第二章 瞑眩の刃(二)

 翌朝、いつもより早く家を出て、二キロほど離れている千奈津ちなつの家に徒歩で向かった。呼び鈴を鳴らすと、すぐに制服姿の千奈津が現れた。

「おはよう、宇佐美君」

「おはよう。――時間、少し早かったか?」

「ううん、ちょうど出るところだった」

 千奈津が戸締まりをするのを待ってから、一緒に駅へと歩き始めた。

 並んで歩きながら昨夜の電話の件を説明した。

「――昨日、一条さんから俺宛に手紙が届いた。仁科に暴行したのは生徒指導の猪目いのめで、次に千奈津を狙っているらしい。手紙を出したのは亡くなる直前だったみたいだ」

 千奈津は静かにうなずき、しばらく経ってから俺の顔を見上げた。

「一条さんは、猪目先生に殺されてしまったの?」

「これから警察が調べてくれる。あと、千奈津に護衛を付けてくれるらしいが、それらしい人はいるか?」

「後ろに止まっている車の、女の人がそうだと思う」

 立ち止まって振り向くと、千奈津の家から少し離れたところに白い軽自動車が止まっていた。あれも覆面パトカーだろうか。俺は運転席に向けて頭を下げた。相手に伝わったかどうかは分からない。

「ところでこの前、仁科にしなを見舞ったときに家までつけてきた奴、猪目だと思うか?」

「……分からない」

 千奈津は首を横に振った。

「でも、もし猪目先生なら、もう少し近づけば分かるはず」

「そうか。――でも危ないから不審な人間には近寄るなよ?」

「うん、分かった」

 俺たちはそのまま教室まで一緒に登校した。

 席に座ってしばらくすると、佐藤がものすごく不機嫌な顔で教室に入ってきた。俺を一切見ないまま着席し、顔を向けても目を合わせようとしなかった。自分で言うのも何だが、あんな電話対応をされたら怒るのも当然だ。どこかで話す機会を作らないといけないが、何を話すかがまだ整理できていなかった。


 二限目の英語の時間に教科書を開くと、ノートの切れ端がたたんで挟んであった。開くと丁寧な字で伝言が書いてあった。

『昼休みに特別棟の屋上で待つ。 by 佐藤』

 午前中の授業が終わると、特別棟へと向かった。

 屋上へと出る扉はすべて、一条が亡くなった後に施錠されたと噂で聞いていたが、予想に反して鍵は掛かっておらず、すんなりと開いてしまった。佐藤が開けたのだろうか。

 外に出ると真っ青な空が目に飛び込んできた。その色彩に眩み、思わず目を細める。

「おーい。史朗、こっちこっち!」

 上の方から声がするので振り向いて顔を向けると、給水塔のタンクの隣に佐藤がいて、大きく手を振っていた。白のセーラー服に紺のスカートが風で揺れていて、正直、目のやり場に困る。できるだけ佐藤を気にしないように目をそらしながら錆びた梯子を昇った。

 給水塔に上がると、佐藤は笑顔で手を合わせた。

「偉い、約束通りちゃんと来てくれた!」

「ここの扉の鍵、どうした?」

「通信教育でゲットした開錠かいじょう術でちょちょいのちょい」

「……冗談でも見つかったらしかられるぞ」

「ふーんだ。怒られるのには慣れてるから平気だもんねー」

 そう言うと佐藤は笑いながら手で髪をすいた。

「あたし、ここからの眺めが好きなんだ」

 佐藤は目を細め、嬉しそうに声を上げた。隣に並んで同じ方角に目をやると、ちょうど俺や千奈津の住んでいる町の方角で、眼下に街並みが広がっていた。さすがに距離があって自宅までは分からなかったが、頂上に小さな神社が建っている近所の丘が見えた。爽やかな初夏の風が街を渡り、優しく頬を撫でる。

「――なあ、佐藤。俺を呼んだ理由は何だ?」

 用件を尋ねると、佐藤は俺に顔を向けてにこりと笑った。

「えへへ。昼放課の屋上デート?」

「ふざけるな、帰るっ!」

「待って」

 佐藤は腕をつかんで俺を引き留めた。振り向かずに腕を振りほどこうとしたが、佐藤はしっかり握ったまま放さなかった。

「その手を放せ」

「どうして一条会長と仁科の件から手を引かないといけないのか、今、ここできちんと説明して」

「…………」

 覚悟はしていたが、俺を呼び出したのはやはりその件だったか。俺は緩んだ佐藤の腕を振り払うと、背を向けたまま首を横に振った。

「理由はまだ言えないと、言ったはずだ」

「じゃあ、いつになったら話してくれるのよ?」

「それは……」

 俺は口ごもり、そのまま押し黙った。

「言いたくなければ黙っていても構わないけれど、納得できる理由を説明してくれない限り、あたしはやめないからね」

 振り向き、正面から見つめ合う。

 真剣な目。佐藤は見掛けによらずかなりの頑固者で、半端な理由では納得しないことを知っている。だが、それを承知の上で、俺は察してくれと頼んでいるつもりだったが、通じなかったようだ。

 互いに引かぬまま時間だけが過ぎる。分かってくれ、頼む。飲んでくれ。どうしても、お前から折れてはくれないのか――。

「佐藤、俺はお前のために――」

「あれから、仁科についてもう少し調べてみたけれど」

 佐藤は俺の発言を遮ると、うつむいて小さく吐息をついてから言葉を継いだ。

「――仁科、事件の直前にストーカー被害に遭っていたのね」

「…………」

 昨晩、差出人不明の手紙を読んで初めて知ったことを、佐藤が既に抑えていたことに驚き、声が出なかった。

「仁科へのストーキングと暴行事件、そして一条会長の死。偶然かもしれないけど必然かもしれない。だから史朗はあたしに手を引くように言ったんだ。そうよね?」

「…………」

 正面に立った佐藤は、まっすぐな目を俺に向けた。

「でも、どうせ史朗のことだから、あたしにはやめるように言っておいて、自分一人で調べるつもりだったんでしょ?」

「そんなことはない」

「嘘つき」

「…………」

 俺は無言のまま視線をそらした。隣で大げさにため息をつく気配がした。

「教えて。どうして史朗はこの件にこだわるの?」

 こだわる――確かにこだわっているのかもしれない。入院中の仁科を見舞ってから始まったことだが、なぜこの件に関わるのか。目的は何か。単なる好奇心ではないとは思うが、正直言って自分でもあまりよく分かっていない。

「たぶん、……意地だと思う」

「それは違うんじゃない?」

 俺は顔を上げ、佐藤を見た。何が違うというのか。

「ねえ、史朗。ちょっと手を貸して」

 無言で手を差し出すと、折りたたんだ小さな紙切れを渡された。開いてみると、呼び出された紙と同じノートの切れ端で、女性と思しき二人の名前と入学年度、クラス名、そして何かの年月日が記されていた。

「これは、何だ?」

「最近、仁科と同じように、何者かから暴行を受けて、頭に傷を負った生徒が他に二人いた。しかも二人とも事件直後に死亡している。不登校になってからの事件だったから、学校側は公表しなかったみたい。ちなみに、最後に書いてある日付は死亡日」

「…………」

 とっさに言葉が出てこない。佐藤がそこまで調べていたという驚きより、何より事件の大きさに恐怖した。もし事実なら単なる偶然では済ませられない。これは連続傷害・殺人事件で、一条が殺されたことも決して不自然ではない。つまり、俺が考えていたよりずっと危険な山だということだ。

「佐藤、もうやめろ! これ以上、この件に関わるな!」

「史朗がやめたら、あたしも手を引く」

「そんな約束できるか!」

「ほーら、やっぱり。それじゃあ、お互い様ね?」

「…………」

 何を言われても聞かない。引かない。佐藤の目が強く訴える。

 俺は唇を噛み、その場に土下座した。

「この通りだ、頼む! 誰かが巻き込まれて傷つくのは嫌なんだ!」

「…………」

 いつまでも反応がないので頭を上げると、佐藤は悲しげな目で俺を見下ろしていた。

「あいにくだけど、もう巻き込まれてる」

 それは否定できない。再び頭を下げ、コンクリートに額をこすり付けた。

「お前が危ない橋を渡る必要はない。一条さんのことはもう警察に任せておけ!」

「史朗、頭を上げて」

 佐藤は抑揚のない声で言った。

「勘違いしないで。これは個人的な事情でやっているだけで、一条会長は関係ない」

「しかし」

「気遣ってくれる気持ちはありがたいけど、あくまであたしの問題。だからけじめをつけさせて」

 佐藤の言うけじめとは何なのか、俺には分からない。だが、自分から言い出さないということは、尋ねたところで答えてはくれないのだろう。一年間の付き合いでそれくらいは分かる。

 俺は立ち上がると手足の土埃を払い、佐藤に顔を向けた。

「それ以上の理由は、言えないんだよな?」

「うん、……ごめん」

「じゃあ一つだけ約束してくれ。――危険なことはしないと」

「善処する」

「……頼んだぞ」

 佐藤は手すりを両手で握ったままうなずくと、遠くに目をやった。

「もう少しここにいたいから、悪いけど史朗は先に教室に戻って」

「分かった」

 校舎の中に戻る扉に手を掛けたときに振り向くと、一瞬、佐藤と目が合った。距離が離れていて、しかもすぐに顔をそらしたためよく分からなかったが、何か言いたげな表情に見えた。

 その目が何を訴えようとしていたのか、俺には分からなかった。


 授業後、図書室で二人の被害者に関する情報を集めることにした。だが、一時間探しても望んだものは手に入らなかった。どうやらここでは、個人情報のたぐいは扱っていないようだ。当たり前といえばそれまでだが、実際に動くまで分からなかった。

 ふと、佐藤が以前に保健の先生から話を聞いていたのを思い出した。確か名前は国生こくしょうだったか。思い切って駄目元で足を運んでみることにした。

 保健室の扉をノックすると、中から明るい女性の声で返事があった。

「はい、どうぞ。開いてますよー」

「お邪魔します」

 グレー系の地味なシャツとスカートの上から、純白の白衣を羽織った女性が、カーテンの開いた窓際でたたずんでいた。小柄でスレンダー、しかもびっくりするくらいの童顔で、大桃とは別の意味で年齢不詳だ。腰の辺りまで伸びた長い髪を素っ気ない髪留めでまとめ、白衣のポケットに手を突っ込んでいる様は、大学の研究室にいる学生のようにも見える。

 部屋の中を見回すと、ベッドを含めて他には誰もいないようだった。

「ようこそいらっしゃい。君は二年の宇佐美君よね?」

「…………」

 初対面でいきなり名前と学年を言い当てられ、思わず後ずさりする。自分で言うのもなんだが、学校の成績も運動能力もそれほどいい方とは言えず、あまり目立たない、どこにでもいるごく普通の生徒のはずだ。

「……俺を、知っているのですか?」

「養護教諭たるもの、全校生徒の顔と名前くらい覚えていて当然です」

 そう言って得意げに胸を張って答えた。気のせいか、どこかふざけているときの佐藤と似ている。ひょっとしたら、佐藤はこの人から影響を受けたのかもしれない。

「ちなみに、かわいい子は誕生日や血液型なんかも知ってるけどねー」

「あの、冗談ですよね?」

「宇佐美史朗、男、二年九組、級長、三月三日生まれ、血液型はBO+」

「…………」

「んー? まだ疑っているのなら続けようか。昨年九月までハンドボール部に所属、石龍せきりゅう中学出身、父母と三人暮らし、友人から極秘入手した情報によると好きな女性のタイプは――」

「微塵も疑っていません! 本当に、すみませんでした!」

 声を上げ、慌てて頭を下げる。

 ぱっと見は温厚で優しそうに見えるが、絶対に敵に回したらいけないタイプの人だ。これほど記憶力がいいのなら、もっと噂になってもよさそうな気がするが、きっと俺のアンテナが低いだけなのだろう。

 国生は口元に手を当て、くすりと笑った。

「実は知っている情報はさっきのでおしまい。初めて保健室にやって来る生徒をからかうのが楽しくて、頑張って覚えるの。どう、偉いでしょ?」

「偉いというか、その、……とても心臓によくないです」

 仕事にある程度関係しているとはいえ、千人以上いる全校生徒の個人情報を、伊達や酔狂で記憶できるものではない。ひょっとしたら頭の作りから違うのかもしれないが、それを差し引いても、いったいどれだけ努力したのだろう。

 とりあえず、ここに求めるものがあるのは間違いなさそうだ。

「というわけで、改めてはじめまして。養護教諭の国生こくしょうです。宇佐美君はどこか怪我でもしたのかな? それとも何か悩み事の相談かな?」

 にこやかに微笑む国生を前に、唾を飲み込んでから用件を切り出した。

「ある二人の生徒に関する個人情報が知りたくて、ここに来ました」

「個人情報? 名前は?」

 先ほど佐藤からもらったばかりの紙を取り出して読み上げる。

「二年の御器所ごきそ菜央なおさんと、去年に三年生だった七瀬ななせ実希みきさんです」

「んー、二人とも長期欠席後に亡くなった生徒さんね」

 国生は何も見ぬまま即答し、唇に人差し指を当てて小首をかしげた。そんなことまで頭に入っているのかと驚きながら、俺は続けた。

「二人に関する情報、ありますか?」

「もちろん、住所や顔写真といった基本的なものならあるけど、どうして知りたいの?」

 一瞬、回答に困ったが、ここは正直に答えておくことにした。

「二人はある暴行事件の被害者だと聞きました」

「君はそっちの事情を知っているのね。それで?」

「先日に亡くなった生徒会長の一条さんに頼まれて、同じクラスの仁科けいさんのことを調べています。仁科さんは入院中で、……御器所さん・七瀬さんと同じ被害に遭った可能性が高いため、情報を集めています」

「OK。情報閲覧を許可します」

「……え?」

 もっとあれこれ詮索されると思っていたところ、あっさり了承されてしまったので、少し拍子抜けした。

「あの、本当にいいんですか?」

「この部屋のあるじであるわたしが、いいって言っているんだからいいんです」

 いかにも子どもっぽい言い分に聞こえたが、ここは好意に甘えることにした。

「さあ、こっちに来て」

 そう言って国生は椅子に座ってノートPCを開くと、手際よくソフトを操作し、二人の名前で検索してから俺に席を譲った。顔写真と名前、誕生年月日、入学年度、クラス履歴、住所が表示されたシンプルな画面だった。

「どう? これで足りてる?」

「はい、十分ですけど、――あの、印刷できますか?」

「それは駄目。自分の頭で記憶して」

「わ、分かりました」

 慌てて謝ると、国生は「ごめん、半分冗談よ」と笑いながら言った。

「個人情報保護の観点もあるんだけど、ほら、ここの部屋にはそもそもプリンターがないの。パソコンも自前だし、このソフトだってわたしの自作なのよ? なかなかお金が回って来なくて困ってるのよねー」

 やー参った参ったと独り言をつぶやきながら、国生は机の上に置いてあったプラスチックのマグカップを手に取り、口に付けた。中身はミルク入りコーヒーのようだった。

「というわけで印刷は無理だけど、メモなら構わないからご自由にどうぞ。ときに宇佐美君はイラストとかは得意な方?」

「いいえ。……あの、さすがに俺の美術の成績は知らない――ですよね?」

「聞きたい?」

「い、いいえ! 結構です!」

「ふふ。反応が本当にかわいいなー」

 コーヒーを飲みながらにやにや眺める国生と目を合わせないようにして、急いでノートにメモを取った。顔の絵も特徴が分かるように努力はしてみたが、正直、美術はそれほど得意ではなく、人に絵を見せるのがためらわれるレベルなので、国生から見えないようにこそこそとシャープペンシルを走らせた。

 ふと、あることに気づき、思わず手を止める。

 ――御器所と七瀬の外見が、似ている。

 小柄で華奢な体躯、長い黒髪、大人しそうな雰囲気。しかもこれは入院中の仁科、そして千奈津にも当てはまる特徴だ。暴行事件の犯人が外見で被害者を選んでいるのなら、千奈津が次のターゲットとして狙われている可能性は、決して低くないということになる――。

 心の中の動揺を隠したまますべての情報を写し終わり、腰を上げると、国生に向かって深々と頭を下げた。

「ありがとうございました。とても助かりました」

「いいえ、どう致しまして。――んー、もしよければちょっと教えて欲しいことがあるのだけど、いいかな?」

「何ですか?」

「宇佐美君は保健室に来たのって初めてだと思うけれど、やっぱり使いにくいのかな?」

「これまで学校で怪我や病気をしたことがなかったので、保健室に来る理由がなかっただけです」

「保健室はどこの学校でもみんなのたまり場で休憩室みたいなものだから、足を運ぶ理由なんて特になくてもいいのよ」

「はあ……」

 教師がそこまで言い切っていいのか少し不安になったが、聞き流しておくことにした。

「今のは半分冗談だけど、半分は本当。足をすりむいたときに消毒したり、風邪を引いたときに薬を飲んだりするのと同じように、心の怪我や病気にも手当てが必要。特に、現代社会に生きるわたしたちは、集団のルールに合わせるために普段から自分の感情を抑圧しがちで、誰もがストレスを抱え、いつ精神を病んでもおかしくない状態と言える――」

 国生は言葉を区切ると、肩をすくめて小さく苦笑いした。

「だからここは、家や学校での生活にちょっと疲れちゃった子が、心の病気になってしまう前に逃げ込んで、応急措置してあげる場所でもあるのよ」

「そうですか」

 以前に佐藤から、保健室が駆け込み寺になっていると聞いていたが、このことだったのかと納得した。

「ところで心の応急措置とは、具体的に何をするのですか?」

「相手によるけれど、要は本人が気分転換できればいいの。おしゃべりしたり、お昼寝したり、お菓子を食べたり、マンガを読んだり、ゲームをしたり――」

「はあ、ゲームですか」

 意外な単語が出てきて少しびっくりした。

「さすがにゲーム機やパソコンのは他の先生に見つかると怒られるから、アナログ系のボードやカードだけど、やってみるとこれが結構面白いのよ?」

 そう言いながら壁面のロッカーから幾つかパッケージを取り出して、嬉しそうに「ほら、たとえばこれとか、こんなのとか」と俺に見せた。見たところ外国語表記の物ばかりだが、恐らくルールを理解するのにマニュアルを読む必要もない物ばかりなのだろう。

「どう? 今からやってみない?」

「いえ、時間がないのでまたの機会にしておきます」

「んー、つれないなー」

 国生は口を尖らせて残念そうに箱をロッカーに戻すと、真面目な表情で振り返った。

「実を言うと、仁科さんたちのことはわたしもずっと気になっていたの。できる限り協力したいと思っているから、何か助けが必要なときはいつでも気軽に言ってね?」

「はい、ありがとうございます」

「ん、じゃあまたね」

 にこやかに手を振る国生に頭を下げ、保健室を後にした。


 教室に戻ると、待たせていた千奈津が一人で自習していた。窓の外は日が落ちて、暗くなりかけていた。

「遅くなってごめんな」

「ううん、宿題をしていたから大丈夫」

 教科書やノートを片付けるのを待って、俺たちは教室を出た。

 並んで歩きながら、さっき思い付いた案を話してみた。

「千奈津にお願いがあるんだ。――しばらくの間、俺との連絡用に新しく携帯電話を持ってくれないか?」

「新しい電話?」

 千奈津は俺を見上げながら首をかしげた。

「今、持っているのでは駄目?」

「少し気になることがあって、もしものときのために別でもう一つ持っていて欲しいんだ。端末代も維持費も俺が持つし、俺にしか電話がつながらない契約にするんだが、やっぱり嫌か?」

「ううん、そんなことない。でも、わたしが使うのなら、お金はわたしが払う」

「いや、俺が言い出したことだから――」

「それなら半分ずつ」

「……ああ、そうだな」


 翌日、学校が終わってから千奈津と一緒に販売店へ赴き、昨夜のうちにそろえておいた書類で契約した。手続きはスムーズに処理され、一時間ほど後には端末が入った袋を持って店を出た。

 近くの公園に行き、ベンチに座って使い方を説明した。

「今度から、俺への電話やメールはそっちからにしてくれ」

「うん、分かった」

 千奈津はポケットから自分の折りたたみタイプの携帯電話を取り出すと、ストラップを外して新しい端末に付け替えた。手のひらサイズのシンプルな白いストレート端末に、小さな白ウサギのストラップが揺れる。

「ありがとう。お守りにする」

 両手に載せて俺に見せながら、千奈津は小さく微笑んだ。

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