第一章 彼誰時(四)
昼食時間、いつものように山根と机を並べて弁当を食べていると、山根が「最近、学校で面白い話が流行ってるみたい」と前置きして、入手したばかりの噂話をさっそく披露してくれた。
大振りの肉切り包丁を手にした首のない女が、夜な夜な校舎内を歩き回っている。いったん彼女に見つかると、どこまでも、どこまでも追い掛けてくる。いくら叫んでも誰も助けに来ない。彼女に捕まるとその場で首を切り落とされて、新たな首なし女となり、次の獲物を探して夜の学校をさまよい続けることになる――。
「なるほど。増殖タイプの化け物、つまりゾンビみたいなものだな」
弁当箱のミートボールを箸の先でつついて転がしながら言った。ちなみにここ数日で急に広まった噂話らしい。
「こんな噂が流行るってことは、やっぱりテストが近くて、みんなストレスがたまっているからなのかな?」
「ストレスは否定しないが、中間テストや期末テストの度に怪談や七不思議が出て広まるってのは本当か?」
「うーん、聞いたことないね……」
「なになーに? 面白そうな話してるじゃない」
突然、隣に現れた佐藤が割り込んできて、ぬっと俺に顔を近づけた。近い、顔が近いって――。
「あたしたちも混ぜてよ。ほら、
というわけで、今日は佐藤と千奈津を加えた四人で昼食を取ることになった。ちなみに、このクラスで男女混合グループはここだけで、露骨に周りの注目を集めているが、今さら気にするだけ無理だ。そばに佐藤がいるだけでどうにも目立つのだから。
「さてと。ねえ、山根君。悪いんだけどさっきの話、あたしたちにもう一度聞かせてくれる?」
佐藤にせがまれ、山根は少し緊張した様子でうなずき、初めから説明した。
「ふーん、包丁を持った首なし女ね」
聞き終わった佐藤は、あんぐりと口を開けて卵焼きを放り込んだ。本当に美味しそうに食べるやつだ。ちなみに佐藤は毎朝、自分と家族の弁当を一緒に作っているらしい。とても俺にはまねできないことで、素直に感心する。
「その話、あたしは初耳だな。ねえ、千奈津は知ってた?」
千奈津は野菜ジュースを机に置くと、小さく横に首を振った。千奈津はともかく佐藤が知らなかったというと、それほど広まっている話ではないのかもしれない。
「どの辺りが噂の発信源なのかな。――山根君は誰から聞いたの?」
「えっと、
「なるほど、
佐藤は空中で箸をくるくる動かしながら、ぶつぶつと独り言をつぶやき始めた。何かのスイッチが入ったようで、こうなるとしばらく自分の世界から戻ってこない。
俺は先ほどのミートボールを食べてから山根に尋ねた。
「話を戻すけど、首なし女に切られた首ってどうなるんだ?」
「うーん」
山根は両手で持った菓子パンを小さくかじり、もぐもぐと口を動かしながら首をかしげた。
「……どうなっちゃうんだろうね? 包丁を持っているくらいだから、料理にされちゃう?」
「でも首がなければ、料理を作っても食べられない。かくして惨劇の現場には、人の頭を使った謎の料理が残されるというわけだ」
「うー、食事中の話題じゃない……」
「最初に話をし始めたの、お前だろ?」
「ま、まあ、そうなんだけどね」
山根は苦笑しながらイチゴ牛乳のストローを口にした。
「ところでもう一つ気になるんだが、『首なし人間』じゃなくて『首なし女』ってことは、男が捕まった場合はどうなるんだ?」
「うーん、噂してるのはもっぱら女子だから、単純に想定外っぽいかな。それとも、男は見つけてもガン無視、もしくは殺しっぱなしで首をはねないとか?」
「それは男女不平等だ」
「……ふっふっふ。だったら男子も平等に『首なし女』になったらいいんじゃない?」
いつの間にか戻ってきていた佐藤がにやにや笑いながら、びしっと箸先を俺に向けた。
「ただし! 事前にセーラー服に着替えておくこと。これは絶対に譲れない!」
「意味が分からん。……まあ確かに、女子の制服を着て首から上がなかったら、ぱっと見、男か女か分からないけどな」
「さあ、史朗も山根君も『首なし女の
「そんなニッチな世界なぞ知らん!」
佐藤を中心にわいわいと話をしているうちにその日の昼休みは終わった。
授業後、千奈津と生徒会室に赴くと、一条が参考書を開いて勉強していた。「こんにちは」と声を掛けると顔を上げ、俺たちに柔らかな笑みを向けた。
「やあ。いつもわざわざ来てもらってすまないね」
「明日から週末ですし、気分転換なので大丈夫です」
千奈津も無言でうなずいた。
鞄に参考書をしまい始めた一条の前の席に、俺たちは腰を下ろした。
「佐藤、てっきり先に来ていると思ったのですが、まだこちらに顔を出していないですか?」
「本人から聞いていなかったかな? 少し前に連絡が来て、急用ができたから今日は欠席するそうだ」
「あ、そうでしたか」
掃除が終わった後、鞄を持って慌ただしく教室を出て行ったのは別件だったか。同じクラスなのだから一言くらい声を掛けて欲しかったが、そこまで気が回らないほど急いでいたのかもしれない。
「さて、今日は佐藤君がいないけれど、もしよければ外でお茶でも飲みながら話さないか?」
隣に顔を向けると、千奈津は小さくうなずいた。
「俺たちは別に構いませんけど、でも、生徒会長が率先して買い食いしてもいいのですか?」
「宇佐美君は僕なんかよりよほど真面目だね。うちの生徒会は校外でミーティングをすることもよくあるんだよ」
一条は笑いながら、「それじゃあ、行こうか」と席を立った。
校門を出て駅とは反対方向にしばらく歩くと、小さなカフェにたどり着いた。徒歩十分弱で、本当に学校から目と鼻の先だった。
「あの、……こんなに近くの店で、本当に大丈夫ですか?」
帰宅中に店に立ち寄ることはあるが、さすがに学校の近くで教師と顔を合わせるのは気まずいだろう。
「いつも使っている店だけど、先生たちと会ったことは一度もないよ。近い場所だからこそ盲点なのかもしれないね」
嬉しそうに店内に入っていく一条の後を、俺たちはついて行った。
外から見た限りはこぢんまりとした感じの店舗だったが、中は意外と広かった。
「今日は僕のおごりだ。宇佐美君も橘さんも、好きなものを注文してくれ」
「いいえ、自分たちの分は払います」
「これまでのお礼だから、遠慮はいらないよ」
「でも、大したことしていませんし……」
「ここは上級生として顔を立てさせてくれ」
「……ありがとうございます。ではお言葉に甘えます」
この店は紅茶と手作りケーキが美味しいと薦めてくれたので、メニューを開いて千奈津と一緒に紅茶セットを選んだ。オーダーを受けた店員が厨房に消えると、一条はテーブルの上で手を組んだ。
「そろそろ期末テストも近いし、君たちにお願いしていた件は今日までにしておこうと思う。これまで僕の無理を聞いてくれて、本当にありがとう」
深々と頭を下げたので俺たちも同じように頭を下げた。
「こちらこそあまり役に立てず、申し訳ありませんでした」
「そんなことはない。これはお世辞ではなく、君たちのおかげで本当に助かったよ」
「あれだけの情報で、ですか?」
首をかしげながら尋ねると、一条は真面目な表情で首肯した。
「もちろん収集してくれた情報も役立ったが、実はもう一つ別の目的があってね。学内にいるかもしれない犯人に対して、生徒会執行部が動いているポーズを見せつける意味もあったんだ。今まで黙っていてすまない」
「なるほど……」
つまり、想定犯人に対する牽制だったのか。ひょっとしたら警察が俺に期待した役割もこれだったのかもしれない。一条は「執行部の他メンバーには先に了解をもらってある」と付け加えた。ということは、佐藤は少なくとも事前に知っていたということになる。
しばらくすると注文した品が運ばれてきた。俺が頼んだのはミルフィーユとアッサムティーで、パイ生地を小さく切って食べながら昨日のことを話した。
千奈津と仁科の見舞いに行ったこと。そこで母親から事件直後の仁科の様子と犯人の手口を聞いたこと。時折、一条の様子をうかがい見たが、黙ってうなずいているものの特に反応はなく、どれも既に知っている情報のようだった。
「その見舞いの帰りに、橘が何者かに尾行されました」
「…………」
一条はリンゴのタルトを切っていたナイフとフォークを置き、腕を組んで眉をひそめた。
「尾行とはまた穏やかではないね。――相手の顔は?」
千奈津は無言で首を左右に振った。
「ちなみに病院から自宅までつけられたそうです。一条さん、犯人に何か心当たりなどはありませんか?」
「…………」
一条は腕を組んだまま目を伏せ、しばらくしてからゆっくりと顔を上げた。
「まだ、はっきりしたことは言えないが、――
「ストーカー……」
嫌な予感が的中した。仁科の傷害事件には前触れがあり、千奈津は誰かに跡をつけられた。偶然かもしれないが、ここは慎重になっておいた方がよさそうだ。
「このことは警察に話しましたか?」
「いや、まだだ」
「どうしてですか? 警察が信用できませんか?」
「自分の目で真実を確かめたいんだ。君や橘さんには申し訳ないが、あと少し、――あと少しだけでいいから、僕に時間をくれないか?」
「…………」
かく言う俺自身があまり警察を信用していないので、一条の気持ちは分からないでもない。それにあと少しだと言うのだから、どこかで切りをつけるつもりなのだろう。
隣に目をやると、千奈津は無言でうなずいた。
「そこまで言うなら止めません。でも、相手は犯罪者、それも凶悪犯の可能性が高いのですから、一条さんも気をつけた方がいいです」
「忠告ありがとう。十分注意するよ」
それから俺は、昼に山根から聞いた「首なし女」の話をした。一条は初耳だったらしく、ティーカップを片手に興味深そうに聞いてくれた。
「こう言うと不謹慎かもしれないが、なかなか面白い話だね」
「最近になって流れ始めた噂だそうです」
「なるほどね」
一条は微笑みながら紅茶を口にした。
「ことわざで『火のないところに煙は立たない』と言うけれど、その噂が生徒たちに広まったことには、何か意味があるのかもしれないね」
「…………」
首なし女の噂に意味があるかもしれないと言われても、何のことだか俺には分からない。それは仁科の事件に関係あることだろうか。
「そうそう、その噂話で思い出したけど、君たちは『不思議の国のアリス』を知っているかな?」
「はい、小学生のときに読みました」
千奈津も無言でうなずく。
アリスという名の少女が、人の言葉をしゃべる白ウサギを追い掛けてたどり着いた不思議の国で、一癖も二癖もある登場人物たちと出会う児童文学。二次作品としてアニメやゲームにもなっている。
ちなみに一条が「首なし女」の話を聞いて「不思議の国のアリス」を思い出したというのは恐らく、登場人物の一人で、都合が悪くなるとすぐに相手の首を切ろうとする「ハートの女王」を連想したからに違いない。
「宇佐美君。君はあの話の教訓は何だと思う?」
「教訓、ですか? えーと、そうですね……」
首をかしげ、何年も前に読んだときの記憶を頭の中から掘り起こしながら、俺は言葉を継いだ。
「どちらかというと荒唐無稽なストーリーなので、あまり教訓めいたものはないような気もしますが、……あえて言うなら『勇気はすべてに勝る』でしょうか」
「うん、僕も同意見だ」
一条は紅茶を一口飲んで顔を上げた。
「おかしな理屈で無理や無茶を通そうとする狂った大人たちを前に、アリスは物怖じせずはっきりと物を言い、何でも試し、どんどん前へと進む。――勇気はすべてに勝る、か。うん、いい言葉だね」
「でも今にして思うと、あの国の人々が狂っているというのは少し短絡的かもしれません」
「それはどういうことかな?」
「住民たちを狂っていると評したのは、外の世界からやって来たアリス、異次元を行き来できるチェシャ猫、空を飛べるグリフォン、そして物語の外側にいる俺たち読者です。つまり外の世界を知っている者ばかりです。だから、あの国の常識に照らすと、アリスや俺たちの方がよほど狂っているのかもしれません」
「確かに宇佐美君の言う通り、狂っているかどうかは、ある価値観を基準とした主観的・相対的な評価であって、客観的・絶対的な尺度は存在しない」
一条はテーブルの上で手を組み、俺と千奈津を順に見た。
「百人いれば百通りの価値観、正義があり、それがどんなにゆがんだ内容であれ、信じるのは思想の自由の範疇だ。しかし、他人を傷つける不当行為・犯罪行為を黙って見過ごすわけにはいかない。特に被害者やその関係者には加害者を糾弾する権利がある。――僕の考えは間違っているかな?」
「いいえ、一条さんの言う通りだと思います」
「たとえお世辞でもそう言ってくれるだけで嬉しいよ」
一条は俺たちに頭を下げた。
――一条の考えは正しい。まったく間違っていないが、心配していた通り、仁科を傷つけられたことに怒り、熱くなっている。しかも、口には出さないが恐らく犯人の目星も付いていて、このまま一人にしておくと先走ってしまうのが目に見えている。週明けにでも佐藤と今後のことを相談した方がよさそうだ。
その後、しばらく雑談をしてささやかなお茶会は終わった。
「今日はありがとう。君たちと話せてよかった」
「こちらこそごちそうさまでした」
「ありがとう、ございました」
千奈津と二人で礼を言うと、一条は柔らかに笑った。
「また機会があったら、生徒会の仕事を手伝ってくれると嬉しい」
「はい。喜んで」
「それではまたな」
一条は背中を向けて、片手を振りながら雑踏の中に消えていった。
月曜日、登校すると校内の様子がいつもと違っていた。
何が、どのように異なるのかと尋ねられてもうまく答えられないが、ぴんと張り詰めた空気、緊張感のようなものが空間を支配している。いったいこれは何だ?
他の生徒たちとともに校舎へと向かう途中、注意深く辺りを観察していると、ようやく違和感の正体を見つけた。やや離れた目立ちにくい場所に、紺色の制服を着た大人が立っている。――あれは、警察官だ。
周囲を見回すと、今まで気づいていなかったが、敷地の他の場所にも警官が何人も立っていた。まるで俺たちが悪事をしないよう、逃げ出さないよう、険しい目つきで見張っているようにも見える。普段はあり得ない光景だ。明らかに異常なことが起きているが、根本原因が分からない。仁科への暴行犯が特定され、それが学校関係者だったのだろうか。それとも校内で何か別の事件が起きたのだろうか。
クラスメイトの何人かも警察官の存在に気づいていて、何があったのかとしきりに噂話をしていたが、確かな情報は誰も持っていないようだった。
朝のホームルームで、担任の大桃は校内にいる警察について一言も触れなかった。あからさまに敷地に入ってきている警察を教師たちが知らないわけがない。知っていて言えない訳があるのだろうが、俺たちは大桃にその理由を尋ねることができなかった。
そのまま一限目の授業が始まったが、終わる十分ほど前に、突然、校内放送のスイッチが入った。アナウンスの声の主は校長だった。
「――これより緊急全校集会を行う。校内にいるすべての生徒・教師は授業を一時中止し、速やかに体育館に集合するように」
全クラスで授業が中断となり、生徒たちは何があったのかと不安そうに話しながら体育館に集まった。
すべての学年・クラスがそろったところで、
校長はマイクを手にしばらく無言で天井をにらんでいたが、やがて意を決して眼下の俺たちに視線を戻し、厳かに口を開いた。
「本日、授業を中断してまで集まってもらったのは他でもありません。皆さんに悲しいお知らせがあります。――我が校の生徒会長を務めていた、三年六組の一条
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