第二章 瞑眩の刃(四)
高速道路を下り、目的地に近づくにつれて次第にすれ違う車の数が減り、周囲を流れ行く街明かりも減少していった。残り数キロを切ったところで八田はサイレンを止めた。外を見やると、東の空に浮かぶ月が住宅地や田畑をぼんやりと照らしていた。
現場に到着し、まだ舗装されていない砂利の駐車場にパトカーは止まった。見たところ工事車両はなく、代わりにミニパトと白のセダンが一台ずつ止まっていた。
車を降りるとすぐに制服の警察官が小走りにやってきて、うやうやしく敬礼した後に、八田と平野に状況を報告した。到着直前に無線で連絡があった通りの内容で、――
スマートフォンで時間を確認すると九時半を少し回っていた。ポケットにしまいながら、工事中の体育館を見上げる。月明かりの下、まだ天井すらない、鉄筋の骨組みとベニヤ板でできた無骨な建造物が、時折、吹き抜ける夜風で不気味な音を立てている。
「宇佐美君、ちょっと来てくれたまえ」
八田に呼ばれてセダンの助手席を外から見ると、見覚えのある、やや古めの折りたたみ式携帯電話が残されていた。電源は入っていないようだ。
「あれは橘さんの物かな?」
「はい、橘の個人携帯で間違いないです」
「よし、犯人が運転してきた車で確定だ」
八田がパトカーに戻って応援要請をしている間、平野は地図を持ってくるよう、駐在所の警察官に指示をした。
パトカーのボンネットに地図を広げ、両端を手で押さえ、ハンドライトで照らしながら作戦会議が始まった。この総合体育館は建設中なので詳細図面はないが、出入り口は南北二ヶ所にあるらしい。ちなみに今、俺たちがいるのは南側にある駐車場予定地だ。
「どうしますか、応援の到着を待ちますか?」
若い制服警官の質問に、八田は首を横に振った。
「相手は殺人・強姦事件の被疑者で、今も拉致された被害者が身の危険に晒されている。しかも我々が来たことに気づいている可能性が高く、迅速な対応が必要だ。よって、ここは我々四人で身柄を確保すべきと考える。――平野、何か異論はあるか?」
「いいえ、八田さんに同意です」
「それではこれより二手に分かれる。俺と平野は南側の正面から中に入る。川津西駐在所の両名は敷地を迂回し、北側の裏口付近にていったん待機。我々が犯人と接触したら、慎重に中に入ってきてくれ。スタンガンとナイフを所持している可能性があるため、身柄確保の際は注意されたし。あと補足情報だが、逮捕状は手元にないものの発布済みで、緊急執行の許可も上に取り付けてある」
「承知致しました」
顔を上げ、再び目の前の建物を見る。目が慣れてきたのか、ライトがなくてもはっきりと見えるようになってきた。あの中に
「なお、宇佐美君は安全のため、パトカーの中で待機していてくれ」
「……え?」
当然、自分も一緒に行くものだと思っていたので、待機と言われて慌てた。
「俺も行きます! 連れて行ってください!」
「駄目だ。相手は凶悪犯だから、ここは我々に任せたまえ」
「八田さん、それはかわいそうですよ」
平野が横から口を挟んだ。
「宇佐美君は橘さんが心配でここまで来たんです。今さら残れというのは酷ですよ。一緒に行きましょう」
「平野、お前は一般市民を危険に巻き込むつもりか!」
「危険でなければいいんですよね?」
そう言って平野は俺に近づき、腰をかがめて言った。
「いいかな、宇佐美君。これから僕たちは、橘さんの救出を最優先に動く。だから君は自分で身を守るんだ。分かったな?」
「はい、もちろんです!」
「よし」
平野はにこりと笑うと、振り向いて八田を見た。
「では、みんなで橘さんを助けに行きましょう!」
工事現場の周囲は「安全第一」と書かれたトラ柄のガードフェンスで覆われ、関係者以外は立ち入りができないようになっていた。だが、一ヶ所、正面玄関の前にあるフェンスが外され、人が出入りできるスペースが作られていた。恐らく
俺たちは互いに目配せをし、囲みの中に入った。
建設中の体育館は基礎工事が終わり、床の部分はコンクリートで固められているが、周囲の壁は鉄骨がむき出しのままで、全体を覆うベニヤ板が風でばたばたと震えている。
先に進むと、天上から惜しみなく降り注ぐ月明かりの下、中央付近に二人の人物がいるのが視界に入った。――果たして、猪目と千奈津だった。
二人の姿を認めた八田は、大声で叫んだ。
「動くな、警察だ!
恐らく俺たちが来ていることを前もって知っていたのだろう、千奈津の目隠しと足の拘束は外され、その代わり刃渡りの長いナイフが喉元に突き付けられていた。猿ぐつわをされている千奈津は、かろうじて意識はあるようだが、どこか怪我をしているのか、それとも睡眠薬でも投与されたのか、目がやや虚ろで、抵抗の素振りも見せなかった。
「来るな! それ以上近寄るとこいつを刺す!」
猪目は胴間声を辺りに響かせた。
「千奈津を放せっ!」
猪目は叫んだ俺に
「お前は確か宇佐美だったか。警察にチクったのはお前か?」
「違う! 一条さんが、死ぬ前に書いた手紙が、お前を告発した!」
「ちっ、あいつめ。死んでからも俺を邪魔するのか」
「一条さんを殺したのはお前か!」
「ふん、だったらどうする?」
猪目は器用に片方の眉を上げ、鼻でせせら笑った。
「もっとも証拠がなけりゃ、俺の罪を問えねえだろうけどな!」
猪目はさもおかしそうに
「どうしてこんなことをするんだ!」
「どうして? おいおい、教師に向かってそんなつまらん質問をするなよ、宇佐美。――お前は飯を食う相手に、どうして食べるのかと理由を聞くのか? しないだろう? 理由なんてただ一つ、『腹が減ったから』だ」
「性欲と食欲は違う!」
「それはな、人によるんだよ。お前は違うかもしれないが、俺はこれがないと生きていけねえんだ。なあ、今回くらい見逃してくれよ?」
「ふざけるな! 自分の都合で他人を傷つけておいて、許されると思うのか!」
「……おっと、それ以上は動くなよ、刑事さん。まだ話は終わっちゃいねえ」
隙を見て踏み込もうとした平野に見せつけるよう、猪目は千奈津の喉元にナイフの切っ先を当てた。千奈津が小さくうめき声を上げる。
「いいか、こいつの顔に傷をつけられたくなかったら、おかしなまねはするんじゃねえ!」
「今すぐ、千奈津を放せ!」
千奈津に向けて一歩踏み出した瞬間、猪目は目をカッと開いた。
「だから、動くなって言っただろ――ッ!」
絶叫した猪目は逆手に握ったナイフを大きく振り上げ、月光で照り輝く刃を千奈津の足に突き立てた。
千奈津は猿ぐつわの奥からくぐもった悲鳴を上げ、崩れるようにその場に倒れた――。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおぉっ!」
無意識のうちに叫びながら、猪目に向かって突進していた。
猪目が倒れた千奈津の足からナイフを引き抜き、構え直したときには間合いを詰めていた。一瞬、遅れて突き出された刃を右腕で払い、そのままの勢いで頭から突っ込む。だが、みぞおちを蹴り上げられ、後頭部に強烈な肘鉄を食らい、――視界が暗転した。
気づいたときには、頭髪をつかまれて引きずり上げられていた。息が苦しく、何度も咳き込む。
「お前ら、近寄るな!」
飛び掛かろうと身構える平野を威嚇しながら、猪目は後ずさりした。
朦朧とした意識の中、平野が気絶している千奈津を抱き上げ、俺たちから離れるのが目に入った。――ああ、これでもう大丈夫だ。
後ろから太い左腕で首を絞められ、ナイフの刃先が腹部に突き付けられている。猪目は俺を盾にしながら、少しずつ後退した。右腕の傷口から流れ出る血が滴り落ち、コンクリートの床に赤い軌跡を描く。
「それ以上近づくと、今度はこいつをぶっ刺すッ!」
そのとき、新たに四人の警官が現れた。平野と八田を中心に横一列に並び、外側の二人がそれぞれ手にした大型ハンドライトを俺たちに向けて照射した。強烈な光線を浴び、目が眩む。背後で猪目が舌打ちした。
「警棒、構えっ!」
八田の合図で、制服警官たちが一斉に警棒を抜いて身構えた。
「猪目、観念しろ! もうどこにも逃げられないぞ!」
「黙れ! お前らこそ、こいつを殺されたくなければ、武器を捨てろッ!」
猪目が吼えたその直後――。
パーン……。
夜空に一発の銃声が鳴り響いた。
目を細めて見ると、平野の右手に握られた拳銃から、白い硝煙が静かに上がっていた。
恐る恐る首を巡らすと、背にしていたベニヤ板に、弾丸がうがったと思しき丸い穴が開いていた。それもすぐ近く、頭の高さだった。音を立てて血の気が引き、胸が激しい動悸を打ち始める。
背後から俺を捕らえている猪目も動揺していることが分かった。だが、驚いたのは八田たちも同じだったらしく、皆が唖然としている様が目に入った。
平野は俺たちから視線を外さぬまま落ち着いた動作で脚を開き、グリップに左手を添え、撃鉄を起こし、そして最後に黒光りする銃口を俺たちに定めた。
「さっきのは威嚇射撃だったが、次からは外さない。――これは最後通告だ。今すぐに宇佐美君を解放し、ナイフを捨てて投降しろ」
「や、やれるもんならやってみやがれ――ッ!」
平野は躊躇なくトリガーを引いた。
耳をつんざく轟音。
心臓が痛いほど収縮し、思わず目をつむる。
しかし、いつまで経っても、身体のどこからも銃弾による痛みが生じない。
やがてナイフが床に落ち、俺の首を絞めていた腕が緩んで離れ、どさりと音がした。ゆっくりと目を開けて振り返ると、床に倒れた猪目が、右腕上腕部の傷口を押さえながらうめき声を上げていた。
「は、犯人逮捕!」
八田の号令で駆け寄った警官たちに猪目は取り押さえられ、両手に手錠を掛けられた。
千奈津は警官から止血手当てを受けていたが、俺が近づくと顔をしかめながら立ち上がり、涙に濡れた笑顔で両腕を広げ、俺を出迎えてくれた。
駆け寄り、その身体を力一杯抱き締める。
もう、悪夢は終わりだ。
これでようやく、日常が戻ってくる――。
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