第一章 彼誰時(三)

 翌日の授業後、一条と佐藤と俺、そして千奈津ちなつの四人で生徒会室に集まった。

 当初は千奈津を除く三人の予定だったが、珍しく千奈津から一条に会ってみたいと申し出があり、同席することになった。二人は初対面だったが、俺と一緒に仁科にしなの見舞いに行ったことを伝えると、一条はすんなりと受け入れてくれた。

 今日はあらかじめ部屋の鍵を施錠し、少し声を落として話すことになり、佐藤も一緒に席に着いた。

 初めに佐藤から報告があった。

「二年九組には、……すみません、ここにいる三人を含めて、仁科さんと親しく付き合っている友人はおらず、事件前の異常に気づいた人も見つかりませんでした」

「――そうか。言いにくいことを報告させてしまって申し訳ない」

「いいえ、こちらこそ本当に申し訳ありません――」

 佐藤が謝ると同時に、俺と千奈津も頭を下げた。千奈津はともかく俺と佐藤は級長・副級長なので、クラスに友人がいないことには少なからず責任がある。

「ほら、みんな頭を上げて。僕が言うのも変かもしれないけど、君たちが気にすることはないよ。あの子は昔から少し引っ込み思案で、友達を作るのが苦手だったから仕方ない」

 そう言って、一条は少し寂しげに笑った。

 事件に遭う前の仁科を思い返す限り、内気だというのは間違いない。だが、実は人が嫌いなのではなく、コミュニケーションが少し苦手なだけで、むしろ逆にもっと知りたい、話したいと思っていたのかもしれない。だからこそ好きなカメラを通して、他人とコミュニケーションを取ろうとしていたような気がする。退院したら、いや意識が戻ったら、声を掛けてみようと思う。

「あと、これは保健の国生こくしょう先生から聞いた話ですが、仁科さんは二年になってから、週に一、二回は保健室に来て鎮痛剤をもらっていたそうです。ただ、軽い偏頭痛へんずつうだったらしく、それ以外に特に変わった様子はなかったとのことでした」

 一条は腕を組むと、「頭痛の話は知らなかった」とぽつりとつぶやいた。

 続いて俺から、写真部の部長から聞いた話を報告した。仁科が写真の被写体として街で働く人々を選んでいたこと、写真を撮るためにしばしば学校を休んでいたこと、アルバイトをしていたこと、部長は仁科の異常に気づかなかったことを伝えた。

 一条は普段の仁科のことを知っているらしく、黙ってうなずいていたが、佐藤は俺と同じく知らなかった側で、少し驚いた表情で話を聞いていた。

「なるほど、二人の話はよく分かった。――ところで、橘さんから見たけいはどうだったかな?」

 一条から千奈津に急に話題が振られ、俺は少しどきっとした。

 千奈津はゆっくり顔を上げ、相手の目を見つめた。

「……仁科さんは、教室でよく空を見ていました。空や雲が綺麗な日は嬉しそうでした。でも、ときどき寂しそうな顔で、みんなを見ていました」

「そうか。ありがとう」

 一条は小さく微笑みながらうなずいた。

 千奈津が初対面の相手にここまで話すところを初めて見た。それだけ信用しているのだろう。

「三人の話を聞く限り、どうやら桂が危険な目に遭う前兆のようなものはなかったようだね」

「計画的な犯行ではなかったということでしょうか?」

 俺が言うと、一条は腕を組んで目を伏せ、しばらく経ってから顔を上げた。

「色々と調べてくれてありがとう。――桂に関する調査はいったんここまでにしよう。その代わり、申し訳ないけどもう少しだけ協力してくれないか?」

「別に構いませんが、何をすればいいのですか?」

「校内の噂話を集めて欲しい。どんなつまらない話でも構わない」

「…………」

 相手の意図が読めず、念を押して尋ねた。

「どんな噂でも、いいのですね?」

「ああ。できるだけたくさん集めたい。ちなみに今度は僕個人ではなく生徒会としての依頼だ。必要があれば執行部の名前を出してくれても構わない。頼めるかな?」

「分かりました」

 一条は昨日、仁科が事件に巻き込まれた理由を知りたいと言って、俺に協力を求めた。それが今日になって、今度は校内の噂を集めたいという。生徒会執行部としての依頼と言いながらも、話の流れからして仁科の件とまったく無関係というわけではないはずだが、漠然とし過ぎていてよく分からない。

 そういえば平野刑事も、学校で変わったことがあったら教えて欲しいと言っていた。二人は俺たちが知らない何かをつかんでいるのだろうか。それは校内で噂話として広まっていて、仁科の事件に関係あることなのだろうか。あまりに情報が少なく、考えても結論は出なかった。


 次の日の朝、駅から学校に向かう途中で山根と一緒になった。

 いつものように並んでぶらぶら歩いていると、突然、「宇佐美、どうかした?」と聞かれた。

「――ん? どこか変か?」

 尋ねると、山根は俺の顔をのぞき込んだ。

「いつもよりちょっとぼーっとしてるかな。何か困りごとでもあるんじゃない?」

「困りごと、ねぇ……」

 ないと言えば嘘になる。一条から学校の噂について情報収集を頼まれたが、まだ具体的にどう動くか決めておらず、どうしようかと考えていたところだった。だが、これはもともと仁科の事件が絡んでいる話で、いきなり山根を巻き込むわけにはいかない。

「……うまく言えないが、どうしたらいいか分からないことなら、ある」

「それは困りごとって言うんだよ」

 山根は自転車のハンドルを握ったまま器用に肩をすくめた。

「宇佐美はさ、もっと周りを頼っていいと思うな」

「そうか?」

「うん。ほら、僕らのクラスって担任が大桃先生で、副級長が佐藤さんでしょ。理系クラスで女子の数が少ないのに、なぜか女性陣の方がパワー強いよね。でも、宇佐美は民主主義の原則にのっとって、正式な推薦と正当な選挙で選ばれたクラスの代表者なんだからさ、もっとびしっと胸を張って独裁者していいと思うんだ」

「級長が独裁者だなんて初めて聞いたぞ?」

 俺は首をかしげ、苦笑いした。

「しかもうちのクラスでは確実に無理。せいぜいが大桃と佐藤の御用聞きだ」

「あはは。まあ確かに先生はオーナー、佐藤さんは監督、宇佐美はコーチってところかもね。でもさ、コーチの宇佐美がもらった仕事は、他の人に振ればいいんだよ。振り先を決めるところまでが宇佐美の仕事」

「責任はどこ行った?」

「ないない、それはお金をもらってる大桃先生の範疇」

「それに困っているのは、級長としての仕事じゃないんだよな」

「だったら友達として頼ってよ」

 笑いながら、山根は右手の親指を立てた。そこまで言われると、拒む方がかえって悪い気もする。きっかけはともかく、情報収集自体にはそれほど危険性はないだろう。

「――じゃあすまないけど、もしよければ一つ頼まれてくれないか。ここ最近、学校の中で何か変わったことや噂話があったら、俺に教えて欲しい」

「うん? 学校の噂話集め?」

「ああ」

 山根は「うーん?」とつぶやきながら首を左右にかしげた。

「どうにも変わったお願いだね。なぜそんなことを気にするの?」

 どうしてこんなことをしているのか、俺自身が一条に聞きたいところだが、とりあえず仁科の件は伏せたまま、依頼主は生徒会執行部だと説明した。

「生徒会のお手伝いね。うん、了解した」

「役に立つか立たないかは気にしないで、そのまま教えてくれ」

 山根はうんうんと嬉しそうにうなずいた。

「ちなみにネタばらしすると、実は昨日の帰りに佐藤さんに頼まれたんだ。宇佐美が困っているみたいだから、男の子同士で何とかしてあげてよ――だって」

「…………」

 やけにぐいぐいと来ると思ったら、そういう裏事情だったか。つまり、山根もまんまと佐藤の罠にはめられたということだ。

「どうせそんなことだろうと思った。ちなみに、その困りごとに巻き込んだのは当の佐藤なんだけどな」

「佐藤さんらしいや」

 山根はころころと笑った。

「でもね、佐藤さんはいつも宇佐美にすっごく気を使ってるんだよ?」

「悪いが、それには賛同しかねる」

「あははー。まあ、それはともかくとして、この件は僕に任せて」

「助かる。礼は考えておく」

「あとで佐藤さんにアピールしてくれればいいよー」

 そう言って山根は爽やかに笑った。

 ――山根は佐藤に異性として好意を抱いている。もっと親しくなろうと普段から健気に頑張っているのだが、いかんせん二人とも八方美人的なところがあって、山根の気持ちがどれだけ相手に伝わっているか相当怪しい。しかも先日知ったばかりだが、一方の佐藤は一条に気があるようなので、山根にとってはかなり厳しい戦いになりそうだ。

 二人の間に挟まれている俺はどちらの味方にもなれず、陰ながら応援することしかできないが、恋愛感情は別にして仲よくして欲しいというのが正直なところだ。


 その日の夕方、千奈津と二人で再び仁科の病室を訪れた。

 前回のこともあるので俺一人で行くつもりだったが、気になることがあるらしく、どうしても一緒に行くと言う千奈津を拒絶できなかった。仕方なく、身の危険を感じたらすぐに知らせるように約束させた。

 この前と同様、部屋の前で出迎えたのは母親で、すぐに俺たちを追い返そうとしたが、「平野・八田はったの両刑事から事情を聞いている」と伝えると、素直に中に入れてくれた。

 ――昏睡状態の仁科けいは、ベッドで仰向けに寝かされていた。

 長かったはずの髪がばっさりと切られ、白い包帯に念入りに巻かれた頭部の上からガーゼで保護されている。心電図から上半身に伸びるケーブル、点滴の針が刺さっている腕、口から喉へと差し込まれた痰吸引の太いチューブなどが見るからに痛々しいが、想像以上に穏やかな表情からは、苦痛や苦悶といったものは読み取れない。

 だが、口をぎゅっと結び、眉をひそめて耐えている千奈津の横顔を見る限り、今の仁科はまともな精神状態ではないのだろう。手っ取り早く用件を済ませなければいけない。

「仁科さん、ずっとこのままですか」

「そう、一度も目を覚ましていないの……」

 仁科の母親は目の下のくまが濃くなり、前回からさらに衰弱した様子だった。眠れない日が続いているに違いない。

「俺たちも力になります。犯人に何か心当たりはありませんか?」

「…………」

 仁科の母親は目を伏せると身体の前で手を組み、しばらく悩んだ後に、「刑事さんにお話しした内容でよければ」と断ってぽつぽつと話し始めた。

「あの子、二年に進級してから様子が変だったの。帰りが遅い日が増えたから、どうしたのかと聞いても『何でもない』という生返事しかなくて。主人とどうしたんだろうと話していたら、ついにはこんなことに――」

 大きな嘆息をつき、両手で顔を覆った。

 掛けるべき言葉が見つからなかった。二年になってから帰りが遅くなったということだが、母親が言うように事件の予兆だったのか、それとも写真撮影やバイトに精を出していたのかは分からない。

「仁科さんはどこで事件に遭われたのですか?」

「それが、分からないの」

 顔を手で覆ったまま、仁科の母親は首を左右に振った。

「桂を見つけたのは近所の公園で、そのときにはもう意識がなくて、でも頭に包帯が巻いてあって、別の場所で暴行を受けた後に、誰かに手当てを受けて運ばれたみたい」

「…………」

 実際に自分の目で見た内容と憶測が入り混じっているようだが、手当てされた状態で見つかったのは事実なのだろう。犯人以外の第三者が助けたのだろうか――。

「頭の包帯以外に、どこか気になったところはありませんでしたか?」

「口元と手と足に、テープを剥がしたような跡があった。あと警察から聞いた話で、スタンガンが使われたみたいだって……」

 犯人は事前に準備したスタンガンで仁科を気絶させ、テープを使って手足を拘束し、猿ぐつわをした。仁科を選んだのが計画的だったかは分からないが、少なくとも拉致する道具は事前に準備していたということだ。

「話が変わりますが、一条さんをご存知ですか?」

「同じ高校の雅志まさし君のことよね。桂の従兄弟で、昔から仲がよくて、いつも一緒に遊んでいたのよ。入院してからも毎日見舞いに来てくれて、さっきまでいてくれたんだけど、ちょうどあなたたちとすれ違ったみたい」

 一条はずっとここに通っているのか。怪我を負った仁科のことを気遣っていて、――言葉を返すと、それだけ犯人のことを恨んでいるに違いない。

 椅子に腰掛けていた千奈津がやおら立ち上がり、隣までやって来た。

「そろそろ限界か?」

 小声で尋ねると千奈津はかぶりを振り、顔を近づけ、耳元でささやいた。

「部屋の外に、誰かがいる」

「……分かった」

 ついてこないように片手で千奈津を制すと、足音を殺して扉に近づき、ゆっくり引き戸を開けて廊下に顔を出した。しかし、既に立ち去った後だったか、どこにも人影は見当たらなかった。

 千奈津が言うことだから、何者かがいたのは間違いない。たまたま病院の関係者が通り掛かったのかもしれないが、犯人や事件の関係者が仁科の様子を探りに来た可能性もあるだろうか。


 翌日、いつもの時間に家を出ると、鞄を両手で持った千奈津が門の横に立っていた。これまで家まで迎えに来てくれたことはなかったので少し驚いた。

「おはよう、宇佐美君」

「ああ、おはよう……」

 俺は目をしばたいて、千奈津に近づいた。

「今日はどうした? わざわざ迎えに来てくれたのか?」

「話しておきたいことがあったから。――昨日、仁科さんのお見舞いの後に、誰かにつけられた」

「な……」

 絶句し、思わず千奈津の肩をつかんだ。

「大丈夫だったか?」

「うん。わたしの家の近くまで来て、何もしないで帰った。たぶん、病院で仁科さんの部屋を、気にしていたのと同じ人」

「…………」

 入院している仁科の部屋をうかがっていた人物が、千奈津の家までついてきた。仁科の事件を嗅ぎ回っている俺たちが何者なのか調べようとしたのか。それとも仁科のストーカーが千奈津に狙いを定めたのか。いずれにしてもあまりよくない話だ。

「いいか、今度、そういうことがあったら、すぐに教えてくれ!」

「うん、分かった」

 いつの間にか強い口調になっていたことに気づき、肩から手を離し、頭を下げた。

「……怒鳴って、すまない」

「ううん、心配してくれて、ありがとう」

 千奈津は首を横に振って小さく笑った。

 正直、うかつだったとしか言いようがない。俺自身のことしか考えておらず、千奈津の身に危険が及ぶ可能性をまったく考慮に入れていなかった。

 並んで歩きながら、千奈津に言った。

「……しばらく一緒に登下校するか?」

「大丈夫。でも、また同じようなことがあったら相談する」

「分かった」

「あともう一つ、言い忘れていたことがある。――仁科さんの意識、やっぱりおかしくなっていた」

「…………」

 不審者のことがあってすっかり忘れていたが、やはりそうだったか。

「具体的にはどういう状態なんだ?」

「何て表現したらいいか分からないけど、悪夢を見続けている。非論理的な世界で、人に似た、人ではないものに囲まれ、理解できない言葉のようなものを浴びせられ続けて、自分自身が何者なのか、人なのかすら、分からなくなっている。あの状態から回復するのは、少し難しいかもしれない」

「そうか……」

 内容が曖昧で理解できないが、分かったところで結局、手を出しようがなく、仁科が自分の力でその悪夢から目覚めるのを祈るしかないのだろう。

 もし万が一、千奈津が事件に巻き込まれ、同じような状態になってしまったらと思うと気が気でない。大きく深呼吸して乱れ始めた鼓動をなだめてから、俺たちは駅へと向かった。


 橘千奈津には、他人の思考が見える。

 本人の「見たい」という積極的な意志で見るのではなく、周囲にいるすべての人の思考が、強制的に脳に入ってきてしまう。

 当事者ではないので想像することしかできないが、話を聞く限り、人間の五感では聴覚が一番近いようだ。たとえば視覚情報は目をそらしたり、瞼を閉じたりすることで簡単に入力信号をシャットダウンできるが、聴覚はそれが難しい。人間は耳を動かすことができず、また音は指向性が低いため、本人の意志とは関係なくほとんどの音は耳に入り、聴覚情報として脳に伝わる。ただし、発信源からの距離によって感知できるレベルが変わるため、遠く離れればやがて聞こえなくなる。

 千奈津が見えてしまう人の思考も、基本的には同じらしい。相手との距離が近づけば近づくほどより鮮明な情報が入ってきて、逆に離れれば減衰し、途中に遮蔽物があると格段に見えにくくなる。また、耳と同じように受け入れたい情報に集中すると、感度がある程度上がるらしい。

 なお、他人の思考が見えるといっても、何を考えているか、次にどんな行動を起こすのかが明確に分かるわけではないらしい。そもそも人の思考パターンは一様ではない。小説やマンガの登場人物たちのように母国語の文章で論理的に考える人もいないわけではないが、全体から見るとごく少数派だそうだ。ほとんどの人はもっと漠然としていて、普段は「気持ちいいもの」「気持ち悪いもの」「どちらでもないもの」くらいのカテゴリーで識別していることが多いとのこと。だから、何を考えているか分かりにくい人の方が圧倒的に多いらしい。

 ちなみに、俺の思考がどう見えるかと聞いたことがあるが、千奈津は小さく笑っただけで何も答えなかった。どうしても知りたかったわけではないし、どうせ自分には見えないものなので、それ以上は踏み込んで尋ねなかった。それきりだ。


 千奈津のこの特殊体質は、生まれつき備わったものではない。

 千奈津と家族を襲った不幸な事故が元で、突然発現した。

 昨年、夏休みに入って間もない七月末のある夜、家族で外食に出掛けるため、父親が運転する乗用車の後部座席に乗っていたところ、突如、対向車線を走っていた大型トラックが中央分離帯をはみ出し、両車両は正面衝突して大破した。この事故で父親と助手席の母親、居眠り運転をしていたトラック運転手の三名が即死。千奈津だけが一命を取り留めたたものの、頭部に傷を負って意識不明の重体となり、生死の境をさまよった。

 数日後、奇跡的に意識が回復したが、他人の思考が見えてしまう第三の目が開いてしまっていた。

 それから地獄の日々が始まった。

 最初は事故の後遺症による幻覚・幻聴だと思ったらしい。それはそうだろう、人の心が見えるというのはあり得ない話で、脳が異常動作を起こしたと考える方が普通だ。だが程なく、新たに見えるようになったものが何であるか、千奈津は理解してしまった。

 すべての人が心に闇を抱えているわけではない。しかし、悪意であるか善意であるかは関係なく、本人しか知らないはずの思考は最大のタブーで、他人がのぞき見していいたぐいのものではない。それが可能な千奈津の力は普通の人から見れば脅威以外の何ものでもなく、知られたら最後、人間として扱われなくなってしまう。

 かといって、心が読めることをただ黙っていればいいというわけでもない。他人の思考から入手した情報を個別で管理しておかないと、記憶や発言のつじつまが取れなくなって、やがて嘘がばれる。しかし、厳密に情報管理を行おうとするならば、頭の中に独立した脳を二つ持つのとほぼ同義であり、まったく現実的ではない。つまり、普通の日常生活を送りながら、かつ人の心が読めることを周囲に隠し通すのは不可能ということだ。

 しかも千奈津はこれとは別で、すべての家族を失った事実を受け止める間もなく、遺産をめぐる争いに巻き込まれた。入院中の千奈津の病室で、大声で怒鳴り合う親類たちと出くわしたことがあるが、彼らからどんなにひどい言葉や思考を浴びせられたのか、あまり想像したくない。

 だから、千奈津は自己防衛のために、他人との関わりを断絶した。

 意識が戻ったと聞いて病院に駆け付けたときには、既に千奈津の心は固く閉ざされていた。一言もしゃべらず、視線を合わせようとすらしなかった。死んだ魚のような目でベッドに横になっている千奈津は、ただ目が覚めたというだけで、意識不明だったときと何も変わらない――そんなことすら思った。

 俺は千奈津の力になりたかった。以前のようにまた笑って欲しかった。できることなら事故の前に戻してやりたいが、それがかなわないなら、今の千奈津を助けるしかない。疎ましく思われていることを知りながら病院に通い、積極的に関わるようにした。無視され、拒絶され続けたが、毎日顔を出すうちに、少しずつ心を開いてくれた。

 何日か過ぎたある日、千奈津は俺の手を握り締め、涙を流しながらすべてを告白し、助けを求めた。

 そのときから、俺は全力で千奈津を守ることを決意した。

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