第二章 瞑眩の刃(一)

 一条の自宅で行われた通夜に、千奈津ちなつ・佐藤と共に参列した。

 式は親しい人たちだけでしめやかに営まれた。すすり泣きが響く部屋で、祭壇の上に飾ってある遺影が柔らかな目で笑っていた。

 一条とはつい先日に知り合ったばかりで、それほど親しい間柄だったとは言えないのかもしれない。しかし、俺を信用してくれ、腹を割って話をしてくれた一条は、ただの上級生ではなかった。

 焼香を済ませ、屋敷を出るまで俺たちは一言もしゃべらなかった。

「一条さんの写真、……いい顔してたな」

 帰宅途中、俺がぽつりとつぶやくと、佐藤は立ち止まってうつむき、涙を流した。千奈津が無言のまま佐藤の頭を抱くと、佐藤は堰を切ったように大声を上げて泣いた。

 悔しさが込み上げ、どんより曇った夜空を見上げた。一条が亡くなったという実感が湧かなかったが、それ以上に自殺する理由が思い当たらなかった。ついこの前まで、仁科にしなを傷つけた犯人を探し出そうと必死になっていた人が、この世に絶望して自ら命を捨てるだろうか。

 むしろ、仁科の件で何か真実をつかみ、それを公にされると困る人物に殺されてしまったと考えた方が自然だと言える。だが、自分のごく身近で凶悪犯罪が起きているとは、まだ信じたくなかった。


 千奈津たちと別れ、帰宅して着替えていると平野刑事から電話がかかってきた。――学校での緊急集会後、昼休みに電話をしたが話中でつながらず、その折り返しコールだった。第一声、「電話に出られなくてすまなかった」と謝られた。向こうも用件は分かっているらしく、俺から尋ねる前に真剣な声音こわねで話し始めた。

『一条君の件は、自殺と他殺の両面から捜査中だ。何か分かったらすぐに連絡する。だが、いいかい? くれぐれも無理や無茶はしないように。危ないことは全部、プロである我々に任せるんだ』

 ――「もっと周りを頼っていい」と言ってくれた山根の言葉を思い出す。

 既に遅過ぎるかもしれないが、今は悔やみ、悩んで立ち止まっている場合ではない。俺は千奈津の力で分かったことを除き、知っている内容を一通り平野に話した。提供した情報に意味を見いだすかどうかは警察が判断することだが、一条と仁科のために少しでも役立って欲しいと心から願った。


 翌朝、校門前に異様な光景が広がっていた。

 塀に沿って教師陣がずらりと横一列に並び、生徒が通り過ぎる度に、紅林くればやし校長が先頭を切って「おはようございます!」と大声を張り上げ、他の教師たちがそれに続く。普段、私服やジャージ姿しか見たことのなかった教師を含めて全員がスーツを身に付け、蒸し暑い薄曇りの空の下、全員が汗だくになりながら必死の形相で声を上げている。まるで体育会系の声出しだ。しかも、その様子をTV局が遠巻きに撮影していて、生徒たちは恐る恐る挨拶をし、逃げるように駆けて行く。

 綱紀粛正とマスコミへのアピールを兼ねたパフォーマンスだと思うが、正直、かなり痛々しく、意味のない行為に怒りが沸き上がる。生徒への挨拶が足りなかったから一条が死んだというのか。そうやって挨拶をしていれば一条が戻ってくるというのか。――溢れ出そうになる言葉を飲み込み、教師たちと目を合わせないようにしてその場を通り過ぎた。


 帰りのホームルームが終わると、大桃は俺と佐藤、千奈津の名前を呼び、あとで職員室に来るように言った。俺と佐藤はともかく、そこに千奈津が加わると理由が分からないが行くしかない。掃除を終えてからいったん教室に集まり、三人一緒に職員室に向かった。

 職員室の席で、大桃は渋面で何かの書類を書いていた。今朝の校門での一件もあり、校長から教員たちに、面倒な宿題が出されているのかもしれない。

「先生、来ました」

「……ああ、少し待ってくれ」

 大桃はシャープペンシルを持つ手を止めると、赤い眼鏡のつるを指で押し上げ、俺たち三人に視線を巡らせた。

「あの、どうしました?」

「すぐに校長室に行きなさい。校長から直接、お前たちに話がある」

「校長先生が俺たちに? 何の件ですか?」

「会って話をすれば分かる。――力になってやれず、すまない」

「それはいったいどういう意味ですか?」

「…………」

 大桃は無言のまま書類を片付けて席を立つと、慌ただしい様子で職員室を出て行った。いつもとは違う反応が気になるが、ここで追い掛けて問い詰めても仕方がない。

 校長室の前に移動して扉をノックすると、中から「誰だ」とぶっきらぼうな声で返事があった。

「二年の宇佐美です。佐藤とたちばなもいます」

「入りたまえ」

 ドアを開けると、ひんやりとしたエアコンの風が流れてきた。開けっ放しにすると怒られそうなのですぐに閉めた。校長は一番奥の窓際にある大きな机で、顎の下で手を組んで座っていた。

「三人ともそこに座りなさい」

「はい」

 正面にあった来客用の机とソファーに、言われるまま並んで腰掛けた。

 校長は背筋を伸ばしたが、立ち上がろうとはしなかった。どうやら離れた場所から応対するつもりらしく、少なくとも褒めるために俺たちを呼んだのではないことは明白だった。

「今日、君らを呼んだのは、一条雅志まさし君の件だ。――どうして彼が自ら命を絶ったのか、君らは理由を知っているか?」

「…………」

 俺たち三人が無言で首を横に振ると、校長は苦々しく口を開いた。

「彼は生前、我が校の大切な部活動後援会費や生徒会費を使い込んでいた。その罪が我々に発覚してしまったのを恥じ、校舎の屋上から飛び降りたのだ」

「そ、そんな馬鹿な!」

 佐藤は両手で机を叩き、勢いよく立ち上がって抗議した。

「一条会長に限って、そんなことはあり得ません!」

「佐藤、落ち着け……」

「落ち着かない! 一条会長は、絶対にしていませんっ!」

「どうしてやっていないと断言できる」

 校長は佐藤の発言を一蹴し、顎を上げて冷ややかな目で俺たちを見た。

「佐藤、君は生徒会執行部で一緒だったから、仲間の非を認めたくないのは分からなくもない。彼が人望の厚い生徒会長だったのは私も認める。しかしながら、それはあくまで表の顔での評価だったということだ」

「何かの間違いです!」

 佐藤と同じく、俺も一条がそんなことをしたとは思っていない。だが、校長の中では一条の罪が確定しているらしく、この場で口論をしてもあまり意味をなさない気がする。

「校長先生、教えてください。一条さんには具体的に幾ら使い込んだ疑惑が掛かっているのですか?」

 俺が小さく挙手して尋ねると、校長は「ふん」と鼻を鳴らした。

「今年度の部活動後援会費と生徒会費から、合わせて十数万円が引き出されている。恐らくこの不正はさらにさかのぼり、横領額は増えるであろう」

「一条さんがやったという、具体的な証拠があるのですか?」

「一条は我が校が管理している銀行口座の通帳とキャッシュカードを盗み出し、無断で引き落とした上で、何事もなかったかのように元の場所に返却した。実際に、引き落としする姿が、あるコンビニの監視カメラに映っていた。これはまごうことなき事実であり、彼の犯罪を裏付ける何よりの証拠だ」

「警察に被害届を出されましたか?」

「無論」

 断言すればするほど疑念が強まる。だが、警察の名前を出しても動じないところを見ると、もし嘘をついているのならば、一条は何者かにはめられ、実際にお金を引き出す絵が作られてしまっている可能性が高い。

「先ほどの話によると、一条さんに直接、横領疑惑を問いただしたようですが、本人は認めたのですか?」

「確かな証拠があるのにもかかわらず、かたくなに否定した」

「それはいつのことですか?」

「先週の木曜だ」

「ところで、銀行のカードと通帳、暗証番号を管理しているのは誰ですか?」

「カードと通帳・印鑑を管理しているのは猪目いのめ先生で、暗証番号は猪目先生と小鷲こわし教頭、私の三人しか知らない」

「分かりました。ご説明ありがとうございました」

「…………」

 校長はようやく自分が尋問されていたことに気づいたのか、顔をしかめて俺をにらんだが、うつむいて目線をそらした。とりあえず今のところ、引き出せる話はこれくらいだろうか。

 校長はわざとらしく咳払いをし、俺たちを見た。

「――聞くところによると、生前の一条と君らは陰でつるんでいたという。あってはならないことだし、そんなことはないと信じているが、君らはよからぬことをしていないだろうな?」

「よからぬことって、いったい何ですか!」

 また佐藤の我慢が限界を超えたようだ。

「あたしたち、何も悪いことはしていませんっ!」

「ふん、今はその言葉を信じよう。だが、いいか。不適切な友人関係は見直せ。希望校に進学したかったら心を入れ替えて慎み、我が校の名に恥じぬよう、ひたすら学問に精励せいれいしろ。――私からの話は以上だ」

 そう言うと校長は立ち上がり、無言のまま俺たちに背を向けた。もうこれ以上の話はないということだろう。失礼しました、と声を掛けて俺たちは校長室を後にした。

 扉を閉めると同時に佐藤が口を開いた。

「何よあれ! 偉そうに!」

「……佐藤、聞こえるぞ。せめてもう少し離れてからにしよう」

「ふん、聞こえたって構わない。あのタヌキ親父、ホントに腹が立つ!」

 校長室の扉を蹴り飛ばそうとする佐藤の腕を強引に引っ張り、その場を離れた。

 ――結局、先ほどの校長の訓告は何が目的だったのだろう。

 仮に一条の横領が事実だったとして、俺たちに何を求めていたのか。釘を刺すにしても、何をするなと言いたかったのだろう。もし俺たちが横領に加担したと考えているのなら、もっと違う言い方になったはずではないか。意図がよく分からない。

 しかし、一条は無実で、横領の罪を着せたのが校長本人だと考えると、話はいくらか分かりやすい。自分が描いた筋書きを俺たちに信じ込ませるための詭弁だ。それでも、説明する相手が俺たちである必要はあるのだろうか。

 むしろ、仁科の件で一条や俺たちが動いていたことを煙たがっている者がいて、校長の口を介して、これ以上は動くなと警告するのが目的だったと見た方が素直な気がする。もしかすると、犯人は教師の中にいるのだろうか――。

「なあ、佐藤。お前はこれからどうする?」

「あんなことを言われちゃったら、頑張るしかないでしょ!」

 佐藤は俺に顔を向けると、拳を握り締めた。

「何を頑張るんだ?」

「もちろん、一条会長の無実の証明に決まってる!」

 確かに一条に横領の疑いがあるのなら晴らしてやりたい。だが、そちらは警察と佐藤に任せるとして、俺は仁科の件をもう少し調べてみようと思った。


 二人と別れた後、一人で写真部の部室に行き、部長の犬飼から仁科のアルバイト先を教えてもらうと、その足で現地に行ってみた。

 ビジネス街の駅地下にあるファーストフード店で、トマト入りのハンバーガーとウーロン茶を注文し、トレイを持って一番奥のカウンター席に腰掛けた。

 ハンバーガーをほおばりながら、時折、店内の様子を観察した。利用客はスーツ姿の男性が圧倒的に多いようだ。しかも、ほとんどがさっと食べ終わるとすぐにトレイを片付け、慌ただしく店を出て行く。まだ夕方の早い時間なので、きっとこれから仕事の続きが待っているのだろう。社会人もなかなか大変なようだ。

 食べ終えてから思い切って店員に仁科のことを尋ねてみると、控え室に通され、店長と名乗る青年から話を聞くことができた。

 仁科は昨年の夏からここで働いていたが、今年の四月に辞めていた。しかも普通の退職ではなく、突然、和久井わくい高校の教師がやって来て、一悶着あった末に辞めさせられたらしい。

「学校に許可を取っているという前提で採用したけれど、実際は内緒にしていたようだね。仁科さん、先生に怒られてしゅんとしていたよ。でも、真面目でよく働いてくれる子だったから、急に辞めるのはこちらも痛手だったんだ」

 これまで、学校でてきぱきと働く仁科を見たことがなかったが、少なくとも仕事が嫌いというわけではなかったようだ。写真部での活動の件もあり、実は思っていた以上にアクティブなのかもしれない。しかも、自分で働いてお金を稼ごうという姿勢は尊敬に値する。親から小遣いをもらって満足している俺とは違い、一足先に大人の世界に踏み入っていた仁科がかっこよく、少しうらやましく感じた。

「ちなみに、ここに来た先生、どういう感じの人だったか分かりますか?」

「日に焼けた、体格のいい男の先生だったよ」

「もしかして、角刈りの頭でジャージ姿でしたか?」

「うん、君の言う通りだ」

 ――間違いない、それは生徒指導の猪目いのめだ。

 どうやって調べたのかは分からないが、猪目はこの店までやって来て、現場を押さえた上で仁科のアルバイトを辞めさせていた。普段からわめき散らしている猪目のことだ。きっとここでも周りを気にせず、大騒動を起こしたに違いない。そのときの状況がありありと思い浮かぶ。

 ふと、仁科の母親の言葉を思い出す。確か二年になってから帰りが遅くなったと言っていたが、少なくともこの店でのアルバイトが理由ではなかったということになる。猪目に見つかって怒られた後も懲りずに新たな仕事を始めたのか、それとも他の理由があったのか。何かしらの変化点があったのは間違いないようだ。

 それにしても、事件の直前に猪目との間でトラブルを起こしていたのは予想外だった。まさかとは思うが、事件と関係があるのだろうか。


「ただいま」

 帰宅して扉を開けると、ぱたぱたとスリッパを鳴らしながらエプロン姿の母が玄関までやって来た。見ると茶色の封筒を手にしている。

「おかえり。ほら、史朗しろう宛に手紙が来てたわよ」

 年賀状以外にはダイレクトメールすら来ない俺への手紙とは珍しい。

「俺に手紙? 誰から?」

「さあ? それが、差出人がないのよ。気持ち悪いわよね」

 ――差出人がない?

 母は封書を俺に手渡すと、キッチンへと戻っていった。

 靴を脱ぎ、裏書きに目をやる。母の言う通り、確かに差出人がどこにも書かれていない。ひっくり返して表をあらためる。住所と俺の名前が達筆で記されているが、筆跡にまるで覚えがない。切手の消印は市内からの投函で、昨日の日付になっていた。

 俺は封筒を手に自分の部屋に行き、はさみを使って封を切った。

 中身は折りたたまれた横書きのルーズリーフで、――一瞬、何か甘い匂いがしたような気がしたが、意識はすぐ文面に向けられた。


  時間がないので、結論のみ伝える。

  仁科けいに傷を負わせたのは猪目いのめだ。

  奴は次に橘さんを狙っているから注意してくれ。


「――千奈津が危ない!」

 読み終えるとすぐにスマートフォンを取り出し、震える手で千奈津にダイヤルした。

 すぐに出ないため、俺は焦った。心臓の鼓動が自分でも分かるくらいに高鳴る。早く、早く出てくれ――。

 数コール目で、ようやく電話がつながった。

「千奈津かっ!」

『……宇佐美君? どうかしたの?』

 いつもの落ち着いた声を耳にして、緊張が一気にほどけた。安堵し、大きく息を吐き出す。とりあえず無事でいることが確認できて、よかった。本当に、よかった――。

「今、どこにいる?」

『自宅の部屋の中』

「そうか――」

 大きく深呼吸をしてから、俺は続けた。

「いいか、これから言うことをよく聞いてくれ。――今日はもう絶対に外に出るな。明日の朝、千奈津の家まで迎えに行くから、それまでは家の中にいろ。何か異常に気づいたら、いつでも構わないからすぐ俺に電話をしてくれ。いいな?」

『うん、分かった。明日でいいから、理由を聞かせてくれる?』

 焦ったあまり、事情を知らない千奈津に無理強いしていたことに初めて気づいた。

「あ、ああ、もちろんだ。無理を言ってすまない……」

『ううん、そんなことない。心配してくれて、ありがとう』

「じゃあ、……おやすみ」

『宇佐美君も気をつけて。おやすみなさい』

 ほっと胸を撫で下ろし、電話を終えた。


 千奈津の安全が確認できたので、安心して考えられる。そもそも手紙の形での警告なので緊急性はなかったと思うが、単に俺の連絡先を住所しか知らなかった可能性もないわけではない。この件に関わっている佐藤にも連絡を入れるべきか迷ったが、とりあえず名指しはされていないので、少し落ち着いて情報整理してからでも大丈夫だろう。

 ――そういえば、封書を開けたときに何か匂ったような気がしたことを思い返し、手紙と封筒に鼻を近づけてみた。だが、どちらも紙とインクの匂いしかしない。単なる気のせいだったのだろう。

 気を取り直して改めて文面に戻る。大きく四つの注意点があるようだ。

 まず一つ目。この手紙は誰が書いた物か。差出人も署名もないが、一条が書いたという前提で読んでも違和感がなく、また他で該当者が思い浮かばない。一条の筆跡は見たことがないが、少なくとも佐藤や山根の字ではない。

 だが、それよりも気になるのは、名前が記されていない理由だ。書いたのが一条本人だったとすると、書く間を惜しんだか、書き忘れるほど切羽詰まっていた可能性があるが、それにしては書かれている文字が丁寧で焦りを感じない。むしろ、この手紙が何者かに盗み見されることを気にしたと考えた方が素直だが、それでもあまりすっきりとはしない。

 だが、別人が書いたとなると、もっとよく分からない。一条の文章を装うのなら名前を明記すべきで、書かないことのメリットが思い付かない。むしろ署名がないからこそ、この手紙の真偽が問われていると言ってもいいくらいだ。

 以上から、現時点でこの手紙は一条が書いた可能性が高いと判断する。

 二つ目のポイント。一条本人によるものだと仮定すると、彼の死は自殺ではなかったことになる。この手紙を投函した後に犯人を呼び出して追求し、飛び降り自殺に見せ掛けて殺されてしまったと考えるのがごく自然だ。また、仮に一条ではなく他の誰かが書いたものだったとしても、一条の死が自殺ではないと知っている、もしくは思っている者の手によるだろう。

 三つ目。猪目いのめが犯人として名指ししてあるが、これは鵜呑みにしていいだろうか。

 名前が挙がっていること自体は、それほど意外ではない。普段から生徒たちに対して高圧的な態度を取り、体罰すれすれの厳しい指導をしていることで知られ、控えめに言っても生徒思いの優しい教師ではない。今日知ったばかりの仁科の件もしかり。

 ただ、指導と犯罪は次元が違う別物で、安易に結び付けるのは危険だ。しかも、ここには個人的な所感しか書いておらず証拠がないため、慎重に扱った方がいいだろう。

 そして四つ目。この文面を書いた人物は、仁科の次になぜ千奈津が狙われると考えたのか。

 同じクラスだからか。関係者だからか。いや、関係者というなら俺や佐藤の方がよほど踏み込んでいて、狙われる可能性が高いはずだ。

 犯人とされる猪目のこれまでの行動パターンから予測した可能性――これも違うだろう。手紙の書き方からして、押さえているのは恐らく仁科のケースだけだと思われる。となると、千奈津が目を付けられている現場を直接目撃した可能性が高い。実際に猪目が千奈津の跡をつけていた――十分、あり得る話だ。


 これ以上、少ない情報で考えていても仕方ないので、平野に電話をかけ、事情を説明すると、自宅まで直接来てもらうことになった。

 平野たちを待っている間に、遅くなってしまったが佐藤にも連絡しておくことにし、登録してある番号を呼び出した。コール音を聞きながら、そういえばあいつと電話で話すのは何回目だろうとぼんやり思った。俺はともかくとして、佐藤も電話だけでなくLINEやメールですらあまり好きではないらしい。

『もしもーし』

「佐藤か? 宇佐美だ」

『あれ、本当に史朗なの? ケータイにかけてくるなんて珍しいねー。こんな時間に何の用だった?』

「一度しか言わないから、よく聞いてくれ。――いいか、今すぐに一条さんと仁科の件から手を引くんだ」

『……はい?』

 佐藤は間延びした声を上げた。

『ちょっと、いきなり何よ? マジで言っているの?』

「ああ、もちろん冗談なんかじゃない」

『あのさ、まさかと思うけど、――それってあたしを脅してる?』

「それは違う。詳しいことは言えないが、これ以上は危険だからやめて欲しい」

『…………』

 電話の向こうで佐藤は大げさにため息をつき、戸惑い気味の声で言った。

『こんなこと言いたくないけど、校長から言われて怖じ気づいた?』

「それも違う」

『じゃあ、どうしてよ?』

「理由は、……まだ言えない」

『突然、やめろと言っておいて、理由が言えないってのは無責任じゃ――』

 俺は話の途中で電話を切り、見えぬ相手に頭を下げた。

「……佐藤、すまない」

 申し訳ないとは思ったが、今は説明する余裕がないため、警告だけでも先にしておきたかった。どこかで改めて時間を作って説明しないと佐藤も納得しないだろうが、どう説明したものか――。

 約三十分後、自宅を訪れた平野と八田はったを部屋に入れ、手紙と封筒を手渡した。白い手袋をはめた手で扱いながら、平野は小さくうなった。

「もし一条君の手紙だとすると、少なくとも自殺前に書いた遺書ではないね……」

 平野は八田と目配せし、大きくうなずいた。

「この手紙は警察であずからせてくれ。まだ他殺と決まったわけではないが、一条君が最後に残した、犯人逮捕の手掛かりとなる可能性がある」

「……どうか、よろしくお願いします」

 俺は深々と頭を下げた。

「あとしばらくの間、橘さんに護衛を付けさせてくれないか。本人には分からないよう遠くから見張る程度にするから、日常生活には何ら支障はないはずだよ」

「ありがとうございます。本当に助かります」

 二人は手紙を直接触った俺と母の指紋を採り、程なく帰った。

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