父からメールが着信した。離婚について父らしく要点をまとめて書いていた。研修のレジュメのようで読みやすい。電話じゃないのも父らしい。ごちゃごちゃ話すより文章のほうがいいと思っているのだろう。

 しかし、読みやすいだけで離婚の理由はよくわからなかった。生活が変わりすぎたと書いてある。マサヒコのせいとは一言もないが、ほかに要因はないだろう。そのせいで愛情がなくなり、別々の人生を歩むと決めたとあった。要は「マサヒコ、こうなったのはおまえのせいだ」と言っているようだった。母もそう思っているのだろうか。そうだろうな。離婚するとは言え、この点においてふたりの意見は一致するだろう。

 それから、来月会えないかとあり、つごうのよい日を連絡してくれと最後につけくわえてあった。父はなにも理解していない。ぼくを来月の予定がわかる種類の人間だと思っている。だから返事はせず無視することにした。


 まだ眠くならないので、名字変更の届けを作って必要なところに送信した。シラセマサヒコになる。あたらしい名前をなんどか頭のなかでころがしてみる。サガミとどっちが発音しやすいだろうか。濁音がない分シラセだろうか。でも、どっちでもサ行始まりだし、大して変わりない気がする。

 ため息をついた。そういう無意味なことを考えるのは逃げているのだろう。でも、何から?


 自分の人生からだ。両親が離婚して大きく変わろうとしているのに、変化を認めたくない。自分だけはそういう流れと関係ない岸辺にいるつもりでいたいのか。冷静で、客観的な視点を崩さないマサヒコ君を装って生きていく。それもいいかもしれない。

『バーニング・ブライト』なんて能力があるかぎり、自分の人生に向かい合って生きていこうとしても無駄だ。ぼくは今までも、これからも、『虎』の中核を探知して吐き続ける。その作業の隙間に自分の暮らしをはめ込んでいく。そうするしかない。そうして、明るい夜を守り続ける。


 頭を振った。考えすぎだ。いくらなんでももう横になろうと思っていると、『機関』のスマートフォンがふるえた。いつもとちがうふるえ方だ。これは緊急ではない連絡で、中国地方で誤検知とのことだ。漏出は発生していないが、念のため通知という内容だった。いじわるなもので、寝ようとしたら寝かせてくれない。誤検知であっても、そもそも警報がでたという点が問題なので、安全が確認されるまで待機任務が発生する。服を着替えてかばんを用意した。用意したといっても二、三日分の着替えと洗面用具、モバイルバッテリーに青いバケツはつねに入れっぱなしにしてあるので三分とかからなかった。


「どうしたの? まだ寝ないの?」

「待機中」

「そう、じゃ、さきに寝るわね。おやすみ」

「おやすみなさい」


 午前四時、待機終了。一時半に仮眠を許可するという、実質は寝てもいいよという連絡がきたが、なんとなくそのまま起きていた。課題をさらに進められはしたが眠い。目が覚めると昼過ぎで、ほかにだれもいない家はしずかだった。顔を洗って冷蔵庫のありあわせで食事をすませる。もうすっかりなれているのでなにも考えなくても体がかってにうごく。

 それからまた課題をする。ほかにすることもない。出かけようにもとくに行きたい場所もない。

 夕方、帰宅する学生たちが窓の下を通りすぎていく。マサヒコは制服を着たことがない。防具のつけ方は知っているが、あのネクタイの結び方はわからない。


 その学生たちの中に、顔を知っている女の子がいた。学校に行かなくなってからもしばらく遊んでくれた子。学校帰りに時々家に寄ってくれていたそうだが、研修や任務で留守がちになり、徐々に距離ができて、連絡もしなくなり、道ですれちがっても会釈もしなくなった。

 他人から知人になり、友人になるのは困難なのに、その逆は簡単にできる。時間と距離をおけばいい。

 歩いていく学生たちは明日遊ぶ約束をしている。マサヒコにはできないことだ。あの子もそうしているのだろう。明日や週末の予定が立てられる生活。みんなと一緒に登下校できる毎日。だれかと意味のない話ができる時間。


 こんなくらしのせいで、あんな幻覚を感じたのだろうか。いまでは、あの感覚が幻覚だったと納得している。特異空間につつまれたはずなのに、センサーにはなにも記録されていない。どちらかがまちがっているのなら自分だ。『虎』なんかに暖かみを感じた自分は、思っている以上に孤独感につぶされようとしていたのだ。

 ひとりでもなんとかなると漠然と考えていたが、そうはいかないのだろう。あれは現状に対する自分自身の発した警報だったにちがいない。でも、この警報にはどう対処すればいいんだろう。


 課題を閉じて、パッドに意味のない落書きをしながらそんなことを考えていると、臨時ニュースが表示された。


『機関、仏で発生した特異事象にEAD使用。同時漏出した二体の合体現象への対応』

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