第一章 彼誰時(二)

 翌朝、いつもより少し早めに登校すると、職員室に直行して大桃に昨日の件を報告した。伝えたのは、仁科にしなの容体が悪く面会拒絶されたことと、母親にプリントを渡したことだけで、事件になっていることを含め、警察から聞いた情報はすべて伏せておいた。必要があれば、仁科の両親か警察が、学校側に説明するだろう。

 職員室を後にし、自分の教室に入ろうとしたところで、いきなり背中を力一杯叩かれた。むせながら振り向くと、満面に笑みをたたえた、栗毛のショートヘアの女子が立っていた。

史朗しろう、おっはよっ!」

「……おう」

「うん? 朝から元気ないなあ。何か悩み事があるのなら話してごらん?」

「…………」

 ヒリヒリする背中をさすりながら、俺は大げさにため息をついた。

「あのなあ、お前のその無駄なハイテンションを基準にしたら、全員が臨終間際の重病人か死人だぞ?」

「いやー、照れるなー」

「褒めてない。それにお前、病み上がりじゃないのか?」

「心配御無用」

 相手は腰に両手を当て、得意げにぐいっと胸を張った。

「あれしきの体調不良で、二日も寝込む恵莉えり様じゃありません!」

「いいから病人は大人しくしてろ」

「あははー」

 ――佐藤恵莉えり。俺と千奈津ちなつの共通の友人。

 千奈津と同様、二年連続で同じクラスだが、親しく話すようになったのは去年の秋からになる。というのも、事故後の千奈津が俺以外に心を許した相手が、佐藤だったからだ。

 小うるさい上に他人の話を聞かないというおまけ付きの超マイペース娘。だが、不思議とあまり迷惑な印象を与えないのは、持ち前の明るさと行動力、そして面倒見のよさ。クラスのムードメーカーとして、なくてはならない存在であることを誰もが認めている。親しくなってから一年も経っていないが、俺たちの関係は「腐れ縁」という言葉が一番しっくりしそうだ。不本意ながら。

「じゃあ、さっそくだけど英語の予習を見せて!」

「……朝っぱらから騒いで、いきなりそれか」

「いいじゃない。持ちつ持たれつ、もしくはギブアンドテイク」

「言葉の意味、分かってるか?」

「もう、時間がないから早く早く!」

「……はあ」

 ため息をつきながら鞄の中からノートを取り出した。破顔して受け取った佐藤は、胸に抱いて席に戻りかけたところで振り返り、あどけない表情で笑った。

「サンキュー、史朗。愛してるよ!」

「はあ、どうも」

 あれでこのクラスの副級長、しかも生徒会の副会長というのだから、世の中はよく分からない。

 もっとも、それを言うのなら俺が級長というのはもっと分からない話で、未だに自分の立場に慣れていない。四月の級長を決める場で何となく俺の名前が挙がり、他に推薦も立候補もなかったため、なし崩し的に決まってしまった。

 だが、我がクラスは黙っていても担任の大桃と副級長の佐藤がツートップで引っ張っていくので、俺は級長とは名ばかりの雑用係に落ち着いている。そういう意味では、実は最も適任なのかもしれない。


 帰りのホームルームが終わり、掃除の時間となった。

 教室の床をほうきで掃いていると、横から佐藤が声を掛けてきた。

「あのさ、史朗。――この後、ちょっといいかな?」

「…………」

 既視感デジャヴという言葉が脳裏に浮かぶ。昨日に引き続き、今日も何かしらトラブルに巻き込まれることになりそうな予感がした。

「……別にいいけど、用件は何だ?」

「うーん、ここではちょっと話せない」

 隣で机を運びながら、佐藤は素っ気なく答えた。

「場所を移動してから説明する」

「どこへ行くんだ?」

「生徒会室」

「え?」

 佐藤はよっこいしょ、と声を出して机を置くと笑顔で振り返った。

「ちなみに用があるのはあたしじゃなくて、生徒会長」

「……何だと?」

 これは予想していなかった展開だった。確かに目の前にいる佐藤は生徒会の副会長だが、それ以外の執行部メンバーとはまったく面識がなく、ましてやトップの会長に呼び出される理由が思い付かない。

「ま、待て! 俺、何も悪いことしていないぞ!」

「大丈夫だって。別に怒られるわけじゃない――はずだから」

「何か変な間がなかったか?」

「細かいことは気にしない」

 佐藤は笑いながら、俺の背中を軽く叩いた。

 この後すぐ、嫌な予感はきっと的中する。回避できそうにない未来を想像し、小さくため息をついた。


 一般棟の三階、一番東側の部屋が和久井わくい高校の生徒会室になる。しかし、ここに来るのは初めてで、隣に副会長の佐藤がいるものの、やはり少し緊張する。恐る恐るドアを開け、中をのぞき込んだ。

「……失礼します」

 日当たりのいい小さな部屋の中央に、折りたたみの長机が二卓、向かい合わせで並べてあり、周囲に並んだパイプ椅子の一つに、中肉中背の男子生徒が座っていた。ふちなし眼鏡の真面目そうなその顔は、学校行事で何度か見たことがあった。

「三年の一条です」

 相手は立ち上がって、俺に軽く会釈をした。

「それとも、現・生徒会長と名乗った方が通りがいいかな?」

「二年の宇佐美です。佐藤と同じクラスです」

「忙しいところ、わざわざ足を運んでくれて申し訳ない。ああ、その辺りに適当に座ってくれるかな」

 一条の正面の椅子を引いて腰を下ろすと、一条は佐藤に顔を向けて微笑んだ。

「佐藤君も彼を呼んできてくれてありがとう」

「いいえ、どう致しまして」

 入り口付近に立っていた佐藤は席に着かず、腕を組んでそのまま扉に背もたれた。どうやらこの部屋に他の者が入ってこないよう、見張り役を買って出たようだ。それだけ他人に聞かせたくない話ということだろう。

 このタイミングで、面識のない俺が生徒会長に呼ばれた。副会長の佐藤が協力している。他の人には聞かれたくない――。

「俺が呼ばれたのは、仁科さんの件ですか?」

 一条は「おや?」という表情で、佐藤に顔を向けた。

「佐藤君、先に話してくれたのかな?」

「いいえ。そもそも相談内容を知りませんし、それにあたし、あまり口は軽くないつもりです」

「…………」

 佐藤でもあんな素っ気ない受け答えをするんだ――とぼんやり考えていると、二人が同時に視線を俺に向けた。先走ったことを少し後悔する。

「……えーと、すみません、あてずっぽうで言いました」

 こめかみを指でかきながら謝ると、一条は「早合点して申し訳ない」と佐藤に頭を下げた。一条が思っていたよりずっと腰の低い人なのに驚く。

「あの、ついでにもう一つ、先に質問させてください。――どうして俺なんですか? 記憶が間違っていなければ、俺たち面識ないですよね?」

「そこの佐藤君の推薦だよ。責任感が強く正直者の級長。クラス内の信用も厚い好人物だと以前から聞いていたから、君にお願いすることに決めた」

「…………」

 ちょっと待て、その歯の浮いたようなお世辞は何だ?

 振り返って無言で佐藤をにらみつけると、さっと目をそらされた。――おのれ、謀ったな。

 俺はため息をつきながら、大げさに肩をすくめた。

「……頭に『超』が付くほどの買いかぶりですが、俺なんかでよければ協力します。でも、あまり大したことはできませんよ?」

「いや、ありがとう。そう言ってくれるだけで嬉しいよ。あと、これから話すことはプライベートのことなので、申し訳ないが内密にしておいて欲しい」

「分かりました」

 俺は一条に向かって大きくうなずいた。

「それでは事情を話してください。正直に言うと、あなたのことをほとんど知りませんし、仁科さんも同じクラスですが、あまり話をしたことがありません」

「本当に佐藤君の言う通りの人物なんだな。それほど親しくない相手にも、誠実に接してくれる」

「…………」

 誠実だと言われたのは生まれて初めてだ。過去に口が悪いとか、馬鹿正直だとか言われたことはあったが、ものは言い様なのかもしれない。

「問題ありません。佐藤が信用している相手ですから」

 嫌味を言ってちらりと佐藤に目をやると、また視線を外された。

 俺と佐藤との無言の攻防をよそに、一条は机の上で手を組み、難しい表情で椅子に背もたれた。

「さてと、どこから話そうか。――君と同じクラスの仁科けいだけど、彼女と僕は従兄弟いとこ同士なんだ」

「……そう、でしたか」

 どうやって言葉を掛けたらいいか分からず、俺は頭を下げた。

「昨日、桂のお見舞いに行ってくれたそうだね。僕からも礼を言う。忙しいところをわざわざ会いに行ってくれてありがとう」

「担任に頼まれて、友人と一緒に様子を見てきただけです。それに、眠っているからと言われ、本人に会うことはできませんでした」

「……君たちも面会できなかったのか」

 そう言うと、一条はそのまま目を伏せ、黙ってしまった。

 部外者とも言える俺を呼び出して協力を依頼してくるということは、仁科の怪我が事件によるものだと知っているのだろう。それでいて何かを迷っている。言葉を選びつつ、自分から切り出すことにした。

「――警察の人から、何者かによって頭部に怪我を負わされたと聞きました」

「まだ公式発表はされていないようだが、君の言う通りだ」

「それで俺への依頼というのは、――犯人を見つけて欲しい、ですか?」

 一条は目を閉じ、首を左右に振った。

「もちろん、犯人が特定できるのならそれに越したことはない。だけど、それは警察の仕事であって、素人の僕らがどうこうできる話ではない。――でも、どうして桂がこんな目に遭ってしまったのか、遭わなければならなかったのか、その理由・真実が知りたい」

「…………」

 漠然とした依頼内容だが、真実を知りたいというのは本心だろう。親しい人が傷つけられた理由は知りたくて当然だ。だが、それは結局、犯人を捜すのと同じことを意味する。

 目の前で神妙な表情で座っている一条からは、どことなく危うさを感じる。真面目であるが故か、それとも何か事情を知っているのか、仁科の事件に多かれ少なかれ責任を感じているようだ。犯人の特定は警察に任せると言いながら、自分でけりをつけたいと思っているとしか思えない。この件、受けるべきか否か――。

 少し思案してから、俺は顔を上げた。

「実は警察からも協力要請を受けています。必要に応じて警察にも情報を流しますが、それでもいいですか?」

「ああ、もちろん構わない。無理を言ってすまない」

「分かりました。それでは、もう知っている内容かもしれませんが、昨日、警察から聞いたことをお話しします」

 犯行時刻はおとといの夜であること、仁科は何者かに頭部に暴行を受け、意識不明になっていること、犯人はまだ捕まっていないことを伝えた。特に反応はなかったことから、既に知っている情報のようだった。

 一通り話し終わると、一条は組んでいた腕をほどいて尋ねた。

「ところで君と話をした警察の人、名前は聞いているかな?」

「二人組みの刑事で、背が高く若い人が平野さん、帽子をかぶった年配の人が八田はったさんでした」

「風貌を聞く限り、僕が話した刑事と同じようだな」

 一条はうなずきながら言った。やはりあの二人は、病室を訪れた人間を片っ端から捕まえて話を聞いていたようだ。

「それでは、もし何か分かったことがあったら、佐藤経由で連絡します」

「ありがとう。できるだけ顔を突き合わせて話をしたいから、ときどきでいいから、進捗がなくてもここに来てくれると嬉しい。木曜日は執行部の定例ミーティングがあって外せないが、今は特にイベントもないので、それ以外なら基本的に空いているから」

「分かりました」

 一条との話はそれで終わり、俺と佐藤は生徒会室を出た。


 部屋を出てしばらく歩くと、背後で佐藤が急に立ち止まった。

「ごめん! 本当にごめんっ!」

「――ん?」

 振り返ると、俺に向かって深々と頭を下げていた。

「何のことだ?」

「巻き込んだこと、怒っているよね?」

「別に怒ってないから安心しろ」

「……本当?」

 佐藤は少し上目遣いで俺を見た。少しは反省しているようなので、何も言わずに歩き始める。

「ちょっと史朗、待ってよ! やっぱり怒っているでしょ?」

「別に怒ってないけどさ、どうして佐藤は一条さんに協力するんだ?」

「え? それはその、……えーと」

 再び足を止めて振り返ると、佐藤はもじもじしてうつむいていた。

「――もしかして一条さんのこと、好きなのか?」

「え、えー? 違う違う、違うってばっ!」

 真っ赤な顔ですっとんきょうな声を出しながら、佐藤は両手を使って否定した。何と分かりやすいリアクションだ。

「せ、先輩として、生徒会長として尊敬しているけど、でも異性としては何も関係ないよ! 本当、本当だってば!」

「ふーん」

「……ちょっと、何よその目。変な勘違いしてないでしょうね?」

「もちろん」

「…………」

 まあ、多少は世話になっているから、たまには恩返ししてやるか。そんなことを考えていると、佐藤はふてくされた顔で「ばーか」とつぶやいた。

 そのとき、前方から胴間声で呼び止められた。

「おい、そこのお前ら! こそこそと何をしている!」

 暗がりで顔がよく見えなかったが、やがて大股で現れたのは生徒指導の猪目いのめだった。竹刀を片手に、校内に残っている生徒の追い出しをしていたようだ。

「何だ、お前ら。佐藤と……」

「宇佐美です」

「…………」

 猪目はちらりと俺に視線を向けたが、すぐに佐藤に顔を戻した。俺は名前を覚えてもらっておらず、どうやら興味もないらしい。

「おい、佐藤。こんなところで何をしている」

「一条会長に用があって、さっきまで生徒会室で話をしていました」

「今日は生徒会活動のない日だろう。いいか、暇だからといってぶらぶら遊んでるんじゃない。期末テストも近いんだ。さっさと家に帰って勉強しろ!」

「…………」

 佐藤が黙って猪目をにらみつけたまま返事をしないので、代わりに「すみません、すぐに帰ります」と頭を下げると、猪目は鼻を鳴らして立ち去った。

 猪目の姿が廊下の角を曲がって見えなくなると、いきなり佐藤は憤慨した。

「あたし、あいつ大っ嫌い! 史朗もあんな奴に頭を下げることなんてないのよ!」

「俺も別に好きじゃないけどさ、一応、先生だし。それに生徒会の顧問なんだろう?」

「だからよ。何もしないくせに、いっつも威張り散らして! どうしてあんなのが教師で、しかも生徒会執行部の顧問をしているのか、全然分からないっ!」

 逆鱗に触れて蹴られるのは嫌だったので、少し距離を取りつつ、愚痴を聞かされながら教室へと戻った。結局、佐藤の言い分では「猪目は女生徒をいじめてストレスのはけ口としているサディストだ」という結論になったが、その女生徒のサンドバッグにされている俺はどうしたらいいのだろう。


 教室に戻ると室内に数人が残っていたが、千奈津の姿は見当たらなかった。どうやら今日は先に帰宅したようだ。

「で、史朗はどうするつもり?」

 鞄に教科書やノートを詰め込んでいると、すぐ隣に立った佐藤が腕を組んで尋ねた。

「どうするって……何を?」

「何をって、一条会長に協力するんでしょう? これからどう動くかもう決まってる?」

「…………」

 ――まだ全然考えていなかった。

 その場の勢いでOKはしたが、具体的なプランがなかった。

 仮に、仁科に怪我を負わせた犯人が校内にいるとして、どうやって探し出すか。そもそも仁科のことすらあまり知らないので、方向性も決まっていない。情報収集がメインになると思うものの、それほどつてもない。完全にノーアイデア、ゼロからのスタートだ。

「これから考える……と言いたいところだが、正直、まったく当ても見込みもない」

「まあ、そんなことだろうと思った」

 佐藤はやれやれという感じで肩をすくめ、「よいしょ」と言いながら隣の机に腰掛け、足を組んだ。

「じゃあさ、あたしは仁科の交友関係から追ってみるから、史朗は部活動がどんな感じだったか聞いてみてよ」

 交友関係と部活動――なるほど、そうやってできるところから少しずつ攻めていけばいいのか。

「仁科って何部なんだ?」

「写真部。ちなみに部室は特別棟の二階、部長は三年四組の犬飼さんね」

「へー。お前、すごいな。そんなことも知ってるのか」

「えへへ。まあ、職業病みたいなものだから」

 そう言いながら、佐藤は照れくさそうに頬を指でかいた。

 目の前の知り合いが、こんなに物知りとは知らなかった。生徒会副会長も伊達ではない。そういう自分は、実はついさっきまで生徒会長の名前すら覚えていなかったことを思い出し、小さく苦笑した。

「あとはそうだな……国生こくしょうさんにも聞いてみるか」

「その国生って誰だ?」

「保健の国生先生。仁科、ちょくちょく保健室に顔を出していたみたいだから、あとで話を聞いてみるつもり」

 特に女子の間で何でも話を聞いてくれる保健の先生として有名で、保健室が相談室や駆け込み寺のようになっているらしい。身近に知らないことがたくさんあることを改めて実感する。

 とりあえず最初のとっかかりが決まり、時間にも余裕があったので、写真部に寄ってみることにした。


 特別棟にある写真部の部室は、想像していたよりずっと明るい雰囲気だった。ベージュ色の壁紙に、天上から注ぐ暖かな色の照明。大小様々な額縁に入れられた写真が壁に飾られ、スチール製の本棚には写真集がぎっしりと並んでいる。

 てっきり部室全体が現像用の暗室を兼ねていて、薄暗いと思っていたことを伝えると、部長の犬飼は人のよさそうな顔で笑った。

「写真部って言うと、だいたいそういうイメージだよね」

 促されるまま椅子を引いて腰掛けると、犬飼は俺の正面に座った。

「実は僕も入部するまで知らなかったけど、うちの部は銀塩ぎんえん時代から現像も引き伸ばしも業者任せだったみたいだよ」

 聞き慣れない言葉があったが、きっとフィルムカメラの話だろう。

「今はやっぱりフィルムよりデジカメの方が多いのですか?」

「そうだね、うちは2:8くらいかな。ちなみに君はフィルムとデジタルの違いって分かる?」

「すみません、スマホくらいしか触ったことがないので、フィルムカメラのことはよく分かりませんが、写したときの空気感が違うと聞いたことはあります」

「そう感じる人もいるね。ちなみに僕が思っている一番の違いは、シャッターを押すときの緊張感かな。デジタルカメラはメディアの容量が許す限り何枚でも撮れるし、後からトリミングもレタッチも簡単にできるから、失敗を恐れずに何度でもシャッターを切れるけど、フィルムは枚数が限られる上に加工は難しいから、基本は一発勝負」

「なるほど」

「どちらがいいとか悪いとかではなくて、使い方がまったく違う道具だね。筆記具でたとえると、シャーペンと毛筆くらい。比べるのも意味がないでしょ? まあ、プロじゃないんだから、好きな道具を使って好きなように写せばいいと、僕は思ってる」

「確かにそうですね」

「あー、ごめん、ちょっとマニアックな話になってしまった。――それで、僕に用は何だったかな?」

 犬飼は腕を組みながら尋ねた。

「二年の仁科けいさんですが、こちらの部員なのですよね?」

「ああ。そういえば仁科さん、入院したんだってね。今度、部のみんなでお見舞いに行こうって話をしていたところだったんだけど、その件かな?」

「昨日、病院に見舞いに行きましたが、……意識不明の重体で、面会もできませんでした」

「……そうだったのか」

「何者かに暴行され、頭部に大怪我を負ったそうです」

「…………」

 顔を曇らせた犬飼は腕をほどくと、椅子を軋ませながら机に片腕を付いて身を乗り出し、声をひそめた。

「……犯人はまだ見つかっていない?」

「はい。それで最近、仁科さんの周辺で何か変わったことはなかったかと、聞きに来ました」

「君がここに来た目的がようやく分かった」

 犬飼は大きなため息をつくと身体を戻し、再び椅子にもたれて腕を組んだ。

「逆に僕から質問するけれど、君自身は仁科さんのこと、どういう人だと思ってる?」

「同じクラスですが、あまり話したことがないので、ほとんど知りません。――身体はさほど丈夫な方ではなく、授業中はどちらかというとぼんやりしていることが多く、親しい友人は少なさそうに見えました」

「なるほどね」

 犬飼は立ち上がると本棚から一冊の本を抜いて、俺に差し出した。

「昨年度の写真部の作品集だ。仁科さんの作品もあるから見てごらん」

 受け取ってページをめくると、後ろの方に仁科が撮影した写真が載っていた。

 鮮魚店で魚をさばいている老人、電柱によじのぼって電気工事をしている男性、駅前で泣きじゃくる幼子をあやす母親、大きな段ボールを幾つも荷台に乗せて走る宅配業者、にこやかに接客をしているファーストフードの女性店員、鞄を両手で抱え込んでベンチで眠るサラリーマン――。

 俺は写真集から顔を上げて、犬飼に尋ねた。

「これが、仁科さんの写真ですか?」

「彼女の作品を見てどう感じた?」

「素人なので技術のよしあしは分かりませんが、――とても生き生きとしています」

「僕も同意見だ。どれも被写体の魅力を引き出した、いいポートレートだと思うよ」

「こういう写真を撮っているとは知りませんでした」

 カメラに目線を向けて笑っている被写体が幾つもあったが、いずれも笑顔に一点の曇りもない。きっと撮影している仁科につられて笑ったのだろう。これまで明るい表情の仁科を見たことがなかったので、とても新鮮に感じた。

「彼女、ときどき学校を休んでいただろう? ここだけの話だけど実はあれ、平日の昼間にしか撮れないシーンがあるからって、街に出掛けて写真撮影をしていたんだ。あと、カメラやレンズといった機材を買うためにバイトをしていたから、その関係で欠席することもあったようだ」

「…………」

 俺の中にあった仁科のイメージがどんどん書き換わっていく。知っているのと知らないとで、こんなに違うのかと怖くなるほど、数分前と今とで仁科の人物像がまったく異なる。

「カメラマンとしての仁科さんを知らないだろうと思って、先に作品を見てもらった。――では改めて、僕から見た最近の彼女について話そう」

 結論から言うと犬飼から見た限り、ここ最近の仁科に特に変わったところはなかったという。撮影にまつわるトラブルも聞いたことはない。だが、自分のことをあまり話さないたちで、部室に顔を出すことも少なかったため、問題を抱えていても気づいていなかった可能性はあると、犬飼は付け加えた。

「何か協力できることがあったら、遠慮なく言ってくれ」

「ありがとうございます」

 礼を言って、写真部の部室を後にした。

 ――表の顔、裏の顔という言い回しがある。

 他人に見せたい自分、隠したい自分を意識していて、意図的にスイッチしているケースもあるだろう。だが、ほとんどは第三者が勝手に決め付けたレッテルだと思う。自分が知っていることは当然他人も知っている、自分が知らないことは他人も知らないと、気づかないうちに思い込んでいることも少なくないかもしれない。

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